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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「朝の食卓」2023

2024-01-03 14:04:34 | 郷土史エピソード
「朝の食卓」は、北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊で長年愛されているコラム欄です。
執筆者は、北海道各地で活躍するさまざまな立場の約40名。
ワタクシもその一人です。
執筆者となって2年目の2023年は、郷土史関連を中心に5本のコラムを書きました。
そこで去年に続き、このブログにも、2023年版「朝の食卓」コラムをまとめて掲載いたします。

なお「朝の食卓」は文章だけのコラムですが、このブログでは関連画像を加えています。




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(その1 2023年1月19日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「どちらいか」

「どちらいか」。
今ではほとんど聞かなくなりましたが、旭川や周辺で昔から使われている言葉です
(「どちらへか」という場合もあります。読みは「どちらえか」です)。
何かお礼を言われた時などに「いえいえ、どちらいか」と使います。
「どういたしまして」「こちらこそ」という意味ですね。
もともとは徳島で使われてきた方言だそうです。
徳島は、旭川の基盤となった二つの屯田兵村のうち、永山兵村への移住者が特に多かった土地です。
これが旭川で「どちらいか」が使われるようになった背景のようです。
実は、このことは旭川市の博物館に勤めていた知人から教わりました。
彼は道東の出身で、旭川生まれの先輩職員が電話口で聞き覚えのない言葉を使っているのを聞き、興味を持って調べたのだそうです。
「最初に聞いたときは、一瞬『ロシア語?』と思いました」。
知人が真顔で言うので、私は噴き出してしまいました。
確かに東欧圏の国の言葉にありそうな語感です。
と言っても、この「どちらいか」は、四国にルーツのある言葉です。
ただ、私には北海道にふさわしい言葉と思われます。
厳しい自然環境の中で、お互いに助け合って生きることが不可欠だった先人たちの心意気が伝わってくるからです。
大正生まれの旭川っ子だった亡き母は、よく何かのお礼を言われた時、「いいえ、なんもです。どちらいか」と頭を下げていました。
その姿が今も目に浮かびます。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像01 永山屯田兵村(明治30年代・旭川市中央図書館蔵)




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(その2 2023年3月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ヤマニの兄貴」

「ヤマニの女は人殺し女子 胸を突こうか首切りましょか イッソ! とどめを えェ刺しましょか」。
芝居のせりふではありません。
大正末期から昭和初期にかけて、旭川にあったカフェー「ヤマニ」の新聞広告のコピーです。
この刺激的な文章を考えたのは、オーナー店長だった速田弘です。
通称「ヤマニの兄貴」。
試験放送を始めたばかりのラジオを客集めに利用するなど新機軸を打ち出し、店を旭川一の人気店に育てました。
彼の特徴はマルチな能力です。
新聞広告ではカットも自ら描きました。旭川初の弦楽アンサンブルではチェロも弾きました。
そんな多才さを武器に当時の飲食業界に新風を吹かせた速田。
しかしその後は波乱の人生を過ごします。
まず1933年(昭和8年)。
満を持してレストランとカフェーを併設した新店舗を出しますが、戦時色の強まりにつれ、経営は悪化。
翌年、多額の負債を抱えた速田は自殺を図ります。
一命は取り留めたものの、旭川から姿を消した彼でしたが、戦後は銀座を代表する高級クラブ「シローチェーン」を創業し、大成功を収めます。
「花の東京」を舞台に実業家として鮮やかな復活を果たしたのです。
先日、旭川で開催している歴史講座で速田について紹介したところ、「そんな人が旭川にいたなんて勇気が出ます」と目を輝かして話してくれた方がいました。
地元生まれのこの魅力的な実業家がさらにどんな人生を歩んだのか、引き続き調べるつもりです。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像02 速田弘(1905−?・旭川新聞・昭和9年12月3日)


画像03 カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)


画像04 ヤマニの広告(昭和6年・旭川新聞)


画像05 シローチェーンの広告(昭和29年・日劇ミュージックホールパンフレットに掲載)





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(その3 2023年5月17日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「伝説のママ」

上京のたびに顔を出していた新宿ゴールデン街の小さな店が閉まると聞いたのは、2年前のことです。
店の主は、ゴールデン街の伝説のママと呼ばれていた根室出身の佐々木美智子さん(89)。
コロナ禍で社会が大きく動揺していた時期で、ソーシャルディスタンス(社会的距離)など取りようもない店だけに、やむを得ないと思ったことを覚えています。
その佐々木さんは、伝説のカメラマンでもあった人です。
先日、札幌で開かれた写真展を見に行きました。
会場には、1960年代の日大闘争で全共開の学生に同行して撮影した作品や、原田芳雄さんが主演し、74年に公開された映画「竜馬暗殺」で担当したスチール写真などが並んでいます。
見ていてあることに気付きました。
ほぼ全ての作品に人が写っているのです。
そういえは、今回の写真展のタイトルは「出逢い」。
彼女の生きざまを雄弁に物語っているように感じました。
会場で約3年ぶりにお会いした佐々木さんは、少女のように目を輝かせていました。
聞けば、コロナ禍によってできた時間を利用し、一時期暮らしたブラジルで撮りためた写真を竪理して写真集を出したとか。
表現者としての枯れることのないエネルギーに、大いに刺数を受けました。
写真展は20〜28日に道立函館美術館(22日休み)、6月7〜11日には佐々木さんの故郷、根室市の総合文化会館でも開かれる予定です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像06 佐々木美智子さんの写真展(2023年5月・札幌)


画像07 写真展会場でのトークショーの佐々木さん





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(その4 2023年7月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「賢治来訪と歴史探求」

8月2日は、1923年(大正12年)に宮澤賢治が旭川を訪れてから、ちょうど100年に当たります。
これに合わせて、出版社の未知谷から刊行されたのが、旭川市中央図書館の元館長、松田嗣敏さんの「宮澤賢治✕旭川 心象スケッチ『旭川。』を読む」です。
賢治の旭川訪問は、教え子の就職依頼と前年に病死した妹トシをしのぶ傷心旅行で、樺太に向かう途中の出来事です。
その体験は「旭川。」という28行の詩にされています。
この来訪についての私の知識は、賢治が農事試験場を見学しようと旭川に寄ったものの、郊外に移転していたため、再び汽車に乗って稚内に向かったという単純なものでした。
ところが、この本によると、賢治が旭川に着いたのは朝5時前、稚内行きの列車が出たのが正午前。
滞在時間は7時間もあったのです。
ならば時間的には移転した試験場に行くこともできたのではないか。
松田さんは、当時の時刻表に加え、同時代に書かれた手記などを参考に、移動に使った馬車の推定経路や速度まで割り出しながら可能性を探っていきます(結果はネタバレになるので香きません)。
さらに詩に香かれた一つ一つの事象や言葉も細かく分析し、考察を深めていきます。
それはまるで、探偵による謎解きのようです。
歴史研究では、なかなか実証できない事実がたくさんあります。
その際は明らかになっている事実から、一つ一つ推論を積み上げて実相に迫ります。
そうした歴史探求の醍謝味と面白さを存分に感じさせてくれた著者に感謝です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像08 宮沢賢治(1896−1933・「宮澤賢治全集第2巻(詩 坤巻)(近代日本人の肖像より)」


画像09 松田さんの著書






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(その5 2023年10月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「漫画になった小熊秀雄」

「旭太郎」という名前を知っていますでしょうか。
詩人の小熊秀雄が、かつて住んだ旭川にちなんで付けたペンネームで、漫画の台本を書いた時に使っていました。
この台本のうち、1940年(昭和15年)刊行のSF漫画「火星探検」は、若き日の手塚治虫や小松左京に影響を与えたほどの出来栄えでした。
その傑作の刊行から80年余りたった今年、小熊の生涯を描いた初の漫画作品「漫画 詩人小熊秀雄物語」が刊行されました。
描いたのは旭川在住の漫画家、日野あかねさんです。
きっかけは、私が開いている歴史講座で旭川時代の小龍について詳しく知ったこと。
当時も評判だった小熊のイケメンぶりにも創作意欲が高まったそうです。
漫画は樺太で過ごした少年時代から始まり、新聞記者として活躍した旭川での20代、詩人として名をあげたものの病魔におかされた東京時代へと展開。
短い生涯を駆け抜けた詩人の姿が、史実をベースに、時に思い切り妄想を膨らませて描かれています。
旭川で知り合った妻のつね子や詩人仲間との絆にもスポットが当てられています。
優れた表現者の生きざまは、時代を超えて多くの人に刺激を与え、新たな作品や活動が生まれます。
この漫画で描かれている小熊の歩みもその一つだと感じました。
漫画は電子版(Amazon)で読めるほか、旭川の出版社「あいわプリント」に注文できます。
若い世代にも小熊のことを知ってもらうきっかけになるのでは、と期待しています。
(旭川郷土史ライター&語り部)





画像10 小熊秀雄(1901−1940・「新版小熊秀雄全集」)


画像11 日野さんの漫画の宣伝チラシ





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「朝の食卓」2022

2022-12-23 16:42:34 | 郷土史エピソード



北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊には、長年愛されている「朝の食卓」というコラム欄があります。
北海道各地で活躍するさまざまな立場の方々、約40名が執筆しています。
ワタクシもことし(2022年)から執筆陣の一人に加えていただきました。

コラムでの肩書は「旭川郷土史ライター&語り部」。
その郷土史関連の話を中心に、ことしは10回書かせていただきました。

ただこのコラム、伝えるのは文章だけで、写真など画像はなしです。
初回のコラムにも書いていますが、ワタクシはもともとテレビ畑の出身。
何かを伝えるには、まず画像や動画でと考える癖がついています。
このためどうなるものかと考えていましたが、文章だけで表現するのは普段とは違った感じで新鮮でした。

また新聞のコラムということで、「掲載する時期」を意識した内容のものを書く楽しみもありました。
例えば、3回目はその時期強いショックを受けていたウクライナ侵攻について、4回目はその月が没後20年だった齋藤史さんについて、5回目はその月にオープン50周年だった買物公園について、などです。

ということで、今月は1年の区切り。
今回、このブログにも、2022年に掲載した10回分のコラムを載せることにしました。

なおこのブログでは、一部、関連画像を加えています。
合わせてお楽しみいただけると幸いです。




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(その1 2022年1月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「文章だけで」

すでにリタイアしていますが、長年、テレビの世界で過ごしてきた人間です。
たたき込まれたのは、論より証拠。
ひと目でわかる映像の重要性です。
たとえば、何か社会的な問題があったとします。
記者やディレクターは、こういう弊害がありますと、ただ説くことはしません。
実際に問題が起きている現場にカメラを入れ、その生の実態を映像に記録します。
そうしないと説得力がないからです。
ただ映像には、わかりやすい反面、誤解を与えたり、ときには悪用されたりする欠点もあります。
そうしたことを踏まえても、何かを伝えるにはやはり有効な手段です。
私がふるさと旭川の歴史について、講座やブログ、著作等で情報発信を始めて、もう10年になります。
この活動でも、できる限り映像=写真や動画をお見せしながら話を進めるようにしています。
お伝えするのは、普段なじみのない昔の出来事や人々のこと。
なおさら受講者や読者の皆さんとイメージを共有することが必要だからです。
ただ実を申しますと、「お話」だけで理解してもらえるほど、自分の文章や語りに自信がないという事情もあるのです。
ということで、書かせていただくことになりました「朝の食卓」。
もちろん画像や動画は使えません。
文章だけでどこまで思いを伝えることができるのか、チャレンジのつもりで取り組みたいと思っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)




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(その2 2022年2月10日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「那須の村」

数年前から祖先について調べています。
まだ道半ばですが、いろいろなことが分かりました。
中でも驚いたのが、私が生まれる少し前に亡くなった祖父、那須半蔵についてです。
半蔵は、1873年(明治6年)、和歌山県西牟婁郡長野村(いまの田辺市長野)で生まれ、1904年(明治37年)に旭川に本籍を移しています。
そのことが書かれた戸籍を見ていて、あることに気付きました。
半蔵の2人の妹は同じ村内に嫁いでいますが、ともに嫁ぎ先の性は那須。
母親も同村出身で、旧姓はやはり那須。
さらに戸籍には、記載事項の末尾にその時点の首長の印が押されますが、それも多くが那須なのです。
つまりは、那須だらけです。
調べてみると、旧長野村には、弓の名手として知られる平安末の武将将、那須与一の伝説があることが分かりました。
地区には与一の墓とされる石塔や、子孫が建てたという寺社があります。
明治になって全国民が名字を持つことになった際、地元ゆかりの著名人の性を名乗った人は少なくありませんでした。
この地区でも那須を名乗った人が多かったと思われます。
実はわが家と同じ宗派である与一ゆかりの寺に問い合わせたところ、半蔵の父母(私の曽祖父母です)や兄の位牌が、永代供養のため寺に預けられていることが分かりました。
この位牌に手を合わせるため、熊野古道のお膝元である同地を訪ねたいと思っています。
その際には、いまも地区にいるたくさんの那須さんに会えるかもしれません。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像01 那須与一(「源平合戦図屏風)より)




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(その3 2022年3月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ウクライナ侵攻に思う」

旭川は、戦前、旧陸軍第七師団の本拠地でした。
ですので、その歴史を振り返るとき、戦争との関わりを欠かすことはできません。
その第七師団の将兵が、初めて実際の戦場に立ったのが日露戦争です。    
1904(明治37)年2月に始まった戦争では、多くの死傷者を出しながらも日本軍が優勢を保ちます。
ただ大国ロシアの皇帝ニコライ2世は、戦局の巻き返しに自信を見せ、シベリア鉄道で戦場である南満州(いまの中国東北地方)に大量の兵を送るとともに、自慢のバルチック艦隊を極東に派遣していました。
そんな皇帝の態度を一変させたのが国内事情です。
戦争の長期化に伴う物価の上昇や労働環境の悪化で、民衆の不満が高まったのです。
開戦の翌年1月には、首都サンクトペテルブルグでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。
一気に高まった革命の気運に押されるかのように、ニコライはルーズベルト米大統領の斡旋を受け入れ、日本との講和に同意します。
先月、こうした日露戦争の推移を、旭川との関わりを中心にブログに掲載し始めた直後、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。
主導したプーチン大統領の姿は、権力を一身に集めたかつての皇帝と重なって見えます。
その蛮行を止めるには、日露戦争のときと同じく、ロシア国内での反戦の高まりが必要と多くの識者が指摘しています。
求められているのは、ウクライナの人たちに加え、侵攻に抗議するロシアの人々との連帯です。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像02 日露戦争に出征する第七師団の将兵(1904年・旭川市中央図書館蔵)


画像03 血の日曜日事件(1905・「図説 日露戦争」より)





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(その4 2022年4月28日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「齋藤史と旭川」

現代短歌を代表する歌人、齋藤史(ふみ)は、生前、2度旭川で暮らしました。
1度目は、1915年(大正4年)からの5年間。
父、瀏(りゅう)が、当時旭川にあった陸軍第七師団に異動したのに伴い、小学生時代を過ごしました。
瀏は、職業軍人であり、歌人でもありました。
2度目は、やはり父の旭川勤務に伴う1925年(大正14年)からの2年間です。
このとき、史は高等女学校を卒業して間もない多感な年頃でした。
この2度目の旭川暮らしの際、史は瀏を訪ねてきた歌人、若山牧水と出会います。
牧水は齋藤家に4泊し、感性の鋭さを見せる史に作歌を勧めます。
のちに史は、それが本格的に短歌の道に進むきっかけになったと繰り返し述べています。
一方、1度目の旭川滞在のとき、史の幼馴染に、のちの二・二六事件で決起し、処刑された栗原安秀、坂井直(なおし)の2人がいました。
事件では、彼ら青年将校を支援したとして、瀏も禁固刑を受けます。
きょうだいのように育った友人たちの刑死と父の収監。
事件は、生涯に渡り、史の創作上の大きなテーマとなりました。
「物語を持った最後の歌人」。
史はそう呼ばれています。
二・二六との関わりと牧水との交流、そのどちらにも旭川という土地が絡んでいることに感慨を覚えます。
2002年に93歳で亡くなった史。
4月26日は、それからちょうど20年の節目でした。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像04 齋藤史(1909−2002)


画像05 若山牧水(1885−1928)





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(その5 2022年6月6日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「買物公園50年」

旭川駅前から約1キロに渡って続く平和通買物公園。
今月1日で誕生から50年の節目を迎えました。
買物公園ができた時、私は中学2年生でした。
地元にできた全国初の恒久歩行者天国。
子供ながらも誇らしく思ったのを覚えています。
その買物公園、実は完成の3年前、実際に通りから車を締め出す大規模な社会実験がありました。
夏休みに合わせて行われた12日間の実験では、いつもは1日に1万5千台もの車が行き交う通りに、イスやテーブル、遊具や花壇などが並べられ、大勢の市民が繰り出しました。
日本の歩行者天国は、1970年、東京の4か所の繁華街で始まったことで知られるようになります。
この実験はその前の年の出来事。
歩行者天国に関しては、まさに旭川がトップランナーだったわけです。
ところで買物公園の誕生の背景には、事故の増加や排気ガスによる大気汚染の深刻化など、急速に進んでいたモータリゼーションへの深い懸念がありました。
そこで打ち出されたテーマが「人間性の回復」。
このためかつての買物公園では、愛らしい姿の原始人の家族がイメージキャラクターになっていました。
(旭川郷土史語り部&ライター)



画像06 買物公園の実験(1969年8月・旭川市中央図書館蔵)


像07 イメージキャラクターの原始人のイラスト





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(その6 2022年7月16日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「市制100年」

100年前にあたる1922(大正11)年8月1日、札幌、函館、小樽、旭川、室蘭、釧路の道内6都市は市になりました。
一斉に市になったのには訳があります。
明治政府は、1888(明治21)年に市制を定めた一方、開拓が始まってまもない北海道や沖縄県には適用しませんでした。
代わりに設けられたのが北海道区政です。
この制度のもと、1899(明治32)年に札幌区、函館区、小樽区が誕生し、大正時代に入ると、旭川、室蘭、釧路も区となりました。
その後の法律改正で、本州並みに市が誕生したのが1922年だったというわけです。
各自治体では、祝賀会やちょうちん行列、花電車の運行など祝賀行事が催されました。
区制時代は、区長が区議会議長も務めるなど、市に比べると自治権に制約があり、不満が溜まっていたことがうかがえます。
ただ、私の地元、旭川を見ますと、市制施行の8年前にあった町から区への移行の際の記念行事の方が、盛大でした。
不思議に思って調べますと、町時代の旭川は、先行して区となった札幌などに追いつきたいと、地域をあげて道や国に働きかけていたことが分かりました。
新旭川市史によると、中島遊郭をめぐり、設置を推進した道長官と、反対した旭川町長が対立し、町長が「道庁の横暴」を政党や報道機関に訴えたことで、道との関係が険悪になり、区制施行の要望まで道に拒否された時期もありました。
このような紆余曲折あって、努力が実ったのは、旭川で区制移行の運動を始めてから7年後。
市よりも区の誕生の方の喜びが大きかったのは、そうした事情が影響したものと考えています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像08 区制実施祝賀会当日の旭川区役所(1914年・「旭川区世実施祝賀会記念写真帖)より)


画像09 市政移行を伝える新聞記事(1922年・函館毎日新聞)


画像10 看板をかけ替えた旭川市役所(1922年・北海タイムス)





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(その7 2022年8月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「坂本直寛と旭川」

坂本龍馬のおいの坂本直寛(なおひろ)は、移民団体「北光社(ほっこうしゃ)」を作った北見開拓の先駆者であり、旭川ともゆかりの深い人物です。
直寛は故郷の高知でキリスト教の洗礼を受け、北海道移住後は布教活動に力を注ぎました。旭川には、1902年(明治35年)年に伝道師として赴任、6年余りを過ごしています。
当時、旭川には、米国人宣教師、ピアソン夫妻がいました。直寛は2人が取り組んでいた遊郭の設置反対や、遊郭で働く女性を救う廃娼運動にも協力します。
その直寛が、旭川の別の教会に通う2人の青年の訪問を受けたのは、赴任から3年余り後、すでに牧師となっていた頃のことです。2人の真剣なまなざしに胸を打たれた直寛は、教派を超えた特別な祈祷会を開くことを約束します。
この時の青年の一人は、鉄道員で、名前を長野政雄と言いました。直寛との出会いから3年後、彼は和寒町の塩狩峠で、客車の暴走を身を賭して食い止めます。この殉職は三浦綾子の小説「塩狩峠」で描かれ、多くの人の知るところとなりました。
直寛は坂本家の5代目の当主で、一家で北海道への移住を決断した人物です。このため蝦夷地の開拓に情熱を持っていた叔父、龍馬の夢を受け継いだと言われています。
旭川では、来月、全国各地にある龍馬を慕う団体 「龍馬会」の会員が集う「龍馬 world in 旭川」が開かれます。これを機会に、龍馬の子孫が地域に残した確かな足跡についても知っていただきたいと思っています。(旭川郷土史語り部&ライター)



画像11 坂本直寛(1853−1911・「坂本直寛の生涯」より)


画像12 三浦綾子著「塩狩峠」


画像13 塩狩峠の殉職碑





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(その8 2022年10月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「新旭川市史」 

旭川の宝と言えば何を思い浮かべるでしょうか。
実は私が密かに宝と思っているのが、郷土の歴史を綴った「新旭川市史」です。
「新旭川市史」は、開村100年の記念事業として1988年に編さんが始まりました。
これまでに通史と史料など8巻が刊行されています。
郷土史の情報発信をしている私は、道内各地の市町村史に当たることがよくあります。
その経験から言いますと、質、量ともに横綱級なのは札幌、函館、旭川の各市史。
なかでも「新旭川市史」は詳しいうえに一つ一つの史実の捉え方が深いといつも感心しています。
その旭川の市史、残念なのは、財政悪化等の理由で、2012年度以降、編さんが休止したままになっていることです。
このため道内の他の主要都市ではほぼ終えている戦後編の刊行の目処が立っていません。
ところが先日、うれしいニュースが入ってきました。
「戦後から平成の始まりまでは、残さなければならない責任が私たちの世代にはある」と、市長が編さんを再開する意向を明らかにしたのです。
マチの歴史は、そこで生きた先人たちの活動の集積です。
それを知ることは、地域の今を見つめ直し、将来を考えることにつながります。
市町村史は、いわばまちづくりの礎石のようなものです。
長いブランクによって編集担当者の高齢化が進むなど、再開には多くの課題があります。
ですが、市には、これまでの取り組みをしっかりと受け継ぎ、ぜひ「宝」にふさわしい戦後編を作ってほしいと願っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像14 新旭川市史




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(その9 2022年11月11日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「命根性」 

今年、生誕100年を迎えた三浦綾子さんの自伝小説を読んでいて、久々にある言葉に出会いました。
「命根性が汚い」。
生への執着心が強いという意味ですね。
子供の頃、大人たちがしばしば口にしていました。
「あいつは本当に命根性が汚い」と罵ったり、「私は命根性が汚いから」と卑下したり。
ただ話をよく聞くと、その汚さは、健康のために人より少し多くお金や気を使うといった程度なのです。
それなのに大人たちは、非常な罪であるように断ずるのです。
綾子さんも、子供時代に死について深く考えたことだけを理由に、「自分は命根性の汚い人間だと思う」と書いています。
では、なぜ生に執着することがそんなにも良しとされなかったのか。
背景には「時代」があったのではないでしょうか。
私の親世代が生まれ育ったのは、今よりも人の命が軽かった時代です。
特に自然環境が厳しく、命を守る社会インフラも乏しかった北海道は、その傾向が顕著だったと思います。
「命根性が汚い」と戒める言葉の底には、困難に立ち向かう、時には死をも恐れない気概、覚悟のようなものを持つべきだ、という考えがあるような気がします。
実は、大人たちの言葉で「命根性が汚いのは恥」と意識付けられた私は、命根性が人一倍汚いにもかかわらず若い頃から不摂生を続けました。
その結果、いま多くの生活習慣病を抱えて病院通いをしています。
「口ではああ言ってるが、実はみんな命根性が汚いんだよ」。
あの頃、誰かが耳打ちをしてくれていたら。
そう思わずにいられません。
(旭川郷土史ライター&語り部)




                   **********




(その10 2022年12月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「老いと向き合う」

かつて放送されたNHKのドキュメンタリーに、落語家の故立川談志師匠に密着した秀作があります。
その中に、師匠が畳の上で胎児のように体を丸め、頭を抱え込んでいるシーンがあります。
この時、師匠71歳。老いに伴う心身の衰えに、苦悩の余り悶絶しているのです。
最初に番組を見た時、私は50歳でした。
その時は、なぜそこまで師匠が苦しむのか理解できませんでした。
でも15年経った今は違います。
年をとりできない事が増えてくるのはつらいものです。
それまでの人生が、できない事をできるようにする、何かを獲得する、それと同じ意味だったからです。
それは師匠のような天才でなくとも同じです。
このような人の衰えを、かつて「老人力」と言う言葉で救おうとしたのが、やはり故人の赤瀬川原平氏です。
つまり、物忘れが増えるのも体力や判断力が弱まるのも、すべて「老人力が増したから」というわけです。
私はまだ氏のように老いを笑い飛ばす境地にはなっていません。
むしろ恐れがかなり勝っています。  
実は先日、図書館に行く途中、返す本を忘れたのに気付き、「まあいいや借りるだけでも」とそのまま向かったら、熟知しているはずの休館日だったという出来事がありました。
こうしたことはたまにあって、いつもなら半日は落ち込みます。
ただこの日は「何やってんだオレ」と一瞬は癇癪を起こしましたが、じきに落ち着く事ができました。
「まあこんなこともあるさ」というわけです。
これは果たして良い傾向なのか、否なのか。
考えましたが、結論は出ていません。
(旭川郷土史ライター&語り部)


 

画像15 赤瀬川原平著「老人力」








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小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第十章・第十一章

2022-09-09 09:34:30 | 郷土史エピソード
<はじめに>


「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。
今回はいよいよ最終回、第十章と第十一章です。

この2章は、後日譚を含む物語のエピローグです。
このうち最終十一章の舞台は、石狩川と大雪山を望む景勝地、嵐山(あらしやま)です。
嵐山とその周辺は、アイヌ民族にとっての聖地です。
また旭川という街の成り立ちを考えますと、その開発に向けた構想が立ち上がった、まさに一歩目が刻まれた場所でもあります。
先人たちがそこから望んだ大雪の山々の姿は、百数十年経った今も変わっていません。
最終章は、そんな思いで書きました。

今回、初めて小説に挑戦しました。
脚本のときも登場人物の動きなどを頭の中で描きながら書くのですが、小説では、表情や声のトーンなど、その作業をより細かくする必要がありました(脚本では、そこは役者さんに委ねられます)。
同じく、シーンが展開する場所=建物や部屋の様子などもより詳細に思い浮かべ、言葉に置き換えなければなりません。
なので、書きながら、「役者」としてそれぞれの登場人物を演じ、さらに「演出家(舞台美術や音効も含め)」として、物語の世界を具体化するのが、小説の作業という印象を持ちました(特に、今回は脚本を元にした小説でしたので)。
芝居作りは共同作業の積み重ねですが、小説はすべてを一人で完結させる。
チャレンジしたおかげで、どちらの作業にもそれぞれの魅力があると感じることができました。

それでは今回も最後までお付き合いください。




               **********





第十章 昭和二年九月 カフェー・ヤマニ



 平原のまん中に
 洋燈(らんぷ)のやうに
 輝いている街
 光を増し、光を増し、
 延びに延び、ひろごり、
 高くその燈火(あかり)をかかげて、
 陽(ひ)の御座(みくら)を占める街、
 光栄の町、
 この町に祝福あれ!                       

               (百田宗治「旭川」)




 旭川一の繁華街、四条師団道路にあるカフェー・ヤマニ。いつもなら昼営業でもそれなりに客が来る日曜日だが、きょうは「本日、昼営業は貸し切り」と書かれた紙が表に貼られている。

 店内では、店主の速田と女給たちに加え、義雄、武志、東二が宴会の準備に追われている。カウンターの前には、いつものツーピースを着た文子がいて、ハツヨ、栄治の兄妹と談笑している。奥のテーブルでは、なぜか碁を打っている二人。どうやら北修に市太郎が付き合わされているらしい。そこに武志がやってきた。

「北修さん、碁なんてやってないで、こっち来てくださいよ。もうじき始まるんだから」
「おれ、今回何もやってないしよ。部外者だべ」

 北修が拗ねたようにそう言うと、後ろから義雄も声をかけた。

「何言ってんですか。きょうはハツヨちゃんと栄治さんの就職を祝う会なんですから。北修さんがこっちにこないと、神田館の大将だって」
「……そうか? 大将、行きます?」
「行こうよ。あっちの方が絶対いい」

 やはり早く切り上げたかったようだ。

「んー、じゃ行くか」

 二人がメインテーブルに来ると、飲み物などを運んでいた女給たちが歓声を上げた。

「キャー、神田館の大将と北修さんだー」
「キャー、スケベ―」

 賑やかな声を聞いて、他の出席者もメインテーブルの近くに集まってきた。その一人一人に飲み物が入ったグラスが回される。
 様子を見て口火を切ったのは進行役を勤める速田である。いつもはショーなどを行うミニステージに上がると、こほんと一つ咳払いをした。

「……はい、皆さんご準備はよろしいでしょうか? ……改めまして、本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。きょうは、江上栄治君とハツヨさんの就職がめでたく決まったことを祝しての集いであります」
「もう結構前から働き始めてますけどね」

 武志が茶々を入れると、速田が引き取って続けた。

「そうなんだけど、ま、見習い期間が終わって、正式に採用されたってことなのさ。……では、佐野先生、乾杯のご発声を」

 江上兄妹の隣りにいた文子が、えー、私聞いてないと声を上げる。

「いや、だって二人の就職世話したの、先生じゃないですか」
「それは、そうだけど」
「みんな、のど渇いてるんで、ちゃっちゃとお願いします」

 速田がそう言って促すと、幾分照れながら文子がステージに上がった。手にはジュースのグラスを持っている。

「それではご指名いただきましたので、ひとことだけ。栄治君、ハツヨちゃん、就職おめでとう。いろいろあったけどって言いたいところだけど、きっとこれからも二人の前にはたくさんの壁が立ちふさがると思う。だからちょっとずつでもいいから強くなって。で、その分、ほかのみんなが困った時は、助けてあげて。それだけ。じゃ、みんないい? 二人の前途を祈って」

 文子がグラスを掲げて乾杯と声を上げると、皆が唱和した。
 集いが始まると、さっそく江上兄妹のところに祝福に行くもの、テーブルに置かれたオードブルに手を伸ばすものなどさまざまである。女給からビールをついでもらい上機嫌の北修と市太郎のところに速田がやってきた。

「北修さん。瓶ビールで大丈夫ですか? 生の方が良かったですか?」
「いやいや、昼間っから飲めるだけで十分十分」
「……でも早いですね。あの騒動からもう三か月」

 自分も女給にビールをついでもらいながら速田が振り返る。

「そういや、極粋会と黒色の手打ちはここでやったんだって?」

 グラスのビールを飲み干すと、北修が言った。

「はい、そのとおりです。極粋会から辻川会長が来て、警察署長さんが仲介役で。黒色の方は、小樽から幹部が」
「小樽? なんで?」
「梅原があれ以来いなくなっちまったからですよ。奴さん、東京に戻ったようです」
「片岡は懲役三年だそうだね。その程度だったんだ」

 尋ねたのは市太郎である。

「はい。会長に付き添われて自首しましたし、栄治君も思ったより軽いけがで済みましたしね」
「……それはそうとよ。俺はまだ事情を呑み込めてないんだが、あの晩、東二はなんで事務所に行ったんだ? 関わりたくないって言ってたろ」

 ああそれはと速田が言いかけた時、三人の後ろにいた文子が話し始めた。横には東二もいる。

「それはね。私が頼んだのよ。東二はね、前から私の所に来ていたの。小学校出てからずっと働いてるんで、勉強したいって。ただこの子も、いろんなことに手を出す割には、腰が据わらなくてね。なんか人生相談みたいになってたの。だからまずは困ってる人のために動きなさいって。そしたら手助けしてくれたのよ。ね」

 言われた本人は、しきりに頭をかいている。

「……いや、まあ、そういうことかな」
「なんだ、やるときゃ、やるんだな、お前もよ」

 そう言って東二の脇を肘でつつくと、北修はテーブルの向こうにいた武志と義雄を指差した。

「でもあいつらとおんなじで、腰はすわってないとよ」
「えー、なにそれ。待ってくださいよ」

 武志がそう言うと、東二が下を見てくくっと笑った。

「あ、そういう態度が癇に障るんだよ。お前、俺らよりいっこ下なんだからさ」
「まあ悩み多き若者たちよ。しょっちゅう喧嘩をしている小熊と俺も、友達ちゃあ、友達だしな」
「そういや小熊さん、東京どうなんですかね?」

 速田にビールを勧めながら義雄が尋ねた。

「うーん、旭川を発ったのが、騒動の直後だからなあ。北修さんには便りはないの?」
「来ないことはないが……。ここにいない奴の事、話したって仕方ねえべ。それより主賓の話しようぜ。ねえ神田館の大将」
「そうだよね。わたしも聞きたいのよ。どこで働いているかとかさ」
「あー、私もそろそろと思ってました」

 速田はそう言うと、グラスを置いて再びステージに上がった。あちこちで談笑していた皆が気づいて視線を向ける。

「皆さん、それではここで、主賓である栄治君とハツヨさんからご挨拶をいただきたいと思います」

 え、俺らですかと戸惑う二人を、速田が促す。

「その通り。さ、こっちへ」

 栄治とハツヨの兄妹は、一連の騒動のあと、市内の借家で暮らしている。もちろん母親も一緒である。きょうはハツヨが青い縞のワンピース、栄治がグレーの背広姿。ともに新調したばかりだ。

 拍手に迎えられてステージに上った二人は、どちらから話すか迷ったが、まずハツヨが前に出てお辞儀をした。

「……皆さん、その節は本当にお世話になりました。……お話があったように、私は佐野先生の紹介で、洋服を扱う商社で働いています。まだ何もできませんが、そこで頑張って、いつか皆さんに恩返しができるようになりたいと思っています。なので、これからもよろしくお願いします」

 もう一度お辞儀をすると、大きな拍手が贈られた。

「じゃ。兄さん」

 落ち着いて挨拶したハツヨに比べ、栄治は傍目から見ても分かるほど緊張している。前に出たものの、なかなか話が始まらず、皆、ハラハラしながら見守っている。頑張れと声をかけられて、ようやく言葉が出た。

「……えーと、あの、俺も、あの佐野先生の紹介で、今、造り酒屋で働いてます。……それと、久しぶりに妹と暮らせて、お袋が喜んでるんです。……あの、俺も恩返しできるように頑張って、いつかは杜氏になりたいと思ってます。なので、これからもよろしくお願いします」

 二人が深々とお辞儀するといっそう大きな拍手が湧き上がった。その中にひときわ大きい北修のどら声が響く。

「よし! 二人とも良く言った! ……あれ、大将、泣いちゃってるよ」
「……だってさ。……年取ると、涙もろくなっちゃうんだよ」

 女給のなかにも、もらい泣きをしているものがいる。

「だから、しめっぽいのは止めようぜ。そうだ。お前ら、得意な奴あんだろ。あの歌、ヤマニのテーマ。やってくれよ」

 北修の言葉に、文子がすぐ反応した。

「え、それ私知らない。やってよ、聴きたい」

 女給たちは、顔を見合わせている。

「そうですか? やる?」
「いいじゃない。やろうよ」

 話が決まると、やはりショーの監督である速田が前に出てきて、指示を出す。

「じゃあ、みんなはステージに集まって。レコードはと、武志君、お願い」

 あっという間に準備が整った。

「それでは、ミュージック、スタート!」

 速田がそう告げると、女給たちが、リズム良く体を左右に振りながら歌い始めた。

  そこ行く兄さん いなせな兄さん
  素通りは許さないよ
  きれいな姉ちゃん 待っているよ
  お楽しみはこれからだ
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
  さァ ようこそヤマニへ

 途中からは、その場にいた皆が声を合わせ始めた。中には肩を組んでいる者達もいる。

  2枚目兄さん こちらへどうぞ
  ビールにカクテル ウヰスキー
  素敵なステージ 楽しい会話
  コーヒーいっぱいでもかまわない
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
  さァ ようこそヤマニへ

(原曲 「ベアトリ姉ちゃん」小林愛雄・清水金太郎訳・補作詞 スッペ作曲)


 歌はなかなか終わりそうにない。






第十一章 昭和三年五月 嵐山(あらしやま)


  「銀の滴(しずく)降る降るまはりに、金の滴(しずく)
降る降るまはりに、」と云ふ歌を私は歌ひながら
流(ながれ)に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になってゐて、昔のお金持が
今の貧乏人になってゐる様です。

                         (知里幸恵「アイヌ神謡集」より)




 
 北海道最大の盆地、上川盆地の南西の端は、大小様々な河川が石狩川にまとまり、遥か遠く海へと向かう出口に当たる場所である。

 その石狩川は盆地を出るとすぐ神居古潭(かむいこたん)の急峻な渓谷に差し掛かる。その手前には、北に嵐山丘陵、南に幌内(ほろない)山地の二つの山の連なりがある。川を神社の参道に見立てると、まるで狛犬のような鎮座ぶりだ。

 このうち北側、狛犬で言うと阿(あ)の位置にあるのが、丘陵の名前のもととなった嵐山である。標高は二百五十メートル余り。低山だが、カシワやカツラ、オニグルミやイチイなどの巨木が生い茂る森はうっそうとして深い。

 この盆地に長く暮らす上川アイヌは、この山を「チ・ノミ・シリ」、「我ら・祀(いの)る・山」と呼んできた。
 山は神々と人とをつなぐ聖地であり、それゆえこの地は彼らにとって「送り場」とされた。そこには、神の化身である動物の霊を神の国に送り出したあとの頭骨や、使えなくなった愛用の道具などが納められた。


 このアイヌの聖地を、参謀本部長を務める陸軍中将、小沢武雄(おざわたけお)が訪れたのは、明治二十一年の秋のことである。上川視察のため、札幌を発って石狩川を遡った小沢は、神居古潭の難所を越えると川の北側の山に登り、眼前に広がる景色に目を見張った。

「其の景観、西京(さいきょう)の嵐山(らんざん)に伯仲せり」

 嵐山の命名の由来である。

 小沢が京都の嵐山に比したその山中に、いま五人の若者がいる。先頭はアイヌの少年、東二、続いて栄治とハツヨの兄妹、義雄、少し遅れて武志。東二以外は手頃な太さの木の枝を杖代わりにしている。
 時折、チラチラと後ろを見ながら登っていた東二が足を止めた。

「武志さ、もう少し根性出したら」

「……おい、なんだよその言い方は。お前、俺らよりいっこ下だっていつも言ってんだろ」

 言い返しながら、息が切れかかっている。

「はー、しんどい」
「武志さん。しゃべりながら登ると余計きついわよ」

 ハツヨが吹き出すのをこらえながら言うと、義雄もちょっかいを出す。

「武志は普段から運動しなさすぎなんだよ。俺は頭脳派だとか言っちゃって。……でも東二はやっぱり山に入るといきいきするな」

 手ぬぐいで首のあたりを拭きながら同意したのは栄治である。

「まだ少し雪が残ってるってのに、ほっといたら、駆け上っていきそうな感じだもんな。……でも、やっぱり山は気持ちがいい」
「本当ね。たいへんだけど来てよかった」
「さ、あと少し」

 東二の声を合図に、五人は再び山道を登り始めた。

 この時期の嵐山は岩陰などを除けばほぼ雪も解けている。若葉を付け始めた樹々の間には、カタクリやエゾエンゴサクが咲き始めている。十五分ほど進んだところで、視界の開けた場所に出た。頂上付近では、この辺りが最も見晴らしが良いと東二が説明した。

 見ると、少し霞がかかっているが、眼前にはうねるように流れる石狩川があり、その先に旭川の街が広がっている。そしてさらにその向こうには、残雪をいただいた大雪山連峰の山々がそびえ立っている。

「……すごい。旭川の街が全部見えるのね」
「山が輝いているみたいだ。……そうか、こんなふうに見えるんだ」

 東二に促されて前に出たハツヨと栄治が感嘆の声を上げた。義雄と武志も魅了されている。

 しばらく噛みしめるように景色を眺めていたハツヨが、隣にいた義雄に顔を向けた。

「……義雄さんは、しばらくの見納めね」
「うん、そうだね」
「どうして師範学校やめて東京に行くことにしたの?」

 義雄はうーんと言って、少し考えると顔を上げた。

「……うまく言えないけど、そうするべきだって思ったんだ。向こうに行ってとりあえずは詩や小説を書く。たぶん大学への編入も認めてもらえると思うしね。……旭川は、ふるさとだけど、一度離れることが必要だって。で、武志に言ったら賛成してくれたんだ、なあ」
「うん、自分がそう思うんなら、いんじゃないって。けど俺は行かないよって。前だったら、東京かっこいいな、俺もって言い出したと思うんだけど。……ほら、俺、いっぱい挫折してるからさ。くじけそうな奴、励ましてやれるんじゃないかって。だから、このまま旭川で教師になろうって」
「……ということなんだわ。だからみんな、武志をよろしくね。誰かがネジ巻かないと、こいつ怠けるし」

 そう言って肩に手を置くと、武志が口を尖らせかけた。と、ハツヨがすぐに反応する。

「わかってます。頼まれないでも、怠けてたらお灸すえるから。ね、兄さん」
「うん。ハツヨはね、もともとものすごいおせっかい焼きなんだ。きっと、ちょくちょく様子を見に行くと思うよ」
「えー、ちょっとみんな勘弁してよ」

 そう言いながらも、武志はうれしそうだ。

 その四人のやり取りを、東二は少し離れたところで聞いている。義雄が声をかけた。

「で、東二はどうするの? 最近、顔を見ないって佐野先生が言ってたけど」
「ああ、今、木彫りの仕事でコタンにこもりっきりなんだ」

 家に作業場を設けて本格的に制作に取り組んでいるという。

「ということは、売れてるってことかい?」

 栄治が聞くと、白い歯を見せた。

「うん、まずまず評判がいいんで、仲間にもやり方を教えてるんだ。そしたら作りたいって奴が増えて。で、木彫りでみんなが飯食えるようになればいいなって」

 この熊の木彫りは、のちに北海道を代表する観光土産となり、アイヌの人々の貴重な収入源となる。

「そっか。私と兄さんは仕事があるし。じゃ、みんな進む道は決まったってわけね」

 ハツヨがそう言ったところで、武志が街の方向を指した。

「見ろよ。さっきより晴れてきた」

 目を向けると、先程までの霞は消え、太陽(ひ)の光に照らされて川面がキラキラと光っている。その様子に目を向けながら、義雄が武志に語りかけた。

「……この三年半、いろいろあったよな。美術展の手伝いがきっかけで、北修さんや小熊さん、東二と知り合ってさ。ヤマニにも行くようになって……」
「史さんや佐野先生と会って。アナキストと右翼の騒動に巻き込まれて。ハツヨちゃんと栄治さんにも会って……」
「本当にいろんなことがあって、その全部が混ざり合って……。自分はまだ何者なのかは分からないけど。そういうことがあったから、新しいところに飛び込んでゆく勇気を持てたのかのかもしれないなって……。そう思うんだよな」
「うん、そうかもな」

 その時、静かだった山に、聞き覚えのあるどら声が響いた。

「おお、いたいた、やっと追いついた」

 木立の中から現れたのは北修である。直ぐ後ろに、長身の北修をさらに上回る背丈の白人の少年。その少年はおかっぱ頭の女の子の手を引いている。

「え、北修さん、こんなところにどうしたんすか?」

 武志が目を丸くする。

「お前らが嵐山に行ったって聞いたから、追っかけたんだよ。あー、しんど」
「彼は?」
「あれ、知らないか? 八条通で喫茶店やってるスタルヒンの一人息子さ。俺、この子に絵教えてやってるのよ」

 紹介された青い瞳の少年は、小学校の制服を着ている。ただ丈はかなり短い。

「ヴィクトルです。十一歳です。日章小学校に通ってます」
「え、小学生! そんなに大きいのに?」

 ハツヨが口に手を当てた。

「はい。よくみんなに言われます」

 武志は少年の周りをぐるぐると回っている。

「すげえな。絵習ってるって言ってたけど、運動は?」
「はい、野球の投手やってます」

 と、横にいた少女が武志に向かって言った。

「あのね、おにいちゃん。あんまり人をジロジロ見るのは失礼なんだよ」
「あー、ごめんごめん。あんまりいい体なんでつい」

 武志は頭をかくと、尋ねた。

「この子は?」
「ああ、この子はな、綾子っていうんだ。嵐山に行くって言ったら、親から連れてってやってくれって言われてさ。ヴィクトルと交代でそこまでおんぶしてきたのよ」

 ハツヨは意志の強そうな面差しのその子を、ひと目見て気に入ったようだ。

「お嬢ちゃん、綾子ちゃんて言うの?」
「うん、綾子。堀田綾子」
「いくつ?」
「五歳」

 栄治もハツヨの隣にしゃがみこむ。

「綾子ちゃん、何をするのが好きなの?」
「ご本を読むことです」
「そうか。まだ小さいのにご本か。人にちゃんと意見するし、偉いね」

 少女がはにかみながらありがとうと言った時、北修がふところから一通の封書を出し、義雄に渡した。

「……おっと、これ、忘れるところだった。小熊から。お前に」
「え、小熊さん? 何ですか?」
「義雄が東京に出るって話聞いたみたいで、送って来たのさ。はなむけの詩だってよ。あいかわらず、やることが気障だな、あの菊頭はよ」
「ありがとうごいます。……ここで読んでもいいですか?」
「ああ、お前宛てなんだから、好きにしな」

 義雄が封を開けて読み始めると、武志ら四人が集まってきた。


             ***


 封書の中には、東京で待っている云々、と短く書かれた便箋が一枚と、原稿用紙三枚に渡って書かれた詩が入っていた。


  新しいものよ、
  あらゆる新しいものよ、
  正義のために生れた
  さまざまな形式を
  わたしは無条件に愛す、
  然も、君が青年としての
  情熱をもつて
  ふりまはす感情の武器であれば
  それが如何なるもので
  あらうとも私はそれを愛し、信頼す。
  私はおどろかない、
  君の顔に
  よし狡獪(こうかい)な表情が現れようとも
  私は悲しまない、
  君の行動に
  臆病さがあらうとも
  若し、それが君を守るものであるならば、
  ましてや君の若い厳粛さと
  青年の勇気は
  なんと新しい時代の
  蠱惑(こわく)的な美しさをもつて
  相手に肉迫してゐることだらう
  青年よ、
  我々は環視の只中にある、
  あらゆるものに見守られてゐる。
  熱心に祈りの叫びをあげなが
  ら現実のつらさに
  眼を掩(おお)つてゐる君の老いたる
              父や母にもー、
  吐息を立てゝゐる兄や妹にもー、
  これらの身近なものは君を守る
  だがとほくのものは
  ただおどおどとしてゐる許りだ。
  信じたらよい、
  君は夢の中の物語りをもー。
  君のみる夢のなんと喜びに
  みちた感動の彩りをもつものよ、
  我々は知ってゐる
  青年は青年の夢が
  どのやうな性質の
  ものであるかといふことを、
  ふるへよ、
  君の肉体を、
  護れ、
  君の感情を
  そして君は入つてゆけ
  もつとも旋律的な場所へ、
  老いたるものにとつては
  苦痛の世界であるが、
  我々青年にとつては
  感動の世界で、ある処へ。

     (小熊秀雄「青年の美しさ」)



 その詩は、長く義雄たちの宝物となった。 


                
           ***




(夢の続き、あるいはその後の物語・実在の人物その二) 



ヴィクトル・スタルヒン……

旭川中学に進み、野球部のエースとして活躍したが、昭和8年、父親が殺人事件を起こしたことが原因となり、中退して日米野球のため結成された職業野球団に加わる。その後、黎明期のプロ野球で活躍し、日本初の300勝投手となる。昭和32年、自動車事故を起こして死亡。まだ40歳の若さだった。


堀田綾子(三浦綾子)……

大成(たいせい)小学校から市立高等女学校に進み、小学校教員となる。戦後は、結核で長期療養を強いられる。同じクリスチャンの三浦光世(みうらみつよ)と結婚した綾子は、昭和39年、故郷旭川を舞台にした小説「氷点」が懸賞小説公募に入選、ベストセラー作家となる。その後も、平成11年に77歳で亡くなるまで、数々の名作を発表し続けた。


町井八郎……

昭和4年、北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫(たけうちたけお)とともに発案した第1回慰霊音楽大行進を実現させる。これを契機に旭川吹奏楽連盟を創設し、理事長に就任する。こうした活動から「旭川音楽界の父」と称された。昭和51年、76歳で死去。


田上義也……

札幌を拠点に活動を続け、独自の美意識に基づく多彩な住宅、店舗、公共施設を道内各地で設計した。音楽分野では、バイオリニストとして、ピアノとチェロとのアンサンブル、北光(ほっこう)トリオで活動したほか、昭和12年には札幌新交響楽団を創設し、初代指揮者を務めた。平成3年、92歳で没した。


竹内武雄……

昭和4年、町井八郎(まちいはちろう)とともに第1回慰霊音楽大行進の実現に尽力する。昭和7年から旭川市選出の道議会議員を1期務めたあと、富良野市に転出。富良野時代には、長年、国鉄富良野駅で自ら考案したまんじゅうの立ち売りを行い、「元道議さんのまんじゅう売り」として人気を集めた。


加藤顕清……

精力的に創作を続け、帝展や日展などに作品を発表する。戦後は日本彫塑会会長に就任するなど、日本の彫刻界を代表する存在となる。生涯に渡って北海道、旭川とのつながりは深く、昭和初期には熊の木彫りを学ぶアイヌの若者の指導に当たった。昭和41年、71歳で死去。


鈴木政輝……

9年間に及ぶ東京生活を打ち切って帰郷した政輝は、昭和9年に旭川で詩誌「國詩評林(こくしひょうりん)」を創刊する。さらに2年後には北海道詩人協会を旭川で発会させ、中心メンバーとなる。その後は、文芸に加え、父母から受け継いだ茶華道の教授としても活躍した。昭和57年没、77歳だった。


今野大力……

東京では、プロレタリア文学運動に加わるとともに、左翼系文芸誌の編集に携わる。昭和7年、当局により検挙され、激しい拷問を受けて半年余りの療養を余儀なくされる。作家、壺井栄(つぼいさかえ)や宮本百合子(みやもとゆりこ)らの支援で回復したものの、再び結核のため病床につき、昭和10年に死去した。31歳だった。


小池栄寿……

長く教師を務めながら詩作を続ける。昭和38年、小熊秀雄らと交流した大正末から昭和初期にかけての日々を綴った手記「小熊秀雄との交友日記」を発表する。同手記は、郷土史の貴重な史料となっている。晩年は千葉県に住んだ。平成15年、97歳で死去。


酒井廣治……

歌人として活動のほか、北海道詩人協会の創設に参加するなど、幅広く旭川の文化活動の振興に努める。その一方で、昭和16年に旭川信用組合組合長、昭和26年に初代旭川信用金庫理事長に就任するなど、経済人としても地域を牽引した。昭和31年、61歳で死去。


佐藤市太郎……

経営した活動写真館は、最盛期の大正末には全道で10館以上を数える。しかしその後は押し寄せた不況の波や、相次ぐ経営館の火事が影響して事業は縮小を余儀なくされる。その一方、さまざまな社会事業に関わり、昭和17年の死去の直前まで市議会議員を務めるなど、地域の名士であり続けた。


佐野文子……

戦前は、廃娼運動に加え、苦学生への援助などの社会貢献を続ける。また国防婦人会旭川支部長としての精力的な活動により、軍の要請を受けて上京、東条首相の私邸で家庭教師を務める。戦後も、戦災孤児の救済などさまざまな社会活動に奉仕した。昭和53年、84歳で死去。


速田弘……

昭和8年、ヤマニの近くに、新機軸の店舗、パリジャンクラブを開店するが、戦時色が強まる中で経営は悪化。借金の返済に行き詰って自殺を企てる。一命を取り留めた速田は、旭川から姿を消すが、戦後、東京銀座で高級クラブの嚆矢「シローチェーン」を成功させ、実業家として華々しい復活を果たす。


高橋北修……

昭和6年、旭川の画家として初めて帝展に入選する。以来一貫して故郷で活動を続け、地元画壇を牽引した。大雪山を描いた油絵を数多く描き、「大雪山の北修」と呼ばれる。昭和37年、脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残ったが、左手に絵筆を持ちかえて創作を続けた。昭和53年、79歳で死去。


小熊秀雄……

上京後の小熊は、虐げられた人々への共感を表す長編詩などを精力的に発表する。昭和10年には、2冊の詩集を相次いで出版、詩人としての地位を確立する。しかし、プロレタリア文学運動に接近していた小熊は、戦時体制の強化に伴って次第に発表の場を失い、生活は困窮を極める。昭和15年、肺結核により39歳で死去した。




(夢の続き、あるいはその後の物語・架空の人物) 



片岡愛次郎……

模範囚であったため2年後に仮出所するも、生きる目標を失い、無益な日々を過ごす。そうしたなか、看護助手の女性と知り合い結婚。妻は片岡の内面を愛情で潤し、彼は劇的に生きる希望を蘇らせる。結婚後に勤めた老人福祉施設では、入居者や家族を献身的に支えた。昭和56年、80歳で死去。


梅原竜也……

常盤橋での乱闘事件により、特高警察に居所が知られた事から、旭川を脱出し、東京経由で関西方面に身を隠す。2年後、大阪に潜伏中、アジトを特高に急襲される。追い詰められた梅原は、アジト裏の川に飛び込んで逃亡を図るが、溺れて死亡。28年の生涯だった。


松井東二……

旭川のアイヌの間で盛んになった熊の木彫りは、その後の民族自立運動の資金源ともなった。戦後は、後進の指導に当たる一方、アートとしての木彫作品の制作にも幅を広げ、各地の公共モニュメントの作成にも携わった。昭和55年、70年の生涯を閉じた。


江上栄治……

造り酒屋で修業を積み将来を嘱望されたが、昭和13年、召集を受けて陸軍第七師団に入営する。翌年、勃発したノモンハン事件で現地に出動。ソビエト軍との交戦中、戦車による砲弾の直撃を受け死亡した。29歳の若さだった。


江上ハツヨ……

繊維商社で働いた後、独立し、旭川市内で洋品店を始める。戦時中は物資不足から苦しい経営を強いられるが、戦後、生活雑貨を扱う会社を立ち上げて成功。旭川を代表する女性経営者となる。一方、戦災孤児の兄妹を養子、養女とし、経営者からの引退後は彼らが事業を受け継いだ。平成6年、84歳で他界。


塚本武志……

師範学校卒業後、教師となり、旭川市内の小学校に勤める。多くの子供から慕われた武志は、25歳の時に同僚教師と結婚、しかしまもなく結核を発症し、入院生活に入る。手術を受けて、一時、職場復帰を果たしたが、再び病状が悪化。昭和15年に死去。31歳だった。


渡部義雄……

編入した大学を卒業後、東京の新聞社に勤め、戦時中は従軍記者も経験する。終戦後は軍国主義の強化に加担したとの思いから新聞社を退社。旭川に戻って市役所に勤めながら、詩や短歌、小説などの創作活動を続ける。昭和39年、旭川市立図書館長に就任。平成13年、91歳で死去した。




(終わり)





<注釈・第十章>


* 百田宗治・ももたそうじ
・ 「どこかで春が」などの同様で知られる大阪市出身の詩人、児童文学者。北海道への疎開経験がある他、一時、旭川の隣の愛別町安足間(あんたろま)に移住を決意するなど北海道と縁が深い。

* 旭川を発ったのが、騒動の直後
・ 実際の小熊の上京は、1928(昭和3)年6月のこと。




<注釈・第十一章>


* 嵐山
・ 旭川中心部から西に約5キロの景勝地。旭川八景の一つ。昭和40年には風致公園として整備され、野草園や遊歩道などがある。展望台からは夜景も楽しめる。

* 知里幸恵・ちりゆきえ
・ 登別生まれで、旭川に移り住んだ。1918(大正7)年、アイヌ語研究のために訪れた金田一京助(きんだいちきょうすけ)と出会い、民族に伝わる叙事詩、カムイユカラの日本語訳を始める。上京後、のちに「アイヌ神謡集」となる原稿を書き上げるが、持病の心臓病の悪化により19歳の若さで急逝した。


知里幸恵

* 「アイヌ神謡集」
・知里幸恵がまとめ、死の翌年発刊された。アイヌ語の原文(原音)をローマ字で表記、日本語訳をつけており、文字のないアイヌ語による文学をアイヌ民族自身が初めて紹介した画期的な業績と評価されている。

* 小沢武雄・おざわたけお
・ 元小倉藩藩士。明治になって陸軍に入り、1885(明治18)年、中将となる。陸軍士官学校長、参謀本部長などを歴任した。

* スタルヒン(ヴィクトル)
・ 帝政時代のロシアに生まれ、ロシア革命により国を追われ、両親とともに日本に亡命した白系ロシア人。旭川に来たのは1925(大正14)年、9歳のときだった。


ヴィクトル・スタルヒン

* 8条通で喫茶店
・ スタルヒン一家が8条通8丁目で経営していた喫茶「白(しろ)ロシア」のこと。この店について、新旭川市史は「1929(昭和4)年頃の開業であろう」としている。このため、実際にはこの時期には存在していない可能性が高い。


白ロシアの店内(昭和4年)

* 「この子に絵教えてやってるのよ」
・ 実際に北修は旭川時代のスタルヒンに絵を教えていた。スタルヒンが絵描きになりたいと言い出したときは、野球をやったほうが良いと諭したという。

* 日章(にっしょう)小学校
・ 1893(明治26)年、忠別小学校として開校した旭川で初の公立学校。漢字1字の学級名を伝統としていることでも知られる。


日章小学校(昭和2年)

* 堀田綾子・ほったあやこ
・ 堀田は、小説「氷点」で知られる旭川生まれの作家、三浦綾子の旧姓。

* (旧制)旭川中学
・ 現在の北海道立旭川東高等学校の前身。1903(明治36)年、北海道庁立上川中学校として創立。1915(大正4)年に旭川中学校と改称した。


旭川中学(昭和3年)

* 大成(たいせい)小学校
・ 1900(明治33)年に開校した旭川市中心部にあった小学校。

* (旭川)市立高等女学校
・ 1915(大正4)年の創設。名称は数回変更されているが、1951(昭和26)年に閉校した。


市立高等女学校(昭和8年)

* 三浦光世・みうらみつよ
・ 長く闘病生活を送った妻、綾子の作家活動を、口述筆記など献身的な姿勢で支えた。

* 「氷点」
・ 三浦綾子の出世作。1963(昭和38)年に朝日新聞社が公募した1000万円懸賞小説の入選作。新聞連載後に刊行され、ベストセラーとなった。映画のほか、数度に渡りテレビドラマ化されている。

* 旭川吹奏楽連盟
・ 町井八郎、竹内武雄らの尽力により、1929(昭和4)年6月、第1回慰霊音楽大行進が行われたのを契機に、同年発足した。全日本吹奏楽連盟の創設はその9年後であり、旭川の先駆性がわかる。

* 音楽大行進
・ 1929(昭和4)年に始まった音楽の街、旭川を代表するイベント。吹奏楽、マーチングバンドなど約4000人が参加し、全国屈指の規模を誇る。


第1回慰霊音楽大行進

* 北光(ほっこう)トリオ
・ 音楽家としても活躍した北海道建築の父、田上義也(たのうえよしや)が、大正から昭和にかけて参加していたバイオリン(田上)、チェロ、ピアノのアンサンブル。道内各地で演奏会を開き、旭川でも度々演奏している。

* 札幌新交響楽団
・ 戦前に、田上義也が中心となって設立したオーケストラ。

* 帝展(文展・日展)
・ 現在の日展(日本美術展覧会)につながる帝国美術院展主催の公募展。1907(明治40)年に始まった文展(文部省美術展覧会)のあとを受け、1919(大正8)年から毎年開かれた。

* 「國詩評林(こくしひょうりん)」
・ 故郷、旭川に戻った鈴木政輝が、1934(昭和9)年に創刊した詩誌。政輝が考案した「七行定形詩」という独自のスタイルの実験の場ともなった。

* 北海道詩人協会
・ かつての旭川は、北海道を代表する詩の街であった。1936(昭和11)年設立の北海道詩人協会は地元詩人を中心に旭川で発足している。協会は「北海道文学」と題した機関紙も発行していた。


北海道詩人協会総会(昭和11年)

* 壺井栄・つぼいさかえ
・ 香川県出身の小説家。夫はプロレタリア詩人の壺井繁治(つぼいしげじ)。代表作「二十四の瞳」は映画化され、ヒットした。

* 宮本百合子・みやもとゆりこ
・ 東京生まれの小説家、評論家。1932(昭和7)年、のちに日本共産党中央委員会幹部会委員長、議長となる宮本顕治(みやもとけんじ)と結婚。戦時中は執筆禁止や投獄などの弾圧を受けた。

* 「小熊秀雄との交友日記」
・ 大正末〜昭和初期の自身の日記を元に発表された手記。連日のように互いの家やカフェーなどに集まって芸術談義を繰り広げる当時の旭川の若き文化人の様子が詳述されている。

* 旭川信用金庫(旭川信用組合)
・ 凶作の影響により疲弊した地元商工業者の苦境打開を目的に、1914(大正3)年に発足した旭川信用組合が前身。1951(昭和26)年に信用金庫となった。


旭川信用組合(昭和2年)

* 国防婦人会
・ 正式には大日本国防婦人会。1932(昭和7)年に全国組織が発足し、出征兵士の慰問や家族の支援などを行った。白の割烹着にタスキ姿が会服。

* 東条首相
・ 太平洋戦争開戦時の首相の東条英機(とうじょうひでき)のこと。陸軍大将でもあり、当時は内相と陸相を兼ねた。

* パリジャンクラブ
・ カフェー・ヤマニの速田弘が4条通7丁目に開店した店舗。カフェー、レストラン、喫茶を合わせたような独自のコンセプトで、名建築家、田上義也による斬新なデザインが特徴だった。


パリジャンクラブ

* 特高警察
・ 特別高等警察の略。社会運動や思想活動の取締を目的に、戦前の警察組織に設けられた。

* ノモンハン事件
・ 1939(昭和14)年、旧満州とモンゴルの国境地帯で起きた日本軍とソ連軍との軍事衝突。機械化されたソ連軍の攻撃に、日本軍は大敗した。当時、満州派遣中だった旭川第七師団でも多くの死傷者が出た。

* 従軍記者
・ 軍隊について戦場に行き、戦況を報道する新聞社や放送局、雑誌などの記者のこと。





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小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第八章・第九章

2022-09-07 11:30:00 | 郷土史エピソード
<はじめに>


「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。
今回はいよいよ5回目、第八章と第九章です。

この2章は、6月の招魂祭(しょうこんさい)の日の出来事です。
招魂祭は、旭川にある北海道護国神社のお祭り。戦争で亡くなった北海道出身者のための慰霊大祭で、かつては北海道各地から大勢の遺族が集まり、街は賑わいを見せました。
その招魂祭の夜、物語は大きく展開します。

それでは今回も最後までお付き合いください。




               **********





第8章 数日後 カフェー・ヤマニ


 
 日を追って何かが煮えつまってゆくような重い予感がわたくしにも濃くなってゆきました。しかし、どんな形で、いつあらわれるのかは、全くわかりません。あたりはかえって前よりもしずかな感じさえあるのです。

           (齋藤史 「おやじとわたしー二・二六事件余談」より)




 ハツヨと栄治の兄妹(きょうだい)と、義雄、武志らが出会って数日が経った。四条師団道路のカフェー・ヤマニでは、昼の営業が始まったばかりの時間で、客はいない。昼番の女給たちは、この日もまた手持ち無沙汰である。

「先生、やっぱりこれ……」

 テーブルに置かれた朝刊を見ながら武志が言うと、義雄が続けた。

「まずいっすよねえ」

 声をかけられた社会活動家の佐野文子がうなずく。

「そうよねえ」

 三人は息を合わせたように一斉に腕組みをすると、しばし黙り込む。
 そこへ店主の速田が事務所に続くドアを開けて姿を見せた。中で事務作業をしていたらしい。

「……どうしたんですか、こんな時間から顔を突き合わせて」
「ああ大将、これ見てくださいよ」

 武志は速田を招くと、テーブルに広げた新聞を指差した。速田が体を折るようにして目をやる。

「えーと……」

 記事は社会面の上段。「違法な労働を強要されし十六歳の酌婦、語った赤裸々な実態」という見出しだ。

「これって……」

 すると義雄が記事の少し下を指差した。

「それに、ここ」

 段が変わったところに関連記事がある。「訴えを受けし黒色青年同盟旭川支部、近く同店舗を当局に告発」との小見出し。

「なんだよ、これ」
「でしょ?」
「これって、あの娘(こ)、ハツヨちゃんが、黒色青年同盟のところに匿われてるって言ってるようなもんじゃない」
「で、まずいと思って、先生にも来てもらったんです」

 文子は腕組みを解いて、両手をテーブルについた。

「私もね、あれからもやもやしてたのよ。こんなことになるならハツヨちゃんを渡さなければよかったって、つくづく思わされるわ」

 何々さる、というのは、北海道でよく使われる言い回しである。このハサミよく切らさる、などと使う。文子は道産子ではないが、旭川に住んでもう十年になる。時折だが、このように北海道弁が口に出る。

「うーん、そうですよね。……あ、で、北修さんは? 北修さんもハツヨちゃんのことは承知なんだから、知らせた方がよくない?」

 新聞から顔を上げた速田が促すと、義雄が頭をかいた。

「それがまだ腰痛くて動けないんですって。だから、あとは任せたって」

 数日前にぎっくり腰をやった時の苦悶の表情が速田の頭に蘇る。だが武志は容赦がない。

「つくづく使えない親父。ちょっとの間でも弟子になったのが恥ずかしいわ」
「まあまあ二人とも。体のことなんだから仕方ないじゃない。……で、先生、これからどうします?」
「うーん、それなんだよね……」

 速田に問われた文子が再び腕組みをすると、ガランガランと鐘が鳴り、入り口の辺りが騒がしくなった。女給たちが大きな声を上げている。
 三人が顔を向けると、ドアの前で男が崩れるようにして膝をつくのが見えた。ハツヨの兄の栄治である。あわてて義雄と武志が駆け寄る。

「武志、手貸して」

 二人は、栄治を抱えるようにして近くの椅子に座わらせた。その頬は赤く腫れ、一部が切れて血が滲んでいる。

「殴られてるみたい。誰か、外にいるのかも」

 武志がそうつぶやくと、女給の一人が様子見てきますと言って駆け出した。速田が、え、大丈夫と声をかけるが、そのまま飛び出してゆく。

「……栄治さん。話せます?」

 椅子のところでは、義雄が栄治の顔を覗き込んでいる。

「……俺は大丈夫。でもハツヨが連れてかれて」
「え? ハツヨちゃんが?」
「同盟の人が一人付いていてくれたんだけど、何にもできずに殴られて……」

 そう言うと、頭を抱えて蹲(うずくま)った。

「俺のせいだ。やっぱり早くどっか遠くに行かせていれば」
「ちょっと、あんた。頭抱えてる場合じゃないよ。ちゃんと話してごらん」

 文子の言葉に、栄治は二〜三度頭を振って顔を上げた。

  栄治によると、兄妹はヤマニを出た後、梅原が手配した市内の空き部屋にいたという。そこは黒色青年同盟の支持者が持つ倉庫の二階で、ヤマニからは通り二つ離れた問屋街の一角にあった。
 二人は外に出ず、食料などは付き添った同盟の活動員が運んでいた。この日も遅い朝食を取って部屋にいたところ、十時頃になって、突然、男たちが乱入、栄治らに暴行したうえハツヨを連れ去ったという。

「え、でもなんでそこにいたのがバレちゃったの? 」

 速田がそう言うと、栄治は悔しそうに顔を歪めた。

「同盟の人が言ってました。情報がもれたらしいって」
「何よそれ、しょーもない」

 とたんに武志が憤る。義雄はテーブルの新聞を持ってきた。

「この新聞のことも、栄治さんご存じなんですか? 」

 記事をちらりと見るとうなずいた。

「……支部長には言ったんです。そんな記事が出たら、ハツヨが危なくなるって。でもハツヨのことを世の中に伝えて、それで不正を正すんだって。……俺はそれも大事だけどって言ったんだけど……」

 栄治は唇をかみしめている。その時、様子を見に行っていた女給が息を切らせて戻ってきた。外には怪しい男たちはいなかったが、近所の商店主の話だと、少し前に近くの店のガラスが割られたという。襲われたのは極粋会の幹部が経営する店、襲撃したのは黒色青年同盟のメンバーである。

「それって、ハツヨちゃんを連れていかれた仕返しですかね?」

 義雄の問いに栄治がうなずいた。

「だと思います。支部の人がこのままじゃ引き下がれないって言ってましたから」
「でさ、極粋会も人を集めてるって言ってた」
「今日は招魂祭(しょうこんさい)のお祭りなのにぃ」

 女給の一人がそう声を上げた時、入り口から男が姿を見せた。黒色青年同盟の梅原である。髪が少し乱れ、目が血走っている。

「祭りの夜に騒ぎを起こすのは、不本意なんだが、身にふる火の粉ははらわないといけないのでね」

 押し殺した声でそう言うと、椅子に座る栄治のところにまっすぐに歩いてくる。

「……栄治君、すぐ事務所に戻れと部下が伝えたはずだが。勝手な行動は困るんだ」

 そこに割って入ったのは、文子である。

「あんたさ、栄治君に文句言う前に、言わなきゃならないことがあるんじゃないの?」
「……それはハツヨさんのことですよね。どうもスパイがいたようなんです。だが、大丈夫です。こちらも彼女の居所はつかみました。ハツヨさんは、奴らの本部事務所に監禁されています」
「え、監禁!」

 声を上げた女給があわてて口を押さえるが、梅原は意に介さない。

「それに極粋会は我々の事務所のある常盤橋(ときわばし)の近くに集結していて、今夜にも襲撃してくるつもりのようです。先程、少し脅しておきましたが、我々は奴らを返り討ちにして、そのあとハツヨさんを救出します」

 文子の梅原に対する不信は、すでに頂点に達している。

「あんたねえ、簡単に言うけど……」

「我々は、幾多の修羅場をくぐっていますからね。どうかご安心を。ということで、栄治君、君も準備を」

 そこで梅原は、はじめて栄治の頬の傷に気がついたようだ。

「……ん? 怪我でもしましたか?」

 文子と梅原のやり取りの間に、栄治は椅子から立ち上がっている。

「……いや、怪我はたいしたことないが、俺は行かない」
「……どういうことです?」

 その目からは、おどおどとしていた光が消えている。

「……俺は、もうあんたにはついていかない。あんたは俺らのことを分かってくれる人だと思ってたけど、間違ってた」
「……なぜ? 不正を正したいと、君も言ってたじゃないか。今夜は、あの犬どもを蹴散らして、我々の正しさをアッピールする絶好の機会なんだ。君にはそれが分からないのか?」

 梅原の声が大きくなるが、栄治の目は真っ直ぐに梅原に注がれている。

「帰ってくれ。俺はもうそれがどれほど正しかろうと、あんたの言葉では動かない」

 梅原は顔を真赤にしてしばらく栄治を睨みつけていたが、やがて顔を背け、吐き捨てた。

「……社会正義の意義を認めん愚か者とは、一緒に行動はできんな。君とは決別する」

 低い声でそう告げると、梅原は一堂を見渡し、大股で外に出ていった。 



 それを見届けると、緊張の糸が緩んだのか、栄治が椅子に座りこんだ。その肩に武志が手を置く。

「……俺も優柔不断なんだけどさ、あいつと離れるのは、間違ってないと思うよ」
「……でも、奴を信じたせいで」

 武志の手の下で肩が震え始めた。

「栄治君。めそめそしている時じゃないよ。いま大事なのはとにかくハツヨちゃんを救うこと。みんなも、それはわかるわよね」

 文子が皆を見渡しながらそう言うと、栄治が涙を拭った。その横では、速田が身を乗り出している。

「というと、先生、なんか策がありそうですね」
「うーん、まだ策と言えるものではないんだけど。……極粋会と黒色青年同盟が、いま常盤橋のところで睨み合っているのよね。夜、本格的にぶつかれば、極粋会の事務所は手薄になるはず。その隙をつけばってとこね」
「なるほど。で、どう動きます?」

 義雄と武志も、近くに寄ってきた。

「具体的にハツヨちゃんを救い出すのはあなたたち若い三人として、あとはどう時間を確保するかってとこなのよ」

 皆が頭を捻り始めてまもなく、文子が腿のあたりをポンと打った。

「……そうだ! 大将に協力してもらいましょう」
「え? 私?」

 戸惑う速田ににっこりと笑いかけると文子が言った。

「いえ、力を貸してもらうのは、もう一人の大将よ!」







第9章 その夜 旭川極粋会事務所



 俺は疲れて帽子を釘に掛ける。
 汗臭い襯衣(しゃっつ)を脱いで顔を洗ふ。
 瓦斯に火をつけて珈琲を沸かす。
 俺は独りだ晩飯の支度をする。
 馬鈴薯と玉葱をヂャツク・ナイフで切り刻む。
 俺はこのナイフで靴の泥を落した。
 俺はこのナイフで波止場の綱(ろっぷ)を断(き)った。                     

                          (鈴木政輝「あぱあと」)




 三階建てのその建物は、カフェーや居酒屋、料亭などが集まる三条通六丁目の一角にあった。もともとは、土木請負業で財を成し、料亭や劇場の経営にも乗り出した元博徒の実業家、辻川泰吉(やすきち)の会社の一つ、辻川興行の社屋だった物件である。だが四年前、系列会社の新たな本拠地となるビルが完成し、辻川興行もそこに移った。このため今は十ほどある部屋は貸し出され、不動産業者の事務所や商店の仮倉庫などに使われている。

 その中で、国粋主義団体、旭川極粋(きょくすい)会の事務所は、建物の最上階にあった。会の発足に合わせ、会長となった辻川が場所を提供したのである。現在、この建物で借り手のある部屋は半分ほど。最も多く階段を上り下りしなければならない三階には極粋会事務所しか入っていない。

 その事務所の隣にある空き部屋では、つい先程着いたばかりの四人の影があった。義雄、武志、栄治ともう一人。濃い緑の長着に羽織姿の初老の男。活動写真館、神田館の大将こと、佐藤市太郎である。

「大丈夫かな。私は興行主なんで、ここには何度か来ているが」

 親交のある佐野文子の依頼でハツヨの奪還に手を貸すことになったが、ここに至って怖気づいているようだ。

「佐野先生の指示通りやれば、大丈夫ですから」

 自分にも言い聞かすように武志が言う。

「もう一度確認しましょう。速田さんが探ってくれた情報だと、ハツヨちゃんは事務所の奥の部屋にいるようです。いまは黒色との抗争で人が出払っていて、見張りは一人。で、その見張りを、神田館の大将がうまいこと言って外に誘い出す。その隙に僕らがハツヨちゃんを助け出す」

 義雄がそう言って顔を見ると、やっぱり責任が重いなあと市太郎が目線をそらす。

「そんなこと言わないで。大将が頼みの綱なんです」

 若者三人がそろって手を合わせると、ようやく腹を据えたようだ。

「わかったよ。こう見えても不肖佐藤市太郎。若い時は、やくざものと渡り合ったこともあったんだ」

 そう言うと、市太郎は部屋を出て極粋会事務所の扉を叩いた。送り出した三人は、扉を少し開けて様子を伺う。



「ごめんなさい。邪魔するよ」

 中に人の気配はするが、返答はない。

「神田館の佐藤でした。片岡さんはいたかい?」

 もう一度叩くと、半開きにした扉から覗き込むようにして男が顔を出した。丸刈りの頭に極粋会の法被。片岡に付き従っているいつもの三人のうちの一人である。市太郎と目が合うと、表情が緩んだ。

「あ、社長。ご苦労様です」
「ああ、中、いいかな」

 少し考えたが、招き入れた。まずは順調だ。

「ここ座ってください」

 部屋は十二畳ほどである。事務机と椅子が一揃い。壁に戸棚が二つ。中央の黒の応接セットがやけに重々しく目立っている。奥にも扉があるが、閉められている。その奥にハツヨがいるはずである。男は市太郎にソファを勧めると、ご無沙汰してますと頭を下げた。

「ああ君、なんてったっけ? 」
「鶴岡です。すみませんね。きょう片岡はあいにく……」
「あ、そう。出てるんだ」
「はい。ちょっと立て込んでまして」

 鶴岡は、急須にお湯を入れ、お茶を出す用意を始めている。

「あの、佐藤社長には、いつも神田館、顔で入れてもらって助かってます」
「ああ、そうなんだっけ?」
「俺、活動写真見んのが大好きなんすよ。だから」
「ああそう。そうなんだ」
「休みんときは、三本も四本も立て続けに観るんすよ。あ、でも今度からはちょっとは木戸銭払うようにしますんで」
「いやいや、気にせんでいいよ。極粋会さんにはお世話になってるからね」

 この鶴岡、もともと辻川が博徒だった時代には、配下で使いっぱしりをしていた男である。辻川が足を洗ってからは、彼が経営する土木請負の会社に雇われていたが、極粋会の発足に伴って実働部隊の一人として送り込まれた。
 このため右翼といってもポリシーはなく、どちらかと言うと揉め事は嫌いという人間である。そのせいか、いつもの三人のうち武闘派の二人は黒色との抗争現場に駆り出され、彼は留守番をさせられている。

 鶴岡が、どうぞと出した茶を一口飲むと、市太郎が話し始めた。

「……実はね、今度新しい活動館を建てる計画があるんだけど、そこの支配人に誰か出してもらえないか、相談に来たのさ」
「え、そうなんすか?」
「うん。おととし、うちの看板だった第一神田館が焼けちまったろう。そのあと、旭川は一館だけでやってたんだが、なんとか資金の手当てが付いてね」

 鶴岡は自ら活動写真好きと言うだけあって、市太郎の向かいに座るや身を乗り出した。

「……君、鶴岡君だっけ? 関心ありそうだね」

 市太郎はそう言うと、ふところから四つに畳んだ紙を取り出した。

「で、これ図面なんだけどね」

 テーブルに広げると、新しい活動写真館の見取り図が描かれている。

「一階はここが客席で、ここが舞台で、これがスクリーン。二階と三階にも二つずつ舞台とスクリーンあってさ……」

 鶴岡は図面に釘付けである。

「……ね、どっか、外で話さない?」
「え?」
「いや、せっかくだから酒でも飲みながらさ。私も活動好きの人の意見、じっくり聴きたいしさ」

 途端に鶴岡が困った顔をした。

「いやー、ここじゃだめですか?」
「ここ?」
「ええ」
「外じゃ駄目?」
「すみません。きょうはここ離れられないんすよ。訳ありまして」

 やっぱり、簡単には連れ出せないようだ。

「そっか、飲みながらのほうがいろいろ意見が出るんだけどねえ」

 と渋い顔をするや、市太郎が素っ頓狂な声を上げた。

「あー、おしっこ」
「え、なんすか? おしっこすか?」
「うん、年取ると近くなってね。どこかな?」
「ああ、それなら、廊下左に行って、右曲がって、突き当りです」
「え、どこ? わかんない」
「だからここ出たら廊下ありますでしょ。そこ左に行って、次、右曲がったら突き当りに……」
「私、最近、目が弱くなってね。ここ暗いしさ。案内してくんない?」
「え、俺がすか? 困ったな」
「私、そういう親切な人に支配人になってほしいなー、なんて思ったりして」

 それを聞くと、いきなり立ち上がった。

「あ、いきます。いきます。トイレくらいならいいです。喜んで」

 体はもう出口に向かっている。

「うん、いいなー、そういう機敏に動ける人。じゃ手引いてもらって」
「え、社長、そんなに目悪かったですか? よくここまで来られましたね」

 鶴岡は怪訝そうな顔をしたが、市太郎の差し出す手を取って扉を開けると、廊下の奥にある便所に向かう。市太郎といえば、まるで一気に十も老けたようなおぼつかない足取りである。

 そんな二人が廊下の角を曲がって見えなくなるのを確認すると、陰で様子を伺っていた若者たちは、義雄、栄治、武志の順に素早く事務所に滑り込んだ。手はず通り武志が外の様子を伺い、義雄と栄治が奥の部屋に進む。

 その部屋は書類などが置かれた六畳ほどの洋室である。戸棚の陰に椅子があり、ハツヨはそこに置かれた椅子に縛られていた。駆け寄った二人にすぐに気づいて声を上げようとするが、猿ぐつわをされているためもごもごというばかりである。そんなハツヨに声を上げるなと身振りで伝えると、二人は猿ぐつわを外し、幾重にも巻かれた麻縄を解き始めるが、これがなかなか硬い。事務所の入り口では、元来せっかちな武志がしきりに気をもんでいる。

「ハサミ持ってくりゃよかった」

 義雄はそう弱音を吐いたが、一つの硬い結び目を栄治がようやく解くと、上半身を縛っていた縄は一気に緩んだ。裾を縛っていた残りの縄の結び目もほどなく解け、ハツヨが立ち上がるとあっけなく床に落ちた。 

「よし行こう」

 三人を迎えた武志が半開きにした扉から外をうかがった時、廊下の角から甲高い声が響いた。

「あー、おしっこして、すっきりしたー。もう事務所に戻ってきちゃったー」

 事務所を出てすでに十分ほど。市太郎もさすがに時間を稼ぐのに限界を感じたらしい。

「なんすか? 急に声でかくなりましたよ」
「そう? 最近耳も遠くなってきたせいかな。普通だと思うけど」

 市太郎はそう言いながら事務所の扉の前の廊下の床を素早く見渡した。奪還に成功した時は紙くずを落としておく約束だが、どこにも見当たらない。

「いやいや、かなり張ってるじゃないですか」

 ぶつぶつと言いながら鶴岡が中に入った。すでに義雄ら四人は奥の部屋に戻っている。鶴岡はソファのところまで市太郎を案内すると、自分も椅子にかけ、先程の図面を眺め始めた。

「新しい活動館の場所はどこなんすか? やっぱ元の神田館の所がいいですよね」

 早くも支配人になったかのような調子である。

「うん、まあそんなところかな」
「ですよね。あそこ、一等地ですからね」

 手詰まりになった市太郎は、もう一度誘いを入れる。

「ところでさ、やっぱりどっか外で話さない?」
「そうしたいところなんですが、すみません、ここ空にするわけにいかないんすよ」
「そうなんだ」

 市太郎はそう言いながら再び図面の説明を始めたが、急に話を止め、再び素っ頓狂な声を上げた。

「あー。今度は、なんか、下の方がもよおしてきちゃった」

 立ち上がると、下腹を押さえる。

「え、大きい方ですか? さっき一緒にしちゃえば良かったじゃないすか」
「いや僕もそう思うよ。そうすりゃ、一回で済んだのに。でも、あ、お腹も痛くなってきちゃった。悪い、もう一回」

 市太郎は、片手で下腹を押さえ、片手で拝むポーズをしている。しかもひときわ苦しげな表情。これでは鶴岡も付き合わざるを得ない。

「しょうがないなー。これが最後ですよ」
「ああ最後、最後、最後だから。じゃあ、お便所、行ってくるぞー。今度は大きい方」
「ですから。声張り過ぎですって。何なんすか、本当に」

 そう言いながらも、鶴岡は再び市太郎の手を引いて事務所から出ていった。
 扉に耳を当てて様子を伺っていた四人は、部屋に誰もいないことを確かめると行動を起こす。武志を先頭に事務所を出ようとするが、扉を開けたところで足が止まってしまう。廊下の先に人影があったからである。時間をおいてもう一度扉を開けると、目の前に見覚えのある白の上下の大柄な男がいた。常盤橋に出かけているはずの片岡である。

 その片岡、背広の所々に土汚れがついていて、髪も乱れている。左手に木刀を持っているのは、右腕を痛めたせいか。

「これはこれは、皆さんおそろいで。……そうですか。我々が黒色の連中とやりあっている間にってことですか。ま、ひとまず中に入っていただきましょうかね。……絵を描いたのは、佐野先生あたりでしょうな」

 片岡の言葉に気圧されたかのように四人は部屋の中に後ずさった。片岡も引きつったような笑いを浮かべながら部屋に入る。後ろ手に扉を閉めると、ゆっくりと近くにあった椅子を引き、腰を下ろした。

「さてと、どうしたもんですかね」

 片岡がそう言って木刀を肩に担いだとき、廊下の角から市太郎と鶴岡が姿を見せた。用を済ませて戻ってきたようだ。

「あー、すっきりしたーって、さすがにもういないよね」
「いないって何がです?」
「いやいやお腹の中のもののことさ」

 そう言い繕いながら床を見渡すと、やはり紙くずはない。あわてて扉を開けると、片岡の背中越しに四人の姿が目に飛び込んできた。固まっている市太郎を押しのけるように鶴岡も部屋に入ると、思わず、え、どうなってるんすかと声を上げる。それを聞いた片岡が怒りを爆発させた。

「ばかやろう。どうなってるって、常盤橋で黒色と乱闘になったんだよ。そしたら警官が割って来て、どっちもほとんどしょっぴかれちまった。お前、社長に騙されかけてたのが、わかんないのか?」
「えっ、社長、おれ騙してたんすか?」

 市太郎は顔を真赤にした片岡から遠ざかるように部屋の隅に回り込むと、鶴岡に向かってごめんごめんをしている。

「面目ありません」
「だから気を抜くなと言っといたろうが」

 片岡が足元のごみ箱を蹴飛ばすと、市太郎の脇の壁に当たって大きな音を立てた。

「……あのー、片岡君。あんたの部下を騙そうとしたのは悪かった。が、ここは私の顔を立てて、娘さんを開放してやってくれないだろうか。仲間が警察に連れて行かれたって言ってたよね。そんな状態なら、もうこっちの話はいいだろう」

 しかし片岡の顔はこわばったままだ。

「社長には、いろいろ世話になってるんで、逆らうのは恐縮ですが、これはメンツの問題なんですよ。そんな小娘、どうでもいいっちゃいいんだが、こんだけ舐められたうえに、素人に出し抜かれたとあっちゃ、俺らは今までのように旭川で仕事ができなくなる」
「そうは言っても…」
「私はね覚悟はできてるんだ。悪いが、娘置いて、帰ってもらうしかないですね」

 その時、部屋の奥に身を寄せ合うようにしていた四人の中から、武志が一歩前に出た。

「ふざけんな。あんたけがしてるじゃないか。あくまでって言うなら、力づくでも」
「……坊主。そういう口をきくときは相手を確かめてからにするんだな。俺は覚悟を決めてるって言ったろう」

 片岡は立ち上がって左手の木刀を横にいる鶴岡の方に放ると、同じ手でふところから黒っぽい塊を取り出した。小型の拳銃である。それを見た義雄が武志の腕を取って後ろに引き寄せた。

「……武志。下がろう」

 武志の顔からは血の気が引いている。

「……そう、みんな、いい子だ。言うことは聞いたほうがいい」。

 片岡はうなずきながら四人を見渡していたが、ふとその動きを止めた。視線の先には、膝をついてハツヨをかばいながらも鋭い視線で身構えている栄治がいる。

「おや一人反抗的な子がいるね」

 栄治はごくりと一度つばを飲み込むと、ゆっくりと立ち上がった。

「……あんたさ、いい加減、強がるのは止めなよ」
「ん? よく聞こえなかったな。もう一度言ってくれよ」
「……強がるのは止めなって言ったんだよ」

 そう言いながら片岡に近づこうとする栄治の腕をハツヨがつかむ。しかし栄治は片岡の目を見据えながら、その手をゆっくりと振りほどく。

「あんたのことはヤマニの大将から聞いたよ。あんたは俺とおんなじだ。だから分かるんだよ」
「何を言いたいんだか、さっぱりだがね」

 栄治は、さらに片岡との距離を詰めていく。

「分かるんだよ俺には。あんたはこうすることが正しいと上から言われて、それを信じることが勤めだと思っている。……でも本当にそれはあんたがやりたいことなのか? そんなことをしても心は満たされないと、気が付いているはずだ」
「……うるさいな。黙れよ」

 片岡が構えた拳銃が横に振られる。それはいやいやでもしていようだ。

「俺もね。おんなじだったから分かるんだよ。俺たちは空っぽだったんだ。だから最初は良かったんだ。何にも考えずに。ただ言われたことを黙々と実行する」
「黙れよ。止めろ」

 片岡の声が大きくなる。

「信じたことが間違いだったら何もなくなっちゃう。それが怖いんだよ。あんたも! 俺も!」
「黙れって言ってんだろ!」

 片岡が叫ぶと同時に、パンという乾いた音が事務所に響いた。同時に壁際の三人の目の前で栄治が崩れ落ちた。一瞬の沈黙の後、ハツヨが栄治に駆け寄る。

「兄さん!どうして。兄さん」

 栄治はうつ伏せのまま太もものあたりを押さえて苦悶の声を上げている。その時、事務所の外で男の声が響いた。

「え、警察、何の用だよ? え? 発砲音? パンクかなんかじゃないの。え? 片岡部長? ここになんかいませんて」

 それを聞いて我に返ったのか、誰だ、と片岡が鶴岡に問うた。

「もしかしたら誰か、若いもんが戻ってきたんじゃ」

 その声にかぶさるように男の声が続く。

「え? 令状? なんのことか分かんないよ。だから、いないもんはいないって言ってるでしょうが」
「片岡さん、まずいっすよ。誰だか知らないが、時間稼ぎをしている間に逃げましょう。非常口の階段使えば、逃げられます」

 片岡は分かったと言うと、ひと固まりになっている義雄らを見渡し、拳銃で栄治を指した。

「こいつはおれを見下した。自業自得だからな」
「片岡さん、急ぎましょう」
「わかってる」

 二人は、非常階段に通じる扉がある奥の部屋に向うと、普段は使われていない扉を開け、階段を急ぎ足で降りていった。カンカンカンという足音が消えた頃、ようやく我に返った武志が義雄に向かって声を上げた。

「え、それで、ど、どうする?」
「どうするって、外に警察がいるんなら知らせなきゃ。それと医者」
「そうだよな。じゃ外へ」

 武志が事務所を出ようとすると、先程の男の声がまた響いた。

「だから、いないって言ってるじゃないですか。いないんですよ、片岡部長は」

 あわてて身を隠す武志。

「片岡さん? ……いないですよね? 片岡さん? いやしませんよね?」
「え、お前?」

 辺りをうかがうように入ってきたのは、四つボタンの上着に、短めのズボン。近文コタンの東二である。

「え、お前、どうして」
「様子を見にきたんだけど、拳銃の音が聞こえたんでね」
「じゃ、警察は?」

 武志が混乱した様子で聞くと、東二は鼻で笑った。

「そんなの乱闘事件で出払ってるよ。いま仲間が医者を呼びに行ってる」

 まだぽかんとしている武志をよそに、義雄はすでに事情を飲み込んでいる。あとの心配は栄治である。

「大将、栄治さん、どうですか?」
「うーん、急所はやられていないが、急がないと……」
「兄さん、聞いた? お医者さん、呼んでくれてるって。それまで頑張って。兄さん」

 東二は首に巻いていた手ぬぐいを引き裂くと、栄治の止血を始めた。




(続く)






<注釈・第八章>



* (北海道護国神社)招魂祭(しょうこんさい)
・ 戦死した北海道出身者を祀る北海道護国神社の慰霊大祭のこと。例年、6月4日が宵宮祭で、5日が慰霊大祭、6日が後日祭。かつての旭川には、招魂祭に合わせ、大勢の遺族が道内各地から集まった(もちろん今もお参りをする人は少なくない)。また市内には見世物小屋や露店も建ち並ぶ。



招魂祭の賑わい(昭和6年)




<注釈・第九章>


* 三条通六丁目
・ 旭川中心部の一角で、古くから多くの飲食店が集まっている場所。現在も36(さんろく)街と呼ばれ、北海道では札幌のススキノの次ぐ規模の歓楽街として知られている。


* 「佐藤でした。片岡さんはいたかい?」
・ 電話をしたり、人の家を訪ねたりするとき、北海道民は過去形を使って挨拶することがあるが、これは「です」「いる」と言い切るより、幾分丁寧な言葉遣いである。







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小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第六章・第七章

2022-09-05 11:30:00 | 郷土史エピソード
<はじめに>


「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の掲載は、今回から後半、まずは第六章と第七章です。
後半では、主人公の義雄と武志、そして周辺の人々が、前半で登場した二つの団体の対立に巻き込まれていきます。
この両者の対立、実際にこの時代の旭川であったことをもとにしています。
また対立激化のきっかけとなった酌婦の少女の逃亡も、同じく実話をもとにしています。
2021年に出版した旭川歴史市民劇の記録本の中にも書きましたが、この物語は大正〜昭和初期の旭川の歴史を調べていたワタクシの頭の中に、ある日、突然下りてきたストーリーが土台になりました。
なので、このお話は、旭川の歴史が書かせてくれた物語と思っています。
それでは今回も最後までお付き合いください。



               **********




第6章 昭和二年六月 佐々木座界隈



 ふるさとは馬追帽子に
 垢じみたつづれをまといて帰るところ
 無骨な靴の底は裂け
 沓下ちぎれて素足に土をなつかしみ
 飢渇わけば草に聞いて
 田園近き清水に遠き日を想へ
 ふるさとは古き友に嘲けり追われ
 花と変りし幼馴染に恐れられ
 子供らの礫の的となるところ                

                  (塚田武四「ふるさと」)


 
 佐々木座といえば、北海道でも有数の規模を誇る本格劇場である。三角の大屋根のある木造三階建て。中には間口十二間(約二十二メートル)、奥行き十間(約十八メートル)、高さ三間半(約六点三メートル)の堂々たる舞台がある。さらに舞台中央には、直径六間(約十一メートル)の回り舞台まで設けてある。

 旭川の目抜き通りである師団道路から少し外れた、当時は本町(ほんちょう)と呼ばれた一条通六丁目にこの劇場がお目見えしたのは明治三十二年のこと。建てたのは、岩手出身の博徒の顔役、佐々木源吾(ささきげんご)である。

 詳しい経緯(いきさつ)は本人も明らかにしていないが、幕末の江戸で遊侠の群れに身を置いていた佐々木は、函館戦争を戦った榎本武揚(えのもとたけあき)に従い北海道に渡った。維新後、函館に留まった佐々木は、当地を本拠地として全道に勢力を伸ばしていた博徒の元締め、森田常吉(もりたつねきち)率いる丸モ(まるも)派に加わり、やがて大幹部となる。そして明治二十年代半ば、森田によって送り込まれたのが、新開地である旭川だった。

 開拓当初、厳しい労働に明け暮れた男たちにとって、慰めは酒、そして賭け事だった。親分に倣って丸サ派を名乗った佐々木は、まず各所に賭場を設ける。さらに料理屋や妓楼、芝居小屋の経営に乗り出し、たちまちのうちに旭川一の高額納税者となった。このうち当初は平屋の粗末な造りだった芝居小屋を大規模に改築したのが佐々木座である。

 現在、佐々木座は、博徒稼業から足を洗って朝鮮に渡った佐々木に代わり、配下だった辻川泰吉が仕切っている。この辻川、興行主としての能力は佐々木以上というのがもっぱらの評判。近年は関西から文楽一座、東京から菊五郎、左団次ら歌舞伎の看板役者を次々と招聘し、土地っ子の喝采を浴びた。

 その佐々木座に近い裏通りを歩いている三十半ばの男がある。書生姿で長髪。手には安物のバイオリンと弓。胸元から売り物の歌本が覗いている。半年ほど前に東京から流れてきた演歌師である。
 この日も師団道路でのどを披露したが、ここしばらく同じ歌ばかりを歌っているせいか、通行人の反応は今ひとつ。足を止めるものもいたが、歌本を求めるものはいなかった。

「けっ、しけた街だぜ。景気が良いと言うから、こんな果てにまで足を運んだのに。そろそろ潮時だな」

 そう演歌師がひとりごちたとき、突然、女が目の前に飛び出してきた。走って角を曲がってきたらしい。

「おっと、危ねえ」

 演歌師が身を捩るようにして避けると、女はあっと声を上げ、つんのめるように膝をついた。黄色地に赤の格子模様の木綿の着物。割れた裾から覗く足元は裸足である。年は、かなり若い。

「ごめんなさい」

 立ち上がって先を急ごうとする女を、演歌師が呼び止めた。

「お待ちよ姉さん。落としもんだよ」

 そう言って拾い上げたのは、一葉の写真である。家族らしい四人が写っている。

「あ、それ」

 演歌師が差し出す写真を半ば引ったくるように受け取ると、一瞬、胸に押し当てた。

「すみません」

 頭を下げた女は、一度後ろを気にするとかけ出した。すぐに二つほど先の小路に入り、姿は見えなくなる。

「……ふん、訳ありって感じだねえ」

 演歌師がため息交じりにつぶやくと、先程の角から今度は男たちが飛び出してきた。旭川極粋会の揃いの法被。行動部長の片岡とともにカフェー・ヤマニに現れた三人のうちの二人である。やはり演歌師にぶつかりそうになり、足を止めた。

「なんだ演歌師か」
「こんなところで、ぼけっと突っ立ってんじゃねーよ」

 毒づきながらも息が荒い。とすると、先程の女を追ってきたのか。

「はいはい。あいすいませんねえ」

 演歌師が首をすくめると、年長の小柄な男が横にらみしながら聞いた。

「おい、いまさっき、女が来たろ? どこ行った?」

 やっぱし、あの女追ってきたんだ。

「え、女? 女、女ねえ。……ああ来た来た。来ましたよ」

 演歌師は手を打つと、周りを二・三度見やり、女が去ったのとは逆方向の小路を指差した。

「そっちい、行ったな」
「おい、行くぞ」

 二人は再び女を追い出したが、結構な距離を走ってきたせいか、勢いはない。それでもすぐに姿は見えなくなり、辺りは再び静けさを取り戻した。

「ばーか。なんだ演歌師かって。おめえら何様のつもりだい」

 演歌師は二人が消えた小路に向かって毒を吐くと、バイオリンと弓を持ち直して歩き出した。腹の虫がおさまらないのか、まだぶつぶつ言っている。



 しばらくすると、向こうから胡麻塩頭の初老の男がニコニコとしながら近づいてきた。どこかで見た覚えのある顔だ。

「おお、演歌師さん。いいところにいた。こないだはおあしがなくてねえ。あんたの歌本、今度見かけたら一冊譲ってもらおうと思ってたんだ」
「え、そりゃありがたいこって」

 そう言えば、二日ほど前、前の方で熱心に歌を聴いていたじいさんだ。

「ここでもかまわないかい?」
「ええもちろんさ」

 男は二円を払って歌本を受け取ると、上機嫌で去っていった。
 いつの間にか、雲の合間から丸い月が見えている。

「人助けの真似ごとにもなりゃしないが、神さんが褒美をくれたったところかね。ま、せっかく出端って来たんだ。もう少し粘ってみるか」

 演歌師は来た道を引き返し始めた。





第7章 昭和二年六月 カフェー・ヤマニ


 私が死んだら
 私を愛惜措かない人々が
 私を焼いたり煮たりして食べられるものなら
 一層惜別の情をそそるであろう

 親愛なる君には尻ッぺたの肉一斤 
        ー即ち霜降りロースの上等を
 魯かなる女房には脳味噌の知識
 目のたまは 私が惚れた下賤の女の明眸へ
 私は連日深酒だから
 さぞや鱈の粕漬のように美味だろう

 骨はたたきにしてスープをとる
 酒のみの私を偲んで一盞傾け
 諸君らはほろほろと哭いて
 私を喰べてくれたまえ                     

                 (中家金太郎「空想葬式図」〕




「大将よ。何ちゅうか、昼間のカフェーってのは、あれだな。静かなもんだな」

 旭川師団道路の名店、カフェー・ヤマニのテーブルに両肘を付き、あくびまじりに言ったのは地元生まれの画家、高橋北修である。頬骨が突き出た特徴的な面相とどら声、そして一般の住民には伺いしれない特殊な生業から、地元では知らぬ人がいない。きょうは紺のズボンに白の開襟シャツという出で立ちだ。

「コーヒー一杯でも歓迎なんですけどね。でも、やっぱりヤマニは夜という印象があるようで」


 北修に大将と呼びかけられたのは、店主の速田弘である。赤いチョッキに黒の蝶ネクタイのいつもの姿。よほど手持ち無沙汰なのか、先程から同じグラスを何度も拭いている。

「そう言えば、聞きましたよ。小熊さんと組んで、またきわどいこと始めたんですって?」

 カウンターを離れてテーブルに近づいた速田は、少し離れた所でやはり暇を持て余している昼番の女給二人をちらりと見やり、声を潜めた。

「……ヌード写生会」

 北修の眉がぴくっと動く。

「きわどいって……。あくまで芸術を追究する試みよ」
「でも絵なんて描けない奴らが、ハダカ見たさに詰めかけてるって話じゃないですか」
「確かに、ウワサ聞きつけて、覗きに来る奴の方が多いんだわ。俺も小熊もそういう連中追い払うのに忙しくてよ。ハダカ描いてるヒマなんてないのよ」

 速田がそれはそれはとうなずくと、ただなと北修が渋い顔をした。

「それもいつまで続けられるんだか」
「え、なぜ?」
「菊頭だよ。また東京に行くって言い出してんのよ」

 二人が話題にしているのは、特異な髪型の共通の友人、小熊秀雄のことである。小樽生まれで、東北、北海道、樺太の各地を転々としていた彼が、生き別れになっていた姉のいる旭川にやってきたのは大正十年。それからもう六年が経っている。  

 その間、小熊が上京を企てたのは二回。今は、旭川新聞で記者をしているが、もともと中央詩壇で確固とした地位を固めることが望みである。しかし二度とも作品は売れず、持っていった金を使い果たして旭川に戻った。

「でもまたおっつけ戻って来るんでしょう」

 速田は軽い調子で言うが、北修は真顔だ。

「いや、そうでもないのさ。なんせ三度目だからよ。前のように浮ついたところがないんだわ」
「そうなんですか」
「しゃーない。かわりに、武志か義雄使うか」
「よしなさいよ。そんなところにあんな坊やたち連れてったら、鼻血出して、倒れちまうよ」

 今度は速田が真顔で言うと、ガランガランと入り口のドアの鐘が響いた。

「いらっしゃいませー」

 女給たちの甲高い声に迎えられて入ってきたのは松井東二である。北修や小熊が開いた美術協会の展覧会で出面に来ていた近文コタンの少年だ。何やら風呂敷包みを下げている。

「おお来たか。ま、こっち来いよ。こいつが話してた東二だ。ほらあいさつせんか」

 北修に手招きされた東二は、速田の前に進むと、ペコリと頭を下げた。

「おい」

 北修に促され、東二はテーブルの上で風呂敷を解いた。現れたのは木彫りの熊である。高さは八寸(約二十四センチ)ほど。彫りにまだ稚拙なところはあるが、吠えるヒグマの迫力は十分に伝わってくる。

「……こりゃあ、なかなかのもんだ」

 速田は手にとってしげしげと眺めている。

「だろ? 頼みは二つ。ここにゃ旭川見物の客も来るだろ。だから会計のところにでも置いて、売ってやってくんないか。土産にいいだろ?」
「ええ、確かに」
「それと、こいつ、こんなふうに器用だからよ。装置作りの仕事がある時は、使ってやって欲しいんだわ。あと仲間と楽隊もやってるんで、ショーの伴奏もできる」
「わかりました。なかなか重宝じゃないですか」
「頼むな」

 北修はそう言うと、無言でやりとりを聴いていた東二に顔を向けた。

「ほら、こういう時はすぐに頭下げんだよ」

 またペコっと頭を下げる。

「ほんとに、あいそがないんだからよ」
「まあまあ、いいじゃないですか」

 と、速田がとりなした時、新たな客が入ってきた。

「いらっしゃいませー」

 女たちの声に迎えられたのは、元小学校教諭でクリスチャン、社会活動家の佐野文子である。年は三十代なかば。髪は流行りの断髪で、中肉中背。グレーのツーピースを着ている。

「いらっしゃい。あ、佐野先生じゃないですか」
「あら、支度中じゃなかったの?」
「いえいえ、ちゃんと開店してますから」
「そう? 人がいないからまだかと思っちゃって」

 そう言いながら慣れた様子で中に進む。

「先生、かんべんしてくださいよ」
「コーヒーお願いね」

 そう言ってテーブル席に着こうとした文子は、奥にいる東二に気付き、あらという顔をした。東二は軽く会釈したものの、なんとなくバツが悪い感じである。その様子に気付いた速田がカウンターから声をかける。

「なんだ、知り合いなんですか?」
「まあ、ちょっとね」

 そう言葉を濁すと、東二の後に隠れるようにしていた北修に声をかけた。

「……そっちにいるのは北修さんね? お久しぶり。奥さまはお元気?」
「ああ、えー、はい。あの、お、お元気です」

 うろたえる北修に、文子がたたみかける。

「絵はちゃんと描いてるの? お酒ばかり飲んでいるんじゃないの? またどっかで喧嘩したんじゃないの?」
「いやいや、とんでもない。ま、真面目にやってますって」
「そうなの? 本業ほっといて、またろくでもないことやってるんじゃないの? 前に奥さんこぼしてたわよ」

 コーヒーを用意していた速田が吹き出と、すかさず北修が目でやめてくれと制する。

「いやいや、そんなことありませんて。ちゃんと絵、描いてますって」

 そう言いながら速田に近づくと、小声で囁いた。

「ちょっと向こう行って相手してくれよ。俺、苦手なんだよあの先生」
「わかりましたよ。今コーヒーやってますから。そのあとね」

 速田も小声で返す。

「なにそこでひそひそ話してんの? また良からぬ相談でしょ」
「いえいえ、そんな。違いますって」

 北修は、激しく手を振って否定すると、テーブルに戻りながら東二を手招きする。

「おい、東二。こっち来て、真面目な仕事の打ち合わせしよう。な、真面目な」

 持っていた手ぬぐいで汗を拭い始めた。



「……それにしても、久しぶりですね、先生」

 女給に淹れたてのコーヒーを託した速田がカウンターの中から文子に声をかけた。

「忙しかったのよ。中島遊郭なんだけど、一人逃げてきた娘(こ)がいてね」
「そうなんですか。でも、遊郭の奴ら、黙っていないでしょ」
「敷地の外に出てくるまでが大変なのよ。そこは、手助けできないから。出てきてくれたら、すぐいっしょに汽車に乗っちゃうんで、大丈夫なんだけど」
「女はそうですけど、先生ですよ」
「私? 私はいいのよ。危険は承知なんだから」

 文子は、もともと両親とともに姉の嫁ぎ先の旭川にやってきた島根からの移住者である。中心部の小学校で教師をしていたときに、旭川で農場を経営する実業家に見初められて結婚するが、すぐに夫は病死。以来、島根時代に洗礼を受けたカトリックの信仰をもとにさまざまな社会活動に当たっている。 

 その中心は弱い立場の女性の自立支援である。なかでも遊郭で働く娼妓の廃業を支援する廃娼(はいしょう)運動では、全道的にその名が知られている。

「去年でしたっけ? 遊郭のど真ん中で、逃げ出してここに来いって、自宅の地図入れた紙撒いたの」
「はいはい。さすがにあの時は外に連れ出されたけどね。でも私は顔が売れてるから、簡単に手を出せないのよ」
「さすが廃娼運動と言えば佐野文子。肝が太いや」
「やめてよ。よけいに北修さんに怖がられちゃう」

 その時、奥のテーブルを拭いていた女給が、武志に気付いた。勝手口から顔を出して中をうかがっている。

「あら、武志君。きょうは早いのね」
「ああ、ちょっと事情があって」
「おう、どうした」

 近くにいた北修も武志に気がついたようだ。

「ああ、北修さん、よかった。ほかに誰かいる?」
「いやこのメンツだけだけだけど。あと東二と佐野先生。廃娼運動の」
「廃娼運動? ああ、了解です。じゃ中入って」

 後ろに声をかけると、義雄が若い女に肩を貸しながら入ってきた。すかさず武志も手を貸す。

「……ど、どうしたのよ、その娘(こ)?」
「後で説明しますから」

 武志は北修を制しながら近くのテーブルの椅子を引くと、そこに座らせるよう義雄を促し、さらに女給に水を持ってくるよう頼んだ。女は黄色地に格子柄の着物姿。膝の辺りが土埃で汚れている。

「いい? 見せてもらって」

 心配そうな顔つきの文子が足の様子を見る。

「……けがは大したことないみたいね。あなた、武志君って言ったっけ。一体、どうしたの?」
「店の裏で蹲(うずくま)ってたんです。裸足だし、転んで足くじいたって言うから、どうしたのって聞いたら、逃げてきたって」
「どうも極粋会の連中に追われているようなんですよね。連中、血相変えて走っていったんで」

 そう義雄が続けると、俯いていた女が顔を上げた。

「……あの、すみません、迷惑かけて。すぐ出ていきますから」
「出てゆくって、とてもそんな感じじゃないな。なんか事情があんだろ?」

 北修が覗き込むと女は再び下を向いた。

「大丈夫。ここにいる人たちはね、あんたを誰かに引き渡したりしないから。身なりから言ったら、どっかの店で働かされていたってところかい?」

 少し考えると、女は小さく頷いた。

「……はい。十五丁目の『たまや』って店で、酌婦してました」
「え、たまや!」

 口に手を当てている女給に武志が尋ねる。

「知ってんですか?」

 ええ、まあと隣の女給を見る。

「わたしも知り合いから聞いたことがある。あんまりいい噂じゃないんだけど……」

 酌婦は、文字通り場末の飲み屋で酒の相手をする女のことである。ただ店によっては、体を張った接待を強いるところもある。さらに酌婦と言えば当然春をひさぐもの、と考えている男たちさえいる。

「……はい。なので……」
「そっから逃げ出したってわけだ。あんたいくつだい?」
「……もうじき十七になります」
「じゃあその店で働くのは、わけがあるんじゃないの?」

 こういう時、北修も文子も無駄な遠慮はしない。ただ配慮ももちろんできる。

「いいのよ、無理にとは言わないから」

 女給から受け取ったコップの水を一口飲むと、女は話し始めた。

「……いえ、お話します。……私、江上(えがみ)ハツヨといいます。うちはもともと永山で雑貨を商っていたんですが、父さんが急に病気で死んでしまって。そしたらたくさん借金があったことが分かったんです。で、借金を返せないのなら、ここで働けって」

 ハツヨの話によると、実家の雑貨商は両親の地道な仕事ぶりで順調だったが、半年ほど前、父親が病気で急死すると、通夜の席に高利貸しが現れたという。多額の借金は父親が友人に誘われて始めた博打にはまった結果だったが、実はその友人は高利貸しの仲間で、最初から店の蓄えを狙いに父親に近づいたらしいとハツヨは話した。

 ただ、だとしても借金は借金である。結局、店は人手に渡る。ハツヨは女学校を辞め、仲居として料理屋で働き始めたが、もっと稼げる仕事でないといつまでも借金を返せない、と高利貸しが言い出す。そして「たまや」に送り込まれたのがふた月前だったという。

「なるほどね。極粋会の連中、きっと、その店か金貸しに頼まれて、彼女を追ってるんだ」

 つぶやいたのは、腕組みしながら聴いていた速田である。

「……わたし、お酒の相手をするだけならいいんです。でも来月からお客を取れって……」

 皆が顔を見合わせる。

「……わかった。ハツヨさん。わたしは佐野ってもんだけど、あんたみたいな境遇の娘(こ)のことはよく知ってるの。だから、安心なさい」

 しかしハツヨは頭(かぶり)を振る。そして懐から写真を出した。

「いえ、そんな。見ず知らずの皆さんに迷惑かけるわけにはいきません。……あの、ここに連絡していただけないでしょうか。兄さんがいるんです」

 ハツヨが差し出した写真には、温和そうな両親と笑顔のハツヨと兄が写っている。そして裏には兄の勤め先が書いてあった。受け取った北修が声をあげた。

「……こりゃ驚いた。兄貴は黒色青年同盟だってよ」
「黒色青年同盟って? あの無政府主義の?」

 文子が、しかめっ面になった速田に尋ねる。

「いま極粋会と対立してるんですよ。こりゃあ話が複雑になりそうだな」
「……兄さんは、父さんが死んだあと学校を辞めて。そしたら今度は母さんがふせってしまって、働きながら面倒を見ているんです。仕事を渡り歩いて、いまはそこで厄介になってるって言ってました。そこの人たちの力を借りて、店辞めさせてやるからもう少し待ってろって」

 それを聞いて、動いたのは北修である。

「わかった。東二、お前、ひとっ走り行って、この娘(こ)の兄貴呼んできてくんないか。時間、あんだろ」

 しかし、東二は下を向いたまま動こうとしない。

「ん? どうした?」
「……それは勘弁してください」
「なんだよ、勘弁って」
「……関わりたくないんすよ。極粋会の関係者は、顔の人が多いし、俺ら、ただでさえ邪険にされてんのに、余計なことして睨まれたくないすから」

 それを聞いて武志が目をむいた。

「何よ、その余計な事って」

 美術展の準備のときに出会ってから、この二人はお互いにいい印象は持っていない。

「だから、お前ら学生と俺らは違うんだよ」
「何だって」

 喧嘩に発展しそうなところを北修が分けて入る。

「わかったから、東二はいいよ。……武志、行ってくれっか?」

 気持ちの高まりを抑えるように一つ息を吐くと、武志は北修から写真を受け取り、無言で勝手口から出てゆく。

「……あの、兄さんが来たら、すぐ出てゆきますから」

 武志を見送ったハツヨはそう言うと、あなたももうここにいない方が、と東二に声をかけた。東二はため息を一つつくと木彫りの熊を包んでいた風呂敷をたたみ始めた。

「……じゃ、悪いっすけど、俺はこれで」

 皆が押し黙る中、東二はレジ脇の入り口から外に出ていったが、なぜかすぐに急ぎ足で戻ってきた。表情がこわばっている。

「北修さん。極粋会のやつら、すぐそこにいますよ。その娘(こ)、隠しといたほうがいいですね」

 どら、と言って北修もドア越しに外をうかがうと、やはり顔色を変えて戻ってきた。そしてお前は行けと東二を送り出す。

「まずはこの娘(こ)だね。どこに隠そうか」

 こうした時、修羅場を何度も経験している文子は冷静である。

「ここには、あなたたちが着替える部屋かなんかないの?」

 すかさず女給の一人が二階をさす。

「それなら上に」
「じゃ、義雄君だっけ。あなたは外に出て時間を稼いで。それと北修さんは、その娘(こ)おぶって二階に行って」
「え、俺?」
「だって速田さんはここにいないと、おかしいから」

 ああ確かにとつぶやくと、北修は速田の手助けを受けてハツヨをおぶり、女給たちと一緒に二階に向かった。

 北修たちの姿が見えなくなってまもなく、外に出た義雄の声が聞こえてきた。

「……だから、誰も来ちゃいませんよ。うたぐりぶかいなあ。え、なんですか? なにもごまかしちゃいませんよ」

 後退りをしている義雄を押しのけるように、男たちが姿を表した。極粋会の男たちである。

「だから、はんかくせーことすんなって言ってんだろうが、この小僧はよ」

 遅れて麻の上下の片岡が入ってくると、義雄をかばうように前に出た速田と向き合った。

「速田さん。何故かここに来るときは、同じような状況だねえ。若い女が来ている筈なんだが、出してもらいましょうか」

 いつも通り感情を抑えた話し方だが、顔はやや上気している。

「若い女? ここは若い女たくさんいるからね」
「この店に逃げ込んだのは間違いないんだよ」

 そう吠えたスキンヘッドは目が血走っている。

「そう言われてもねえ。お探しなのはどんな女なんですか? 片岡さん」

 男たちの様子にいつにない高ぶりがあるのを感じた速田は、逆に度胸が座ったようである。

「うん。よくある話なんだが、借金を踏み倒して逃げてしまった女がいましてね。店主さんが困り果ててるんですよ」
「なるほど。で?」
「なんせ額が大きくてね。働いて返すからって頼むんで雇ったのに、恩をあだで返されたって。店主さんが泣いてるんですよ。あなたも水商売の経営者なら、わかるでしょ?」

 その時、奥のテーブルに陣取っていた文子が声を上げた。

「何が泣いているよさ。弱い立場の女を食い物にしているだけじゃない」
「……これはこれは、佐野先生ではないですか。最近は、遊郭だけじゃなくて、カフェーにもお出かけなんですね」

 極粋会の会員には妓楼の経営者も少なくない。その関係で、片岡と文子はこれまで何度か顔を合わせている。

「あんたもね、右翼なら右翼らしく、ちゃんと政治活動したらどう? それとも極粋会ってのは業者の用心棒なの?」

 だが、片岡は挑発に乗るつもりはないようだ。ゆっくりと一歩、速田に近づくと、顔を寄せた。

「速田さん、あなたね、今は流行っているからいいものの、だんだんと商売がしにくくなりますよ。みんな借金の踏み倒しにゃ神経とがらせてるんだ」
「うちは借金のかたに女の子を働かせるような商売はしてないから関係ないね」

 やや強めの口調で告げると、片岡の目を見据えた。

「片岡さん。そもそもこの店には、あんたたちが探しているような女はいない。帰ってくれるね」

 速田の後ろには、立ち上がって近づいてきた文子もいて、やはり片岡を睨んでいる。

「……わかりました。佐野先生もおいでのことだし、きょうは引き揚げましょう。ただあまり深入りするのは止めた方がいいですよ。我々にもメンツがありますから」

 片岡はそう言うと、店の中をぐるりと見渡し、さらに階段の上を見上げると、二〜三度軽くうなずいた。

「では」

 顎で部下に合図すると、大股で店を出ていく。



 片岡らが去ると、体を固くして成り行きを見守っていた義雄が椅子に座り込んだ。

「……あの人も、もともとはおとなしい人だったんだがね」
「え、大将、知ってるんですか?」
「ああ、同じ旭川だから、ちょっとはね。いまの役職に就いてからやたら肩に力入っちゃって」
「あら大将もなかなかのものだったわよ。これからああいう連中と関わる時はお願いしようかしら」
「先生、よしてくださいよ」

 その文子の頭はすでに次に向けて動いているようだ。

「さて、これからだね。まずはあの娘(こ)をどこに匿うか。家(うち)に連れて行こうかと思ってたけど、私が絡んでるのが知れちゃったからだめだし」

 そう思案に暮れていると、義雄が再び勝手口から顔を出して様子をうかがっている武志に気付いた。

「あ、武志、なにやってんの?」
「……なんかバタバタしてたみたいだったんで。大丈夫かな?」
「平気だよ。極粋会が来てたんだけど、もう帰った」
「やっぱ用心しといてよかった」

 武志はホッとした表情を見せると、こっち入ってくださいと後ろに声をかけた。手招きされて入ってきたのは、グレーの作業服姿の若い男、ハツヨの兄の栄治である。手に工員帽を握っている。続いて黒色青年同盟旭川支部長の梅原が現れた。武志が訪ねた時、栄治と一緒に事務所にいたという。

「ハツヨの兄の栄治といいます。あの、妹は?」
「二階にいますよ。義雄君、案内してくれる? 上がってすぐの部屋だから」
「はい。じゃ」

 義雄と栄治が急ぎ足で二階に上がるのを見届けて速田が言った。

「いつぞやの騒動以来だね。あんときはあんたが追われてたっけ」
「はい。その節はご面倒かけました」

 言いながら梅原の視線は文子に向かっている。

「ああ、そちらは佐野文子先生。たまたま店に来ていて……」
「ご高名は存じています。黒色青年同盟の梅原と申します。今回は、ご迷惑をかけまして」
「佐野です。迷惑なんかかかっちゃいないわよ。梅原さん、ハツヨさんのお兄さんとはいつから?」
「ああ、うちの活動員になったのは、一月半ほど前です」

 梅原によると、当時栄治は市内の食品加工の工場で働いていたが、従業員の解雇を巡って労働争議が持ち上がり、黒色青年同盟が組合員の支援に入ったという。その際、組合の役員から栄治の境遇について話を聞き、自ら活動員にならないかと誘ったと梅原は説明した。

「その時に、ハツヨさんの事も?」
「ええ。ひどい話なんで、我々の方で店主を糾弾しようと考えていたんですが、その前に店を抜け出してしまったというわけなんです」

 それを聞いて、文子の顔色が変わる。

「ちょっと。抜け出してしまったって言い方はないんじゃないの」
「いえいえ、ハツヨさんに何も罪はないのはわかっています。ただ時期的に」
「時期的って何よ。なんか気に入らないね」

 横を向いてしまった文子に、どうしたものかと梅原も顔を曇らせる。

 実は、黒色青年同盟などアナキズム系の団体は、束縛からの解放を標榜し、廃娼運動に関わる組織が少なくなかった。梅原らの旭川支部も「芸妓、娼妓相談所」の看板を事務所に掲げ、娼妓らの自由廃業を後押ししていた。
 ただアナキストによる廃娼運動ではトラックで遊郭に乗り付けたうえ牛太郎を挑発するなど、多分に自己宣伝的な行動が目立っていた。そこに、文子は反感を持っていた。
 
 一方、梅原らは、クリスチャンによる廃娼運動を生ぬるいと見なしながらも、実績にある文子には一目置かざるを得ない立場だった。
 気まずい沈黙が続く中、二階から栄治が降りてきたのに速田が気づいた。

「ああ、ハツヨさん、どうでした?」

「あの、思ったより元気で、それは良かったです」

 栄治はそう言うと、助けを求めるように梅原に近づいた。

「……支部長、やっぱり極粋会に手配が回っているようなんです。家に連れて行ってもすぐに知れるだろうし。これからどうしたら」
「栄治君、まずは落ち着くこと。奴らは奴らでメンツをかけて連れ戻しにかかるだろうが、大丈夫。うちはうちで、全力をあげてハツヨさんを守る。同盟の力は、君が考えている以上なんだ。だから奴らの好きにはさせない」
「でも極粋会に目ぇ付けられてるという意味では、あんたたちは筆頭でしょ? 大丈夫なの?」

 自信ありげに語る梅原を、速田も信用していないようだ。

「速田さん。お言葉を返すようですが、我々にはたくさんの支援者がいます。奴らには指一本触れさせません。栄治君。うちの組織で、ハツヨさんを守る。いいね?」
「……はい。それは、支部長にお任せしてますんで」
「うん、じゃ、夜になったら妹さんを連れ出そう。それまではそばに付いていてあげるんだ。僕はいったん事務所に戻って、算段を付けてくる。いいね」
「……はい、わかりました」
「速田さん。ということで、もうしばらく力をお貸しください」

 梅原の言葉に引っかかるところはあるが、断る理由も見つからない。

「ああ、それはかまわないが……」
「では、また夜に」

 速田の言葉が終わる前に、梅原はそう言って勝手口から出ていってしまった。再び気まずい沈黙が部屋を包む。

「……俺、ハツヨの様子見てきます」

 雰囲気に耐えられなくなったようにそう言ったのは栄治である。階段を登る姿が見えなくなるのを確かめると武志が言った。

「……俺、梅原って嫌いだなー。こんなことになってるのに、なんかうれしそうじゃん」

 文子、速田と思いは同じようだ。

「いいんですかね先生、あいつらに任せてしまって」
「……まあねえ、実のお兄さんがそうするって言ってるわけだし。私達にもこれと言ってあてがあるわけでもないし」

 文子は渋い表情でそう言うと、二人の顔を見ながら今回は任せましょうと続けた。

「……分かりました。……あれ、そういえば、北修さんはどうしたんだっけ? 二階に行ったっきりだよな」

 カウンターに戻りかけた速田がそうつぶやいたとき、義雄が慌てたように階段を降りてきた。

「あの、皆さん手貸してくれませんか」
「えっ、ハツヨさん、どうかした?」

 速田が大きな声を上げる。

「いや北修さんなんですよ」
「北修さん?」
「さっきおんぶして二階に行ったとき、ぎっくり腰やっちゃったみたいで。固まって動けないんです」

 三人が見上げると、手で大きくバツを作った呆れ顔の女給二人が階段の上に並んでいた。


(続く)






<注釈・第六章>



* 佐々木座
・ 旭川最初の本格劇場。明治、大正と地元興行界をリードした。その後、旭川の興行界の中心が他の地区に移ったことから衰退し、1933(昭和8)年頃、営業を終えた。


佐々木座

* 塚田武四・つかだたけし
・ 旭川生まれの詩人。小熊秀雄らの詩誌「円筒帽」の創設メンバーの一人。旧制旭川中学卒業後、放蕩の限りを尽くして生家から追放され、各地を転々とする。その後、旭川に戻るも、肺疾患により二十代の若さで亡くなった。

* 佐々木源吾・ささきげんご
・ 朝鮮に渡った後の佐々木は、大規模旅館を経営するなど成功をおさめるが、大正に入ると経営を息子に任せて旭川に戻る。旭川では茶舗と銭湯を経営するも、大正末になると今度は樺太に渡り、1928(昭和3)年、当地で死去。最後まで流転を重ねた人生だった。


佐々木源吾

* 榎本武揚・えのもとたけあき
・ 旧幕臣、のち新政府で外交官などを務めた。旧幕府軍を率いて五稜郭を攻略、函館戦争を戦ったことで知られる。

* 森田常吉・もりたつねきち
・ 幕末生まれで、房総船橋から北海道に移住した博徒の大親分。森田が組織した丸モ派は、函館を拠点に北海道全域に勢力を伸ばし、最盛期の構成員は2万人に達したとされる。

* 辻川泰吉・つじかわやすきち
・ 架空の人物。モデルにしたのは旭川の実業家、辻広駒吉(つじひろこまきち)。辻広は、元博徒の佐々木源吾が朝鮮に渡った際、佐々木が経営していた劇場の佐々木座と、料亭の第一樓を受け継いだ人物。小説の辻川が佐々木同様、元博徒であるのに対し、辻広は渡世稼業にあったことはなく、土木請負が本業だった。その後、幅広く事業を拡大したが、特に佐々木座の経営では手腕を発揮した。旭川の市会議員も勤めたことでも知られる。

* 演歌師
・ 街頭でバイオリンやアコーディオンを弾きながら演歌と呼ばれた流行歌を歌い、歌の本を売った芸人、行商人。明治末から昭和初期に多く活動した。



<注釈・第七章>



* 中家金太郎・なかいえきんたろう
・ 旭川生まれの詩人。1936(昭和11)年、旭川で結成された北海道詩人協会に参加。その後、札幌の新聞社に勤めながら詩や小説などの創作を続けた。大の酒好きで知られ、札幌出身の作家で、新聞社の同僚でもあった船山馨(かおる)の小説のモデルにもなった。

* ヌード写生会
・ 高橋北修らが設立し、小熊秀雄も参加した美術研究会「赤耀社(せきようしゃ)」が実際に行った催し。会費を集めて実施した。その模様は、小熊の短編小説に描かれている。実際には1923(大正12)年12月からの開催。

* 木彫りの熊
・ 北海道の熊の木彫りは、1923(大正12)年、道南の八雲にあった徳川農業の農民たちが始めたのが嚆矢。旭川では、その2年後、東二のモデルである松井梅太郎(まついうめたろう)が製作を始め、その後、近文コタンに広まった。

* 仲間と楽隊
・ 松井梅太郎は、大正〜昭和初期に近文アイヌの仲間たちで作った楽隊のメンバーでもあった。楽隊は活動写真館で伴奏をしたり、各地のイベントに呼ばれたりして演奏を披露した。

* 佐野文子・さのふみこ
・ 旭川での廃娼運動では、遊郭の用心棒である牛太郎に日本刀を突きつけられ、死を覚悟したこともあった。文子の助力により遊郭を脱した娼妓は10人を超えるとされている。戦時中は、国防婦人会旭川支部長としての精力的な活動が全国的に知られたことから、軍の要請を受けて上京。当時の首相、東条英機邸で家庭教師として働くという数奇な経験もした。


佐野文子

* 中島遊郭(なかじまゆうかく)
・ 現在の旭川市東1〜2条2丁目付近にあった遊郭。1907(明治40)年に営業を開始した。陸軍第七師団に隣接し、最盛期の1932(昭和7)頃には、妓楼約40軒、娼妓数200人余に上った。


中島遊郭

* 廃娼運動
・ 娼妓の人権保護の観点から、公娼制度の廃止を訴える活動のこと。また娼妓への自由廃業の啓蒙、廃業を希望する娼妓の支援なども廃娼運動の一環として行われた。

* 永山
・ この時代で言うと、旭川の北の永山村(戦後、旭川市と合併)をさす。永山村は、1891(明治24)年に屯田兵が入植し、開村した。名称は、当時の屯田兵本部長、永山武四郎(ながやまたけしろう)の名前が由来である。











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