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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

朝の食卓 2024

2024-12-23 17:11:47 | 郷土史エピソード



「朝の食卓」は、北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊で長年愛されているコラム欄です。
執筆者は北海道各地のさまざまな立場の約40名。
ワタクシもその一人です。

執筆者となって3年目の2024年は、6本のコラムが掲載されました。
振り返ると、そのうち半分はウクライナやパレスチナのガザ地区で続く戦争について触れています。
2025年こそは戦火がおさまることを願い、去年に続きこのブログに2024年版のコラムをまとめて掲載いたします。

なお「朝の食卓」は文章だけのコラムですが、ここでは関連の画像を加えています。



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(その1 2024年2月2日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)


「スタンディングデモ」


イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃の激化を受け、昨年11月と12月、旭川市中心部で行われたスタンディングデモに参加しました。
会場のJR旭川駅前広場に集まったのは、肩書のない30〜40人の市民です。
手作りのプラカードを掲げる人、控えめに太鼓やハーモニカを奏でる人、合わせてリズムを取る人、
「ガザでは子どもを含む多くの民間人が亡くなっています。一刻も早い停戦が必要です」と静かに語りかける人。
おのおのがそれぞれの方法で思いを表しました。

「大都会と違い、地方都市で暮らす立場ならこうした目立つ行動は控えた方が賢いのかもしれない。
ただ、人が無差別に殺されていくのは嫌だと小さな声でも言いたかった」。
スタンディングデモの呼びかけ人の言葉です。
その「勇気」により、私もモヤモヤと抱えていた思いを「声」にすることができました。

苦境に陥っている人に思いをはせ、その気持ちを何らかの方法で表す。
一つ一つは小さくとも、その行動の集積が事態を好転させる、世界が少しでも良い方に変わるきっかけとなる。
この世の地獄のような事態はいまだ鎮まっていません。
だからこそ、そう信じ続けることが求められていると思います。

「What is hurting is the same citizen as us(傷ついているのは、私たちと同じ市民だ)」。
私が掲げたプラカードの言葉です。



旭川でのスタンディングデモ(筆者撮影)



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(その2 2024年3月29日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)


「開拓者の魂」


道産子の私は開拓移民の末裔です。
かつて曽祖父母や祖父母が本州から先住民族アイヌが住む北海道に渡りました。

母方の祖父は最後の屯田兵の一人として、岡山県から北海道北部の今の剣淵町(けんぶちちょう)に移りました。
父方の祖母は北海道生まれですが、彼女の両親(私の曽祖父母ですね)は島根県からニセコに近い今の倶知安町(くっちゃんちょう)に移住した集団農場の一員でした。
和歌山県で林業をしていた父方の曽祖父は幼い祖父らを連れ、明治末の北海道に新天地を求めました。

足跡を調べて意外だったのは、ほとんどの家族が移住後もさまざまな土地を渡り歩いていたことです。
このうち、父方の祖母の一家は少なくとも5回、父方の祖父の家族はさらに樺太(現ロシア極東サハリン)に渡るなど、やはり5回拠点を変えています。

このように移住後も移転を繰り返した開拓民は、入植した最初の土地に定住した人たちよりもかなり多かったことが分かりました。
もちろん開拓に失敗してやむなく移動したというケースは少なくありません。
しかし、より良い条件を求めて積極的に移り歩く、というのが当時の北海道移民の基本姿勢だったようです。
ここからは、開拓の厳しい現実の一方、自らの力で道を切り開こうとするポジテイプな姿が浮かびます。

開拓民譲りの我慢強さと切り替えの早さを併せ持つとされる道産子気質。
さらに開拓1世が示したチャレンジする姿勢も忘れたくないものです。



はしけで小樽港岸壁に着いた本州からの移住者(明治30年代・北海道大学付属図書館蔵)



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(その3 2024年6月5日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)


「チャランケが足りない!」


「違った考えや信条を持つ人たちが集まり、多数決ではなくひたすら話し合い、落としどころを見つけて物事を解決していくのが真の民主主義である」。
2011年に米ニューヨークの金融街で起きた反格差の社会運動「オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)」などの活動をけん引した人類学者のデビッド・グレーバーはこう述べています。

これを聞いて思い浮かべたのが、北海道の先住民族アイヌの人たちが培ったもめ事の解決法、チャランケです。
チャランケでは、対立する双方が知恵と言葉を尽くし、納得するまで何日も徹底的に議論します。
チャランケの最中、怒って拳を振り上げでもしたら、それは即負けなのだそうです。

かつて湾岸戦争が始まった時、アイヌ文化の保存、継承に努めた萱野茂(かやの・しげる)さんが「チャランケが足りないなあ」とつぶやいたと、先ごろ読んだ本に書いてありました。

グレーバーが述べた本来の民主主義の考え方は、もともと北米の先住民族の社会にあって、後にそれが西欧の思想家の間に伝わり広がったという説があります。
ウクライナやパレスチナ自治区ガザでは戦闘が続き、市民の苦難が終息する見込みはありません。
今こそ世界はおごりを捨て、かつての「国なき社会」のありように学ばなければならない、そう強く思います。



デヴィッド・グレーバー(1961−2020・phote by Guido van Nispen )


萱野茂(1926−2006・「萱野茂―アイヌの里 二風谷に生きて」より)




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(その4 2024年8月20日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)


「奇跡のコミュニティー」


かつて薬屋だった木造の建物の奥、狭いトイレに貼られている古い新聞の切り抜きには、 「用もないのに行く、顔を出しておきたくなる場所がコミュニティーだと僕は思うんです」という文字。
ジャーナリストの津田大介さんの言葉です。

まちなかぶんか小屋は、旭川市の平和通買物公園の一角にある小さなイベントスペースです。
私にとっては、普段、歴史講座を開いているホームグラウンドのような場所です。

このぶんか小屋、もともとは空き店舗の活用事業の一環として設けられた身近な文化芸術活動の発信拠点です。
ただ、運営主体が市民による協議会に移行して10年、ここは良い意味でのファジーさを持つようになりました。

その現れがイベントのない日にも多くの人が集まることです。
それもそれぞれ異なるバックグラウンドを持った立場も年齢も多様な人たち。
その中には人とのつながりを求めてくる高齢者や若者もいます。

切り抜きの言葉のように、こうした人たちにとってぶんか小屋はなくてはならない場所になっています。
そこでは、ささやかな交わりによって、日々小さなでも大切な物語が生まれています。

そんなかけがえのない場所=コミュニティーが、自分のふるさとにあることが私の誇りになっています。



まちなかぶんか小屋(筆者撮影)



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(その5 2024年10月12日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)


「長長忌(じゃんじゃんき)」


詩人の小熊(おぐま)秀雄は、大正末から昭和初期にかけて旭川市で新聞記者をするかたわら、詩、短歌、童話、絵画、演劇など幅広い分野で地元の文化活動をリードしました。
その後、東京に拠点を移し、人間に対する鋭い洞察力を発揮した2冊の詩集を出したのち、1940年(昭和15年)、肺結核のため39歳の若さで亡くなります。

小熊がのこした作品の魅力を後世に伝えその生涯をしのぼうと、80年代からほぼ毎年行われているのが「長長忌(じゃんじゃんき)」です。
名称は、日本統治下の朝鮮半島を舞台にした小熊の長編詩「長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)」にちなんでいます。

41回目を迎える今年の集いは、今月26日、小熊生誕の地である小樽市で初めて行われます。
会場は「裏小樽モンパルナス」。
小熊が名付け、かつてアトリエ村などに多くの芸術家が集った東京都豊島区の文化圏「池袋モンパルナス」にちなんでネーミングされた新しい文化施設です。

集いには私も参加し、90歳を超えてなお小熊の詩の朗読に取り組んだ旭川市の俳優で劇団主宰者、故星野由美子さんの姿を収めた動画を紹介することにしています。

会場には道内外から小熊とその作品を愛する多くの人が集う予定です。
そうした人たちとどのような交流ができるか、いまから楽しみにしています。



小熊秀雄(1901−1940・「新版小熊秀雄全集」より)


第41回長長忌での筆者




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(その6 2024年12月7日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)


「日露戦争と祖父」


北海道北部の剣淵町(けんぶちちょう)は、隣の士別市と並び最後に屯田兵が入植した場所です。
私の母方の祖父は岡山県出身で、剣淵兵村(へいそん)に入った最後の屯田兵の一人です。

それが縁で、先日同町で講演する機会に恵まれました。
屯田兵の末裔(まつえい)という同じルーツを持つ剣淵屯田倶楽部の皆さんが招いてくれたのです。

当日は多くの屯田兵も従軍した日露戦争について語りました。
旭川市に本拠地のあった旧陸軍第七(しち)師団や一兵士だった祖父との関わりが中心です。

第七師団は120年前の1904年(明治37年)12月5日、日露戦争で最大の激戦戦地として知られる二〇三(にひゃくさん)高地の奪取に成功するなど大きな功績を上げました。
一方で死傷者は1万人を超え、多くの血が戦地に流れました。
祖父も二〇三高地に続いて、旧満州(現中国東北部)での最後の陸戦、奉天会戦で最前線に立ち、重傷を負っています。
肩などに3発の敵弾を受けたのです。

講演では、日露戦争の実態を調べたことで、改めて戦争の無茲態さ、不条理さを感じたと伝えました。
ただ1世紀以上がたった今も世界は戦争を止めることができていません。
銃弾による傷が完全には癒えず、晩年まで痛みを訴えていたという祖父。
この世界の現状を見たら何と言うか。そう考えながらゆかりの地から帰路につきました。




出征する第七師団の将兵(明治37年・旭川市立中央図書館蔵)

『「小熊愛」から生まれる』〜小熊秀雄協会会報寄稿〜

2024-06-28 13:07:56 | 郷土史エピソード

久々の投稿です。
といっても記事ではありません。
今回は「小熊秀雄協会」の会報(第33号)に寄稿した『「小熊愛」から生まれる』の全文を掲載します。

「小熊秀雄協会」は、旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄を愛する人たちで作る団体です。
小熊の毎年の命日に、長長忌という集まりを開くなど、詩人の活動を後世に伝えるさまざまな活動をしています。
ワタクシもことし会員に加えていただきました。

なお「小熊秀雄協会」は、年会費1000円で加入することができます。
小熊を愛する方、興味を持っている方、ぜひご検討ください!



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「小熊愛」から生まれる  旭川郷土史ライター&語り部・那須 敦志


放送記者としてのキャリアの晩年、NHK旭川放送局に勤めていた頃から、ふるさとである旭川の郷土史情報を発信する活動を始め、10年あまりになります。
手法は、ブログやnote、YouTubeなどネットでの発信に加え、雑誌や新聞への寄稿、執筆などさまざまです。
退職後の現在は、年6〜10回の歴史講座も開催しています。

その私のホームタウン、旭川で小熊秀雄が活動したのは、大正11(1922)年から昭和3(1928)年までの約6年間です。
短い間ですが、新聞記者でもあった当時の彼は、幅広い分野で地元の文化・芸術活動を牽引しました。
その足跡は、かつて北都と呼ばれた北海道第2の都市にくっきりと刻まれています。



画像・小熊秀雄(1901−1940)


優れた表現者の作品や生き様は、後世に長く影響を与えます。
そしてそのなかから新たな作品や取り組みが生まれることが少なくありません。
旭川の場合、その典型例は、言うまでもなく、小熊と、彼をリスペクトするさまざまな個人・団体の活動です。

その先駆けは、昭和20年代に始まった佐藤喜一(さとうきいち)らによる小熊研究の取り組みとなりましょう。
彼らの地道な努力による成果は、のちの小熊全集の出版などにつながります。



画像・佐藤喜一著「小熊秀雄論考」(昭和43年)


昭和40〜50年代で特筆されるのは、旭川の劇団「河(かわ)」の活動です。
「河」は、劇作家、清水邦夫(しみずくにお)との共同作業などで、当時、中央の演劇界からも注目を集めた劇団です。
この時期、「河」は、小熊の長編叙事詩「長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)」や「飛ぶ橇(そり)」の群読、同じく小熊の童話「焼かれた魚」をベースに、さまざまな現代詩をコラージュした実験的な舞台「詩と劇に架橋する13章」など、意欲的な舞台創作を繰り広げます。



画像・「河」による長長秋夜の群読(昭和40年代か)


画像・「詩と劇に架橋する13章」の舞台



昭和55(1980)年には、上京前日の小熊と妻つね子の葛藤を描いたラジオドラマ「小熊秀雄の出奔(しゅっぽん)」が、「河」のメンバーの出演によりNHK旭川局で制作されています
(ドラマは、地元在住の北けんじが書き下ろし、のちにNHKの専務理事を務める当時の新人ディレクター、木田幸紀(きだゆきのり)が演出しました)。

この他、昭和43(1968)年に旭川市によって創設された詩の文学賞、小熊秀雄賞が、旭川文化団体協議会から小熊秀雄賞市民実行委員会によって引き継がれ、半世紀以上の歴史を重ねていることは広く知られているところです。

こうして続く旭川での「小熊愛」から生まれる取り組み。
実は私も、総合プロデューサーと脚本を担当した令和3(2021)年の旭川歴史市民劇に小熊を登場させました。

その作品、「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」は、大正末〜昭和初期の旭川が舞台の群像劇です。
架空の10代の若者たちが、小熊ら当時旭川で活躍していた実在の人物と出会い、さまざまな経験をする中で自らの生きる目標を見つけます
(劇のエンディングは、小熊の詩「青年の美しさ」を登場人物全員が一節ずつ朗唱するという演出でした)。



画像・旭川歴史市民劇の舞台(2021年)


小熊は、主に劇の前半で重要な役回りを担いますが、そのなかに、当時10代で、やはり旭川にいたのちの歌人、齋藤史(さいとうふみ)と言葉を交わすシーンがあります
(実際の2人も、同じ短歌の勉強会に所属するなど面識がありました)。
このなかで、小熊に上京の意思が固い事を知った史は、「良い仲間がいて仕事もある旭川を何故離れるのか」と問いかけます。
これに対し小熊は、「弱い私は温かいところにいると自分と向き合えない。本物の詩は書けない」と答えます。
そして創作がそうした不自由なものなら自分はやりたくないという史に、「それが私の業(ごう)であり、使命なのですよ」と告げます。

この「使命」という言葉、この場面を書いているうちに自然と出てきました。
劇にはさまざまなテーマが折り込まれていますが、特に重要なのが「人にとって使命とは」という問いです。
そして先程の台詞に小熊はこのように続けます。
「あなたにはあなたの使命があるように」。
この言葉を受け止め、やがて史も短歌の道を歩むことを決意します。
こうした一連の台詞や展開、詩人としての生涯を燃焼尽くした小熊が、私に書かせてくれたものと感じています。



画像・旭川歴史市民劇の舞台(2021年)


旭川では、去年も、地元在住の漫画家、日野あかねさんによる小熊の生涯を描いた初の漫画作品「漫画 詩人小熊秀雄物語」が発表されて話題を呼びました。
ゆかりの地、旭川からは、今後も「小熊愛」から生まれるさらなる取り組みが続いていくに違いありません。



画像・旭川新聞の記者時代の小熊




(「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の脚本は、2021年刊行の拙著「旭川歴史民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ ―コロナ禍中の住民劇全記録―(中西出版)」に掲載されています。また物語は「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ(デザインエッグ社)」でも読むことができます)。





「朝の食卓」2023

2024-01-03 14:04:34 | 郷土史エピソード
「朝の食卓」は、北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊で長年愛されているコラム欄です。
執筆者は、北海道各地で活躍するさまざまな立場の約40名。
ワタクシもその一人です。
執筆者となって2年目の2023年は、郷土史関連を中心に5本のコラムを書きました。
そこで去年に続き、このブログにも、2023年版「朝の食卓」コラムをまとめて掲載いたします。

なお「朝の食卓」は文章だけのコラムですが、このブログでは関連画像を加えています。




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(その1 2023年1月19日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「どちらいか」

「どちらいか」。
今ではほとんど聞かなくなりましたが、旭川や周辺で昔から使われている言葉です
(「どちらへか」という場合もあります。読みは「どちらえか」です)。
何かお礼を言われた時などに「いえいえ、どちらいか」と使います。
「どういたしまして」「こちらこそ」という意味ですね。
もともとは徳島で使われてきた方言だそうです。
徳島は、旭川の基盤となった二つの屯田兵村のうち、永山兵村への移住者が特に多かった土地です。
これが旭川で「どちらいか」が使われるようになった背景のようです。
実は、このことは旭川市の博物館に勤めていた知人から教わりました。
彼は道東の出身で、旭川生まれの先輩職員が電話口で聞き覚えのない言葉を使っているのを聞き、興味を持って調べたのだそうです。
「最初に聞いたときは、一瞬『ロシア語?』と思いました」。
知人が真顔で言うので、私は噴き出してしまいました。
確かに東欧圏の国の言葉にありそうな語感です。
と言っても、この「どちらいか」は、四国にルーツのある言葉です。
ただ、私には北海道にふさわしい言葉と思われます。
厳しい自然環境の中で、お互いに助け合って生きることが不可欠だった先人たちの心意気が伝わってくるからです。
大正生まれの旭川っ子だった亡き母は、よく何かのお礼を言われた時、「いいえ、なんもです。どちらいか」と頭を下げていました。
その姿が今も目に浮かびます。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像01 永山屯田兵村(明治30年代・旭川市中央図書館蔵)




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(その2 2023年3月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ヤマニの兄貴」

「ヤマニの女は人殺し女子 胸を突こうか首切りましょか イッソ! とどめを えェ刺しましょか」。
芝居のせりふではありません。
大正末期から昭和初期にかけて、旭川にあったカフェー「ヤマニ」の新聞広告のコピーです。
この刺激的な文章を考えたのは、オーナー店長だった速田弘です。
通称「ヤマニの兄貴」。
試験放送を始めたばかりのラジオを客集めに利用するなど新機軸を打ち出し、店を旭川一の人気店に育てました。
彼の特徴はマルチな能力です。
新聞広告ではカットも自ら描きました。旭川初の弦楽アンサンブルではチェロも弾きました。
そんな多才さを武器に当時の飲食業界に新風を吹かせた速田。
しかしその後は波乱の人生を過ごします。
まず1933年(昭和8年)。
満を持してレストランとカフェーを併設した新店舗を出しますが、戦時色の強まりにつれ、経営は悪化。
翌年、多額の負債を抱えた速田は自殺を図ります。
一命は取り留めたものの、旭川から姿を消した彼でしたが、戦後は銀座を代表する高級クラブ「シローチェーン」を創業し、大成功を収めます。
「花の東京」を舞台に実業家として鮮やかな復活を果たしたのです。
先日、旭川で開催している歴史講座で速田について紹介したところ、「そんな人が旭川にいたなんて勇気が出ます」と目を輝かして話してくれた方がいました。
地元生まれのこの魅力的な実業家がさらにどんな人生を歩んだのか、引き続き調べるつもりです。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像02 速田弘(1905−?・旭川新聞・昭和9年12月3日)


画像03 カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)


画像04 ヤマニの広告(昭和6年・旭川新聞)


画像05 シローチェーンの広告(昭和29年・日劇ミュージックホールパンフレットに掲載)





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(その3 2023年5月17日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「伝説のママ」

上京のたびに顔を出していた新宿ゴールデン街の小さな店が閉まると聞いたのは、2年前のことです。
店の主は、ゴールデン街の伝説のママと呼ばれていた根室出身の佐々木美智子さん(89)。
コロナ禍で社会が大きく動揺していた時期で、ソーシャルディスタンス(社会的距離)など取りようもない店だけに、やむを得ないと思ったことを覚えています。
その佐々木さんは、伝説のカメラマンでもあった人です。
先日、札幌で開かれた写真展を見に行きました。
会場には、1960年代の日大闘争で全共開の学生に同行して撮影した作品や、原田芳雄さんが主演し、74年に公開された映画「竜馬暗殺」で担当したスチール写真などが並んでいます。
見ていてあることに気付きました。
ほぼ全ての作品に人が写っているのです。
そういえは、今回の写真展のタイトルは「出逢い」。
彼女の生きざまを雄弁に物語っているように感じました。
会場で約3年ぶりにお会いした佐々木さんは、少女のように目を輝かせていました。
聞けば、コロナ禍によってできた時間を利用し、一時期暮らしたブラジルで撮りためた写真を竪理して写真集を出したとか。
表現者としての枯れることのないエネルギーに、大いに刺数を受けました。
写真展は20〜28日に道立函館美術館(22日休み)、6月7〜11日には佐々木さんの故郷、根室市の総合文化会館でも開かれる予定です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像06 佐々木美智子さんの写真展(2023年5月・札幌)


画像07 写真展会場でのトークショーの佐々木さん





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(その4 2023年7月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「賢治来訪と歴史探求」

8月2日は、1923年(大正12年)に宮澤賢治が旭川を訪れてから、ちょうど100年に当たります。
これに合わせて、出版社の未知谷から刊行されたのが、旭川市中央図書館の元館長、松田嗣敏さんの「宮澤賢治✕旭川 心象スケッチ『旭川。』を読む」です。
賢治の旭川訪問は、教え子の就職依頼と前年に病死した妹トシをしのぶ傷心旅行で、樺太に向かう途中の出来事です。
その体験は「旭川。」という28行の詩にされています。
この来訪についての私の知識は、賢治が農事試験場を見学しようと旭川に寄ったものの、郊外に移転していたため、再び汽車に乗って稚内に向かったという単純なものでした。
ところが、この本によると、賢治が旭川に着いたのは朝5時前、稚内行きの列車が出たのが正午前。
滞在時間は7時間もあったのです。
ならば時間的には移転した試験場に行くこともできたのではないか。
松田さんは、当時の時刻表に加え、同時代に書かれた手記などを参考に、移動に使った馬車の推定経路や速度まで割り出しながら可能性を探っていきます(結果はネタバレになるので香きません)。
さらに詩に香かれた一つ一つの事象や言葉も細かく分析し、考察を深めていきます。
それはまるで、探偵による謎解きのようです。
歴史研究では、なかなか実証できない事実がたくさんあります。
その際は明らかになっている事実から、一つ一つ推論を積み上げて実相に迫ります。
そうした歴史探求の醍謝味と面白さを存分に感じさせてくれた著者に感謝です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像08 宮沢賢治(1896−1933・「宮澤賢治全集第2巻(詩 坤巻)(近代日本人の肖像より)」


画像09 松田さんの著書






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(その5 2023年10月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「漫画になった小熊秀雄」

「旭太郎」という名前を知っていますでしょうか。
詩人の小熊秀雄が、かつて住んだ旭川にちなんで付けたペンネームで、漫画の台本を書いた時に使っていました。
この台本のうち、1940年(昭和15年)刊行のSF漫画「火星探検」は、若き日の手塚治虫や小松左京に影響を与えたほどの出来栄えでした。
その傑作の刊行から80年余りたった今年、小熊の生涯を描いた初の漫画作品「漫画 詩人小熊秀雄物語」が刊行されました。
描いたのは旭川在住の漫画家、日野あかねさんです。
きっかけは、私が開いている歴史講座で旭川時代の小龍について詳しく知ったこと。
当時も評判だった小熊のイケメンぶりにも創作意欲が高まったそうです。
漫画は樺太で過ごした少年時代から始まり、新聞記者として活躍した旭川での20代、詩人として名をあげたものの病魔におかされた東京時代へと展開。
短い生涯を駆け抜けた詩人の姿が、史実をベースに、時に思い切り妄想を膨らませて描かれています。
旭川で知り合った妻のつね子や詩人仲間との絆にもスポットが当てられています。
優れた表現者の生きざまは、時代を超えて多くの人に刺激を与え、新たな作品や活動が生まれます。
この漫画で描かれている小熊の歩みもその一つだと感じました。
漫画は電子版(Amazon)で読めるほか、旭川の出版社「あいわプリント」に注文できます。
若い世代にも小熊のことを知ってもらうきっかけになるのでは、と期待しています。
(旭川郷土史ライター&語り部)





画像10 小熊秀雄(1901−1940・「新版小熊秀雄全集」)


画像11 日野さんの漫画の宣伝チラシ





「朝の食卓」2022

2022-12-23 16:42:34 | 郷土史エピソード



北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊には、長年愛されている「朝の食卓」というコラム欄があります。
北海道各地で活躍するさまざまな立場の方々、約40名が執筆しています。
ワタクシもことし(2022年)から執筆陣の一人に加えていただきました。

コラムでの肩書は「旭川郷土史ライター&語り部」。
その郷土史関連の話を中心に、ことしは10回書かせていただきました。

ただこのコラム、伝えるのは文章だけで、写真など画像はなしです。
初回のコラムにも書いていますが、ワタクシはもともとテレビ畑の出身。
何かを伝えるには、まず画像や動画でと考える癖がついています。
このためどうなるものかと考えていましたが、文章だけで表現するのは普段とは違った感じで新鮮でした。

また新聞のコラムということで、「掲載する時期」を意識した内容のものを書く楽しみもありました。
例えば、3回目はその時期強いショックを受けていたウクライナ侵攻について、4回目はその月が没後20年だった齋藤史さんについて、5回目はその月にオープン50周年だった買物公園について、などです。

ということで、今月は1年の区切り。
今回、このブログにも、2022年に掲載した10回分のコラムを載せることにしました。

なおこのブログでは、一部、関連画像を加えています。
合わせてお楽しみいただけると幸いです。




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(その1 2022年1月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「文章だけで」

すでにリタイアしていますが、長年、テレビの世界で過ごしてきた人間です。
たたき込まれたのは、論より証拠。
ひと目でわかる映像の重要性です。
たとえば、何か社会的な問題があったとします。
記者やディレクターは、こういう弊害がありますと、ただ説くことはしません。
実際に問題が起きている現場にカメラを入れ、その生の実態を映像に記録します。
そうしないと説得力がないからです。
ただ映像には、わかりやすい反面、誤解を与えたり、ときには悪用されたりする欠点もあります。
そうしたことを踏まえても、何かを伝えるにはやはり有効な手段です。
私がふるさと旭川の歴史について、講座やブログ、著作等で情報発信を始めて、もう10年になります。
この活動でも、できる限り映像=写真や動画をお見せしながら話を進めるようにしています。
お伝えするのは、普段なじみのない昔の出来事や人々のこと。
なおさら受講者や読者の皆さんとイメージを共有することが必要だからです。
ただ実を申しますと、「お話」だけで理解してもらえるほど、自分の文章や語りに自信がないという事情もあるのです。
ということで、書かせていただくことになりました「朝の食卓」。
もちろん画像や動画は使えません。
文章だけでどこまで思いを伝えることができるのか、チャレンジのつもりで取り組みたいと思っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)




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(その2 2022年2月10日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「那須の村」

数年前から祖先について調べています。
まだ道半ばですが、いろいろなことが分かりました。
中でも驚いたのが、私が生まれる少し前に亡くなった祖父、那須半蔵についてです。
半蔵は、1873年(明治6年)、和歌山県西牟婁郡長野村(いまの田辺市長野)で生まれ、1904年(明治37年)に旭川に本籍を移しています。
そのことが書かれた戸籍を見ていて、あることに気付きました。
半蔵の2人の妹は同じ村内に嫁いでいますが、ともに嫁ぎ先の性は那須。
母親も同村出身で、旧姓はやはり那須。
さらに戸籍には、記載事項の末尾にその時点の首長の印が押されますが、それも多くが那須なのです。
つまりは、那須だらけです。
調べてみると、旧長野村には、弓の名手として知られる平安末の武将将、那須与一の伝説があることが分かりました。
地区には与一の墓とされる石塔や、子孫が建てたという寺社があります。
明治になって全国民が名字を持つことになった際、地元ゆかりの著名人の性を名乗った人は少なくありませんでした。
この地区でも那須を名乗った人が多かったと思われます。
実はわが家と同じ宗派である与一ゆかりの寺に問い合わせたところ、半蔵の父母(私の曽祖父母です)や兄の位牌が、永代供養のため寺に預けられていることが分かりました。
この位牌に手を合わせるため、熊野古道のお膝元である同地を訪ねたいと思っています。
その際には、いまも地区にいるたくさんの那須さんに会えるかもしれません。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像01 那須与一(「源平合戦図屏風)より)




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(その3 2022年3月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ウクライナ侵攻に思う」

旭川は、戦前、旧陸軍第七師団の本拠地でした。
ですので、その歴史を振り返るとき、戦争との関わりを欠かすことはできません。
その第七師団の将兵が、初めて実際の戦場に立ったのが日露戦争です。    
1904(明治37)年2月に始まった戦争では、多くの死傷者を出しながらも日本軍が優勢を保ちます。
ただ大国ロシアの皇帝ニコライ2世は、戦局の巻き返しに自信を見せ、シベリア鉄道で戦場である南満州(いまの中国東北地方)に大量の兵を送るとともに、自慢のバルチック艦隊を極東に派遣していました。
そんな皇帝の態度を一変させたのが国内事情です。
戦争の長期化に伴う物価の上昇や労働環境の悪化で、民衆の不満が高まったのです。
開戦の翌年1月には、首都サンクトペテルブルグでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。
一気に高まった革命の気運に押されるかのように、ニコライはルーズベルト米大統領の斡旋を受け入れ、日本との講和に同意します。
先月、こうした日露戦争の推移を、旭川との関わりを中心にブログに掲載し始めた直後、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。
主導したプーチン大統領の姿は、権力を一身に集めたかつての皇帝と重なって見えます。
その蛮行を止めるには、日露戦争のときと同じく、ロシア国内での反戦の高まりが必要と多くの識者が指摘しています。
求められているのは、ウクライナの人たちに加え、侵攻に抗議するロシアの人々との連帯です。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像02 日露戦争に出征する第七師団の将兵(1904年・旭川市中央図書館蔵)


画像03 血の日曜日事件(1905・「図説 日露戦争」より)





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(その4 2022年4月28日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「齋藤史と旭川」

現代短歌を代表する歌人、齋藤史(ふみ)は、生前、2度旭川で暮らしました。
1度目は、1915年(大正4年)からの5年間。
父、瀏(りゅう)が、当時旭川にあった陸軍第七師団に異動したのに伴い、小学生時代を過ごしました。
瀏は、職業軍人であり、歌人でもありました。
2度目は、やはり父の旭川勤務に伴う1925年(大正14年)からの2年間です。
このとき、史は高等女学校を卒業して間もない多感な年頃でした。
この2度目の旭川暮らしの際、史は瀏を訪ねてきた歌人、若山牧水と出会います。
牧水は齋藤家に4泊し、感性の鋭さを見せる史に作歌を勧めます。
のちに史は、それが本格的に短歌の道に進むきっかけになったと繰り返し述べています。
一方、1度目の旭川滞在のとき、史の幼馴染に、のちの二・二六事件で決起し、処刑された栗原安秀、坂井直(なおし)の2人がいました。
事件では、彼ら青年将校を支援したとして、瀏も禁固刑を受けます。
きょうだいのように育った友人たちの刑死と父の収監。
事件は、生涯に渡り、史の創作上の大きなテーマとなりました。
「物語を持った最後の歌人」。
史はそう呼ばれています。
二・二六との関わりと牧水との交流、そのどちらにも旭川という土地が絡んでいることに感慨を覚えます。
2002年に93歳で亡くなった史。
4月26日は、それからちょうど20年の節目でした。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像04 齋藤史(1909−2002)


画像05 若山牧水(1885−1928)





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(その5 2022年6月6日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「買物公園50年」

旭川駅前から約1キロに渡って続く平和通買物公園。
今月1日で誕生から50年の節目を迎えました。
買物公園ができた時、私は中学2年生でした。
地元にできた全国初の恒久歩行者天国。
子供ながらも誇らしく思ったのを覚えています。
その買物公園、実は完成の3年前、実際に通りから車を締め出す大規模な社会実験がありました。
夏休みに合わせて行われた12日間の実験では、いつもは1日に1万5千台もの車が行き交う通りに、イスやテーブル、遊具や花壇などが並べられ、大勢の市民が繰り出しました。
日本の歩行者天国は、1970年、東京の4か所の繁華街で始まったことで知られるようになります。
この実験はその前の年の出来事。
歩行者天国に関しては、まさに旭川がトップランナーだったわけです。
ところで買物公園の誕生の背景には、事故の増加や排気ガスによる大気汚染の深刻化など、急速に進んでいたモータリゼーションへの深い懸念がありました。
そこで打ち出されたテーマが「人間性の回復」。
このためかつての買物公園では、愛らしい姿の原始人の家族がイメージキャラクターになっていました。
(旭川郷土史語り部&ライター)



画像06 買物公園の実験(1969年8月・旭川市中央図書館蔵)


像07 イメージキャラクターの原始人のイラスト





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(その6 2022年7月16日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「市制100年」

100年前にあたる1922(大正11)年8月1日、札幌、函館、小樽、旭川、室蘭、釧路の道内6都市は市になりました。
一斉に市になったのには訳があります。
明治政府は、1888(明治21)年に市制を定めた一方、開拓が始まってまもない北海道や沖縄県には適用しませんでした。
代わりに設けられたのが北海道区政です。
この制度のもと、1899(明治32)年に札幌区、函館区、小樽区が誕生し、大正時代に入ると、旭川、室蘭、釧路も区となりました。
その後の法律改正で、本州並みに市が誕生したのが1922年だったというわけです。
各自治体では、祝賀会やちょうちん行列、花電車の運行など祝賀行事が催されました。
区制時代は、区長が区議会議長も務めるなど、市に比べると自治権に制約があり、不満が溜まっていたことがうかがえます。
ただ、私の地元、旭川を見ますと、市制施行の8年前にあった町から区への移行の際の記念行事の方が、盛大でした。
不思議に思って調べますと、町時代の旭川は、先行して区となった札幌などに追いつきたいと、地域をあげて道や国に働きかけていたことが分かりました。
新旭川市史によると、中島遊郭をめぐり、設置を推進した道長官と、反対した旭川町長が対立し、町長が「道庁の横暴」を政党や報道機関に訴えたことで、道との関係が険悪になり、区制施行の要望まで道に拒否された時期もありました。
このような紆余曲折あって、努力が実ったのは、旭川で区制移行の運動を始めてから7年後。
市よりも区の誕生の方の喜びが大きかったのは、そうした事情が影響したものと考えています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像08 区制実施祝賀会当日の旭川区役所(1914年・「旭川区世実施祝賀会記念写真帖)より)


画像09 市政移行を伝える新聞記事(1922年・函館毎日新聞)


画像10 看板をかけ替えた旭川市役所(1922年・北海タイムス)





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(その7 2022年8月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「坂本直寛と旭川」

坂本龍馬のおいの坂本直寛(なおひろ)は、移民団体「北光社(ほっこうしゃ)」を作った北見開拓の先駆者であり、旭川ともゆかりの深い人物です。
直寛は故郷の高知でキリスト教の洗礼を受け、北海道移住後は布教活動に力を注ぎました。旭川には、1902年(明治35年)年に伝道師として赴任、6年余りを過ごしています。
当時、旭川には、米国人宣教師、ピアソン夫妻がいました。直寛は2人が取り組んでいた遊郭の設置反対や、遊郭で働く女性を救う廃娼運動にも協力します。
その直寛が、旭川の別の教会に通う2人の青年の訪問を受けたのは、赴任から3年余り後、すでに牧師となっていた頃のことです。2人の真剣なまなざしに胸を打たれた直寛は、教派を超えた特別な祈祷会を開くことを約束します。
この時の青年の一人は、鉄道員で、名前を長野政雄と言いました。直寛との出会いから3年後、彼は和寒町の塩狩峠で、客車の暴走を身を賭して食い止めます。この殉職は三浦綾子の小説「塩狩峠」で描かれ、多くの人の知るところとなりました。
直寛は坂本家の5代目の当主で、一家で北海道への移住を決断した人物です。このため蝦夷地の開拓に情熱を持っていた叔父、龍馬の夢を受け継いだと言われています。
旭川では、来月、全国各地にある龍馬を慕う団体 「龍馬会」の会員が集う「龍馬 world in 旭川」が開かれます。これを機会に、龍馬の子孫が地域に残した確かな足跡についても知っていただきたいと思っています。(旭川郷土史語り部&ライター)



画像11 坂本直寛(1853−1911・「坂本直寛の生涯」より)


画像12 三浦綾子著「塩狩峠」


画像13 塩狩峠の殉職碑





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(その8 2022年10月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「新旭川市史」 

旭川の宝と言えば何を思い浮かべるでしょうか。
実は私が密かに宝と思っているのが、郷土の歴史を綴った「新旭川市史」です。
「新旭川市史」は、開村100年の記念事業として1988年に編さんが始まりました。
これまでに通史と史料など8巻が刊行されています。
郷土史の情報発信をしている私は、道内各地の市町村史に当たることがよくあります。
その経験から言いますと、質、量ともに横綱級なのは札幌、函館、旭川の各市史。
なかでも「新旭川市史」は詳しいうえに一つ一つの史実の捉え方が深いといつも感心しています。
その旭川の市史、残念なのは、財政悪化等の理由で、2012年度以降、編さんが休止したままになっていることです。
このため道内の他の主要都市ではほぼ終えている戦後編の刊行の目処が立っていません。
ところが先日、うれしいニュースが入ってきました。
「戦後から平成の始まりまでは、残さなければならない責任が私たちの世代にはある」と、市長が編さんを再開する意向を明らかにしたのです。
マチの歴史は、そこで生きた先人たちの活動の集積です。
それを知ることは、地域の今を見つめ直し、将来を考えることにつながります。
市町村史は、いわばまちづくりの礎石のようなものです。
長いブランクによって編集担当者の高齢化が進むなど、再開には多くの課題があります。
ですが、市には、これまでの取り組みをしっかりと受け継ぎ、ぜひ「宝」にふさわしい戦後編を作ってほしいと願っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像14 新旭川市史




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(その9 2022年11月11日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「命根性」 

今年、生誕100年を迎えた三浦綾子さんの自伝小説を読んでいて、久々にある言葉に出会いました。
「命根性が汚い」。
生への執着心が強いという意味ですね。
子供の頃、大人たちがしばしば口にしていました。
「あいつは本当に命根性が汚い」と罵ったり、「私は命根性が汚いから」と卑下したり。
ただ話をよく聞くと、その汚さは、健康のために人より少し多くお金や気を使うといった程度なのです。
それなのに大人たちは、非常な罪であるように断ずるのです。
綾子さんも、子供時代に死について深く考えたことだけを理由に、「自分は命根性の汚い人間だと思う」と書いています。
では、なぜ生に執着することがそんなにも良しとされなかったのか。
背景には「時代」があったのではないでしょうか。
私の親世代が生まれ育ったのは、今よりも人の命が軽かった時代です。
特に自然環境が厳しく、命を守る社会インフラも乏しかった北海道は、その傾向が顕著だったと思います。
「命根性が汚い」と戒める言葉の底には、困難に立ち向かう、時には死をも恐れない気概、覚悟のようなものを持つべきだ、という考えがあるような気がします。
実は、大人たちの言葉で「命根性が汚いのは恥」と意識付けられた私は、命根性が人一倍汚いにもかかわらず若い頃から不摂生を続けました。
その結果、いま多くの生活習慣病を抱えて病院通いをしています。
「口ではああ言ってるが、実はみんな命根性が汚いんだよ」。
あの頃、誰かが耳打ちをしてくれていたら。
そう思わずにいられません。
(旭川郷土史ライター&語り部)




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(その10 2022年12月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「老いと向き合う」

かつて放送されたNHKのドキュメンタリーに、落語家の故立川談志師匠に密着した秀作があります。
その中に、師匠が畳の上で胎児のように体を丸め、頭を抱え込んでいるシーンがあります。
この時、師匠71歳。老いに伴う心身の衰えに、苦悩の余り悶絶しているのです。
最初に番組を見た時、私は50歳でした。
その時は、なぜそこまで師匠が苦しむのか理解できませんでした。
でも15年経った今は違います。
年をとりできない事が増えてくるのはつらいものです。
それまでの人生が、できない事をできるようにする、何かを獲得する、それと同じ意味だったからです。
それは師匠のような天才でなくとも同じです。
このような人の衰えを、かつて「老人力」と言う言葉で救おうとしたのが、やはり故人の赤瀬川原平氏です。
つまり、物忘れが増えるのも体力や判断力が弱まるのも、すべて「老人力が増したから」というわけです。
私はまだ氏のように老いを笑い飛ばす境地にはなっていません。
むしろ恐れがかなり勝っています。  
実は先日、図書館に行く途中、返す本を忘れたのに気付き、「まあいいや借りるだけでも」とそのまま向かったら、熟知しているはずの休館日だったという出来事がありました。
こうしたことはたまにあって、いつもなら半日は落ち込みます。
ただこの日は「何やってんだオレ」と一瞬は癇癪を起こしましたが、じきに落ち着く事ができました。
「まあこんなこともあるさ」というわけです。
これは果たして良い傾向なのか、否なのか。
考えましたが、結論は出ていません。
(旭川郷土史ライター&語り部)


 

画像15 赤瀬川原平著「老人力」








小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第十章・第十一章

2022-09-09 09:34:30 | 郷土史エピソード
<はじめに>


「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。
今回はいよいよ最終回、第十章と第十一章です。

この2章は、後日譚を含む物語のエピローグです。
このうち最終十一章の舞台は、石狩川と大雪山を望む景勝地、嵐山(あらしやま)です。
嵐山とその周辺は、アイヌ民族にとっての聖地です。
また旭川という街の成り立ちを考えますと、その開発に向けた構想が立ち上がった、まさに一歩目が刻まれた場所でもあります。
先人たちがそこから望んだ大雪の山々の姿は、百数十年経った今も変わっていません。
最終章は、そんな思いで書きました。

今回、初めて小説に挑戦しました。
脚本のときも登場人物の動きなどを頭の中で描きながら書くのですが、小説では、表情や声のトーンなど、その作業をより細かくする必要がありました(脚本では、そこは役者さんに委ねられます)。
同じく、シーンが展開する場所=建物や部屋の様子などもより詳細に思い浮かべ、言葉に置き換えなければなりません。
なので、書きながら、「役者」としてそれぞれの登場人物を演じ、さらに「演出家(舞台美術や音効も含め)」として、物語の世界を具体化するのが、小説の作業という印象を持ちました(特に、今回は脚本を元にした小説でしたので)。
芝居作りは共同作業の積み重ねですが、小説はすべてを一人で完結させる。
チャレンジしたおかげで、どちらの作業にもそれぞれの魅力があると感じることができました。

それでは今回も最後までお付き合いください。




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第十章 昭和二年九月 カフェー・ヤマニ



 平原のまん中に
 洋燈(らんぷ)のやうに
 輝いている街
 光を増し、光を増し、
 延びに延び、ひろごり、
 高くその燈火(あかり)をかかげて、
 陽(ひ)の御座(みくら)を占める街、
 光栄の町、
 この町に祝福あれ!                       

               (百田宗治「旭川」)




 旭川一の繁華街、四条師団道路にあるカフェー・ヤマニ。いつもなら昼営業でもそれなりに客が来る日曜日だが、きょうは「本日、昼営業は貸し切り」と書かれた紙が表に貼られている。

 店内では、店主の速田と女給たちに加え、義雄、武志、東二が宴会の準備に追われている。カウンターの前には、いつものツーピースを着た文子がいて、ハツヨ、栄治の兄妹と談笑している。奥のテーブルでは、なぜか碁を打っている二人。どうやら北修に市太郎が付き合わされているらしい。そこに武志がやってきた。

「北修さん、碁なんてやってないで、こっち来てくださいよ。もうじき始まるんだから」
「おれ、今回何もやってないしよ。部外者だべ」

 北修が拗ねたようにそう言うと、後ろから義雄も声をかけた。

「何言ってんですか。きょうはハツヨちゃんと栄治さんの就職を祝う会なんですから。北修さんがこっちにこないと、神田館の大将だって」
「……そうか? 大将、行きます?」
「行こうよ。あっちの方が絶対いい」

 やはり早く切り上げたかったようだ。

「んー、じゃ行くか」

 二人がメインテーブルに来ると、飲み物などを運んでいた女給たちが歓声を上げた。

「キャー、神田館の大将と北修さんだー」
「キャー、スケベ―」

 賑やかな声を聞いて、他の出席者もメインテーブルの近くに集まってきた。その一人一人に飲み物が入ったグラスが回される。
 様子を見て口火を切ったのは進行役を勤める速田である。いつもはショーなどを行うミニステージに上がると、こほんと一つ咳払いをした。

「……はい、皆さんご準備はよろしいでしょうか? ……改めまして、本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。きょうは、江上栄治君とハツヨさんの就職がめでたく決まったことを祝しての集いであります」
「もう結構前から働き始めてますけどね」

 武志が茶々を入れると、速田が引き取って続けた。

「そうなんだけど、ま、見習い期間が終わって、正式に採用されたってことなのさ。……では、佐野先生、乾杯のご発声を」

 江上兄妹の隣りにいた文子が、えー、私聞いてないと声を上げる。

「いや、だって二人の就職世話したの、先生じゃないですか」
「それは、そうだけど」
「みんな、のど渇いてるんで、ちゃっちゃとお願いします」

 速田がそう言って促すと、幾分照れながら文子がステージに上がった。手にはジュースのグラスを持っている。

「それではご指名いただきましたので、ひとことだけ。栄治君、ハツヨちゃん、就職おめでとう。いろいろあったけどって言いたいところだけど、きっとこれからも二人の前にはたくさんの壁が立ちふさがると思う。だからちょっとずつでもいいから強くなって。で、その分、ほかのみんなが困った時は、助けてあげて。それだけ。じゃ、みんないい? 二人の前途を祈って」

 文子がグラスを掲げて乾杯と声を上げると、皆が唱和した。
 集いが始まると、さっそく江上兄妹のところに祝福に行くもの、テーブルに置かれたオードブルに手を伸ばすものなどさまざまである。女給からビールをついでもらい上機嫌の北修と市太郎のところに速田がやってきた。

「北修さん。瓶ビールで大丈夫ですか? 生の方が良かったですか?」
「いやいや、昼間っから飲めるだけで十分十分」
「……でも早いですね。あの騒動からもう三か月」

 自分も女給にビールをついでもらいながら速田が振り返る。

「そういや、極粋会と黒色の手打ちはここでやったんだって?」

 グラスのビールを飲み干すと、北修が言った。

「はい、そのとおりです。極粋会から辻川会長が来て、警察署長さんが仲介役で。黒色の方は、小樽から幹部が」
「小樽? なんで?」
「梅原があれ以来いなくなっちまったからですよ。奴さん、東京に戻ったようです」
「片岡は懲役三年だそうだね。その程度だったんだ」

 尋ねたのは市太郎である。

「はい。会長に付き添われて自首しましたし、栄治君も思ったより軽いけがで済みましたしね」
「……それはそうとよ。俺はまだ事情を呑み込めてないんだが、あの晩、東二はなんで事務所に行ったんだ? 関わりたくないって言ってたろ」

 ああそれはと速田が言いかけた時、三人の後ろにいた文子が話し始めた。横には東二もいる。

「それはね。私が頼んだのよ。東二はね、前から私の所に来ていたの。小学校出てからずっと働いてるんで、勉強したいって。ただこの子も、いろんなことに手を出す割には、腰が据わらなくてね。なんか人生相談みたいになってたの。だからまずは困ってる人のために動きなさいって。そしたら手助けしてくれたのよ。ね」

 言われた本人は、しきりに頭をかいている。

「……いや、まあ、そういうことかな」
「なんだ、やるときゃ、やるんだな、お前もよ」

 そう言って東二の脇を肘でつつくと、北修はテーブルの向こうにいた武志と義雄を指差した。

「でもあいつらとおんなじで、腰はすわってないとよ」
「えー、なにそれ。待ってくださいよ」

 武志がそう言うと、東二が下を見てくくっと笑った。

「あ、そういう態度が癇に障るんだよ。お前、俺らよりいっこ下なんだからさ」
「まあ悩み多き若者たちよ。しょっちゅう喧嘩をしている小熊と俺も、友達ちゃあ、友達だしな」
「そういや小熊さん、東京どうなんですかね?」

 速田にビールを勧めながら義雄が尋ねた。

「うーん、旭川を発ったのが、騒動の直後だからなあ。北修さんには便りはないの?」
「来ないことはないが……。ここにいない奴の事、話したって仕方ねえべ。それより主賓の話しようぜ。ねえ神田館の大将」
「そうだよね。わたしも聞きたいのよ。どこで働いているかとかさ」
「あー、私もそろそろと思ってました」

 速田はそう言うと、グラスを置いて再びステージに上がった。あちこちで談笑していた皆が気づいて視線を向ける。

「皆さん、それではここで、主賓である栄治君とハツヨさんからご挨拶をいただきたいと思います」

 え、俺らですかと戸惑う二人を、速田が促す。

「その通り。さ、こっちへ」

 栄治とハツヨの兄妹は、一連の騒動のあと、市内の借家で暮らしている。もちろん母親も一緒である。きょうはハツヨが青い縞のワンピース、栄治がグレーの背広姿。ともに新調したばかりだ。

 拍手に迎えられてステージに上った二人は、どちらから話すか迷ったが、まずハツヨが前に出てお辞儀をした。

「……皆さん、その節は本当にお世話になりました。……お話があったように、私は佐野先生の紹介で、洋服を扱う商社で働いています。まだ何もできませんが、そこで頑張って、いつか皆さんに恩返しができるようになりたいと思っています。なので、これからもよろしくお願いします」

 もう一度お辞儀をすると、大きな拍手が贈られた。

「じゃ。兄さん」

 落ち着いて挨拶したハツヨに比べ、栄治は傍目から見ても分かるほど緊張している。前に出たものの、なかなか話が始まらず、皆、ハラハラしながら見守っている。頑張れと声をかけられて、ようやく言葉が出た。

「……えーと、あの、俺も、あの佐野先生の紹介で、今、造り酒屋で働いてます。……それと、久しぶりに妹と暮らせて、お袋が喜んでるんです。……あの、俺も恩返しできるように頑張って、いつかは杜氏になりたいと思ってます。なので、これからもよろしくお願いします」

 二人が深々とお辞儀するといっそう大きな拍手が湧き上がった。その中にひときわ大きい北修のどら声が響く。

「よし! 二人とも良く言った! ……あれ、大将、泣いちゃってるよ」
「……だってさ。……年取ると、涙もろくなっちゃうんだよ」

 女給のなかにも、もらい泣きをしているものがいる。

「だから、しめっぽいのは止めようぜ。そうだ。お前ら、得意な奴あんだろ。あの歌、ヤマニのテーマ。やってくれよ」

 北修の言葉に、文子がすぐ反応した。

「え、それ私知らない。やってよ、聴きたい」

 女給たちは、顔を見合わせている。

「そうですか? やる?」
「いいじゃない。やろうよ」

 話が決まると、やはりショーの監督である速田が前に出てきて、指示を出す。

「じゃあ、みんなはステージに集まって。レコードはと、武志君、お願い」

 あっという間に準備が整った。

「それでは、ミュージック、スタート!」

 速田がそう告げると、女給たちが、リズム良く体を左右に振りながら歌い始めた。

  そこ行く兄さん いなせな兄さん
  素通りは許さないよ
  きれいな姉ちゃん 待っているよ
  お楽しみはこれからだ
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
  さァ ようこそヤマニへ

 途中からは、その場にいた皆が声を合わせ始めた。中には肩を組んでいる者達もいる。

  2枚目兄さん こちらへどうぞ
  ビールにカクテル ウヰスキー
  素敵なステージ 楽しい会話
  コーヒーいっぱいでもかまわない
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
  さァ ようこそヤマニへ

(原曲 「ベアトリ姉ちゃん」小林愛雄・清水金太郎訳・補作詞 スッペ作曲)


 歌はなかなか終わりそうにない。






第十一章 昭和三年五月 嵐山(あらしやま)


  「銀の滴(しずく)降る降るまはりに、金の滴(しずく)
降る降るまはりに、」と云ふ歌を私は歌ひながら
流(ながれ)に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になってゐて、昔のお金持が
今の貧乏人になってゐる様です。

                         (知里幸恵「アイヌ神謡集」より)




 
 北海道最大の盆地、上川盆地の南西の端は、大小様々な河川が石狩川にまとまり、遥か遠く海へと向かう出口に当たる場所である。

 その石狩川は盆地を出るとすぐ神居古潭(かむいこたん)の急峻な渓谷に差し掛かる。その手前には、北に嵐山丘陵、南に幌内(ほろない)山地の二つの山の連なりがある。川を神社の参道に見立てると、まるで狛犬のような鎮座ぶりだ。

 このうち北側、狛犬で言うと阿(あ)の位置にあるのが、丘陵の名前のもととなった嵐山である。標高は二百五十メートル余り。低山だが、カシワやカツラ、オニグルミやイチイなどの巨木が生い茂る森はうっそうとして深い。

 この盆地に長く暮らす上川アイヌは、この山を「チ・ノミ・シリ」、「我ら・祀(いの)る・山」と呼んできた。
 山は神々と人とをつなぐ聖地であり、それゆえこの地は彼らにとって「送り場」とされた。そこには、神の化身である動物の霊を神の国に送り出したあとの頭骨や、使えなくなった愛用の道具などが納められた。


 このアイヌの聖地を、参謀本部長を務める陸軍中将、小沢武雄(おざわたけお)が訪れたのは、明治二十一年の秋のことである。上川視察のため、札幌を発って石狩川を遡った小沢は、神居古潭の難所を越えると川の北側の山に登り、眼前に広がる景色に目を見張った。

「其の景観、西京(さいきょう)の嵐山(らんざん)に伯仲せり」

 嵐山の命名の由来である。

 小沢が京都の嵐山に比したその山中に、いま五人の若者がいる。先頭はアイヌの少年、東二、続いて栄治とハツヨの兄妹、義雄、少し遅れて武志。東二以外は手頃な太さの木の枝を杖代わりにしている。
 時折、チラチラと後ろを見ながら登っていた東二が足を止めた。

「武志さ、もう少し根性出したら」

「……おい、なんだよその言い方は。お前、俺らよりいっこ下だっていつも言ってんだろ」

 言い返しながら、息が切れかかっている。

「はー、しんどい」
「武志さん。しゃべりながら登ると余計きついわよ」

 ハツヨが吹き出すのをこらえながら言うと、義雄もちょっかいを出す。

「武志は普段から運動しなさすぎなんだよ。俺は頭脳派だとか言っちゃって。……でも東二はやっぱり山に入るといきいきするな」

 手ぬぐいで首のあたりを拭きながら同意したのは栄治である。

「まだ少し雪が残ってるってのに、ほっといたら、駆け上っていきそうな感じだもんな。……でも、やっぱり山は気持ちがいい」
「本当ね。たいへんだけど来てよかった」
「さ、あと少し」

 東二の声を合図に、五人は再び山道を登り始めた。

 この時期の嵐山は岩陰などを除けばほぼ雪も解けている。若葉を付け始めた樹々の間には、カタクリやエゾエンゴサクが咲き始めている。十五分ほど進んだところで、視界の開けた場所に出た。頂上付近では、この辺りが最も見晴らしが良いと東二が説明した。

 見ると、少し霞がかかっているが、眼前にはうねるように流れる石狩川があり、その先に旭川の街が広がっている。そしてさらにその向こうには、残雪をいただいた大雪山連峰の山々がそびえ立っている。

「……すごい。旭川の街が全部見えるのね」
「山が輝いているみたいだ。……そうか、こんなふうに見えるんだ」

 東二に促されて前に出たハツヨと栄治が感嘆の声を上げた。義雄と武志も魅了されている。

 しばらく噛みしめるように景色を眺めていたハツヨが、隣にいた義雄に顔を向けた。

「……義雄さんは、しばらくの見納めね」
「うん、そうだね」
「どうして師範学校やめて東京に行くことにしたの?」

 義雄はうーんと言って、少し考えると顔を上げた。

「……うまく言えないけど、そうするべきだって思ったんだ。向こうに行ってとりあえずは詩や小説を書く。たぶん大学への編入も認めてもらえると思うしね。……旭川は、ふるさとだけど、一度離れることが必要だって。で、武志に言ったら賛成してくれたんだ、なあ」
「うん、自分がそう思うんなら、いんじゃないって。けど俺は行かないよって。前だったら、東京かっこいいな、俺もって言い出したと思うんだけど。……ほら、俺、いっぱい挫折してるからさ。くじけそうな奴、励ましてやれるんじゃないかって。だから、このまま旭川で教師になろうって」
「……ということなんだわ。だからみんな、武志をよろしくね。誰かがネジ巻かないと、こいつ怠けるし」

 そう言って肩に手を置くと、武志が口を尖らせかけた。と、ハツヨがすぐに反応する。

「わかってます。頼まれないでも、怠けてたらお灸すえるから。ね、兄さん」
「うん。ハツヨはね、もともとものすごいおせっかい焼きなんだ。きっと、ちょくちょく様子を見に行くと思うよ」
「えー、ちょっとみんな勘弁してよ」

 そう言いながらも、武志はうれしそうだ。

 その四人のやり取りを、東二は少し離れたところで聞いている。義雄が声をかけた。

「で、東二はどうするの? 最近、顔を見ないって佐野先生が言ってたけど」
「ああ、今、木彫りの仕事でコタンにこもりっきりなんだ」

 家に作業場を設けて本格的に制作に取り組んでいるという。

「ということは、売れてるってことかい?」

 栄治が聞くと、白い歯を見せた。

「うん、まずまず評判がいいんで、仲間にもやり方を教えてるんだ。そしたら作りたいって奴が増えて。で、木彫りでみんなが飯食えるようになればいいなって」

 この熊の木彫りは、のちに北海道を代表する観光土産となり、アイヌの人々の貴重な収入源となる。

「そっか。私と兄さんは仕事があるし。じゃ、みんな進む道は決まったってわけね」

 ハツヨがそう言ったところで、武志が街の方向を指した。

「見ろよ。さっきより晴れてきた」

 目を向けると、先程までの霞は消え、太陽(ひ)の光に照らされて川面がキラキラと光っている。その様子に目を向けながら、義雄が武志に語りかけた。

「……この三年半、いろいろあったよな。美術展の手伝いがきっかけで、北修さんや小熊さん、東二と知り合ってさ。ヤマニにも行くようになって……」
「史さんや佐野先生と会って。アナキストと右翼の騒動に巻き込まれて。ハツヨちゃんと栄治さんにも会って……」
「本当にいろんなことがあって、その全部が混ざり合って……。自分はまだ何者なのかは分からないけど。そういうことがあったから、新しいところに飛び込んでゆく勇気を持てたのかのかもしれないなって……。そう思うんだよな」
「うん、そうかもな」

 その時、静かだった山に、聞き覚えのあるどら声が響いた。

「おお、いたいた、やっと追いついた」

 木立の中から現れたのは北修である。直ぐ後ろに、長身の北修をさらに上回る背丈の白人の少年。その少年はおかっぱ頭の女の子の手を引いている。

「え、北修さん、こんなところにどうしたんすか?」

 武志が目を丸くする。

「お前らが嵐山に行ったって聞いたから、追っかけたんだよ。あー、しんど」
「彼は?」
「あれ、知らないか? 八条通で喫茶店やってるスタルヒンの一人息子さ。俺、この子に絵教えてやってるのよ」

 紹介された青い瞳の少年は、小学校の制服を着ている。ただ丈はかなり短い。

「ヴィクトルです。十一歳です。日章小学校に通ってます」
「え、小学生! そんなに大きいのに?」

 ハツヨが口に手を当てた。

「はい。よくみんなに言われます」

 武志は少年の周りをぐるぐると回っている。

「すげえな。絵習ってるって言ってたけど、運動は?」
「はい、野球の投手やってます」

 と、横にいた少女が武志に向かって言った。

「あのね、おにいちゃん。あんまり人をジロジロ見るのは失礼なんだよ」
「あー、ごめんごめん。あんまりいい体なんでつい」

 武志は頭をかくと、尋ねた。

「この子は?」
「ああ、この子はな、綾子っていうんだ。嵐山に行くって言ったら、親から連れてってやってくれって言われてさ。ヴィクトルと交代でそこまでおんぶしてきたのよ」

 ハツヨは意志の強そうな面差しのその子を、ひと目見て気に入ったようだ。

「お嬢ちゃん、綾子ちゃんて言うの?」
「うん、綾子。堀田綾子」
「いくつ?」
「五歳」

 栄治もハツヨの隣にしゃがみこむ。

「綾子ちゃん、何をするのが好きなの?」
「ご本を読むことです」
「そうか。まだ小さいのにご本か。人にちゃんと意見するし、偉いね」

 少女がはにかみながらありがとうと言った時、北修がふところから一通の封書を出し、義雄に渡した。

「……おっと、これ、忘れるところだった。小熊から。お前に」
「え、小熊さん? 何ですか?」
「義雄が東京に出るって話聞いたみたいで、送って来たのさ。はなむけの詩だってよ。あいかわらず、やることが気障だな、あの菊頭はよ」
「ありがとうごいます。……ここで読んでもいいですか?」
「ああ、お前宛てなんだから、好きにしな」

 義雄が封を開けて読み始めると、武志ら四人が集まってきた。


             ***


 封書の中には、東京で待っている云々、と短く書かれた便箋が一枚と、原稿用紙三枚に渡って書かれた詩が入っていた。


  新しいものよ、
  あらゆる新しいものよ、
  正義のために生れた
  さまざまな形式を
  わたしは無条件に愛す、
  然も、君が青年としての
  情熱をもつて
  ふりまはす感情の武器であれば
  それが如何なるもので
  あらうとも私はそれを愛し、信頼す。
  私はおどろかない、
  君の顔に
  よし狡獪(こうかい)な表情が現れようとも
  私は悲しまない、
  君の行動に
  臆病さがあらうとも
  若し、それが君を守るものであるならば、
  ましてや君の若い厳粛さと
  青年の勇気は
  なんと新しい時代の
  蠱惑(こわく)的な美しさをもつて
  相手に肉迫してゐることだらう
  青年よ、
  我々は環視の只中にある、
  あらゆるものに見守られてゐる。
  熱心に祈りの叫びをあげなが
  ら現実のつらさに
  眼を掩(おお)つてゐる君の老いたる
              父や母にもー、
  吐息を立てゝゐる兄や妹にもー、
  これらの身近なものは君を守る
  だがとほくのものは
  ただおどおどとしてゐる許りだ。
  信じたらよい、
  君は夢の中の物語りをもー。
  君のみる夢のなんと喜びに
  みちた感動の彩りをもつものよ、
  我々は知ってゐる
  青年は青年の夢が
  どのやうな性質の
  ものであるかといふことを、
  ふるへよ、
  君の肉体を、
  護れ、
  君の感情を
  そして君は入つてゆけ
  もつとも旋律的な場所へ、
  老いたるものにとつては
  苦痛の世界であるが、
  我々青年にとつては
  感動の世界で、ある処へ。

     (小熊秀雄「青年の美しさ」)



 その詩は、長く義雄たちの宝物となった。 


                
           ***




(夢の続き、あるいはその後の物語・実在の人物その二) 



ヴィクトル・スタルヒン……

旭川中学に進み、野球部のエースとして活躍したが、昭和8年、父親が殺人事件を起こしたことが原因となり、中退して日米野球のため結成された職業野球団に加わる。その後、黎明期のプロ野球で活躍し、日本初の300勝投手となる。昭和32年、自動車事故を起こして死亡。まだ40歳の若さだった。


堀田綾子(三浦綾子)……

大成(たいせい)小学校から市立高等女学校に進み、小学校教員となる。戦後は、結核で長期療養を強いられる。同じクリスチャンの三浦光世(みうらみつよ)と結婚した綾子は、昭和39年、故郷旭川を舞台にした小説「氷点」が懸賞小説公募に入選、ベストセラー作家となる。その後も、平成11年に77歳で亡くなるまで、数々の名作を発表し続けた。


町井八郎……

昭和4年、北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫(たけうちたけお)とともに発案した第1回慰霊音楽大行進を実現させる。これを契機に旭川吹奏楽連盟を創設し、理事長に就任する。こうした活動から「旭川音楽界の父」と称された。昭和51年、76歳で死去。


田上義也……

札幌を拠点に活動を続け、独自の美意識に基づく多彩な住宅、店舗、公共施設を道内各地で設計した。音楽分野では、バイオリニストとして、ピアノとチェロとのアンサンブル、北光(ほっこう)トリオで活動したほか、昭和12年には札幌新交響楽団を創設し、初代指揮者を務めた。平成3年、92歳で没した。


竹内武雄……

昭和4年、町井八郎(まちいはちろう)とともに第1回慰霊音楽大行進の実現に尽力する。昭和7年から旭川市選出の道議会議員を1期務めたあと、富良野市に転出。富良野時代には、長年、国鉄富良野駅で自ら考案したまんじゅうの立ち売りを行い、「元道議さんのまんじゅう売り」として人気を集めた。


加藤顕清……

精力的に創作を続け、帝展や日展などに作品を発表する。戦後は日本彫塑会会長に就任するなど、日本の彫刻界を代表する存在となる。生涯に渡って北海道、旭川とのつながりは深く、昭和初期には熊の木彫りを学ぶアイヌの若者の指導に当たった。昭和41年、71歳で死去。


鈴木政輝……

9年間に及ぶ東京生活を打ち切って帰郷した政輝は、昭和9年に旭川で詩誌「國詩評林(こくしひょうりん)」を創刊する。さらに2年後には北海道詩人協会を旭川で発会させ、中心メンバーとなる。その後は、文芸に加え、父母から受け継いだ茶華道の教授としても活躍した。昭和57年没、77歳だった。


今野大力……

東京では、プロレタリア文学運動に加わるとともに、左翼系文芸誌の編集に携わる。昭和7年、当局により検挙され、激しい拷問を受けて半年余りの療養を余儀なくされる。作家、壺井栄(つぼいさかえ)や宮本百合子(みやもとゆりこ)らの支援で回復したものの、再び結核のため病床につき、昭和10年に死去した。31歳だった。


小池栄寿……

長く教師を務めながら詩作を続ける。昭和38年、小熊秀雄らと交流した大正末から昭和初期にかけての日々を綴った手記「小熊秀雄との交友日記」を発表する。同手記は、郷土史の貴重な史料となっている。晩年は千葉県に住んだ。平成15年、97歳で死去。


酒井廣治……

歌人として活動のほか、北海道詩人協会の創設に参加するなど、幅広く旭川の文化活動の振興に努める。その一方で、昭和16年に旭川信用組合組合長、昭和26年に初代旭川信用金庫理事長に就任するなど、経済人としても地域を牽引した。昭和31年、61歳で死去。


佐藤市太郎……

経営した活動写真館は、最盛期の大正末には全道で10館以上を数える。しかしその後は押し寄せた不況の波や、相次ぐ経営館の火事が影響して事業は縮小を余儀なくされる。その一方、さまざまな社会事業に関わり、昭和17年の死去の直前まで市議会議員を務めるなど、地域の名士であり続けた。


佐野文子……

戦前は、廃娼運動に加え、苦学生への援助などの社会貢献を続ける。また国防婦人会旭川支部長としての精力的な活動により、軍の要請を受けて上京、東条首相の私邸で家庭教師を務める。戦後も、戦災孤児の救済などさまざまな社会活動に奉仕した。昭和53年、84歳で死去。


速田弘……

昭和8年、ヤマニの近くに、新機軸の店舗、パリジャンクラブを開店するが、戦時色が強まる中で経営は悪化。借金の返済に行き詰って自殺を企てる。一命を取り留めた速田は、旭川から姿を消すが、戦後、東京銀座で高級クラブの嚆矢「シローチェーン」を成功させ、実業家として華々しい復活を果たす。


高橋北修……

昭和6年、旭川の画家として初めて帝展に入選する。以来一貫して故郷で活動を続け、地元画壇を牽引した。大雪山を描いた油絵を数多く描き、「大雪山の北修」と呼ばれる。昭和37年、脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残ったが、左手に絵筆を持ちかえて創作を続けた。昭和53年、79歳で死去。


小熊秀雄……

上京後の小熊は、虐げられた人々への共感を表す長編詩などを精力的に発表する。昭和10年には、2冊の詩集を相次いで出版、詩人としての地位を確立する。しかし、プロレタリア文学運動に接近していた小熊は、戦時体制の強化に伴って次第に発表の場を失い、生活は困窮を極める。昭和15年、肺結核により39歳で死去した。




(夢の続き、あるいはその後の物語・架空の人物) 



片岡愛次郎……

模範囚であったため2年後に仮出所するも、生きる目標を失い、無益な日々を過ごす。そうしたなか、看護助手の女性と知り合い結婚。妻は片岡の内面を愛情で潤し、彼は劇的に生きる希望を蘇らせる。結婚後に勤めた老人福祉施設では、入居者や家族を献身的に支えた。昭和56年、80歳で死去。


梅原竜也……

常盤橋での乱闘事件により、特高警察に居所が知られた事から、旭川を脱出し、東京経由で関西方面に身を隠す。2年後、大阪に潜伏中、アジトを特高に急襲される。追い詰められた梅原は、アジト裏の川に飛び込んで逃亡を図るが、溺れて死亡。28年の生涯だった。


松井東二……

旭川のアイヌの間で盛んになった熊の木彫りは、その後の民族自立運動の資金源ともなった。戦後は、後進の指導に当たる一方、アートとしての木彫作品の制作にも幅を広げ、各地の公共モニュメントの作成にも携わった。昭和55年、70年の生涯を閉じた。


江上栄治……

造り酒屋で修業を積み将来を嘱望されたが、昭和13年、召集を受けて陸軍第七師団に入営する。翌年、勃発したノモンハン事件で現地に出動。ソビエト軍との交戦中、戦車による砲弾の直撃を受け死亡した。29歳の若さだった。


江上ハツヨ……

繊維商社で働いた後、独立し、旭川市内で洋品店を始める。戦時中は物資不足から苦しい経営を強いられるが、戦後、生活雑貨を扱う会社を立ち上げて成功。旭川を代表する女性経営者となる。一方、戦災孤児の兄妹を養子、養女とし、経営者からの引退後は彼らが事業を受け継いだ。平成6年、84歳で他界。


塚本武志……

師範学校卒業後、教師となり、旭川市内の小学校に勤める。多くの子供から慕われた武志は、25歳の時に同僚教師と結婚、しかしまもなく結核を発症し、入院生活に入る。手術を受けて、一時、職場復帰を果たしたが、再び病状が悪化。昭和15年に死去。31歳だった。


渡部義雄……

編入した大学を卒業後、東京の新聞社に勤め、戦時中は従軍記者も経験する。終戦後は軍国主義の強化に加担したとの思いから新聞社を退社。旭川に戻って市役所に勤めながら、詩や短歌、小説などの創作活動を続ける。昭和39年、旭川市立図書館長に就任。平成13年、91歳で死去した。




(終わり)





<注釈・第十章>


* 百田宗治・ももたそうじ
・ 「どこかで春が」などの同様で知られる大阪市出身の詩人、児童文学者。北海道への疎開経験がある他、一時、旭川の隣の愛別町安足間(あんたろま)に移住を決意するなど北海道と縁が深い。

* 旭川を発ったのが、騒動の直後
・ 実際の小熊の上京は、1928(昭和3)年6月のこと。




<注釈・第十一章>


* 嵐山
・ 旭川中心部から西に約5キロの景勝地。旭川八景の一つ。昭和40年には風致公園として整備され、野草園や遊歩道などがある。展望台からは夜景も楽しめる。

* 知里幸恵・ちりゆきえ
・ 登別生まれで、旭川に移り住んだ。1918(大正7)年、アイヌ語研究のために訪れた金田一京助(きんだいちきょうすけ)と出会い、民族に伝わる叙事詩、カムイユカラの日本語訳を始める。上京後、のちに「アイヌ神謡集」となる原稿を書き上げるが、持病の心臓病の悪化により19歳の若さで急逝した。


知里幸恵

* 「アイヌ神謡集」
・知里幸恵がまとめ、死の翌年発刊された。アイヌ語の原文(原音)をローマ字で表記、日本語訳をつけており、文字のないアイヌ語による文学をアイヌ民族自身が初めて紹介した画期的な業績と評価されている。

* 小沢武雄・おざわたけお
・ 元小倉藩藩士。明治になって陸軍に入り、1885(明治18)年、中将となる。陸軍士官学校長、参謀本部長などを歴任した。

* スタルヒン(ヴィクトル)
・ 帝政時代のロシアに生まれ、ロシア革命により国を追われ、両親とともに日本に亡命した白系ロシア人。旭川に来たのは1925(大正14)年、9歳のときだった。


ヴィクトル・スタルヒン

* 8条通で喫茶店
・ スタルヒン一家が8条通8丁目で経営していた喫茶「白(しろ)ロシア」のこと。この店について、新旭川市史は「1929(昭和4)年頃の開業であろう」としている。このため、実際にはこの時期には存在していない可能性が高い。


白ロシアの店内(昭和4年)

* 「この子に絵教えてやってるのよ」
・ 実際に北修は旭川時代のスタルヒンに絵を教えていた。スタルヒンが絵描きになりたいと言い出したときは、野球をやったほうが良いと諭したという。

* 日章(にっしょう)小学校
・ 1893(明治26)年、忠別小学校として開校した旭川で初の公立学校。漢字1字の学級名を伝統としていることでも知られる。


日章小学校(昭和2年)

* 堀田綾子・ほったあやこ
・ 堀田は、小説「氷点」で知られる旭川生まれの作家、三浦綾子の旧姓。

* (旧制)旭川中学
・ 現在の北海道立旭川東高等学校の前身。1903(明治36)年、北海道庁立上川中学校として創立。1915(大正4)年に旭川中学校と改称した。


旭川中学(昭和3年)

* 大成(たいせい)小学校
・ 1900(明治33)年に開校した旭川市中心部にあった小学校。

* (旭川)市立高等女学校
・ 1915(大正4)年の創設。名称は数回変更されているが、1951(昭和26)年に閉校した。


市立高等女学校(昭和8年)

* 三浦光世・みうらみつよ
・ 長く闘病生活を送った妻、綾子の作家活動を、口述筆記など献身的な姿勢で支えた。

* 「氷点」
・ 三浦綾子の出世作。1963(昭和38)年に朝日新聞社が公募した1000万円懸賞小説の入選作。新聞連載後に刊行され、ベストセラーとなった。映画のほか、数度に渡りテレビドラマ化されている。

* 旭川吹奏楽連盟
・ 町井八郎、竹内武雄らの尽力により、1929(昭和4)年6月、第1回慰霊音楽大行進が行われたのを契機に、同年発足した。全日本吹奏楽連盟の創設はその9年後であり、旭川の先駆性がわかる。

* 音楽大行進
・ 1929(昭和4)年に始まった音楽の街、旭川を代表するイベント。吹奏楽、マーチングバンドなど約4000人が参加し、全国屈指の規模を誇る。


第1回慰霊音楽大行進

* 北光(ほっこう)トリオ
・ 音楽家としても活躍した北海道建築の父、田上義也(たのうえよしや)が、大正から昭和にかけて参加していたバイオリン(田上)、チェロ、ピアノのアンサンブル。道内各地で演奏会を開き、旭川でも度々演奏している。

* 札幌新交響楽団
・ 戦前に、田上義也が中心となって設立したオーケストラ。

* 帝展(文展・日展)
・ 現在の日展(日本美術展覧会)につながる帝国美術院展主催の公募展。1907(明治40)年に始まった文展(文部省美術展覧会)のあとを受け、1919(大正8)年から毎年開かれた。

* 「國詩評林(こくしひょうりん)」
・ 故郷、旭川に戻った鈴木政輝が、1934(昭和9)年に創刊した詩誌。政輝が考案した「七行定形詩」という独自のスタイルの実験の場ともなった。

* 北海道詩人協会
・ かつての旭川は、北海道を代表する詩の街であった。1936(昭和11)年設立の北海道詩人協会は地元詩人を中心に旭川で発足している。協会は「北海道文学」と題した機関紙も発行していた。


北海道詩人協会総会(昭和11年)

* 壺井栄・つぼいさかえ
・ 香川県出身の小説家。夫はプロレタリア詩人の壺井繁治(つぼいしげじ)。代表作「二十四の瞳」は映画化され、ヒットした。

* 宮本百合子・みやもとゆりこ
・ 東京生まれの小説家、評論家。1932(昭和7)年、のちに日本共産党中央委員会幹部会委員長、議長となる宮本顕治(みやもとけんじ)と結婚。戦時中は執筆禁止や投獄などの弾圧を受けた。

* 「小熊秀雄との交友日記」
・ 大正末〜昭和初期の自身の日記を元に発表された手記。連日のように互いの家やカフェーなどに集まって芸術談義を繰り広げる当時の旭川の若き文化人の様子が詳述されている。

* 旭川信用金庫(旭川信用組合)
・ 凶作の影響により疲弊した地元商工業者の苦境打開を目的に、1914(大正3)年に発足した旭川信用組合が前身。1951(昭和26)年に信用金庫となった。


旭川信用組合(昭和2年)

* 国防婦人会
・ 正式には大日本国防婦人会。1932(昭和7)年に全国組織が発足し、出征兵士の慰問や家族の支援などを行った。白の割烹着にタスキ姿が会服。

* 東条首相
・ 太平洋戦争開戦時の首相の東条英機(とうじょうひでき)のこと。陸軍大将でもあり、当時は内相と陸相を兼ねた。

* パリジャンクラブ
・ カフェー・ヤマニの速田弘が4条通7丁目に開店した店舗。カフェー、レストラン、喫茶を合わせたような独自のコンセプトで、名建築家、田上義也による斬新なデザインが特徴だった。


パリジャンクラブ

* 特高警察
・ 特別高等警察の略。社会運動や思想活動の取締を目的に、戦前の警察組織に設けられた。

* ノモンハン事件
・ 1939(昭和14)年、旧満州とモンゴルの国境地帯で起きた日本軍とソ連軍との軍事衝突。機械化されたソ連軍の攻撃に、日本軍は大敗した。当時、満州派遣中だった旭川第七師団でも多くの死傷者が出た。

* 従軍記者
・ 軍隊について戦場に行き、戦況を報道する新聞社や放送局、雑誌などの記者のこと。