もっと知りたい!旭川

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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

新橋を深堀り!

2021-10-25 10:30:00 | 郷土史エピソード



久しぶりの原稿アップです。
前回は、旭橋&常盤橋と馬鉄=馬車鉄道について書きましたが、今回も橋の話です。
旭橋と並ぶ市中心部の重要な橋、新橋についてのあれこれです。


                   **********



画像01 永隆橋から見た牛朱別川、緑橋、旭橋


旭川市内で石狩川に架かる橋と言いますと10以上ありますね。
そのうち中心部にある橋というと・・・4つ!
上流側から、金星橋、旭橋、新橋、そして旭西橋ですねよ。
このブログでも何度か触れていますが、ワタクシが生まれ育ったのは10条通9丁目。
家の裏は緑橋と永隆橋の間の牛朱別川の堤防です。
のぼると旭橋の全景がきれいに見えます。
反対側には、パルプの工場とその向こうに大雪の山並み。
それと高校は旭川北高校でしたので、通学には金星橋を渡っていました(夏は自転車、冬はバスです)。



画像02 金星橋から見た石狩川、旭橋(右上)


このため身近な石狩川の橋と言うと、旭橋と金星橋ということになります。
ただ旭西橋、新橋も何度も通った馴染み深い橋です。



画像03 常磐公園裏から新橋を望む


そのうち新橋ですが、いま橋が架かっている近辺には、開拓のはじめ、渡船場が設けられていました。
それを示したのが、1890(明治23)年の地図です。



画像04 明治23年の旭川地図(「まちは生きている 旭川市街の今昔)より)


3つある格子状の市街予定地のうち、右上が現在の中心部に当たります。
少し拡大します。



画像05 明治23年の旭川地図(拡大)


中央に「土人渡場」とありますが、これが渡船場の位置とルートです(「土人」という用語はかなり問題がありますが、史実ですのであえてそのまま掲示します)。
ルート右側の川の中洲(中の島、中島とも)が今の常磐公園と常盤町です。
左側の中洲が今の新町周辺(下の島・しものしま)に当たります。
この時代、牛朱別川は、切り替え工事のはるか以前で、街の中心部寄りを流れています。
なので、この渡船ルートのほとんどは今は陸地です。

で、この渡船の近文側の起点だった場所のやや西側に、1925(大正14)年に架けられたのが新橋です。
新橋架橋直後の地図を見てみましょう。



画像06 大正15年の旭川地図


川の蛇行状態は相変わらずですね。
これも拡大します。



画像07 大正15年の旭川地図(拡大)


旭橋の下流、現在の位置に新橋が架かっています。
牛朱別川は切り替え前です。
なので中心部から新橋に行くには、牛朱別川に架かっていた蓬莱橋(ほうらいばし)という橋を通り、下の島と呼ばれていた中洲に入る必要がありました。
ちなみに蓬莱橋のあった場所(5条通1〜2丁目付近)は、現在、6つの道路が交わる変則交差点になっています。
第2のロータリーという呼び方もされていますよね。

そしてここで注目したいのは、かつて渡船のルートだった場所です。
1890(明治23)年と1926(大正15)年の地図を並べてみます。



画像08 明治23年と大正15年の比較図


いかがでしょうか。
中島と下の島の2つの中洲の間にあった川が無くなり、つながったようになっています。
ちなみに1914(大正3)年の地図を加えるとこうです。



画像09 3つの時代の比較図


1914(大正3)年の地図(下段右)では、まだ2つの中洲は川で分かれています(「公園」と書かれているところが中の島、中島です)。
1926(大正15)年(上段右)になると、これが一体化します。
一方、渡船ルートの川があった辺りには、石狩川から切り離された細い水路のようなものがあります(下段右)。
水路は常磐公園の千鳥が池から出て、牛朱別川に注いでいます。
細長い水路と言えば、現在、常磐公園には、千鳥ケ池とつながる細長い水路があります。
白鳥の池という名前です。



画像10 常磐公園の白鳥の池①


画像11 常磐公園の白鳥の池②



明治の渡船ルートは、川が頻繁に流れを変えていた時代のものですので、地図にある場所は確定されたものではありません。
ただあくまで地図上の変遷を見る限りですが、今の白鳥の池がかつての渡船ルートの名残りのようにも感じます。
この見立て、いかがでしょうか。
参考に、現在の旭川の地図も載せておきます。



画像12 現在の旭川(Google Maps)/span>


続いては、新橋架橋の経緯についてです。
1925(大正14)年にできた初代の新橋は、実は当時の陸軍の演習によって架けられました。



画像13 博進堂の絵葉書セット


これは当時、旭川にあった博進堂書房という本屋さんが発行した絵葉書のセットです。
袋には「大正拾四年九月旭川二於ケル 工兵隊特别大演習實况」と書かれています。
個々の絵葉書には、一連の架橋工事(演習)の様子を伝える15葉の写真が印刷されています。



画像14 工兵隊による架橋工事の様子①


画像15 工兵隊による架橋工事の様子②


画像16 工兵隊による架橋工事の様子③(遠くに初代旭橋が見えている)



ではなぜ新橋が軍隊によって架けられたのか。
その経緯は、工事の3年前の1922(大正11)年にさかのぼります。
この年8月、旭川は、北海道独自の行政単位であった区から市に移行します。
札幌、函館、小樽、室蘭、釧路と一緒の移行でした。
そして初代の市長の選任があるわけですが、これがかなり難航したことが伝えられています(これはこれで興味深いのですが、今回は詳しく述べません)。
結局、選ばれたのは元第七師団第二七連隊長で、陸軍予備少将だった岩田恒(いわた・ひさし)でした。
新旭川市史は、岩田の市政について次のように書いています。

「(岩田市長は)旧軍人の立場を活用して、軍都旭川の都市基盤整備にその能力を発揮した。任期中に札幌の日本赤十字社北海道支部病院(通称日赤病院)の旭川移転、秋月橋の架け替え、牛朱別川切替工事の議決(昭和七年竣工)等知られている。とりわけ軍人市長の面目を発揮したのは、大正十四年(一九二五)九月、第一九回特别工兵演習と称して、工兵隊の力を借りて旭橋下流の新橋架橋を昼夜兼行で完成させ、旭川市民生活の便益に大きく貢献している」(新旭川市史)



画像17 岩田恒初代旭川市長


ということで、古巣の陸軍に働きかけて、工兵の大規模演習を旭川で行うことに成功。
新しい橋を架けてしまったということですね。
具体的には、地元第七師団に加え、本州の近衛、第一(ともに東京)、第二(仙台),第八(弘前)、第十四(宇都宮)の各工兵大隊等から派遣された工兵が集まって工事(演習)が行われました。
9月2〜5日が準備、6〜17日が本作業という半月の突貫工事です。



画像18 修祓式の様子


画像19 完成した初代新橋



演習は昼夜交代で進められ、予定通り全長272メートル、幅4,5メートルの木橋が17日に完成。
翌18日午前には、市民も参加して渡橋式がありました。

こうした大規模な工兵演習が行われるのは、北海道では初めてでした。
このため地元を始め全道各地から見学団が訪れました。
その数はのべ2万5000人に上ったと伝えられています。



画像20 初代新橋の渡橋式と集まった市民(大正14年9月・「まちは生きている 旭川市街の今昔」より)


さてその後の新橋ですが、1945(昭和20)年、同じ木橋の形で架け替えられます。
ただこの2代目新橋は、1954(昭和29)年、大雨による水害により80メートル余りが流失してしまいます。
画像19は流出の被害を伝える一枚です。
残った橋の向こうに、様子を見にきた大勢の市民がいます。



画像21 一部が流出した2代目新橋(昭和29年・「旭川の橋」より)


その後、新橋は、長期間、通行不能の状態が続きますが、1958(昭和33)年になってようやく近代橋である3代目の橋が架けられます。
画像23は、橋脚のみが完成した時点の写真と思われます。
画像24は平成になっての3代目新橋ですが、交通量の増加に伴い、脇に歩道専用橋が増設されているのが分かります。



画像22 上空から見た旭橋、新橋(昭和32〜33年ころ・旭川市中央図書館蔵)


画像23 3代目新橋(平成3年・「旭川の橋」より)



なお現在の新橋は、4車線の立派な橋となっています。
これは2002(平成14)年に架け替えられた4代目の新橋です。

なお陸軍が架橋した橋としては、旭川では第七師団工兵隊が演習で設けた秋月橋もあります。
橋の名前は当時の工兵隊の隊長、秋月大佐の名前を取ったということです。




画像24 常磐公園上空からの空撮写真(昭和35年・旭川市中央図書館蔵)

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お知らせ 連続歴史講座、始まります!

2021-10-11 13:47:03 | 郷土史エピソード


お知らせです。
以前に周知させていただいた連続歴史講座「もっと知りたい!旭川」。
いよいよ今週末(10月16日・土)から始まります。





初回は「総論・3つのキーワードで見る旭川」。
「山と川の恵みを受けたマチ」「北の守りの要のマチ」「文化・芸術のマチ」のそれぞれの視点で、旭川という街の持つ独自性について考えます。









若干ですが、まだ席がありますので、興味のあり方はぜひご参加下さい。







なお講座の模様は動画で収録し(固定カメラですが)、後日、You Tubeにアップすることにトライします。
なので、日程的に都合のつかない方はそちらをご覧ください。
アップについては、また後日、周知いたします。
なにとぞよろしくお願いいたします。








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