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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

旭川のアナキスト・昭和編

2020-09-10 03:00:00 | 郷土史エピソード

前回からお伝えしている旭川のアナキストの動きや、詩人、小熊秀雄との関わりについて。
今回は後半、昭和編です。


                   **********



画像1 昭和初期の旭川


◆黒色青年連盟の登場


昭和に入ると、旭川のアナキストの活動の中心は、大正期の主役だった鎖断社から黒色青年連盟というグループに移ります(赤が共産主義を示すように、黒は無政府主義を表す色です)。
黒色青年連盟は、大正15年に結成されたアナキストの全国組織です。
略して黒連と呼ばれました。


「(大正14年)十二月一日、東京神田の青年会館で、『農民労働党』の結成大会がひらかれた。アナキストは『政治運動反対』を叫び、大挙しておしかけ檄文をまいた。(中略)このときの共同作業が機となり、翌二六年(大正十五)年一月三十一日、関東地方のアナキスト団体十七と労働組合有志が、『黒色青年連盟(黒連)』を結成した。」(中略)黒連は結成大会と同時に、芝の協調会館で、演説会を開いた。官憲の圧迫に怒り、『街頭に出でよ』の叫び声とともに、会衆は黒旗をたてて銀座に出た。そして二〇〇数軒の商店のショーウインドを破壊する『銀座事件』がおこった」(「日本アナキズム労働運動史」より)


この動きは全国に波及します。
「日本アナキズム運動人名事典」によりますと、関東黒連の発足から半年後の大正15年8月、小樽生まれで東京や周辺で労働運動に関わっていた窪田節次郎が地方組織の結成準備のため北海道に派遣されます。
そして9月16日に結成準備演説会が札幌で、そして29日には小樽で発会記念演説会が開かれ、北海黒色青年連盟=北海黒連が発足します。
大正15年12月1日発行の黒連の機関紙「黒色青年」第6号には、この日の模様を伝える記事が載せられています。


「北海黒色青年連盟は生れた。支配階級のあくなき迫害と季節的大自然の恐威と闘ひつつも我々の陣容は整へられた。
発会記念演説会
永遠に記念すべき九月二十九日午後六時小樽市手宮錦輝館に吾北海黒連の発会記念演説会は開かれた。鎖断社寺田君司会の下に札幌労働畑山君の宣言朗読及祝辞祝電披露に始まって旭川黒連の山下君札幌労働の諸君の熱弁あり、労働運動社より来道の岩佐老人及関東黒連の高田、後藤君等注意中止に逢ひつつも、主張を盡(つく)して満堂を酔はす、午後十一時黒色萬歳を三唱し散会」



画像2 「黒色青年」の記事


「鎖断社寺田」とあるのは、前編で紹介した旭川鎖断社の創設メンバー、寺田格一郎のことです。
この時点で、彼は小樽に活動拠点を移しています。
「岩佐老人」は、黒連創設メンバーの一人で、当時の大物アナキスト、岩佐作太郎のことです。
「旭川黒連の山下」は、この後紹介する旭川のアナキスト山下昇二です。
「旭川黒連の」という書き方をしていますので、旭川の黒連組織もこの時点で立ち上がったと見て良いと思います。
「北海道社会運動史」では、この山下らメンバーについて書いています。


「大正末期から昭和初期にかけての旭川は最もアナキストの活発な時代で、その中心は山下章二(筆者注・正しくは昇二)であり、黒崎(注・墨崎とも)信、森川武義(注・武美)、寺沢廸雄、西条(注・弥一)、西山(注・六郎)らの斗士が揃っており、アナ系団体として旭川純労働組合や黒色青年連盟を作って労働運動も行っている。山下章二(昇二)は露支国境をしばしば放浪し、英、仏、露、支、朝鮮語など五カ国後を喋り、頭脳明晰な秀才肌の男だと称されるが、昭和二年不敬罪で下獄し、出獄後肺患のためたおれてしまった。黒崎(墨崎)信、寺沢廸雄、森川武義(武美)は後に、アナ系からボル系(注・アナは無政府主義、ボルはマルクス主義)に転向して、昭和五年の全協組織事件で検挙され、昭和時代の社会運動にも足跡を残している。」(「北海道社会運動史」より)


ここで注目されるのはやはり山下です。
移住者の子供だったのでしょうか、出身は石川県で、旭川の小学校を卒業しています。
兵役を終え除隊した後、満州、シベリア、朝鮮などを渡り歩き、シベリア時代にはロシア語を習得、一時は日本軍関連組織の通訳を務めたこともあったそうです。
その他のメンバーも、いずれも北海道の社会運動の推進者として名前を残した人物です。


◆旭川初のメーデー


こうしたメンバーが所属していた旭川の黒色青年連盟ですが、昭和2年5月、常磐公園で行われた旭川初のメーデーに参加しています。



画像3 メーデーを伝える旭川新聞の記事


「各地労働団体が一斉に行つた昨日のメーデーに、旭川市に於ても旭川合同労働組合、日本農民組合等の主催で催された当日午前九時、常磐公園広場に、約二十数本の組合旗及『弱小民族の解放』『悪法案に反対せよ』『立毛差押、立入禁止を撤廃せよ』等々の旗流を翻へし広場の天然石前に集合し、旭川合同労働組合の山本作二による司会者挨拶あり次に旭川合同労働組合黒崎信夫、日本農民組合青年部荒哲夫、全日本農民組合同盟、旭川一般労働組合、日本農民組合青年部荒哲夫その他全日本農民組合同盟、旭川一般労働組合、日本農民党、日本農民組合、黒色青年連盟、労働農民党の各代表者に、日本農民組合婦人部重井繁子が男勝りの真紅の気焔を吐き、挨拶の程度を越した煽動的言辞であると取締の警官が数回注意する等、既に異様な空気が滾り」(昭和2年5月2日・旭川新聞)


文中の「旭川合同労働組合黒崎信夫」とあるのは、黒崎(墨崎)信のことと思われます。
「日本農民組合婦人部重井繁子」とあるのは、大正12年に小熊らが結成した旭川文化協会による演劇公演に、女優として参加した社会活動家、重井しげ子です。



画像4 演説する重井しげ子(左端・昭和2年5月3日・旭川新聞)


そして集会の後、約250人の参加者は師団道路にデモに繰り出し、警官隊と衝突して数名が検束されます。
記事の見出しには「行列の真先に骸骨と血の黒色旗」とあります。
黒連らアナキストがデモの先頭を切っていたようです。
なお金倉義慧さんの著書「北の詩人 小熊秀雄と今野大力」によりますと、この2日付の旭川新聞の記事は小熊秀雄が書いたものだそうです。



画像5 小熊秀雄


同書には、当時、旭川師範学校の生徒だった桜井勝美による当日の小熊の様子も掲載されています。


「メーデーの日、近文の寄宿舎を出て、友人と二人で会場の常盤公園へ向つた。(中略)ふと気がつくと、蓬髪痩身、芥川龍之介に似た小熊秀雄が、和服に袴、素足で下駄履きといういつもの姿で、大きな松を背にして立ち、時々メモをとっていた。(中略)行進がはじまると、小熊は垂れ下がる長髪を時々かきあげながら、歩調を進めたり、しばらく立ち止まったりして、行進の全容をつぶさに見きわめようとしていた。」(桜井勝美「志賀直哉随聞記」より)


小熊が気を入れて取材していた様子が目に浮かびます。



画像6 行進の様子と警官とのもみ合い(昭和2年5月3日・旭川新聞)


◆常盤橋乱闘事件


そして翌月、このメーデーの時よりもさらに大きく、新聞紙上に黒色青年連盟の名が載ります。
このブログには何度か書いていますし、市民劇の脚本の中でも出来事として登場させています。
右翼団体、旭粋会との常盤橋上での乱闘事件です。
少し長くなりますが、当時の様子がよく分かりますので読んでみてください。



画像7 常盤橋乱闘事件を伝える旭川新聞の記事


「一昨夜午後十時四十分頃黒連側は市内四条六丁目旭粋会事務所を約三十名で不意に襲撃し玄関先に投石し硝子戸を破壊の上旭粋会の看板を奪取して疾風迅雷的に威聲を上げて引揚げたので旭粋会事務所にいた少数の会員は抜刀の上躍り出し追跡したが事件発生と同時に早くも駆けつけた旭川署員多数に遮ぎられ其場は事なく収まり旭粋会側では片平愛四郎、香月竹雄の幹部が旭川署に本庄署長を訪ねて黒連側の暴状を訴へ出たが署長は看板を奪い返しに乗込んでは血を見るのは明瞭であるから警察の手で返させるようにすると両名の激昂するのを宥めて帰したが(中略)一方旭粋会事務所では片平、香月の両名が旭川署に出頭したことを知らずてつきり単身看板奪取に牛朱別河常盤橋際の黒連一派の本部に乗り込んだものと信じそれ幹部を殺すなと旭粋会員約三十名棍棒仕込杖を携へて牛朱別河畔の黒連側本部を襲ふべく常盤橋下に潜入してここから一気に押し寄せたが黒連側でもかくと知つて棍棒、鉄棒を手にして之に応じ河柳の暗がりに双方入り乱れて渡り合ひ怒号と負傷者の悲鳴とが凄惨に闇に漏れて乱闘場が展開されたが双方土手をはひ上つて常盤橋上に現れたので黒山のやうな野次馬が物凄い白刃の閃めきに慄いて逃げまどひ付近は大変な騒ぎであつた」(昭和2年6月26日・旭川新聞)


左右両派と警察、それに野次馬が加わった喧騒の夜の様子がよく分かります。
では改めて事件の概要を押さえておきましょう。
旭粋会は、この年5月、市内の露天商や興行師が参加して結成された国粋主義団体で、当時旭川にたくさんあった右翼団体の連合体といった組織です。
結成の中心となったのは、料亭第一楼や劇場佐々木座などを経営する辻広駒吉、そして酒造会社社長で、消防組頭でもあった笠原定蔵です。



画像8 常盤橋



画像9 黒連の檄文が貼られた旭粋会事務所(昭和2年6月25日・北海タイムス)



事件の発端は、借金のカタに市内の飲み屋で働かされていた少女が、店を脱出して黒色青年連盟と関係のあった労働組合員のもとに逃げ込んだことでした。
ここに旭粋会のメンバーが踏み込んで労働組合員に暴行を加え、少女を奪い返したため、黒色青年連盟は旭粋会と断固闘うというビラを撒くとともに、「旭粋会一味を葬れ」などと書かれた檄文を旭粋会事務所前に貼り付けるなどしました。
これで両者の間の緊張は一気に高まり、小競り合いが続いていました。
そしてこれが大規模な衝突となったのが6月24日だったというわけです。
記事によりますと、旭粋会側は、小林某ら2名が怪我、香月竹雄、片平愛四郎、中野初助ら9名が検挙、黒連側は長原三吉が怪我、梅田三八士、佐藤清、金子義夫ら12名が検挙とあります。
ただ派手な事件だった割にはけが人等少なく、警察の和解の勧めに双方が同意したため、起訴された者はいませんでした。
2日後の26日には、4条通8丁目のカフェーヤマニで手打ちの会合が持たれています。



画像10 手打ちを伝える旭川新聞の記事


◆黒色青年連盟と小熊


で、ここでまた小熊が登場します。
手打ちが行われた同じカフェーヤマニで、次のような出来事がありました。


「六月二十八日。永井郁子女史の邦語歌詞独唱会、七時から商業会議所、九時終わり。小熊氏、沢井一郎氏と師団通りへ。第二神田館前でソーダー水『ヤマニ』で生をやってゐると黒色青年連盟の連中が入ってゐて、新聞を悪く云ったがすぐ小熊さんと仲良くなる。十一時、六条十五丁目で別れて帰る。
(註、旭粋会と言う右翼団体と黒色連盟が衝突し、今は埋め立ててないが常盤橋上で切りあったりした頃だ。黒色連盟の大たすきをかけた連中で、ビールのコップを床にたたきつけたりして意気昂然たる有様だったが、小熊氏を見つけると『新聞はうそを書く』と云って怒り出した。小熊氏はニコニコとしていた。そこへ首領格の人が出て来て皆をしづめ、『何れゆっくりお話しましょう』と小熊の手を握って丁重に挨拶して行った。)」(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


「小熊秀雄との交友日記」は、このブログで幾度か紹介している教師で詩人の小池栄寿が、日記をもとに、大正末〜昭和初期の小熊秀雄との交友について綴った手記です。



画像11 小池栄寿


この出来事について、当初のワタクシの認識は、「小熊と黒連の関わりがこんなところでもあったんだ」という程度でしたが、改めて時系列で追ってみると、ヤマニでのこの出来事、常盤橋の乱闘から4日後、同じ場所での手打ちから2日後のことなのですね。
なので「新聞はうそを書く」と黒連が言っているのは、旭粋会との対立を巡る報道のことである可能性が高いと言えます。
そしていきり立つメンバーを鎮めたという首領格の人物。
「北海道社会運動史」で、頭脳明晰な秀才肌の男と紹介された山下章二では?
このエピソードからヒントを得たシーンを市民劇に書きましたが、小熊と「黒色青年連盟」が直接からんだこの出来事、ちょっとワクワクしてしまいます。
なお小熊はこの1か月ほど前にも、香具師のグループに師団通りで因縁を付けられています。
これももしかしたら黒連関係者だったのかもしれません。


◆不敬事件の発生


さて前編の冒頭部分で、旭川のアナキストグループについて、3つの事件で大きく報道されたと書きましたが、最後の事件がこの2か月後に起きます。
それが「北海道社会運動史」の山下章二の説明のところで触れられていた不敬事件です。
1報、そして2報はなぜか小樽新聞が報じました。


「二十七日午後二時五十分頃旭川七条通七丁目七福市場前に於て、長髪異様の風体をした年齢二十四五歳の青年五名が通行中の軍人数名を集めて不敬に亘る演説を始めたので急報により旭川署員が急行引致せんとしたが三名は早くも逃走したが二名を逮捕し目下取調べ中である」(小樽新聞・昭和2年8月28日)


「昨報二十七日午後二時半頃旭川市七条通七丁目七福市場前で軍人を集め不敬に亘る演説をなし旭川署に検挙された連累者は旭川近文に結社を置く政党運動を否定する純労働派(筆者注・アナキスト系ということ)の黒色連盟一味で旭川では同派の首領山本庄二(筆者注・正しくは山下昇二)氏を同署に連行した上鋭意取調べてゐる模様」(小樽新聞・昭和2年8月29日)



画像12 不敬事件を伝える旭川新聞の記事


おそらく何らかの理由で掲載を見合わせていた旭川新聞も30日にようやく事件を報じます。
もしかしたら捜査への影響を考えた当局が、地元紙である旭川新聞には一時掲載を控えるよう依頼したのかもしれません。
遅くなった分、旭川新聞の記事は詳細に渡っていました。


「去る二十七日午後三時頃旭川市師団通り七丁目七福市場内うどん屋に於て旭川純労働組合並黒色青年連盟員の者四名が居合せた歩兵第二十八連隊の軍人に向つて不敬の言辞を弄した事実を旭川署に報じたものがあり、旭川署では直ちに非常線を張り捜査に努め常盤橋付近に於て西山六郎、子賀(筆者注・正しくは古賀)辰美の両名を追跡の上取調べ検束しなほも現場に居合せた他の連盟員の所在を厳重に捜査中の処其筋の不意の検束に驚いた同派の頭株である山下昇二が同志の安否を気遣ひ旭川署高等課に出頭した処有無をいはせず山下を其場で検束したが旭川署では今回の檄演説事件に就ては余り重大なものと見てゐないらしいが従来同派が旭川を中心として相当主義宣伝に各方面に亘つて潜入してゐる事実がありその取締に少なからず手古摺つてゐたのでこれを機会に徹底的に同派の一掃に努める模様である」(昭和2年8月30日・旭川新聞)


さらに記事では、うどん屋で焼酎を飲み、酔っていた黒連のメンバーが、近くにいた軍人に冗談交じりで言ったことが過大に警察に伝わり、大掛かりな捜査となったこと、またその密告をしたのが、やはり店に居合わせた北海日日新聞の社員であったことなども伝えています。
警察関係の資料によれば、うどん屋で軍人に不敬な言葉を言ったのは、いずれも黒連メンバーの西条彌市、山下昇二、西山六郎の3人で、発言の内容は天皇、皇后を貶めるものでした。
酔った上での軽口と知りながら警察が検挙に乗り出したのは、旭川新聞の見立て通りなのだと思います。
ただ現場が現在も同じ場所にある七福市場(大正14年創業)というのは驚きです。
さらにこの事件では、社員が密告したとされた北海日日に抗議に行った1人が強い言葉で社長を脅したとして、暴力行為処罰法違反の罪で起訴(のち勾留10日の有罪)、また警察に抗議するビラを市内で撒いたとして1人が検挙(のち罰金刑)されています。
なお不敬罪で起訴された山下ら3人の公判は9月末から始まりますが、傍聴禁止とされたため、新聞記事も結果だけの短いものが続きます。
10月15日に言い渡された判決では、3人とも懲役3年の求刑に対し、懲役2年となり、被告はいずれも控訴。
11月29日、札幌で行われた控訴審の公判では、1審と変わらず懲役2年の判決が言い渡され、3人は下獄しました。



画像13 昭和初期の師団通周辺


◆黒連と小熊が交流?


ところで、この黒連による不敬事件、小池栄寿の「小熊秀雄との交友日記」の中にも登場します。


「八月三十一日。小熊さん来校。二年生の作文、聖書してあったので小熊さんに渡す。近文方面に行くのだという。黒色連盟の不敬事件探訪に」(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


「近文方面」というのは第七師団やその周辺という意味に取れます。
「探訪」は「調査」、小熊は記者ですので「取材」でしょうか。
つまりは不敬事件で関係のあった第七師団の関係者により詳しい話を聞きに行ったということだと思います。
この小熊の行動、純粋に記者として興味があったのかもしれませんが、ワタクシには、ヤマニの件で、黒連との繋がりが出来たことが背景にあるような気がします。
というのも、翌昭和3年になって、黒色青年連盟のメンバーが小熊と交流していると思われる記述が、「小熊秀雄との交友日記」に複数出てくるからです。


「一月二十三日。小熊さんを社に訪れ、原稿(木曜文芸への随筆)を渡し、一足先に氏の家へ。森川君外一名の黒色連盟の青年来る。小熊さんと銚子二本半傾けて酔っている所へ、塚田君が自転車で僕の家を驚かして来たと云って入って来る。九時皆辞す」(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


森川君というのは、「北海道社会運動史」に出ていた森川武美ではないかと思われます。
また塚田君とあるのは詩人仲間の塚田武四のことです。
小池、小熊は3月4日にも武四と飲んでいます。


「三月四日、日曜。塚田武四君が淳三氏(注・武四の兄)と二人でビールにスルメ桜餅をもって来訪。銚子五本ビール一本あけて五時近く家を出る。(中略・途中で小熊が加わる)ユニオンパーラーでホットオレンヂ。初めておぢいさんの食堂に入り、電気ブラン一杯、湯どうふ、ライスカレー、次にヤマニへ。ホットオレンヂ。変な髭の男が皮肉を言う。携帯したビールを一本やりウイスキーを征服。アナの香具師が革命歌を歌いながら入って来る。髭の男甚だ不機嫌。俺らは握手し歓談し生ビール三本御馳走して別れる。」(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



画像14 カフェーヤマニ(昭和初期)


ここで登場する「アナの香具師」も革命歌を歌っているところなど、黒色青年連盟の関係者かもしれません。
そして5月、樺太にいた父親が亡くなり、折り合いの悪かった義理の母が旭川に来ることを知った小熊は、急遽、妻子を連れての上京を決意します。
一方、詩友の塚田武四も、旭川を去って大阪の親戚の元に行くことが決まります。
5月6日は先に旭川を去る武四の出発の日です。


「五月六日。塚田君が今夜半大阪に行くと云う。夕食して小熊氏を訪えば野島淳介、黒杉佐羅夫、森川、黒崎の諸君が来ていた。(中略)十一時、小熊氏と停車場にゆく。塚田大人(注・武四の父親)は娘さん達と自動車で武四君を送りすぐ帰られた。松崎豊作君が丁度名寄から帰って来たので出発間ぎわの塚田君に逢うことができた。」(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


この日、小熊の家に集まっていた面子のうち、森川、黒崎は、黒色青年連盟の森川武美と黒崎(墨崎)信と思われます(黒杉は左派の詩人)。
やはり黒連のうち、少なくとも森川、黒崎(墨崎)はヤマニでの一件の後、どこかの時点で小熊との交流が始まり、詳細は分かりませんが、この時期まで(小熊が旭川を去るのは翌月)付き合いがあったと考えるのが自然ではないでしょうか。



画像15 小熊秀雄


ワタクシは、ヤマニで小熊が黒色青年連盟に因縁をつけられたという「交友日記」の記述から、両者は対立関係にあったとばかり思っていましたが、早とちりだったようです。
党派性の強い活動には批判的だった小熊ですが、常に社会の底辺で生きる虐げられた人々の側に立った姿勢を保ち続けたこと、権力に縛られない自由な精神を尊び続けたことなどを考えますと、旭川の街を闊歩していた若きアナキスト達と、どこか通じるものを感じていたのではないでしょうか。
なお名寄から来たという松崎豊作は、旭川生まれで、北海日日の記者を経て名寄新芸術協会の書記になった人物で、小熊や小池、やはり詩人の今野大力らと親交がありました。
名寄時代に全国で2例目の治安維持法違反事件、名寄集産党事件で検挙され、この時期は1審の求刑が終わって保釈中でした。
その後、裁判は上告審まで争われますが、松崎は禁錮2年の実刑が確定して網走刑務所に収監、獄中で結核を発症し、22歳の若さで亡くなりました。


◆黒連のその後


さて黒連の動きに戻りましょう。
中心だった山下昇二らが収監されたため活動は下火となり、残ったメンバーの中にはアナキズムの活動から離れた人が少なくなかったようです。
「日本アナキズム運動人名事典」の墨崎信の項には「山下が不敬罪で検挙されアナキズム運動が退潮するとボルに転身」とあります。
同じく森川武美についても「その後墨崎信とともにボルに転換」とあります。
北海道の他の地域での黒連の活動も、中心的存在だった小樽鎖断社の寺田格一郎が昭和2年に北海道を離れたこともあって低調に転じたようです。
昭和4年4月1日発行の「黒色青年」第20号の地方組織の消息覧では、「北海道」での動きとして、「官犬の狂的圧迫に、変節漢の続出に、我らの戦線は沈滞と寂寞をもつて覆われてゐる。然しながら弛まざる同志の血肉的な捨石的努力は農村への躍進にその打開を信じてゐる」と書かれています。
そして、その後、北海道からの消息の投稿は途絶え、さらに黒色青年連盟そのものの活動も内部対立の激化とともに衰退、機関紙「黒色青年」も昭和6年2月の第24号で休刊となります。


◆日本の流れと旭川の動き


さて最後に、お伝えしてきた旭川のアナキスト及び小熊秀雄との関連の動きに加え、東京などのアナキズムの動きを合わせた年表を作ってみましたので見ていただきたいと思います。


アナキスト関係年表(赤字が旭川の動き)


<大正12年>
 9月 1日 関東大震災
 9月 3日 アナキストの朴烈・金子文子ら検挙
 9月16日 大杉栄・伊藤野枝虐殺さる(甘粕事件)
12月27日 難波大助が皇太子を狙撃(虎ノ門事件)


<大正13年>
 8月末   鎖断社、旭川で活動開始
 9月 1日 和田久太郎、古田大二郎ら福田大将襲撃
 9月 3日 小熊がコラムで鎖断社紹介
 9月15日 鎖断社の大鐘、寺田ら検挙(鎖断社事件)

11月13日 虎ノ門事件の難波に死刑判決、2日後執行
12月 4日 鎖断社事件で、大石ら一部釈放


<大正14年>
 1月19日 鎖断社事件初公判、小熊がコラムで傍聴記
 2月13日 鎖断社事件1審判決、被告ら控訴

 4月22日 治安維持法が公布
 4月25日 鎖断社事件控訴審判決


<大正15年>
 1月    京都学連事件で検挙始まる(初の治安維持法適用事件)
 1月31日 黒色青年連盟が東京で発足
 3月25日 朴烈・金子文子、大逆罪で死刑判決(のち無期懲役に)
 9月29日 小樽で北海黒連結成、旭川の山下昇二も参加
12月25日 大正天皇崩御、昭和に改元


<昭和2年>
 5月 1日 旭川初のメーデー
 5月10日 辻広駒吉ら旭粋会結成
 6月24日 黒色青年連盟と旭粋会が乱闘 
 6月28日 ヤマニで黒連が小熊に言いがかり

 8月23日 アメリカでアナキストのサッコとヴァンゼッテイの死刑執行
 8月27日 黒連の山下昇二ら不敬容疑で逮捕
 8月31日 小熊が不敬事件の取材に近文に行く
 9月30日 黒連不敬事件初公判
10月14日 黒連不敬事件で1審判決、被告ら控訴

11月13日 名寄集産党事件起こる(全国2番目の治安維持法適用事件) 
11月29日 黒連不敬事件で2審判決


<昭和3年>
 1月23日 小熊宅に森川ほか黒連の青年来る
 3月15日 全国で共産党員ら一斉検挙(3.15事件)
 5月 6日 小熊宅に、黒杉・森川・黒崎(墨崎)ら来る
 5月16日 名寄集産党事件の1審、7人の被告にいずれも有罪判決
 6月 2日 小熊が上京、以後池袋に定住



これをみて再確認するのは、やはり旭川でも日本社会の大きな流れの中でさまざまな出来事が起きているという(当たり前のことでありますが)事実です。
大正末から昭和初期の日本は、大正デモクラシーの進展と社会主義思想の普及、それに反動する治安維持体制の強化が顕著です。
特に大正13年は、前年の3つの事件(朴烈&文子、甘粕、虎ノ門)を受けて、当局側が極度の緊張状態にあった時期です。
こうした中で旭川ではフレームアップされた鎖断社事件が起きました。
さらに大正15年には京都学連事件、翌昭和2年には名寄集産党事件と、大正14年公布の治安維持法を強引に適用した事件が相次ぎます。
こうした中、旭川では黒色青年連盟による不敬事件が起き、当局はこれをアナキスト組織の壊滅につなげる好機と判断して摘発に乗り出し、目論見は成功します。
そしてこの時代以降、社会は急速に軍国化が進み、アナキストを含む社会主義者と当局の直接的な軋轢さえなくなる時代に突入します。




画像16 昭和初期の旭川



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旭川のアナキスト・大正編

2020-09-07 15:00:00 | 郷土史エピソード
以前の記事でも触れましたが、大正から昭和初期の旭川は、北海道におけるアナキスト=無政府主義者の拠点の一つでした。
彼らの活動した期間は長いものではありませんでしたが、3つの事件で大きく報道されるとともに、調べていくと、詩人・小熊秀雄との関わりなど興味深い側面も見えてきました。
今回は、そんな旭川のアナキストを巡る動き、そして小熊との関わりなどについて、2回に分けて書きます。
まずは前半、大正編です。


                   **********



◆アナキズム(無政府主義)とは


手元にある辞書を引くと、アナキズム=無政府主義について、こう書かれています。


「国家をはじめ一切の政治権力を否定し、個人の完全な自由およびそうした個人の自主的結合による社会を実現しようとする思想」(三省堂「大辞林」より)


この無政府主義を唱える人が、アナキスト=無政府主義者です。
日本では、明治43年の大逆事件で処刑された幸徳秋水や、大正12年、関東大震災の混乱の中で検挙された朴烈と金子文子、同じ時期に憲兵隊に虐殺された大杉栄らが有名です。



画像1 幸徳秋水と大杉栄



画像2 朴烈と金子文子



◆鎖断社と小熊秀雄


郷土史を調べていくと、旭川にもこのアナキストやグループの名前が幾度か出てきます。
まず登場するのは、鎖断社(さだんしゃ)というグループです。


「旭川市四条通六丁目右十号に鎖断社自由廃業相談部の看板を掲げて『第四階級に生きる彼等を解放せよ』と自由廃業を宣伝する自称社会主義者石井龍太郎、大鐘参夫、寺田格一郎外数名の一派は、三十一日『自由廃業をしたい芸娼妓諸君』と題する宣伝ビラを数千枚市中に散布し主要所で宣伝演説をしてゐたが同夜石井、大鐘、寺田の三名は中島遊郭に入り岩手楼其他二三ケ所に登楼して娼妓に宣伝を始めたのでかくと知つた同郭内の妓夫二十数名に地回り野次馬連を加へた五十余名と大門前で大立回りを演じたが多勢の為め追まくられた石井大鐘の二名は永隆橋際の叢(くさむら)に待ち伏た覆面せる野次馬数名のため棍棒及び木刀を以て頭部腹部所嫌はず散々に殴打され打ち倒れてゐる処を翌一(一部不明)四ノ一二竹村病院に入院した」(大正13年9月2日・旭川新聞)


妓夫(ぎゆう)とは、遊郭の用心棒的な役割を持っていた男たち、いわゆる牛太郎(ぎゅうたろう)のことです。
大胆にも中島遊郭に乗り込んで娼妓に自由廃業を勧めていた所、察知した牛太郎に囲まれたというわけです(この頃の公娼制度では、娼妓は自由意志で廃業することができる仕組みでした。ただ諸事情で廃業を選んだ娼妓は少数でした。詳しくは前回のブログ記事「『襤褸』が描いた旭川」参照してください)。
記事では身元をぼかしていますが、おそらく石井、大鐘を袋叩きにしたのも牛太郎と思います。



画像3 偕楽園(現在の8条通9丁目にあった庭園)から見た中島遊郭(明治末〜大正初期)


そして翌日の旭川新聞には、この記事とは全く別内容の、彼らについて触れた黒珊瑚こと小熊秀雄の署名記事が掲載されます(以下、このブログの別記事「小熊秀雄が書いた旭川その2」の内容と重複する部分がありますが、ご勘弁を)。


「時の推移とともに、さまざまな経路の変つた職業の生まれてくるのは争はれない、これも時代が産んだ新職業のひとつであらう。この場合この仕事を職業化するのは考へものかもしれないが市内四条通六丁目角の女髪結の隣りに近頃『芸娼妓自由廃業紹介所』といふ眼新しい看板がかかげられた表の硝子戸にべたべたと『自由廃業をしたい芸娼妓諸君へ』といふ白赤の印刷物がはりつけられて通りすがりにひよいと硝子越に、ねそべつた若い男のすがたが見えたがいかにもプロ運動にふさわしいやうな所内の有様であつた。虐げられたる者達の繋がれたる鉄鎖を断つといふ意味から名づけられたものであらう『鎖断社(さだんしゃ)』といふのであるが、同人達の宣言では、この北海の地に無産階級の根底を築かうといふので、労働運動に社会運動に中央の同志と呼応して今後あらゆる方面に活躍しようといふのである、その第一歩として生温い一種の改造運動ではあるが金権の暴力に圧迫されて淫慾の犠牲となつてゐるあまたの弱き女性の解放に尽くしたいといふのがこの社の主張である。自由廃業をしたいと思ふ芸妓なり娼妓なりが申込めば、いろいろの注意やら商業届も書けず其の手続きが出来ない者に手続きもするし、届書も書いてやつて完全に自由廃業の目的を遂げさしてやるといふことである(中略)東京でこの種の自由廃業相談所ににたのをやつた者があるさうだが芸娼妓の自由廃業を教唆応援して女の雇い主が泣きついてきたときは雇主側から金をとつて生活をしてゐたさうであるが、これなどはプロ援護の美名に隠れてプロを喰ひ者にしてゐた憎むべき徒輩と言はれよう。こんど旭川に初声をあげた鎖断社などもともすればかうした誤解され易い立場にある仕事をやらなければならない訳だ。同社の前途を共鳴と祝福の意味から筆者ははるかに、真実の苦言を呈してをく。(「秋の夜長の無駄話」より・大正12年9月3日旭川新聞)



画像4 旭川新聞時代の小熊秀雄(後列左)


注文はつけていますが、好意的なスタンスで書かれた文章です。
この鎖断社という組織、昭和41年に発刊された「北海道社会運動史」(著者は元日本社会党代議士の渡辺惣蔵)によりますと、大正末から昭和始めにかけ、旭川、函館、小樽などで活動したアナキストのグループで、記事にあったように娼妓の自己廃業を後押しする活動をしていました。


「(鎖断社は)露天商などの商売をやりながら『籠の鳥』と称された遊郭の娼妓の自廃運動に主力を注ぎ、これを人身売買からの解放運動の手段としたから、各地の遊郭業者を震え上がらせた」(「北海道社会運動史」より)。



画像5 旭川新聞に載った鎖断社本部の写真


さらに「北海道社会運動史」は、旭川鎖断社のメンバーについても触れています。


「旭川の鎖断社のアナキストの中心人物は大鐘参夫らであり、後に小樽で黒色青年同盟の運動を起した寺田格一郎や、昭和初期の旭粋会との乱斗事件や、不敬罪に問われて下獄した山下章二(筆者注・正しくは昇二)も、そのころソヴェートロシアから帰ってからアナ系運動に投じていった。露店商、香具師などを業とし、長髪の思想青年が多く、異行の徒の集団であった。」(「北海道社会運動史」より)


なお、小熊の記事から一週間後、「鉄鞭」と題されていた旭川新聞の投書欄に、ここで名前の上がった寺田格一郎の文章が掲載されます。
寺田は小熊の記事について、「鞭達及び苦言においらは心から感謝し且つよろこぶ」としたうえで、「俺らにとって最も寂しく思ふのは共鳴されている人から誤解を受けることだ。だからおいらを最もよく知ってくれ」と呼びかけ、「これからおいらのほんとの意味の活躍の時季になる・・・単なる虐げられた婦人の解放運動のみでなく、オール(プロレタリアートの解放のために・・・」と書いています。


◆突然の検挙


そしてこの投稿が掲載されたわずか5日後の9月15日、寺田を含む鎖断社の主要メンバーや関係者が逮捕される事件が起きます。



画像6 事件を伝える旭川新聞の記事


「旭川憲兵隊及び旭川警察署高等課では数日来非常の緊張味を帯び極く秘裡に活動中の所一昨夜十時頃予て其筋に行動を注目されてゐた四条通六丁目右十号芸娼妓自由廃業を宣伝してゐる鎖断社員大鐘三夫其他一味三名の検挙となり(中略)更に午前八時其筋の活動の手は三条七丁目左一号竹の湯方小間物店桃太郎屋こと服部みさを(三〇)方の家宅捜査の上みさを内縁の夫社会主義者大杉系幹部と目される大石太郎(三〇)を其場より拘引、太郎が在京の同志と往復せる書信数通を押収旭川署に引上げ午前十時一応取調の上太郎三夫は関口予審判事の令状執行となり両名は直ちに収監事件は予審に附せられて仕舞った」(大正13年9月16日・旭川新聞)


「日本アナキズム運動人名事典」によりますと、大鐘参夫(記事では三夫)は京都出身の香具師で、旭川鎖断社の創設メンバーです。
大石太郎は熊本出身のやはり香具師で、事件の1年余り前に北海道に渡ってきましたが、本州時代、大杉栄と交流があったとして当局にマークされていました。
逮捕容疑は示されてはいませんが、大石および旭川鎖断社の面々が、当時、旭川第七師団第十三旅団長だった小泉六一少将を付け狙っていたことを当局が察知し、検挙に至ったと説明されています(最終的な検挙者は、大石、大鐘に加え、石井、寺田の鎖断社メンバーら6人)。
ではなぜ彼らは小泉少将の襲撃を計画したとされたのでしょうか。
少し背景を説明しますと、事件の1年前の大正12年9月、当時、日本のアナキズムの指導者的存在だった大杉栄が、関東大震災直後の混乱の中で、内縁の妻でアナキストの伊藤野枝と甥の6歳の男児とともに憲兵隊に連行され、全員が殺害されるという凄惨な事件が起きます。
この事件は、残されたアナキストたちにショックを与え、一部は報復のための実力行動に出ます。



画像7 伊藤野枝と大杉栄


その代表格が大杉と行動をともにしていた和田久太郎や村木源次郎、アナキストグループ、ギロチン社を結成していた中浜哲、古田大二郎などです。
彼らは大杉の虐殺後、さまざまな行動を起こしますが、そのハイライトとなったのが和田、村木、古田による福田雅太郎大将暗殺未遂です。
事件は、震災一周年の9月1日、旭川鎖断社事件の2週間前に東京で起きました。
震災時の戒厳司令官だった福田雅太郎大将に向けて和田がピストルを発砲、しかし空砲だったため襲撃は失敗に終わり、3人は相次いで逮捕されます。
彼らは大杉虐殺の報復のため、当時、憲兵隊を指揮する立場にあった福田を狙ったと供述しました。



画像8 中浜哲・和田久太郎・村木源次郎


旭川鎖断社事件で当局が描いた構図も和田らの事件と同じで、小泉六一少将が震災当時、福田大将を補佐する立場の憲兵司令官だったため、報復を目論んだというわけです。
ただ事件発生を伝える各紙の記事はこうした構図をもとに書かれていますが、実際にはそうしたテロ計画はありませんでした。
それを端的に表わしているのが起訴内容です。
一つが、鎖断社を作るに当たり届け出をしていなかったため秘密結社と認定されるとした治安維持法違反(大鐘ら4人)、もう一つが中島遊郭での自由廃業宣伝の際、暴漢に襲われて入院していた石井龍太郎が、仲間とともに看護婦に革命歌を歌って聞かせ、歌詞を書いた印刷物を渡したとする流言浮説取締令違反(石井他1名)、テロのテの字も出てきません。
このため、この起訴内容を北海タイムスが特ダネとして伝えた翌日(大正13年12月4日)には、当初の構図では首謀者とされた大石が罪に問われることなく釈放されています。
旭川鎖断社は、この年8月末から看板を掲げて活動を開始しました。
そして少し前には大杉と関係のあった大石、さらにはアナキストに狙われる立場の小泉少将が旭川にやってきていました。
そうした中で迎えた震災一周年。
東京では懸念されていた報復テロが、失敗したとはいえ実際に起こりました。
旭川の憲兵隊および警察では、地元でそうしたテロの計画はないと思いつつも(憲兵隊は、主義者を装ったスパイを鎖断社に潜入させていました)、なにより警戒のため関係者の検挙に踏み切った、というのが実情と思います。
そのためのフレームアップ(=でっちあげ)というのが、事件の本質と言えそうです。
なお病院で革命歌を歌って聞かせたという石井龍太郎ですが、「日本アナキズム運動人名事典」によりますと、九州の炭鉱で労働組合活動をしていた人物で、その後北海道に渡って旭川で日雇い労働者となり、鎖断社の結成に参加したということです。



画像9 石井らが革命歌を歌った竹村病院


◆旭川新聞のスタンス


ところで、こうした事情をある程度わかっていたのか、当時、旭川新聞は、重大事件発生の割には、と思わせる誌面作りをしています。
具体的には、大石の美人の妻をやたらと取り上げたり、当局を茶化したかのような記事を載せたりといった点です。



画像10 大石の妻、みさをのインタビュー記事


これは事件の発生を伝える日の記事の一部ですが、大石の妻、みさを(本名・服部ミサ)の「大石と鎖断社では主義が違う」「主義者の家内となれば辛いもの」といった談話に加え、カフェのメードをしていたなど、プロフィール的なことまで細かく載せられています。
また大石の釈放を伝える12月5日の記事では、「例の大石の妻君たる操さんが美しい顔を今日は一層艶かにして包み切れぬ嬉しさを現しながらも何んとなく落付きのない態度で控へ室を右往左往して居る(「美しい顔」は大きな活字!)」などと描写しています。
別の日には、小熊による写真付きのこんな署名記事も掲載されます。



画像11 小熊の署名記事(写真は取材中の小熊)


「編輯長から小泉少将の首を撮って来て呉れの命を受け記者は早速写真班のオー君といっしょに一区十銭也の乗合自動車を師団までふん発する。(中略)ふいに玄関の扉がひらかれて四十格好になつた老女が半身を現す『どなた様でございますか』『閣下は御在宅で?』と記者は百も承知の在宅を訪ねると「をられますが、その方へ何卒」と呼びさすのでフと記者はさされた方を見ると髪の毛をジャンギリにした伊勢崎絣を着流した眼の凄い素人眼にも一見憲兵と知られる男が何時の間にか記者達の傍に立ってゐてその鋭い殺人光線のやうな視線をふたりにパラパラと浴びせかける(中略)らいらくな少将のこと何程こん度の陰謀事件があるからと言って面会謝絶の警戒振をするやうなことがまさか有るまいといふ目算がどうやら案に相違して玄関番代用の憲兵の物々した身辺警護に二人はビックリして首を振るどころの騒ぎではない、むかふでさう戒厳令をしけばこつちでも策戦計画を変へてと記者が写真班に眼で合図をするとオー君合点と準備をするやがて例の眼の鋭い男が扉から顔だけといふ玄関番作法をしらぬ態度で『閣下は何も御意見がないと申しますが』とまんまと玄関払ひ記者は「御面会はお願ひ申しましたが、用件のことはまだ申しませんが」と一本突っこみ警護役の眼を白黒さしてゐる処を写真班がパチリ、てもまた大げさな警戒振かな」(大正13年9月19日・旭川新聞)


この記事、タイトルが「小泉少将の首を撮りにゆく記」となっています。
報道機関では、顔写真のことを「ガン首」と言い、ただ「首」と略する場合もあります。
なので事件の報道に合わせて掲載する小泉少将の顔写真を撮影に行った顛末記という体裁ですが、テロの標的にされたとしている人物の取材記を、「首を撮りにゆく・・・」としてしまうのはかなり思い切ったことです。
警戒ぶりを茶化した文章といい、「そんなテロ計画などないものを」と小熊が匂わしていると言ったら深読みのしすぎでしょうか。
いずれにしろ小熊や当時の旭川新聞の反骨心が現れた記事と思います。



画像12 小泉六一少将


◆傍若無人の被告たち


さてそんな軽微な罪での起訴となった事件ですが、年が明けると公判が始まります。
ここでの被告たちは、現在では考えられないほどの傍若無人ぶりを見せ、法廷もある程度許容、新聞はそれを面白く書き立てるという展開を見せます。



画像13 初公判の記事


まずは傍聴席ですが、起訴されなかった鎖断社のメンバー、大石ら関係の深い香具師に加え、一般の傍聴者も多く、記事では「立錐の余地もない騒ぎである」と書かれています。
そして大鐘、寺田、石井ら4人の被告が入廷しますと、傍聴席から激励の声が飛び、4人もそれに応えて「気焔を上げる」という興奮ぶりです。
さらに開廷が遅れると、被告の一人、鎖断社の山田正信が怒り出し、係員を怒鳴りつけるや傍らの椅子を振り上げて床に叩きつけ、壊してしまったというから驚きです。
今なら即退廷ですが、やがて現れた裁判長もそんな彼らに何故か寛容です。
起訴理由の朗読に続いて審問に移りますが、被告はいずれも起訴事実を否定しました。



画像14 初公判について書いた小熊のコラム


この公判の模様を伝えた旭川新聞には、黒珊瑚こと小熊のコラムが載せられていますが、その中で小熊はユーモラスに法廷の様子を伝えています。


「竹村病院の看護婦を整列さして『革命歌』の教授をやつたというかどを、温顔な福間裁判長がじんぐりもつくりと肥えた姿の主義者石井龍太郎を証拠品第何号を突きつけて尋問を始める幾分どもつた言ひ振りの石井がすつくと立ちあがり、『わつちは十三才の時に親に死に別れやしてから、あつちこつちの炭礦へ渡り歩いてずいぶん虐げられたもんで、ヘン、都々逸や端歌などを歌つてゐられる気分が出ませんから』と叫ぶ。この一風変わった赤い労働者がさかんに気焔をはく開廷前に『開廷時間の不励行だ』というので、元気な山田が座席の椅子をたたきこわしてしまった。慈父のように優しいものいいの福間さんが法冠法衣姿で高い台から静かな調子でいちいち詳細に被告に尋ねるが、さすがに赤い裁判と思わせる、すこぶる寛いだ感じのよいといっては変にきこえるがとにかく肩のこらない公判は続けられる。(中略)さすが頭のよいのは寺田格一郎老師の虚無主義崇拝が畑違いの社会主義に頭を突っ込んでいまさら巻添を喰つてつまらないといった表情でさかんに同志の弁護や弁解を述べたてるし、大鐘参夫はなかなかの熱弁家でともすれば詳細に主義の理論を裁判長殿に教授する態度であるので『よしよし、それはまた後からくわしく聞くから』と裁判長に言われる、(中略)廊下でばったり逢つた御大の大石太郎クンに『なかなか人気があるもんですね』といふと『フ丶丶丶』と異様な笑いを漏らすこの大石一派の主義者が香具師連、師団の兵隊さんと老人連で傍聴席がぎっしりだが見渡すところ思想問題に無関心なせいか旭川の青年の顔がさっぱり見えないのはちょっと変な気がした位」(旭川新聞・大正14年1月20日)


小熊が大石に「なかなか人気があるもんですね」と言ったくらいですから、どうやら地元の世論も“被告より”だったようです。
また法廷の雰囲気も、椅子を叩き壊すなどの場面があったにしては、そう緊張感が漂うものではなかったことが、この記事からは推測されます。



画像15 旭川地方裁判所


◆判決も大幅減刑


さて公判は2月2日にもう一度開かれて結審。
検察は、寺田と石井に禁錮10か月、大鐘と山田に同8か月を求刑しました。
そして2月13日には判決の言い渡しがあり、病院での流言浮説取締令違反については無罪で、治安警察法違反のみ有罪。
寺田、石井、大鐘の3人は禁錮8か月、山田は同6か月(いずれも未決勾留2か月を含む)となり、4人は控訴の手続きを取ります。
最終的には、4月に札幌で開かれた控訴審で、山田は無罪、他の3人は禁錮6か月(いずれも未決勾留100日を含む)とさらに減刑されますが、ここでも4人の傍若無人ぶりは変わっていません。
小樽新聞は、判決言い渡し後の様子をこのように伝えています。


「裁判官の退廷するや石井は満員の傍聴席を顧みて大聲に鎖断社の万歳を唱へ寺田は裁判長の椅子に腰をかけて見たり椅子を打ち倒したり従順でない態を見せながら退廷した、それでも彼等は傍聴に来てゐた一味同志と共に減刑の上未決勾留期日通算され近々出られる喜びを語り合つてゐた」(小樽新聞・大正14年4月26日)


さらに同じ日の北海タイムスは、こうした被告の姿に傍聴人が沸いている様子を描写しています。


「寺田は裁判長の席にどつかり腰かけて如何なもんだと長髪を振立て係員の椅子を二つ三つ引つ繰返して見栄を切つたが、座頭格の大鐘は始終ニヤニヤ苦笑を漏らしながら悠々と退廷した当日是の事あるを期して傍聴席は警戒の警官憲兵を始めとして大入満員の姿であつたが被告等が御愛嬌たつぷりな傍若無人の振舞に思わずどつと笑ひ崩れ好奇心を満足させて貰つて引き取つた」(北海タイムス・大正14年4月26日)


やはり世論は被告よりだったようです。


◆鎖断社のその後


「日本アナキズム運動人名事典」や新聞記事などによりますと、翌月の出所後、大鐘が旭川に残ったのに対し、寺田は小樽に移り、小樽鎖断社を立ち上げて娼妓解放運動を継続、さらに次回詳述する北海黒色青年連盟の結成に関わります。
また石井は北海道を離れて東京で活動、9月には大杉3回忌の追悼会に参加して警察に検束されたことが新聞で伝えられています。
大石については、その後の動きについて書かれたものが見当たりません。
なお、大正15年11月27日付の小樽新聞には、旭川芸娼妓相談所から香具師数名が札幌に進出して札幌支部を設立、再三に渡り車で白石遊郭に乗り込み、メガホンで自由廃業を呼びかけ、ビラを撒くなどしたという記事が載せられています。
鎖断社の名前は出ていませんが、少なくともこの頃までは活動を続けていたことは間違いないようです。
こうした旭川のアナキストの動き、昭和に入りますと、先に触れた全国組織である黒色青年連盟が北海道でも立ち上がったため、こちらが主流となります。
詳しくは次回をお待ち下さい。




画像16 大正15年11月の小樽新聞の記事





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