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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

発見!郷土史のお宝ネタ

2021-01-07 16:00:00 | 郷土史エピソード


あけましておめでとうございます。
ことしもよろしくお願いいたします。
久々の記事のアップです。

郷土史について調べていますと、時折思いがけない史実や史料に出くわします。
その多くは、何かあることについて調べていると、そのこととは全く関係のない、別の出来事に関することが目に飛び込んでくるといった感じです。
以前も書きましたが、そんな時はテンションが上ります。
今回は、そんな棚からぼたもち式に知ることが出来た最新の郷土史エピソードをいくつかご紹介します。


                   **********


◆ 大正のローラースケート場 



画像1 旭川新聞の広告


まずご紹介するのはこちら。
なんとも愛嬌のあるカットが印象的です。
実はこれ、大正12年6月9日の旭川新聞に載った広告なんです。
「体育要請娯楽場」、「ローラースケート場開業」、「食堂の設備あり」といった文言が並んでいます。
なんと大正時代の旭川にローラースケート場があったんですね。
カットの人物の足を見ると、2人ともローラースケートを履いています。



画像2 広告の載った旭川新聞


この広告、別の調べ物をするために古い旭川新聞を調べていたところ、目に止まりました。
広告には「6月10日より始めます」とありますので、その後の日付を調べていきますと・・・。



画像3 旭川新聞の記事


ありました。
4日後の6月13日の紙面。
小さな記事ですが、次のように書かれています。

「當八軒出張ローラースケート場開設 簡便な食堂も設備
當八軒出張の國技館内のローラースケートは躰育を兼ねた頗る興味あるものなので運動家の好評を受けて居るが同時に運動の疲れを一寸コーヒー一杯といふ簡便な食堂も設けてあるので尚更仲々の大好評である。」

広告通り、実際に開業したことが分かります。
記事や広告には2つの店の名前が出ていますが、まずローラースケート場が解説されたという國技館。
新旭川市史には「大正十一年七月二十日、五条通七丁目右一号中通角に、国技館が開館した。館主は鷹栖村の大地主で篤農家であった田中市太郎である」とあります。
この国技館、当時の東京国技館を真似た四角い形の演芸場で、当初は相撲の興行も企画したようですが実現せず、後に活動写真館としての営業が定着します。
この時代は、「各種団体の大会、講演会、販売会等が頻繁に開催され、賃貸にも応じた」と新旭川市史にありますので、今で言う貸しイベントスペースといったところでしょうか。
だとすると、ローラースケート場として利用するのも可能だったということではないでしょうか。
この国技館、昭和になって活動写真館(映画館)として利用された頃の姿が絵葉書に写されていますので紹介します。



画像4 昭和10年代のキネマ街(絵葉書)


写っているのは4〜5条の仲通り7丁目。
現在の昭和通側から平和通方向にカメラを向けています。
手前、左端の建物が国技館です。
映画を紹介する看板や「国技館」の表示が確認できます。
5条側にもう一軒の映画館が見えていますが、ここは大正9年に二六館として創業し、その後、美満寿(みます)館、東宝映画劇場と変遷しました。
この絵葉書は、東宝映画劇場の頃ですね。
看板が見えます。
通りには、昭和3年に大勝館という映画館もでき、市民にはキネマ街の愛称で親しまれました。
写真には、他に、アイスキャンデー、射撃練習場、パン・菓子などの看板の店が確認できます。



画像5 キネマ街(昭和初期か・絵葉書)


これは画像4より少し前、東宝映画劇場が美満寿館だった頃のキネマ街です。
七師団の兵隊さんが群がっているのが美満寿館。
3つの「枡」を組み合わせたシンボルマークが描かれたのぼりがおしゃれです。
これは画像4と逆に今の昭和通の方向にカメラを向けています。
なので、画面の奥、右端にある大きな建物が国技館です。



画像6 美満寿館ののぼり(画像5のアップ、昭和初期か・絵葉書)


一方、當八軒(とうはちけん)はなにかそば屋のような名前ですが、大正10年創業のカフェーです。
3条通7丁目のいまのセブンビルの場所にありました。
記事にあるコーヒーや食堂という記載は、このカフェーによる出張サービスだったと思われます。



◆ 齋藤瀏の昇進記事 


続いては、ローラースケート場開場の3年余り後、大正15年11月28日の小樽新聞の記事です。
これも別のことを調べていて、たまたま見つけました。



画像7 小樽新聞の記事


このブログではたびたびお伝えしている日本を代表する歌人、齋藤史(ふみ)の父親で、自らも軍人歌人と称された齋藤瀏(りゅう)についての記事です。
当時、瀏は、旭川にあった陸軍第七師団の参謀長を務めていましたが、記事では、翌春の異動で大佐から少将に昇進することが内定したと書かれています。
実際に、瀏は翌昭和2年3月(昭和元年は、天皇崩御に伴い12月25日から31日までの1週間のみ)、少将に昇進の上、旭川を離れ、熊本第六師団に旅団長として赴任しています。
ただ記事には、瀏が歌人として活躍していることやその歌、人となり、さらにこの年夏に瀏を訪ねてきた国民歌人、若山牧水を一家で歓待したことなどが書かれています。
おそらくは記事を書いた当時の小樽新聞の旭川駐在記者が瀏と親しく、こうした記事が掲載されたのではないかと思われます。



画像8 記事の写真(左)と齋藤宣彦氏所蔵の写真(右)


また記事には、牧水夫妻が旭川を訪れた際に撮られた記念写真が添えられていますが、こちらは牧水夫妻と瀏が屈み、瀏の妻のキクと娘の史が立った姿のよく知られた写真(史の長男である齋藤宣彦氏所蔵)とは違い、キクと牧水夫人の喜志子が屈み、他の3人が立った姿で写っています(この別バージョンの写真のきれいなものは旭川文学資料館の斎藤史の展示コーナーで見ることができます)。



画像9 前日の小樽新聞の記事


さらにこの記事の前日の小樽新聞には、「旭川地方の霧華(きばな)」というタイトルが付けられた記事がありました。
「霧華」は空気中の水蒸気が樹々の枝などに凍りつくいわゆる霧氷を指す言葉で、齋藤瀏による造語です。
記事にはこの言葉を使った瀏の歌も添えられていて、やはり瀏と親しかったと思われる同じ記者が書いたものと推測されます。

これとは別に、同じ時期の旭川新聞にも齋藤父娘に関する興味深い記事が載っているのを見つけました。
それがこちら。



画像10 旭川新聞の記事(昭和2年6月5日)


「参謀長の求婚回避計略」という見出しの付いた瀏の異動のおよそ3か月後に書かれた記事です。
かいつまむと、旭川時代、史には陸軍大学在学中の許嫁(いいなづけ)がいるという噂があったが、その美貌で若い将校らの注目を集めていた娘を思っての父、瀏の偽りの「宣伝」であったことがわかったという内容。
異動直前にそのことを瀏が明かすと、周囲は一転、「『栄進お祝』や『袂別』に名を借りて訪問者が俄にふえ門前市をなす、それは大袈裟だが『チエツ、しまつた』と、地団駄を踏んだうぬぼれもあつたろうテ」と結んでいます。
史に関して旭川新聞は、この3か月前にも「惜別の一首を残して 旭川歌壇を去つた斎藤史子さん」という記事(画像11)を載せていて、この記事に使ったと同じ洋装で帽子をかぶった史の写真を添えています(史が本名だが、史子と呼ばれることもあった)。
6月の記事にある「史子さんの写真が本紙に掲載されたとき」というのはこのことを指しています。
父娘と親しかった旭川新聞の記者と言えば、ともに前年に結成された短歌の研究会、旭川歌話会の中心会員だった小林昴(歌人としても活動)と小熊秀雄がいます。
「軍人にはめづらしい社交上手な捌けた人であった」など率直な書き様から、この史関連の2つの記事、小熊が筆者であったような気がしますがいかがでしょうか。



画像11 昭和2年3月の記事


◆ 8条通9丁目の旅館 


最後は珍しい旅館の絵葉書のお話、これも偶然手に入れた郷土史の史料です。



画像12 旅館東陽館の絵葉書① 


絵葉書には「温泉旅館東陽館庭園 旭川区八条通九丁目」という説明が添えられています。
画面左にあるのが旅館で、手前はその庭園と思われます。
8条通9丁目といえば、今でいう市民文化会館の北側に当たりますよね。
こんなところに旅館、しかも温泉旅館があったんでしょうか。
東陽館という名称そのものも目にしたことがありません。
なにか手がかりがないか、調べることにしました。
まず絵葉書の年代ですが、以下のような分析からかなり絞ることができました。


*住所に旭川区とあるので、発行時期は旭川に区政が敷かれていたのは大正4年4月から市に変わる大正11年8月までの間。

*絵葉書の表面にある宛先を書く部分と文面を書く部分の境の線が、はがきのちょうど2分の1の位置にある。これは、大正7年4月以降の絵葉書の特徴。


ということで、この絵葉書は、大正7年4月から11年8月までの間の発行であることが分かりました。
ただこの時代の商工年鑑などを見ても、東陽館という名前はいっこうに出てきません。
そこで中央図書館にある旭川新聞のデータベースを当たったところ、大正12年12月4日の紙面に、このような広告が出ていることが分かりました。



画像13 東陽館の移転広告


旅館東陽館が3条通9丁目右8号の千歳館跡に移転したことを伝える内容です。
文面を見ると「八条八丁目に於て温泉旅館経営中は一方ならぬ御愛顧を・・・」となっています。



画像14 旭川新聞の記事


また同じ年の8月4日の旭川新聞には、漢字の研究で学士院賞を受賞した高名な学者が旭川に滞在中という記事があり、「当市九条通八丁目なる東陽館に止宿し・・・」と書かれています。
条や丁目に食い違いがあるのは気になりますが(まあ旅館自ら載せているわけですので、移転記事の記載が正しいのではないかと思います)、大正時代の旭川に東陽館という旅館が実在したことは間違いないことが確認できました。
で、実はこの絵葉書、組写真になっていて、あと3枚あります。



画像15 旅館東陽館の絵葉書②


画像16 旅館東陽館の絵葉書③


画像17 旅館東陽館の絵葉書④



絵葉書②は旅館の内部ですね。
興味深いの③と④です。
まず③は旅館から北方向を写しています。
中央を流れる川は、このブログでは度々触れている切替工事前の牛朱別川です。
右に写っているのは、切り替えに伴って廃止された旧永隆橋と思われます。
ちょうどこの辺りの位置関係を示す地図が、郷土史研究の大先輩、故渡辺義雄氏の「旭川市街の今昔 まちは生きている」に掲載されていますので、引用させていただきます。



画像18 渡辺義雄氏作成の地図


この地図、昭和52年の航空写真に、切替前の牛朱別川などの様子が白く書き加えてあります。
移転広告によりますと、旅館があったのは8条通8丁目ということですので、地図では文化会館の左上の区画、旧八条川(牛朱別川にそそぐ小川)の流れているところですね。
そのすぐ近くに旧牛朱別川が流れ、そして旧永隆橋があるのがお分かりになると思います。
その上でもう一度絵葉書の写真に戻りますと、写真の説明に「十五番室ヨリ牛別川及中島遊郭ヲ望ム」とあります。
橋との位置関係などを考慮しますと、画面左手の集落は今の常盤町にあった住宅や店舗、そしてその右側奥に小さく写っているのが中島遊郭であると推測できます。



画像19 旅館東陽館の絵葉書③(中島遊郭の部分を拡大)


一方、写真14ですが、こちらは旅館から北、中心街方向を写しています。
小さくて分かりづらいのですが、遠くに当時4条師団通にあった活動写真館、第一神田館の特徴的なシルエットが見えています。



画像20 旅館東陽館の絵葉書④(第一神田館の部分を拡大)


なので、画面左の大きな通りは今の緑橋通と推測できます。
画面からは切れていますが、画面のさらに左には今は文化会館がある旧中央小学校があったと思われます。
通りには、排水路のようなものがあったり、木材が積み重ねられたりしています。
馬車や大八車の轍が幾筋も見えます。
明治から昭和初期の旭川を写した写真といいますと、師団通などの中心部がほとんどです。
それ以外は様々な建物を写したものが中心ですので、こうした市街地から少し離れた街並みを写したものはとても貴重です。


                   **********


さて2021年は、コロナウイルスの感染拡大に伴い延期された旭川歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の本公演が予定されています。
3月6日(土)〜7日(日)の2日間、場所は旭川市文化会館小ホールです。
公演まであと2か月。
キャスト・スタッフはコロナ感染の防止を徹底しながら、準備に取り組んでいます。
引き続きのご支援をよろしくお願いいたします。









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