もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・ワタシの好きな旭川~常盤公園スペシャル① もう一つの神社

2015-01-26 10:19:19 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は、2011年に4回シリーズで掲載した「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」の1回目、「もう一つの神社」です。


            ***********


<ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル① もう一つの神社>(2011年8月1日掲載)

まずはこちら。






旭川市民ならおなじみですよね。
常磐公園にある「屯宮(とんぐう)さん」、大正13年に造営された上川神社の仮宮です。

ワタクシにとっては初詣と言えば、この屯宮でした!

ただ、きょうご紹介するのは屯宮ではなく、かつて常磐公園にもう1つ(2つ?)あった神社のお話です!!

「常磐公園に屯宮以外の神社があったなんて聞いたことがない!」と、お思いの方も多いかもしれません。
実はワタクシもそうでした。

ところが、ところが。
先日から進めている昭和40年代の常磐公園の姿を机上で再現するプロジェクト(「なつかしの常磐公園プロジェクト」と名付けました)の中で、複数の方から「公園の一角に小さなお社があった」という証言が寄せられたんです。
さっそく神社があったという場所に行ってみました。





訪れたのは、道立美術館のとなりにある駐車場の向かって左にあるスペース。
公園の敷地なのですが、その一角だけ〝へそ〟のように住宅地に飛び出たちょっと変わった場所です。
(写真でお分かりのように、少しこんもりしていて、木や草が生い茂っています)。



住宅地側から見るとこんな感じ(遠くに天文台が見える)。


近くにある「俊栄寺」のご住職にうかがったところ、やはり、この一角の一段高くなっているところに「弥彦(やひこ)神社」、そのとなりに「桃太郎神社」があったことが確かめられました。
住宅地側と公園のグランド側に、鳥居も2つあったそうです。



弥彦神社が建っていた場所


地図で示すと


桃太郎神社の脇にあった「おみくじ販売機?」の基礎


道路を挟んでグランド側に建っている灯篭(おそらく2つの神社に関係したもの)



さらにこの場所に神社を建てたという方のお孫さん(といってもワタクシより年上ですが)の話も聴くことができ、以下のようなことが分かりました。


①時期は不明だが、神社は旭川市の長谷川石太郎さんという方(故人)が、公園内の土地を借りて建てた。
②長谷川さんは新型県出身で、ふるさとにある「弥彦神社」にちなんで神社を建てたと思われる。
③昭和50年代に、市から土地を明け渡すように要請され、神社の建物を撤去。御神体は、初代宮司が新潟県出身だったことから旭川郊外の「鷹栖神社」に託され、現在も境内にある「六号神社」に合祀されている。


*なお神社が建てられた年代については、昭和55年に書かれた旭川ゆかりの小説家、評論家の佐藤喜一氏のエッセーに、「50年前は、弥彦神社と旧庁立女学校、日章小学校を挟んで牛朱別川が流れ・・・(「旭川常磐公園界隈・今と昔」より)」という記述があることから、昭和5年ころにはすでにあったと思われます。



神社のスペースの脇にある「御大典記念樹」と書かれた石碑


「○長、長谷川」の屋号と文字が(この長谷川さんは石太郎さんの弟とのこと)


御神体が移された鷹栖神社境内の「六号神社」



新潟ゆかりの「弥彦神社」と並んでなぜ「桃太郎神社」と名付けられたお社が建てられていたのか、そもそも「桃太郎神社」も長谷川石太郎さんが建てたのか、など、まだ分からないこともたくさんあるのですが、先日、神社ゆかりの品を撮影することができましたので、最後にご紹介します。



これです


「桃太郎神社」にあったという獅子舞の獅子頭です。常磐公園の管理事務所で保存されていました。



アングルを変えると


同上



公園の管理を担当している「旭川市公園緑地協会」によりますと、神社の建物を撤去する際、さまざまなものが処分されたそうですが、当時の担当者が「この獅子頭は取っておくように」と後輩に伝え、その後も代々引き継がれてきたそうです。



かぶると


獅子頭が保存されている管理事務所(その後、獅子頭は博物館に移されました)



今回は、「なつかしの常磐公園プロジェクト」で発掘した情報を、「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル・その①」として紹介しました。(あまりにいろいろな情報が集まったため、調査に時間がかかり、1回目の報告が遅くなってしまいました。恐縮です)。

情報を地図にまとめる作業はまだ続いていますが、
確認できた情報は、随時、このブログで紹介していきたいと思います。
ぜひご期待ください!




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アンコール・ワタシの好きな旭川~常盤公園スペシャル③ 道博の遺産

2015-01-21 15:34:56 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は、2011年に4回シリーズで掲載した「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」の3回目、「道博の遺産」です。


              ***********


<ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル③ 道博の遺産>(2011年8月30日掲載)


今回も、まずはこちらの写真から!!





この古い記念写真。
昭和30年代後半の撮影と思われます。

ざっと見ていただいたうえで「クイズ」です。

問1・・・ この写真が撮影された旭川のシンボルスポットとは?
問2・・・ 中央に写っている男の子は誰?

問1は、旭川市民ならすぐおわかりですよね。
「市立旭川天文台」の標柱。
おなじみの常磐公園です。

問2も、このブログを見ていただいている方ならピンときたかも。
そうです、幼き日のワタクシです(となりにいるのはワタクシの叔母)!

ワタクシは4~5歳といった感じでしょうか。
で、この写真には写っていない天文台がどうなっていたかといいますと・・・。





この写真は昭和32年の撮影ですが、外観はいまとほとんど変わっていません。

ところが、さらにさかのぼりますと・・・。





まわりに回廊のようなものがあります。
良く見ると「無料休憩所」と書かれています。
実はこれ、昭和25年に常磐公園を中心会場に、旭川で「北海道大博覧会=道博」が開かれた際に撮影された写真なんです。

この天文台のように、常磐公園には、道博に合わせて建設され、その後も長く市民に親しまれた施設が数多くあります。

ということで、またまた前置きが長くなりましたが、今回は「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル・その③」、「道博の遺産編」です。


◆道博の遺産その①・・・「ちちゅうとう」って何!?


まずはこちら。





道博のメイン会場、常磐公園会場の入り口です。
道博が開催されたのは、昭和25年の7月から8月にかけて。
当時の旭川市の総力を結集した大イベントでした!

まず見ていただきたいのは千鳥ヶ池に設けられたこの施設です。





「池中塔(ちちゅうとう)」です。
橋がかかっていて、渡れるようになっています。
(道博は夏の開催でしたから、涼を求めて多くの人が渡ったのでは?)



上から見ると


夜はライトアップ



さらに橋の渡り口には三角屋根の建物がありました。
この中では、なんとプラネタリウムが上映されていたと記録されています
(当時、大阪にあった施設を借りたそうです)。







この「池中塔」、橋などは取り外されましたが、博覧会の終了後も長く常磐公園に残され、市民に親しまれました。
ワタクシも古い記憶に池にこの塔がそびえていた光景が残っています。



昭和30年代の池中塔


池の水が抜かれた珍しい写真〈右にあるのは池中塔の土台?・昭和38年〉



◆道博の遺産その②・・・公園に住んでいた台長!?


「池中塔」は撤去されましたが、今も公園に残っているのが冒頭で紹介した天文台です。



人がいっぱい


この施設、北海道初の天文台で、ドームの直径は4.5メートル、中には15センチの屈折望遠鏡が据え付けられていました。



中の様子(昭和32年)


屈折望遠鏡の雄姿(昭和32年)



そして注目してほしいのがこの写真。
右に天文台と青少年科学館が写っていますが、その左に木造の建物があります。



昭和46年撮影


アップにすると



複数の方の証言によりますと、この建物、市立天文台の職員の官舎で、初代台長の堂本義雄(どうもと・よしお)さんらが住んでいたということです。
(堂本さんは、博覧会場に天文台とプラネタリウムを設置するよう当時の前野市長に働き掛け、その後も運営に尽力された方です)。

ちなみにこの天文台の職員住宅、冒頭に紹介した写真にも写っていました。





◆道博の遺産その③・・・エコ道博!?


以前も書きましたが、この道博、1億5000万円という当時の市の年間予算の3分の2に当たる巨額の費用をかけて開催されました!
多くの施設が再利用されたのは、財政的な理由があったからかもしれません。

その中で最も有効的に活用されたのが、パビリオンを再利用した体育館と、「河畔会場(第2会場)」の施設を使って建てた中学校=わが母校、常盤(ときわ)中学校!です(柱・常磐公園は「磐」、常盤中学校は「盤」の字を使います)。



体育館になった開発館の骨組み


常磐中学校になった河川会場の建物



このうち体育館は、もともと道博の「開発館」の建物でした。
さらにこの「開発館」、旧陸軍の美幌飛行場の格納庫に使われていた鉄骨を旭川に運んで建造したと言いますから、徹底したエコが図られていたと言えます。

また常盤中学校は牛朱別川(うしゅべつがわ)沿いにあった道博第2会場の6つのパビリオンを利用して建てられました。

博覧会の報告書には、この体育館と校舎について、「本博の置き土産として、各方面から賛辞を浴びている」と書かれています。



今の中央図書館の位置にあった体育館(昭和33年)


河畔会場



◆道博の遺産その④・・・迎賓館は元料亭!?


「開発館」のように、既存の施設を博覧会用に利用したものとしては、もう一つ、来賓などを接待した「迎賓館」があります。



道博会場の「迎賓館」


この施設、実は公園内にあった料亭の建物を利用したものです。
料亭の名前は「登喜和園(ときわえん)」、市中心部の3条8丁目にあった料亭「登喜和」の支店で、大正7年に公園内で開業したと記録されています(建物はその後も「常磐会館」などと名前を変えて利用されました)。



「登喜和園」時代(柱の奥の建物・昭和11年頃)


昭和36年撮影



また同じく来賓の接待などに使われた「茶室・晴雪(せいせつ)」が今も残されています。

場所は、旭川市博物館のある「大雪クリスタルホール(旭川市神楽3条7丁目)」、ホール入口の、向かって左側に移設されていますので、ホールに行った際はぜひ見てください。





余談ですが、かつての常磐公園には、「登喜和園(ときわえん)」のほかに、「花月(かげつ)」の支店と「駒止(こまどめ)」の2つの料亭がありました。


◆道博の遺産その⑤・・・大平和塔も道博の遺産


道博の施設といえば、忘れてはならないのがこちらです。



道博開催時


またまた登場しましたご存じ「大平和塔」です。
これももともとは道博のシンボルタワーとして常盤公園に近いロータリーに設置されました(その後の経緯については、過去の記事参照)。

きょうは、常盤公園の調査の中で見つけた新たな写真をご紹介します。
ちょっと見にくいのですが、ともに旭橋の向こう、市立病院裏に大平和塔が建っているのが確認できます。

(この写真、昭和41年と42年の撮影と記録されていますので、少なくともこの時期まで、大平和塔が撤去されずにいたことが、今回新たにわかりました)



昭和41年撮影


昭和42年撮影



             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」、今回は予定を変えて「道博の遺産編」をお伝えしました。

さまざまな施設が長く残され、市民に親しまれてきた常磐公園、そこには公園に寄せる旭川市民の深い愛着を感じます。

次回はいよいよ最終回、「スポーツ・文化施設編」です。お楽しみに。


(注・白黒の写真はワタクシの写っているもの以外は、
旭川市中央図書館および旭川市博物館の所蔵資料です)。




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アンコール・私の好きな旭川 VOL.12   「勧工場」となつかしのデパート

2015-01-19 19:41:44 | 郷土史エピソード

今回もかつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」です。
今回はその昔、旭川のメインストリートを彩ったお店の話です。
去年4月17日の記事と一部内容が重なるところがありますが、ご勘弁を!
かわりに、というわけではありませんが、最近入手した貴重な絵葉書の画像を追加情報として掲載します。


             ***********


<私の好きな旭川~「勧工場」となつかしのデパート>(2013年9月24日掲載)


まずはこちら。



中央の2つの建物(大正中~末期・旭川市中央図書館蔵)


かつて旭川の師団通(今の平和通買物公園)にあった「勧工場」という施設です。
「勧工場」と書いて「かんこうば」と呼びます。
名前の由来は、明治10(1877)年に東京で開かれた「第1回勧業博覧会」の出品物を販売した施設から来ています。
多くの小売店が集まった市場形式の店舗で、いまでいえば小規模なショッピングモールとでも言えるでしょうか。



馬鉄と勧工場(明治末期・旭川市中央図書館蔵)


この「勧工場」、またたくまに全国に普及しましたが、旭川にも明治30年代に登場しています。
特に昭和の初めまで続いた3条通の2つの「勧工場」、「第一旭館<だいいちあさひかん>=旭勧工場」と「共盛館<きょうせいかん>勧工場」は、2階に寄席や射的場があり、多くの人でにぎわいました。



左手前の2棟が勧工場(大正11年・旭川市中央図書館蔵)


ところで師団通(平和通)の商業施設といえばやはりデパートですよね。
旭川では、「デパートと言えば、丸井、マルカツ」と言われた時代がありましたが、「サカエ屋」、「旭<あさひ>ビル」、「まるせん」といったテナント方式のデパートも忘れることはできません。



サカエ屋デパート(昭和31年・旭川市中央図書館蔵)


このうちサカエ屋は、昭和8年12月、2条通7丁目に開業した4階建てのデパートです。
旭川初のエレベーター、同じく旭川初の地下食堂などで話題を集めましたが、施設が話題を集めたほどには売り上げは振るわず、隣接するマルカツや丸井との競争に敗れて姿を消しました。



旭ビルデパート


同上(「イサミタビ」の看板が印象的)


それより前、大正13年10月に4条通7丁目にオープンしたのが同じく4階建ての旭ビル百貨店です。
昭和3年には呉服店に変わり、こちらもデパートとしては短命に終わりました。



まるせんデパート(旭川市中央図書館蔵)


まるせんは、その旭ビルがあった場所に昭和45年に登場したデパートです。
地元の専門店会が運営し、最上階の8階には結婚式場がありました。
(かつてまるせんデパートだった建物は、現在解体中です。
なじみの建物が一つまたひとつと無くなっていくのは、さびしい限りです)

このほか、デパートではありませんが、駅前の金市館、2条通の長崎屋なども長く市民に親しまれた平和通の大型店です。


             *******


<追加情報・2015年1月>

なお最近入手した古い絵葉書に、勧工場が3棟並んでいる様子が写っていましたので、追加情報としてご紹介します。

それがこちら。





写っているのは師団通の3条通8丁目です。
一番手前の店は、「一の」の屋号で知られる秋野保全堂薬局ですね。
看板には「秋野合名會社」と書いてあります。
シルクハットの男の看板(胃薬の看板?)は、明治43年前後に撮影されたと推測されるこの絵葉書にも登場します。





周りの建物にも大きな変化はなく、撮影時期はほぼ同じと思われます。

(ちなみに秋野薬局は明治5年に札幌で創業した「秋野保全堂薬舗」がルーツで=今も札幌中央区で営業中!、旭川のこの薬局は全道にあった系列店舗の一つです。)

最初に紹介した絵はがきには、薬局の奥に3棟の建物があります。
それぞれ、「上川勧工場」、「勧工場」、「勧工場」と書かれた看板がかかっています。





このうち4条よりの2棟は中央図書館にある明治末期の勧工場の写真と同じ建物ですので、「旭勧工場」と「共盛館勧工場」と思われます。



馬鉄と勧工場(明治末期・旭川市中央図書館蔵・再掲)


「上川勧工場」と書いてある建物にある場所については、昭和に入ってからの地図では「博進堂」という書店があったことになっています。
「勧工場」としては比較的短期間の営業だったのかもしれません。

いずれにしろ「勧工場」が3棟並んだこの風景、当時の人気ぶりを改めて感じることができます。







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アンコール・私の好きな旭川 VOL.11  今も現役!百年前の水道施設

2015-01-10 17:36:33 | 郷土史エピソード


あけましておめでとうございます。
今年も「もっと知りたい!旭川」をよろしくお願いします。
さて2015年の1回目の記事は「アンコール・私の好きな旭川」。
2013年8月に書いたこの記事です。


              ***********


<私の好きな旭川~今も現役!百年前の水道施設>(2011年9月29日掲載)


まずは、こちら。





公園のように見えますが・・・。





何やら地面が盛り上がっているところがありますが、ここに秘密が隠されています。



ここちらの入口を通って・・・。



この扉を開けると・・・。



この通り。


分かりますでしょうか。
下に貯めてあるのは水道水です。



もう少し近づくと・・・。


ということで、ここは旭川市の北、春光台(しゅんこうだい)にある市の水道施設、「春光台配水地(はいすいち)」です。
今も周辺の5600世帯に水を供給しているこの施設、実はかつては旧陸軍第七師団が建設した軍用水道でした。

記録によりますと、この施設、今から100年以上前の1908年(明治41年)、師団内で腸チフスの感染が広がったのをきっかけに建設が決まり、2年後の明治43年から4年をかけて造られました。
沈殿地とろ過池からなる浄水場、および配水地があり、当時は、毎日1万5000トンもの水を、第七師団の各施設に送っていたということです(第七師団の各施設は春光台の下に位置していました)。



軍用水道時代について解説した説明板。


特徴は、ほぼ全体が地下にあることです。
寒冷地のため水の凍結を防ぐ必要があったこと、また軍用施設のため異物などを入れられないようにする必要があったことから、施設を天井で覆ったものと考えられています。





現在は使われていないバルブ室と内部。





もう一つのバルブ室(ここも今は使われていない)。



第七師団が設置した「軍用水道碑」



旭川には、旧軍時代の建物や施設がいくつか保存されていますが、このように作られた時の機能も含めて〝現役〟のものはほとんどありません。
ほとんどが地下構造という特殊な事情が、施設の〝長寿〟を支えていると言えそうです。



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