もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・ワタシの好きな旭川 VOL.19 買物公園を〝馬鉄〟が走った!?

2015-03-23 22:26:13 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は私の大好きな乗り物「馬鉄」について書いたこの記事です。


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<買物公園を〝馬鉄〟が走った!? >(2012年7月19日掲載)


まずはこちら。







昭和47年、買物公園がオープンした時に登場した花電車です。
といっても線路を敷いて電車を走らせたのではなく、〝花電車風の山車〟とでもいえるかもしれません。
子供たちを乗せて人が引っ張り、できたばかりの買物公園を練り歩きました。

ただこの花電車、
単にイベントを盛り上げるものとしては、いささか凝った作りだと思いませんか。
もともとあった乗り物を利用し、飾りつけたように見えます。

そこで思い出したのがこの写真。





明治39年から大正7年まで、師団道路(現買物公園)を行き来した馬鉄(上川馬車鉄道)です(この写真は明治42年の撮影)。

どうでしょうか。
馬鉄の方がややタテに細長いのですが、感じは似ていますよね。

さらに、こちらの写真を。





野幌にある「北海道開拓の村」を訪れた時に撮影した写真です。

こちらはもっと似ていますよね。
屋根の形といい、御者が乗るスペースといい、細部は違いますが、大きさやバランス、構造はそっくりです。

考えられることといえば、買物公園のオープンに当たり、当時、何らかの理由で保存されていた馬鉄の車両を利用して、花電車に仕立てた!? そう思いたくなります。

ただ古いことなので、記録も残っておらず、何人か元市職員の方に聴いてみたのですが、残念ながらいまのところ事情を知っている方は現れていません。

しかし、手がかりになりそうな写真は手に入りました。
市役所に保存されていた買物公園のさまざまな写真の中に混ざっていたこの1枚。





なんと花電車に使われた車両と瓜二つ!この車両に飾り付けをしたことはほぼ間違いありません。

ただキャプションが付けられていないため、どこでいつ撮影されたかも分かりません。
またこれが馬鉄の車両だったとしても、旭川で使われていたものなのかも不明です。

願わくば、かつて旭川のメインストリートを疾走した馬鉄が、昭和47年、買物公園として生まれ変わった通りに蘇っていた!!
ということであれば、とてもわくわくするのですが・・・。

この件については、引き続き調べたいと思いますが、もし事情をお知りの方がいらしたら、ぜひお教えください。

なにとぞよろしくお願いします。






アンコール・ワタシの好きな旭川 VOL.18 なつかしの映画館・劇場あれこれ

2015-03-22 09:22:25 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は連載物の「旭川郷土史エピソード」のうち、かつての映画館や劇場について書いたこの記事です。


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<旭川郷土史エピソード なつかしの映画館・劇場あれこれ>(2013年12月16日掲載)


続いては、郷土史エピソードの5回目です。
まずはこちら。





昭和24年の絵はがきです。
右下に写り込んでいるのはロータリー。
建物はかつての商工会議所です(今と同じ場所にありました)。

で、見ていただきたいのは玄関の両脇です。





映画の看板が見えますよね。
そうです。
当時、商工会議所の建物には映画館があったんです!!
名前は「三階小劇場」。
洋画専門館だったとも伝えられていますが、邦画のポスターが貼られた写真も残っています
(なおこの時期の商工会議所の建物には、「ロータリー」という名前のダンスホールも併設されていました)。



「三階小劇場」の文字が見える


この「三階小劇場」をはじめ、戦後の旭川には数多くの映画館がありました!
中心部だけでも国劇=国民劇場に旭川東宝、スカラ座に旭映=旭川映画劇場、5条昭和通に並んで建っていた旭劇=旭川劇場と旭川日活などがあげられます。



国劇ビルの内部(昭和42年・旭川市中央図書館蔵)


日活と旭劇(昭和46年・旭川市中央図書館蔵)


4・5仲通り(通称キネマ街)は、戦前からの映画街(昭和13年・絵はがき)



映画館とともに栄えていたのが劇場です。
いまはさまざまな用途に使えるホールなどで開催される事が多い芝居やコンサートですが、かつては旭川でも本格的な舞台を持つ劇場が会場でした。



「佐々木座」(明治35年・「上川便覧」より)


旭川初の本格劇場は、明治33(1900)年、今の1条通6丁目にお目見えした「佐々木座<ささきざ>」です。
歌舞伎や浄瑠璃、各種演芸のほか、演説会などが盛んに行われました。



「松竹座」(昭和初期)


その9年後には、今の銀座通(3条通15丁目)にも本格的な劇場「大国座<だいこくざ>(のちに錦座<にしきざ>、さらに松竹座<しょうちくざ>と改名)」が登場します。
ここでは、昭和8年9月、東京の人気劇団などを招いて、旭川放送局の開局記念実演会が開かれました。

なお以前にも書きましたが、かつての旭川の映画館ではコンサートなどの公演も行われていて、「実演」と呼ばれていました。
特に「実演」が多かったのは国劇です。
子供の頃、先日、亡くなった島倉千代子さんの「実演」を見に行くため、母がうきうきとおめかしをして出かけて行った事をよく覚えています。







アンコール・ワタシの好きな旭川 VOL.17 ルーツを訪ねて

2015-03-21 12:43:35 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回はワタクシが母方の祖父ゆかりの地を訪ねた際のリポートです。


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<ルーツを訪ねて>(2013年7月19日掲載)

まずはこちら。





訪れたことがあるという方もいるのではないでしょうか。
「絵本の町」として知られる剣淵町にある「絵本の館」です。





中には数えきれないほどの絵本と子供たちの遊び場。
ワタクシが訪ねたのは連休の中日でしたが、この日も大勢の子どもたちで賑わっていました。
で、ワタクシの第一の目的はというと、「絵本の館」ではなく、その裏にあるこの施設。





地域の歴史を伝える資料を保存している「剣淵町資料館」。
実は、ワタクシの母方の祖父は明治時代に剣淵に入植した屯田兵で、前々から一度訪ねてみたかったんです。

屯田兵は、ご存じ北海道の警備と開拓に当たった兵士で、明治8年から配備が始まり、明治37年に廃止されます。

屯田兵の部隊が置かれたのは北海道各地に及びますが、廃止の5年前、明治32年に最後に置かれたのが、南剣淵・北剣淵・士別の3つの兵村(屯田兵の村)で、岡山県からやってきたワタクシの祖父は北剣淵兵村に配備されました。
いわば最後の屯田兵の1人です。

資料館では、当時の書類など貴重な資料を見る事が出来たほか、実際に使われていた兵屋(屯田兵と家族の家)も隣に移築されていて、今は亡き祖父をしのぶことができました。
(祖父は、北剣淵兵村で5年過ごした後、明治37年秋に日露戦争に従軍、戦争終結とともに免役となり、旭川に移住しました)



資料館の内部


展示資料


屯田兵屋


その内部


屯田兵屋にあった名簿には祖父の名前も(上段右から2番目)



今回の訪問では、このほか、初めて剣淵にやってきた屯田兵とその家族が集合したというヤチダモの古木や、当時は練兵場(訓練場)として使われていたという小学校わきに建てられた記念碑などを訪ねる事ができました。



町の中心部にあるヤチダモの巨木


説明板


兵村碑(記念碑)


祖父が入植したと思われる場所(遠くにあるのは剣淵神社)



資料館と屯田兵屋を親切に案内してくれた「絵本の館」の担当者の方、
道案内をしてくれた「まちの駅(観光案内所)」の方、
本当にありがとうございました!










平和の塔・新発掘写真がぞくぞく!

2015-03-03 16:36:18 | 郷土史エピソード

ワタクシが郷土史に興味を持つようになったきっかけの一つに、子供時代の記憶にあった市立病院裏の塔=「平和の塔」の存在がありました。
この「平和の塔」につきましては、以前の記事(「アンコール・私の好きな旭川」1~2)を参照していただきたいのですが、郷土史の研究を進める中で、新たに塔が写った絵葉書や資料を確認しましたので、まとめてご紹介します。



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(平和の塔・昭和25年、「北海道開発大博覧会誌」より)


ごくかいつまんで言いますと、「平和の塔」は、昭和25年に旭川市で開かれた「北海道開発大博覧会」のシンボルタワーで、現在のロータリーの位置に建てられました。
上の写真は、その「北海道開発大博覧会」の記録誌に載せられた一コマです。

塔の左に写っているのは商工会議所、下を走っているのは旭川市街軌道近文線の電車です。
塔は、博覧会の終了後も広告塔として利用され、昭和35年には市立病院裏に移設されました。

で、同じようなアングルの写真が当時の絵葉書に載っていましたのでご紹介します。



(昭和25~26年・絵葉書)


(同上・塔の写真を拡大)



この写真では、電車の代わりに常盤通と旭橋が見えています。
商工会議所の3階部分の屋根の形状などから、塔ができて間もない昭和25~26年ころの撮影と思われます。

続いては、同じアングルからの写真ですが、昭和30年代に入ってからの撮影と思われるカットです。



(昭和31年か・「観光パンフレット」)


(同上・平和の塔の写真を拡大)



近文線の線路がありますので昭和31年以前の撮影です(電車の廃線は31年6月)。
ただ線路の横をバスが走っていますので、もしかしたら廃線から間もない32年になっているかもしれません(線路の撤去は32年に入っても続いた)。
写真の説明に「母の鐘」とあるのは、市内の子どもに帰宅を促す時報替わりのメロディー(「母の鐘」と呼ばれた)が、平和の塔から流されていたからです。

なお写りこんでいる商工会議所の3階の屋根の形が改築によって変わっています。

同じ屋根の形は、次の2枚の絵葉書での確認できます。



(絵葉書・昭和20年代後半か)


会議所に旭橋、塔にすれ違う2台の電車。
ほれぼれするような構図の1枚です。



(絵葉書・昭和20年代後半か)


こちらは商工会議所の建物がメインにおさまっています。
当時会議所内にあった映画館(三階小劇場)やダンスホール(ROTALY)の様子もよくわかります。
その左奥、今の中央図書館の位置に見えているのは、塔と同じく博覧会の際に建てられた体育館(博覧会当時は展示館の一つ)です。

少し離れた位置から撮影した市中心部の写真に、平和の塔が写りこんでいる珍しい絵葉書もありました。



(絵葉書・昭和20年代後半か)


(同上・拡大)



6条通8丁目の当時の電報局(現在のNTT東日本旭川支店のビル)からの撮影です。
中央やや上に写っているのが「平和の塔」です。左横に同じ時期に建てられた体育館の建物が見えています。
木造の建物がほとんどですので、昭和20年代後半の撮影かもしれません。



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ところで、確証はないのですが、移設後の平和の塔と思われるものが写りこんでいる絵葉書を見つけましたので、最後にご紹介します。

それがこちら。





これではよくわかりませんね。
拡大画像をどうぞ。





旭橋の奥に煙突のようなものが見えます。
位置的には市立病院の敷地内と思われます。

撮影年代については手掛かりがありました。
この絵葉書、旭川や近郊の名所を紹介する絵葉書セットの中に1枚なのですが、同封の絵葉書のうちのこの1枚。





4条平和通にあった「手の噴水」の奥、中川ビルの壁に「ミュンヘンオリンピックをカラーで見よう」と書かれた垂れ幕が見えます。
ミュンヘンオリンピックの開幕は昭和47年8月、買物公園のオープンが同じく6月ですから、オープン直後の撮影と思われます。
同じ絵葉書セットの写真の撮影時期がそう大きく離れているとは思われません。なので、旭川市のロングショットの写真も47年の撮影と推測できます。

実は平和の塔については、設置時期と移設時期は明らかになっていますが、撤去時期が記録に残っていません。
写真の煙突のようなものが平和の塔だったとすると、塔は40年代の後半まで建っていたことになります。
近くに住んでいたワタクシの印象で言いますと、40年代の前半にはもう無くなっていたのではと思っていましたが、写真に写っているのが塔ならば認識を改めなければなりません。
ただ写っているのが、平和の塔なのか、それとも病院の煙突なのか、判断はつきません。

もともと平和の塔については、子供のころのぼやっとした記憶をたよりに調べ始め、様々な事実を知るに至った経緯があります。
撤去の時期についても、今後さらに調べる必要がありそうです。




(市立病院裏に移設された平和の塔・昭和37年・市立旭川病院蔵)