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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「活劇工房」のこと

2023-10-24 10:43:17 | 個人史
 


久々のブログの更新です。
といっても今回は郷土史エピソードではありません。私が学生時代に在籍した劇団のことについて書いています。
「はじめに」にもありますが、自分の足跡を確かめる意味、今も続いている劇団の創生期のことを記録に残しておきたいという意味で書きました。
いつもの歴史ブログとは違いますので、あくまでそれでもいいやという方のみ読み進めてください。

なおほぼ同じ文章をnoteでも公開しています。
旧ツイッター「X」で周知したところ、現在の劇団の関係者である多くの若いみなさんがリポストしてくれました。
昔はこんな感じだったんだなと思っていただければ、私としてはうれしいです。

それでは、ここから本文です。




画像00 タイトルイメージ



(はじめに)


 東京杉並の明治大学和泉校舎を拠点に活動する「活劇工房(かつげきこうぼう)」という劇団があります。ネットを見ますと、大学公認の演劇サークルとあります。 
 実は、私は「活劇工房」のごく初期のメンバーです。一浪して文学部演劇学科(正確には文学部文学科演劇学専修)に進んだのが、1977(昭和52)年4月。すぐに「活劇工房」に参加しましたので、なんと46年前の話です。
 「活劇工房」の発足は、その前の年。ですから、劇団の歴史で言いますと、ことし(2023年)で47年目になります。
 半世紀近い歩みのなかで、劇団に在籍した人数はかなりの数に上ると想像できます。ただ創生期の「活劇工房」の活動については、ほとんど伝わっていないのではないでしょうか。
 と言いますか、自分たちがいた頃の「活劇工房」は、メンバーが数名に減るなど危機的な状況の時もありました(あとで詳しく書きます)。このため歴史うんぬんを言うよりも、今も劇団が残っていること自体が、私にとってかなりの驚きです。
 以下は昔話の部類になってしまいますが、自らの足跡を確かめておきたい、そして創生期の「活劇工房」の活動を記録としてネット上に残しておきたいという思いで書くものです。さらに関係者の目に止まって、後輩たちに引き継いでもらえるかも、という期待もあります。
 ただし記憶が不確かになっていることが多々あります。その点はご容赦ください。さらに人名については、一部を除き、本名は名字のイニシャルで、ペンネームや芸名についてはそのまま表記しました。これもご容赦ください。



画像01 第9回公演「櫛とヒコーセン」(1978年・シアターグリーン)


(当時の演劇学科と学内劇団)


 私が入学した当時の演劇学科には、スタニスラフスキーやガルシア・ロルカの翻訳で知られる山田肇先生を筆頭に、演劇科のOBでもある菅井幸雄先生、佐藤正紀先生らがいました。
 一方、学内劇団ですが、当時、明治には「演劇研究部」、「実験劇場」、そして「活劇工房」と3つありました。「劇研」「実験」「活劇」ですね。ネットで見ると、「活劇工房」だけでなく、「演劇研究部」も「実験劇場」も現役で活動しているようです。
 このうち「実験劇場」は、唐十郎ら大先輩の演劇科6期生によって作られた劇団です。「演劇研究部」はいつの発足か知りませんが、やはり「活劇工房」よりも歴史があるのは確かです。ということは、どちらも創設から半世紀を超えているはずですね。これもすごいことです。
 ちなみに演劇科の同期だった柴田理恵(現「ワハハ本舗」)は、「演劇研究部」に入って真面目なお芝居をしていました。ですので、後年、彼女が久本雅美とタモリの番組に出てきたときは、「あの柴田さんが」とたまげました。
 もう一つ、同じ演劇学科の原さんという方が立ち上げた「騒動舎イズミ・フォーリー」というコメディ志向の劇団もありました。彼らは映画を作ったり、コメディアンのポール牧さんと一緒に芝居をしたり、活発に活動していました。「騒動舎イズミ・フォーリー」は今はありませんが、ここもかなり長く続いたと聞いています(最近知ったのですが、「騒動舎イズミ・フォーリー」には、まだ高校生だった頃のケラリーノ・サンドロビッチも関わっていたそうです。これもびっくりです)。



画像02 第9回公演「櫛とヒコーセン」(1978年・シアターグリーン)


(ボックスを訪ねた日)


 私が演劇学科を目指したのは、高校3年生の夏、ふるさとである北海道旭川の伝説の劇団「河」の舞台を観たことがきっかけです。その舞台(奇しくも唐十郎の作品でした)にぶっ飛んだ私は、芝居の世界に関わって生きたいと熱を上げ、演劇科のある早稲田、明治などを受験。結果、明治大学に入ったのです(私と劇団「河」については、拙著「〝あの日たち〟へ〜旭川・劇団『河』と『河原館』の20年〜(2016年・中西出版)」に詳述しています)。
 大学では、演劇ではなく、演劇学を学ぶということは理解していました。このため最初から学内劇団に入ろうと考えていました。上記の3つの劇団はいずれも新入生の勧誘に来ていましたので、初日のオリエンテーションが終わった後、さっそくそれぞれの稽古場やボックス(居室)を訪ねました。
 その中でなぜ「活劇工房」に入ったかというと、一番ゆるーい感じだったんですね。「劇研」は若干堅そうな感じでしたし、「実験」はやや暗い印象を受けました。
 というか、私の場合、芝居をやると決めたものの、中学生のとき、有志でやった芝居に裏方で参加したことがあるのみで、高校演劇にも縁がありませんでした。このためどんな種類の人たちがいるか知らない劇団というものに若干の恐れもあり、一番フランクだった「活劇」に惹かれたのかもしれません。
 「下見」は「劇研」→「実験」→「活劇」の順でした。和泉校舎の奥、第2学生会館地下の「活劇」のボックスの扉を開けたのは、かなり遅い時間だったと思います。その日は、稽古はなかったのですが、一通りの説明を受けた時点で、もう気持ちは固まっていました。
 このとき、対応してくれたのは、当時の劇団の中心だった演劇学科3年のTさんでした。がっちりとした体躯で長身。旭川出身だと私が言うと、おれも北海道だよと返してくれました。彼は札幌西高の出身。同じ道産子がいることも安心材料の一つだったのかもしれません(ちなみにこの時の3年の演劇学科のクラスには、Tさんと同じ札幌西出身で、在学中の1978年から文学座での活動を始める田中裕子さんがいました)。
 「活劇」のボックスは地下でしたが、窓の外は掘り下げてあって陽が入る作りになっていました。その明るさもやはり良い印象を与えたと思います。ただ学生会館自体は、少し前まで活発だった学生運動のなごりなのか、壊れたドアや割れたガラスが放置されていて物々しい感じでした。3〜4階には、学生運動の残党であるセクトの人たちの拠点がありました。
 話が横道に行ってしまいましたね。戻しましょう。
 その日は、Tさんとあと2人の男子学生に新宿に連れて行かれ、シェーキーズで生ビールを飲みながらピザを食べました(まだ未成年でしたが)。大学生になったことを初めて実感した一日でした。
 以下、時代を追って、当時の「活劇工房」での活動について書きます(公演については、分かっている範囲で文末にリストを載せてあります)。



<1976(昭和51)年・創生期>


(創生期の「活劇」)


  結局、この年の新入生で「活劇」に入ったのは、私と、今も親交のある英文学科のM、そして演劇学科の女子学生と別の学科の男子学生の4人でした。
 上級生では、3年生が、作・演出を務めていたTさんと、照明担当のSさん。2年生が、お父さんが東宝に務めていて、子役経験もあるというОさん、それにハーフのような顔立ちだったKさん、広島出身のUさん、横浜から通っていたSさんの女性3人がいました。
 2〜3年生から聴いた話ですと、「活劇工房」ができたのは私たちが入学する前の年(1976年)。1975年演劇学科入学組の4〜5名が2年生のときに結成したのだそうです。ただ2回公演をしたあと、Tさん、Sさん以外のメンバーは脱退。その後、1年生だった4人が加わり、さらに新年度になって私たちが加わったという流れです。
 ちなみに「活劇工房」の旗揚げ公演の作品は「胸毛の生えた鉄腕アトム(1976年)」。オリジナル作品で、作・演出は初期の脱退メンバーの一人、上演場所は不明です(第2回公演の作・演出も同じ人と思われます。作品名、上演場所は不明です)。
 メンバー脱退後は、Tさんが作・演出を担うようになり、2本の作品を池袋のシアターグリーン(これも健在!)で上演しています。
 このうちの一本は、この年6月に上演された「無縁仏」という作品です(彼のペンネーム&芸名は烏山喧児です)。



<1976(昭和51)〜77(昭和52)年・第2期>


(始まった「活劇」の日々)



 当時の大学、特に文系では、かなり自由というか、学生が放任されていました。明治の文学部では、講義の出席も代返(友人のかわりに返事をする)可能な授業がたくさんありました。出席すらとらない講義もありました。リポートの提出などもほとんど求められませんでした。このため、私の場合、講義の半分以上は一度も授業に出ず、試験のみで単位を取りました。
 その試験も「○○について述べよ」などの設問が、事前に3つほど示されていて、そのうち一つないし二つに答えると言ったものがほとんどでした。あらかじめ回答を考えておき、試験ではそれを書くだけ。授業には出ていないので、出題者が求めるような回答は書けませんが、それでも「可」はくれました。
 ただこんなゆるい環境だったにも関わらず、私が1〜2年で取った単位は、一つも落とさなかった人の半分以下。周りからは、「留年コースと言うより中退コースだ」と言われましたが、なんとか1年の留年で卒業することができました。当時の寛容さに救われたようなものです。
 そんなダメ学生だった私も、ほぼ毎日、大学には出かけました。「活劇工房」の活動があったからです。
 当時の「活劇」は、午後4時から活動を行っていました。私は1年から4年まで、京王線の初台駅近くにあったさまざまな大学の学生が集まる男子寮にいました。寮の仲間と深夜遅くや明け方近くまで麻雀をして、昼前後まで寝て、遅い昼食を取り、それから支度をして稽古に行くという毎日。たまに午後からの授業に出ることもありましたが、ほとんど劇団中心の生活が続きました。


(「兄弟がいっぱい」)


 私たちが最初に参加したのは、烏山喧児ことTさん作・演出の第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年5月31〜6月1日・シアターグリーン)です。ある家族のもとに家出をしていた兄が帰ってくるというお話です。



画像03 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)


 もともと役者をしたいと思ったことは一度もなく、その適性もまったくないと思っていた私は、大道具、小道具の裏方で関わりました。
 当時、ダダイズムやシュールレアリズムに関心を持っていた私は、装置制作のかたわら、余った木材で一点ものの立体ポスターを作りました。マグリット風の青空に鳥が飛ぶデザインの外観のもので、これは白黒の写真が残っています。
 立体ポスターは、この後の公演でも作りました。マルセル・デュシャンのレディ・メイド作品「フレッシュ・ウインドウ」を真似たもので、観音開きの窓を開けると、芝居のタイトルロゴが見えるという凝ったものです。実は、このデュシャン風の立体ポスターとは、20年後、思わぬ再開を果たすのですが、それはあとで書くこととします。



画像04 「兄弟がいっぱい」の立体ポスター(1977年・シアターグリーン)


 「兄弟がいっぱい」では、全てが新鮮な経験でした。稽古始めの肉練(肉体訓練のこと。明治系の劇団では肉練と言うが、早稲田系の劇団では、「身訓」=身体訓練と言うと、当時聞かされていました。本当がどうかは不明です)は、柔軟体操が中心で、裏方の私も一緒にやりました。劇団にはつきものの、「アエイウエオアオ」や「あめんぼあかいなアイウエオ」といった発声練習も毎回欠かさずやっていました。
 なによりも空き教室を使っての立ち稽古が始まりますと(その後の「活劇」にはアトリエがあったようですが、当時は居室=ボックスしかありませんでした)、芝居が少しずつ立ち上がっていく過程がたまらなく面白く、午後4時が待ち遠しい日々が続きました。
 このときの公演では、同期のMが新人ながら役者デビューを果たしています。家出した兄を探す家族が出演するワイドショーの司会者の役です。
 彼は僕と同じで、演劇経験のないまま「活劇」に入りました。Mの他、「兄弟がいっぱい」の主要キャストでは、「兄」をTさん(烏山喧児)、「弟」をОさん、「妹」をKさんが演じました。
 この3人は、劇団に入りたての私から見ても、かなり達者な役者でした。Mの演技も初めての役に挑む必死さが早口でまくしたてる司会者の役とよくマッチしていました。



画像05 第5回公演「兄弟がいっぱい」司会者を演じるМ(1977年・シアターグリーン)


画像06 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)



 実は当時「活劇工房」はかなり背伸びをしていた劇団で、公演は、基本、オリジナル作品を学外の劇場を借りて上演していました。さらに対外的には、「明治大学」の名前は出さず、フライヤー(当時は単にチラシと呼んでいました)や、「ぴあ(数年前に創刊したばかりでした)」などの情報誌に出す告知にも、明治の名前は出しませんでした。
 実態は、学生劇団以外の何物でもないのですが、やはり背伸びをしていたとしか言いようがありません(劇場の借り賃は、長期の休みにそれぞれがバイトをして持ち寄ったお金で賄っていました)。
 ちなみに、「劇研」や「実験」は、当時、駿河台校舎にあった教室を改造した共有アトリエ、551ホールで公演していました。



画像07 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)


(初舞台!)


 続いてこの年7月には、第6回公演、烏山喧児作・演出「メランコリック・スーパーマン」をシアターグリーンで上演します。明治期に滋賀県で起きた大津事件に着想を得た作品です。大津事件は、当時、来日中だったロシアの皇太子、ニコライが。警備中の巡査に切りつけられた事件ですね。
 この公演、役者には縁のないはずだった私がなんと初舞台を踏んでいます。役は沼の主。私に芝居センスのないことを分かったうえでの起用で、絡みは一切ありません。
 登場は3回。1回目は劇の冒頭、無言で花道から登場し、舞台を横切るだけです。ただし姿は赤フン一丁。まあ、若くて痩せていたからできたことです。
 そのあと2回、登場シーンがありましたが、いずれも白いシーツ状の衣装をまとい、そこそこの長台詞を独白で語るというものでした。
 冒頭のシーンは良いとして、一度目の台詞のシーンの登場前は、緊張のあまり吐き気がする始末。こんな状態で本当に台詞をしゃべることができるのかと思うと、さらに緊張が増しました。
 ただ舞台に上がると、あら不思議、すっと緊張が解けたのです。長台詞を語りながら、客席の様子を落ち着いて見ることができたことを覚えています。
 なおこの公演では、寅さん役で知られるあの渥美清が観劇に訪れ、皆をびっくりさせました。東宝にいたОさんの父親の関係で来てくれたと後で聞きました。



<1977〜80年・第3期>


(相次ぐ引退)



 「メランコリック・スーパーマン」の公演終了後、劇団に激震が走りました。太い柱だった3年生2人にОさんを加えた3人が引退を表明したのです。
 第7回公演は、同年11月、私が宮沢賢治の詩「永訣の朝」などをベースにして書いた作品「水中花」を演出して、高田馬場にあった東芸劇場で上演しました(ペンネームは岸田志基です)。それが終わると、残りの上級生も、Kさんを除いて全員引退してしまいました。
 その時点で、同級生で残っていたのは私とMの2人のみです。ですからKさんと合わせて3人。東京生まれの男子学生が照明をやってくれることになり、これで4人。さらに別の劇団(騒動舎?)にいたAさん(阿西亜里)という同学年の女子学生を口説き落として引き抜き、計5人。
 ただ1人は裏方専門なので、役者は自分を入れたとしても4人です。これで上演できる芝居を書こうと、冬休みに旭川に戻り、「砧(きぬた)ー思ひは身に残り昔は変り跡もなし」という能の作品に着想を得た脚本を書きました。
 このときが初期の「活劇工房」としては一番の危機的状況ではなかったかと思われます。次回公演まで半年以上かかったのが、そうした事情を物語っています。


(一転、大所帯に)


 5人でなんとか頑張ろうという思いで東京に戻った私。ただ新学期が始まって新入生の勧誘に当たりますと、なんと入団希望者がわらわらと現れるではありませんか。
 結局、10人ほどが新たに加わり、メンバー不足の状態はたちまち解消に至ります。さらにその中に、普段はぼやきキャラながら舞台に立たせるとキリッと変貌する新潟出身のSがいました。さっそく彼を主役に抜擢。私は演出に専念しました。
 4人が出演した第8回公演「砧ー思ひは身に残り昔は変り跡もなし」(岸田志基作・演出)は、1978(昭和53)年6月に上演されました。場所は、今はなき六本木の自由劇場。串田和美や吉田日出子らが躍動した劇団「オンシアター自由劇場」の本拠地です。
 六本木の交差点近くのガラス店の地下にあった自由劇場は、一杯に客を入れても100人が限度だったのではないでしょうか。夏のシーズンオフで、比較的安く借りることができたと記憶しています(ただし公演時はものすごい暑さで、役者も観客も汗だくになっていました)。
 手元の資料を見てみますと、「オンシアター自由劇場」が、斎藤憐作、串田和美演出の名作「上海バンスキング」を自由劇場で初演したのは、1979(昭和54)年1月。我々の公演の半年後です。
 そんな場所で、実質は学生劇団の我々が芝居をしていたわけです。若さゆえの大胆さ以外の何ものでもありません。


(「櫛とヒコーセン」)



画像08 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像09 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像10 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里(1978年・シアターグリーン)



 続く第9回公演の「櫛とヒコーセン」(岸田志基作・演出、1978年11月)は、役者希望者が大幅に増えたことを反映して、一転大人数が出演する作品になりました。場所は原点に戻って池袋のシアターグリーンです。
 この芝居は、昭和の時代を生きた一般的な一人の女性の誕生から臨終までの生涯を描いた作品です。当時の私は、ドラマとは、ごく限られた特別な境遇の人の中だけに存在するものではなく、ありふれた日常を生きる人の中にもあるのだ、という思いを強く持っていました。
 ただありのままの人生をフラットに描いても、ドラマを感じてもらうことはできません。詳しいことは省きますが、作品では、人の一生を、できるだけ演劇的な手法で描くことに挑戦しました。
 例えば、女性の夫は、太平洋戦争で戦闘機のパイロットとして出陣して戦死しますが、舞台に登場する夫は、自身が飛行機になったかのように「ぶーん」と唸り声を上げながら両手を横に一杯に広げた姿で登場します(画像08参照)。
 「活劇工房」で、私は5本の作品を作・演出しましたが、この作品に一番愛着がありますし、唯一、手応えも感じた作品です。
 ここで感じた手応えをうまく自分の中で消化することができていたら、もしかしたらもう少し長く芝居に関わっていることができたかもしれません。ただ実際はそうはなりませんでした。この後、作・演出としての私は大きく迷走することになります。



画像11 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里、岸田志基(1978年・シアターグリーン)


画像12 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像13 第9回公演「櫛とヒコーセン」終演後の集合写真。観劇に来てくれた私の友人らも含まれています。(1978年・シアターグリーン)



(当時の演劇界)


 ここで少し脇道にそれて、当時の私たちが観に行っていた東京の劇団や印象に残る舞台について書いておきたいと思います。
 手元にある演劇史家、大笹吉雄さんの「戦後日本戯曲初演年表 第Ⅳ期(1976年〜1980年)」(社団法人日本劇団協議会)を見ながら、記憶を遡って書いてみます(ちなみにこの本の1977年と1978年のページには、なんと第5回から9回までの「活劇工房」の公演の情報も載っています。光栄ですが、さすがに恥ずかしい……)。
 まず概況から言いますと、私が「活劇工房」に在籍していた1977〜80年は、状況劇場、黒テント(演劇センター68/71)、早稲田小劇場、天井桟敷などのアングラ・小劇場演劇の活動はまだまだ盛んでした。一方で、世代的に自分たちに近いつかこうへい事務所や、野田秀樹の夢の遊眠社、渡辺えり子の2○○などが活動を始めたり、本格化させたりしたころです。
 貧乏学生でしたので、そうひんぱんには観に行けませんでしたが、これぞと思う公演には、劇団の仲間と誘い合って出かけました。
 まず強烈に印象に残っているのは、まだ浪人生だった1977年1月に矢来能楽堂で見た転形劇場の「小町風伝」です。詳しいことは書きませんが、演劇の持つ深さ、凄みを感じさせてくれた舞台でした。この舞台には、旭川出身の品川徹や若き日の大杉漣が出演していました。
 その2か月後には、早稲田小劇場の「鏡と甘藍(きゃべつ)」を、早稲田銅鑼魔館で観ています。銅鑼魔館は早大近くの喫茶店の2階にあった早稲小のアトリエです。彼らはこの後、富山に拠点を移して活動します。ぎりぎりのところで東京拠点時代の舞台に接したことになります。
 唐十郎の状況劇場は、このころ根津甚八に加え、小林薫の人気が上がっていました。前も後ろも両脇も、とにかく詰めるだけぎゅうぎゅうに詰めて座らされ、身動きもできない状態でも舞台に釘付けになったあの迫力と熱気は何だったのでしょう。
 たしか渋谷の百軒店跡地での紅テント公演では、小林薫が主役をつとめていた記憶があります。
 劇団の仲間と観に行った芝居では、早稲田小劇場から脱退した俳優たちが作った眞空艦(しんくうかん)の旗揚げ公演「ゴトーさんの荒野での静かな日々」(1978年6月)が印象に残っています。
 明大前に近い京王線の代田橋にある廃業したメッキ工場を改造したアトリエでの公演。戦前からあるのではないかと思われる古びた建物と、一種独特な俳優たちの佇まいが奇妙にマッチした舞台でした。
 あとはやはり黒テントですね。高校生のときに、旭川で「キネマの怪人」を観てぶっとんだ記憶がありますが、東京では「ブランキ殺し上海の春」(1979年5月)を仲間と観ました。確か休憩を入れて、4時間近くあったのではないでしょうか。
 相変わらず、役者はとにかく達者で、演出もスピーディで仕掛けも盛りだくさん。とんでもない長時間にも関わらず、舞台に惹き込まれます。
 ただ作者が伝えたいところはまったくわからない。ものすごく面白いが、ものすごくわからない。私にとって黒テントの芝居はそんな芝居でした。
 このほか、風間杜夫、平田満、加藤健一が出演したつか事務所の代表作「熱海殺人事件」を、紀伊國屋ホールで観たのも印象に残っています。


(迷走の2作)



画像14 第10回公演終演後(1979年・シアターグリーン)


 さて「活劇工房」の話です。3年生になった私にとって、1979(昭和54)年は苦しい年でした。
この年は、前年ほどではないにしろ、春に4〜5人の新入生を迎えたと記憶しています(その中には、後に声優となってカウントダウンTVのキャラクターの声などで活躍するIがいました)。
この年は、春にシアターグリーンで1本、秋に同じ池袋の文芸坐ル・ピリエで1本、それぞれ私の作・演出で公演していますが、どちらも脚本を書くのに難儀しました。
 今から考えますと、手応えのあった「櫛とヒコーセン」の路線をさらに深化させることを目指すべきでしたが、ストーリーを書くことを目指してしまったのですね。
 背景には、なかなか物語を作ることのできない自分を変えたいという気持ちがありました。



画像15 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


 私は子供の頃から本好きでしたが、どちらかというと、小説など物語系より、伝記物などノンフィクション系が好きでした。このため東西の古典的な名作小説などはほとんど読んでおらず、そもそも自分の中の物語の蓄積が少なかったのです。それは創作者としての私の大きなコンプレックスでもありました。
 ただ物語作りはやはりうまく行きません。春は銀行強盗もの、秋はヤクザの一家ものという作品を書きましたが、最後までストーリーをうまく展開することはできませんでした。特に秋のヤクザものは、稽古に入った段階でもまだ終盤が書けておらず、劇団員のみんなに迷惑をかけました(一応最後まで書いて、上演することはできました)。
 2本続けてのつらい執筆となり、私はしばらく作・演出を離れることにしました。



画像16 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


画像17 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)




<1980(昭和55)年〜?・第4期>


(引退へ)



 私の後の作・演出は、1学年下のHくん(和才秀)が担ってくれました。もともと小説を書いていた人で、劇団内で同人誌的な冊子作りにも励んでいました。
 第12回公演はその和才秀作・演出の「大地は一個のオレンジのように青い」(1980年6月・シアターグルーン)でした。
 そしてこの年秋、私は「活劇工房」での最後の活動、第13回公演「檸檬(れもん)」を演出しました。「檸檬」は、2年前の1978年、「斜光社」という劇団を主催していた竹内純一郎(のちに銃一郎)が発表した作品です。
 この公演では、思い切ってそれまでとは違うことをしました。初めてプロの劇作家の脚本を用い、公演場所も、「劇研」などが使っていた駿河台校舎内の551ホールに変えました。公演では、劇団員が手分けして集めた古新聞や古雑誌を、山のように舞台に積み上げて装置としました。



画像18 第13回公演「檸檬」終了後の集合写真。後ろに古新聞、古雑誌の一部が見える。(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


振り返りますと、自分が書いた脚本を演出する際は、執筆段階でのイメージと役者が演じる際のイメージに常に差があり、そのギャップを受け入れることにとまどいがありました。ただ脚本のイメージに無理やり役者を合わせようとすると、役者の良さが消えてしまいます。
 作・演出の場合は、いつもその点で苦労しましたが、「檸檬」では、役者とともに一から脚本の世界を組み立てていく実感があり、楽しく作業することができました。
 ただその一方で、自身の才能に一つの限界を見た寂しさもありました。同時にそのことは、やはり自分はものを書いて生きる人間になりたいのだと、強く意識する結果にもなりました。
 公演終了後、私は「活劇工房」の活動から事実上引退しました。



<その後(1)>


(17年ぶりのボックス)



 大学を卒業した後、縁あってテレビの世界に入った私は、記者、ディレクターとしてキャリアを積みました。カメラマン、編集マンと共同作業をしながら、取材をし、構成を立て、映像に原稿を添え、伝える。生まれ故郷の北海道でそんな毎日を送っていた私は、1996(平成8)年になり、初めて東京勤務を命じられました。
 たしか東京に行って2年目だったと思います。私用で杉並を訪れていた私は、ふと母校に立ち寄ってみる気になり、明大前の駅に降りました。
 木造だった駅舎は見違えるようになっており、やはり木造の飲食店が両脇に並んでいた甲州街道に至る道も、ビルが建ち並ぶ広い通りに変わっていました。
 変わっていなかったのは、甲州街道にかかる歩道橋の手前にある小劇場「キッド・アイラック・ホール」が入った小さなビルです。このホールでは、最初の方で書いた明大の騒動舎イズミ・フォーリーがよく芝居を打っていて、何度か観に行った覚えがあります。ちなみにこのビルとホール、10年ほど前に、ある御縁で知り合った著作家で美術館「無言館」の館長、窪島誠一郎さんの所有と聞いて驚きました。 
 歩道橋を渡って和泉校舎の構内に入りますと、新しくなった校舎に並んで見覚えのある建物もありました。さすがにもうないのだろうと奥に進むと、なんとあの第2学生会館がそのままの姿で建っているのではありませんか。しかもタイムスリップしたかのように発声練習の声まで響いています。
 昔この地下に「活劇工房」という劇団があったのだがと、外にいたTシャツ、ジャージ姿の3人の女子学生に声をかけますと、「ああ今でもありますよ。私たちのサークルです」とびっくりするような言葉が返ってきました。聞けば、ボックスもそのままだと言います。中を見たいとお願いすると、どうぞどうぞと案内してくれました。
 1階のフロアから階段を降りると、かつて装置の制作などに使っていた小さなスペースがあり、少し進むと左手にトイレ、その向かいが「活劇」のボックスです。
 木製のドアを開けると、昔のままの部屋がそこにありました。中央に大きめのテーブル。3方を囲うように長椅子。さまざまな劇団のチラシやポスターがびっしりと貼られた壁。その中には、我々の時代の「活劇」のチラシもありました。そして陽が入るあの窓。
 その時間に居合わせた後輩たちは、10人ほどだったでしょうか。ボックスはそのまま居室として利用していて、僕らの頃は軽音楽部が練習場として使っていた奥の空間は、「活劇」のアトリエになっていると教えてくれました。メンバーは数10人いると聞きました。
 「卒業したら俺もこんな形でここを訪ねることがあるかもね」。
 一人の男子学生の言葉に皆で笑いあったとき、長椅子と長椅子の間の隅っこに見覚えのあるものを見つけました。そう、1年生のときに作ったあのデュシャン風の立体ポスターです。自分が作ったものだと話すと、後輩たちは目を丸くしていました。
 後日、彼らの公演があの551ホールであるというので、差し入れを持って出かけました。熱演する後輩たちの姿に、かつての仲間の姿がダブりました。



<その後(2)>


(その後の私と演劇)




画像19 「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ 予告編(プレ公演)」(2020年2月・旭川市民文化会館小ホール)


 2019(令和元)年7月、旭川では約30年ぶりとなる市民劇の稽古がスタートしました。上演作品は、大正末から昭和初期にかけての旭川を舞台に、架空の若者たちと実在の人物たちが織りなす群像劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。「活劇工房」時代以来、37年ぶりに私が書いた戯曲です。
 あるきっかけからこの戯曲が地元の演劇人の目に止まり、市民劇の形で上演を目合すことになったのが2017(平成29)年。私は脚本担当兼総合プロデューサーという立場で組織づくりから関わりました。
 2020(令和2)年2月に「予告編」と題したプレ公演を上演した直後、コロナ禍という予想もしない事態に遭遇。しかし関係者の努力と熱意で、なんとか2021(令和3)年3月に本公演を行うことができました(詳細は、拙著「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジーコロナ禍中の住民劇全記録―」(2021年・中西出版)に詳述しています)。



画像20 「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ 本公演」(2021年3月・旭川市民文化会館小ホール)


 実はこの作品、10年あまり前からふるさと旭川の歴史について、ブログや講演、執筆などの形で発信する活動を続けている私の頭の中に、ある日、突然降りてきた物語がベースになっています。といっても全くのゼロから物語が生まれたわけではありません。
 舞台で起きるほとんどの出来事は、当時の旭川で実際にあったことです。詩人の小熊秀雄、画家の高橋北修、のちの歌人、齋藤史など、登場人物の約半数も、当時の旭川で活動した実在の人物です。
 物語は、架空の若者たちが、その実在の人物と出会い、実際にあった出来事と関わる中で生きる目標を見出していきます。
 物語を書けなかったことをきっかけに20代で演劇から離れた私。その後培った郷土史研究を含むさまざまな蓄積が物語を生み、30数年ぶりに演劇の現場に自分を導いたとでも言えるでしょうか。歴史市民劇の本公演には、「活劇工房」で同じ時間を過ごしたMも、東京から駆けつけてくれました



画像21 大学卒業の頃の筆者




<初期「活劇工房」公演リスト>


     作品名(作・演出  上演日 上演場所)
 
第1回 「胸毛の生えた鉄腕アトム」     不明   1976  不明
第2回  不明          不明   1976  不明
第3回 「無縁仏」        烏山喧児 1976 6.26~27  シアターグリーン
第4回  不明          烏山喧児 1976秋 シアターグリーン
第5回 「兄弟がいっぱい」     烏山喧児 1977  5.31~6.1 シアターグリーン                  
第6回 「メランコリックスーパーマン」   烏山喧児 1977・7 シアターグリーン
第7回 「水中花」        岸田志基 1977・11 東芸劇場
第8回 「砧〜思ひは身に残り昔は変り跡もなし」   岸田志基 1978・6 自由劇場
第9回 「櫛とヒコーセン」     岸田志基 1978 11.28〜29 シアターグリーン                    
第10回 不明           岸田志基 1979春 シアターグリーン
第11回 不明            岸田志基 1979秋 文芸坐ル・ピリエ
第12回「大地は一個のオレンジのように青い」  和才秀  1980 6.13~15 シアターグリーン                      
第13回「檸檬」 作竹内純一郎・演出岸田志基  1980秋  明大551ホール


(第5〜9回公演については、「戦後日本戯曲初演年表 第Ⅳ期(1976年〜1980年)」(大笹吉雄・社団法人日本劇団協議会)に記載のデータとすり合わせています。ほかは記憶のみが根拠ですので、必ずしも正確ではありません)