もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・ワタシの好きな旭川~常盤公園スペシャル④文化・スポーツの拠点

2015-02-25 08:57:39 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は、2011年に4回シリーズで掲載した「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」の最終回、「文化・スポーツの拠点」です。


             ***********


<ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル④ 文化・スポーツの拠点>(2011年9月13日掲載)


まずはこちら。





どこか分かりますでしょうか。
旭川にお住まいで、一定年齢以上の方なら「何となく見たことがあるような」と思われるかもしれません。

ヒントは、壁にある山並みのようなシルエットです。

「あっ」と思われた方もいるかもしれません。
では、こちらの写真です。





今から43年前、最初の写真と同じアングルから写された写真です。

実はここ、常磐公園にある「旧青少年科学館」の一室。
かつて、プラネタリウムとして大勢の市民でにぎわった場所なんです。



旧プラネタリウムの入口(現在は絵本の読み聞かせなどに利用)


「旧青少年科学館」のプラネタリウムは昭和38年の開館とともにオープン、
平成17年に新しい市の科学館が完成するまでなんと41年間に渡り市民に親しまれました。



内部


壁にはプラネタリウムから見た東西南北の風景が描かれている(今も残されていることに感動!)


他の街の方向も



投影機は、ドイツ名門「カール・ツァイス」製!
もちろん今のようなコンピューター制御のものではなく、すべて手動でした。

この投影機、今は旭川駅裏の再開発地区、北彩都(きたさいと)にある新科学館の中に展示されていて、往時をしのぶことができます(近くには前回紹介した「市立天文台」の望遠鏡も置かれています)。



新科学館の一角に置かれたレトロな投影機


この形、見覚えがありました!


市天文台に置かれていた望遠鏡



このなつかしいプラネタリウム、ワタクシは特に天文ファンということではなかったのですが、前にもお話しした通り、常磐公園や科学館自体が自分の遊び場だったことから
何度も(何十回も?)見たと記憶しています。

ということで、またまた前置きが長くなってしまいましたが、「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル・その④」、最終回の「文化・スポーツの拠点編」です。



「サイパル」の愛称がついている新科学館



今回のブログに登場する主な施設



◆その①・・・「図書館通り」は文化の拠点


続いてはこちら。





中央図書館などがある常磐公園の東側は、現在、「図書館通り」と呼ばれていますが、昔から旭川の文化の拠点でした。



旧青少年科学館


昭和40年代



先ほどのプラネタリウムがあった「青少年科学館」は、通りの一番奥、現在も「常磐館」と名を変え、「旭川文学資料館」や「放送大学」の施設として利用されています。




青少年科学館の内部


今考えると博物館的な機能もあったのでしょうか。
当時の科学館には、科学の仕組みや成果を説明するさまざまな展示物に加え、たくさんの昆虫や生き物の標本、鉱物の標本などが展示されていました。



青少年科学館の内部(昭和40年代か)


同じアングルから現在の様子(壁の絵が同じです!)



プラネタリウムに通じるドアの上にあるレリーフ(これも当時のまま残されています)



その手前、「勤労青少年ホーム」(現在「川のおもしろ館」)を挟んで建っていたのが図書館&公会堂の一体となった建物です。



公会堂(手前部分)と図書館(奥の少し前に飛び出た部分・昭和33年)


このうち公会堂(今も現役です)は、市民会館ができる前は旭川では唯一の公立のホールでした。
ワタクシはここで吉田拓郎や井上陽水、かぐや姫や2人組だったころのオフコースなどたくさんのアーティストのライブ(当時はコンサートと言っていましたよね)を見ました(当時はフォークブームに火がついた頃でした)。



落成時の式典(昭和33年)


体育館(昭和40年代)



公会堂&図書館のとなりは前回ご紹介したように市の体育館でした。
中学生の頃だったでしょうか。
ここでは、なんとベートーベンの第9交響曲を聴いた思い出があります。
おそらく公会堂では合唱団を入れるスペースがなく、体育館で演奏することになったものと思われます。



体育館の内部


◆その②・・・「温泉卓球」ならぬ「公園卓球」!?


常磐公園と卓球。
一見、つながらないように思えますが、昭和40年代、少年たちにとって、常磐公園は卓球をしにいく場所でもありました。

このブログで何度も登場している売店の「大中(だいなか)」さん。
かつては店の裏に卓球場があって子供たちでにぎわっていたんです。

卓球場には4台ほど台がありましたが、床はなく、土間にそのまま置かれていました。



大中さん(この店舗の裏に卓球場があった)


小学校高学年ころのワタクシにとっては、
●友達と連れ立ってまず大中さんの裏で卓球をやり、
●そのあと店でジュースやアイスを買って一息、
●さらに青少年科学館に寄って展示を見てから家に帰る、
というのが常磐公園を楽しむフルコースだったように覚えています。

またその後できたトキワ広場の脇の卓球場(なんといまでもあります!)でもよく卓球をしました。(ここは大中さんよりは本格的な卓球場で、大人も多かったように記憶しています)。



今もある公園近くの卓球場


こんな風に卓球は良くやりましたが、別に本格的に打ち込んでいたのではありません。
当時は、卓球にしろ野球にしろ、子供たちはスポーツというより遊び感覚で気軽に楽しんでいたように思います。

このほか、常磐公園には、バレーコートやテニスコート、プールや弓道場がありましたし、今の自由広場には野球のグラウンドが作られていました。

常磐公園はスポーツの拠点でもあったのです!



にぎわうバレーコート(昭和31年)


現在もあるテニスコート


屋根がなかったプール(昭和46年)


現在は神楽地区に移築されている弓道場


野球のグランドがあった自由広場



◆その③・・・スケートリンクがいっぱい!?


多くの市民が野球やソフトボールを楽しんだグランドですが、冬はスケートリンクに変身しました(道外の方は驚かれると思いますが、北海道の北部、東部では、冬、土のグランドに水をまいてスケートリンクを作ります。小学校などで普通に見られる光景です!)。



今の自由広場のあたり(後ろの建物は旧登喜和園・昭和30年代か)


大人もたくさんいます(昭和30年代か)


休むところも(同上)



このほか、凍りついた千鳥ヶ池でもスケートをしたという記憶がありますが、驚いたのはこの写真です。



「北海道開発大博覧会誌」より


なんとスケートをしているのは前述の体育館の中。
体育館ができたのは昭和25年ですから、現在の室内リンクのような製氷設備はないはずです。

どうやって床にリンクを作ったのか。まさか水が漏れないように浅いプールのようなものを作って水を張って凍らせた!?
あのころの寒さ、建物の作りを考えると、ありえないことではなさそうです(そういえば、私が子供の頃、ストーブのないところでは、バケツの水など屋内でも簡単に凍っていました)。



昭和30年代か


このほか、近所の子供たちにとって、冬の常磐公園はスキーを楽しむ場所でもありました。
遊んでいたのは、小学校の低学年くらいまでだったでしょうか。

実は、ワタクシは天文台のある築山でスキーをしたと記憶していたのですが、ある方から「スキーをしたのは池中塔の近くの築山、天文台のある築山はあちこちに大きな石が置かれていて、滑ることができなかった」との証言が寄せられました。

当時の写真を見るとまさにその通り。
このデコボコさでは、スキーは楽しめません。



昭和20年代


◆その④・・・千鳥ヶ池の都市伝説


スポーツでくくるのは少し苦しいのですが、ここで公園の貸しボートについてのエピソードを。





良く知られているのが、「常磐公園のボートに一緒に乗ったカップルは分かれる」という都市伝説です。
でもワタクシが中学生、高校生のころ、デートの場所としては常磐公園はあまりにも目立ちすぎ、身近にボートを楽しむカップルはいなかったように思います。





ところであまり知られていませんが、この貸しボート、常磐公園ができた大正5年にはもうあったと記録されています。
ということは、あと5年で100年の歴史!のべにすると、いったいどれくらいの人が乗ったのでしょうか。



かつてのボート乗り場(大中さん提供)


ボートの手入れ(大中さん提供)



ボートの話になったついでに、一つうんちくを。
千鳥ヶ池の水、どこから引いていると思いますか。

実は、水源は2つ。
一つは地下水ですが、もう一つは何と忠別川(ちゅうべつがわ)。
すぐそばを流れる石狩川ではなく、わざわざ遠く離れた忠別川から水を引いているのだそうです。

これは、もともと旭川の中心部では、石狩川は防災の観点から利水には用いず、もっぱら忠別川の水を防火用水などに利用してきた歴史があるためなんだそうです。
(中心部では、流雪溝にも忠別川の水が使われています)。

公園のプールの近くに、看板の出ていない施設がありますが、これが中心部まで来ている忠別川の水を千鳥ヶ池に供給するためのポンプ室なんだそうです。



公園内にあるポンプ施設


          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」、4回に渡ってお届けしてきましたが、いかがだったでしょうか。

集まった多くの証言が、埋もれていた記憶を呼び起こすという効果もあり、かつての常磐公園の姿をかなりはっきりと描くことができたように思えます。

また常磐公園が少しずつ姿を変えながらも多くの市民に愛され続けてきたことを、改めて感じることができました。

集まった情報は、1枚の地図にまとめたいと思っています。
証言や資料を寄せていただいた方には、この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございました。


(注・白黒写真は、大中さん提供のものを除き、
旭川市中央図書館および旭川市博物館の所蔵資料です)。






アンコール・ワタシの好きな旭川~常盤公園スペシャル② 動物がいっぱい

2015-02-23 12:33:44 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は、2011年に4回シリーズで掲載した「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」の2回目、「動物がいっぱい」です(白黒の写真はすべて旭川市中央図書館蔵)。


            ***********


<ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル② 動物がいっぱい>(2011年8月15日掲載)

まずは、いつもとはちょっと趣向を変えて、「なぞなぞ」です。

「チドリ」に「カメ」、「ハクチョウ」に「シカ」、そして「タコ」!
この動物たち全部が〝隠れている〟旭川市のスポットといえば、どこでしょう?

ブログのタイトルを見れば、もうバレバレですよね。
答えは・・・そう、常磐公園!
公園内の主なスポットには、いずれも動物の名前がつけられているんです。





まず「チドリ」は、公園の象徴、「千鳥ヶ池」ですよね。

さらに「チドリ」はもう一羽、屯宮のある島が「千鳥ヶ島」です。



千鳥ヶ池


千鳥ヶ島の屯宮



さらに「千鳥ヶ島」のとなりにあるもう一つの島が「亀ヶ島」、そして細長い水路のようなもう一つの池が「白鳥の池」です。
ここまでは、旭川市民ならおなじみかもしれません。



亀ヶ島


白鳥の池(後ろの建物は道立美術館)



では「シカ」は?
「白鳥の池」の一番、美術館寄りのところに、小さな中島があるのを御存知でしょうか。
これ「鹿ヶ島」という名前があるんです!
ワタクシも最近までまったく知りませんでした。

最後の「タコ」は、その「鹿ヶ島」の近く、美術館脇の遊具が置いてある子供のためのスペースです。
正式名称ではありませんが、タコの形をした滑り台が置かれていることから、昔から「タコ公園」と呼ばれています。



鹿ヶ島(中央の中島)


タコ公園



このように動物の名前があちこちにつけられている常磐公園ですが、本物の動物というと、いまは池で見かけるカモとコイ程度でしょうか。
でもかつての常磐公園には、10種類以上もの動物が飼われていたことが、「なつかしの常磐公園プロジェクト」で明らかになっているんです。

ということで、枕話が少し長くなりましたが、きょうは「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル・その②」、「動物がいっぱい編」です。


◆動物がいっぱいその①・・・公園の中に動物園!?


まずはこちらの写真を。



昭和38年撮影


拡大すると



少し見にくいのですが、わかりますでしょうか。
「動物園」と書かれた看板が見えます。
私が子供だった頃、今も池のほとりにある売店、「大中(だいなか)さん」の店のとなりに動物園があったんです。
動物園といってもごくごく小規模なもの。
飼われていたのは、キツネ、タヌキ、ウサギなど。獣特有の強烈なにおいがしていたのを今も記憶しています。

先日、大中さんで話を伺ったところ、動物は先代の御主人が客寄せも兼ねて飼育していたそうです。
ワタクシが記憶していた以外にもリスやガチョウ、チャボ、七面鳥、さらにはワシやタカなど猛禽類などが飼われていました。



現在の大中さん


図で表すと(証言をもとに作成)



◆動物がいっぱいその②・・・サルと子供と、管理人さんと


続いては、こちらの写真。



何やら中にいるようですが・・・(昭和33年)


ミニ動物園があった大中さんの近く、千鳥ヶ池と白鳥の池の交点あたりにあったのが、「サルの檻」です。
(というか、この写真にサルは写っていません。
下の方にいて人の陰になっているのかもしれませんが、檻の場所や形から、「これがサルの檻だと思う」という証言が複数寄せられたことから掲載しました)。

証言によると、サルの檻で飼われていたのは2匹のニホンザルだったようです
(実は、ワタクシにはサルがいたという記憶がまったくありません。
絶対に見ているはずなのですが、どうしても頭に浮かびません。
人の記憶は不思議なものです)

また檻を棒でたたくなどしてサルをいじめる子供があとを絶たず、近くに住んでいた公園の管理人さん(檻の近くに専用の住宅があった)によく叱られていた、という証言も多くの方から寄せられました。
(ある方によると、いじめられるストレスで、サルは毛が抜けてボロボロだったとか)
なぜ公園で飼育されていたのか、冬はどうしていたのかなど、サルに関しては、まだ分からないことがいっぱいです。



「サルの檻」があった2つの池の交点付近(現在)


◆動物がいっぱいその③・・・まだまだいます


続いてはこちらの写真。



昭和43年撮影


同じく昭和43年撮影



亀ヶ島にあった「鳩の家」と、千鳥ヶ池にあった「魚の池」の写真です。
「鳩の家」については、「若いころ、担当にさせられ、よく餌をやりに行った」という元市職員の方の話を聴くことができました。
またここには、家で飼えなくなった鳩を持ちこむ市民もいたそうです。

「魚の池」については、ワタクシも記憶があります。
池には定期的に魚が放流され、かつては毎年8月に釣り大会が開かれていたそうです。
また鳩とおなじく、家で飼えなくなったペットの魚やカメを池に放す市民もいたそうです。



昭和40年5月撮影の常磐公園(左上の亀ヶ島に鳩の家があるのが見える)


ヘラブナの放流(昭和47年)



◆動物がいっぱい番外編・・・クマの親子はいずこへ


最後はこちら。



昭和33年撮影


今の噴水と同じ位置にあった「クマの親子の噴水」です。
ボートに乗ってこの噴水の水がかかるぎりぎりまで近付いた経験のある方、いるのではないでしょうか?

この写真を見せると、皆さん「ああ、あった、あった!なつかしい!」と、必ず声を上げるほどポピュラーな存在でした。



もう1枚(昭和35年)


このクマの親子。設置されたのは昭和28年5月で、制作には旭川を代表する画家の高橋北修(たかはし・ほくしゅう=このブログで以前ご紹介した画家の高橋三加子さんのお父さま)氏や、同じく陶芸家の坂東陶光(ばんどう・とうこう)氏が関わったという由緒あるものであることが分かりました。

そして噴水が池から撤去されたのが昭和61年。
関係者に調べていただいたところ、その後、神楽岡公園などに保管されていましたが、5年ほど前に処分されたということです(前回紹介した獅子頭のように、実物を見ることができるかもと期待していただけに残念です)。

またこの熊の親子の噴水は写真によって白く見える時と、黒っぽい時と2つあります。
最初の色はどうだったのか、途中で色を塗り替えたのかなど、これも興味がわきます。



撤去間際の熊噴水(色が白い!・昭和61年)


熊の親子の噴水と同じ位置にある現在の噴水


証言から再現した昭和40年代の常磐公園(この稿で出てきた施設を中心に)



        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さまざまな動物たちが〝暮らしていた〟かつての常磐公園。
小学生のころのワタクシは、本当にひんぱんに訪れていたのですが、こうしたバラエティ豊かな動物たちの存在も、お気に入りの要素になっていたのかもしれません。

「ワタシの好きな旭川・常盤公園スペシャル」、次回は、公園にあったスポーツや文化関係の施設やスポットについて紹介したいと思います。








「旭川新聞」 赤い灯・青い灯

2015-02-06 09:00:19 | 郷土史エピソード


郷土史について、なかでもかなりさかのぼった年代の出来事について調べる時、なんといっても心強い「味方」になるのが昔の新聞です。
旭川には大正4年に創刊された「旭川新聞」(スタート時は『北海東雲(しののめ)新聞』、大正8年に『旭川新聞』に改題。現在の『あさひかわ新聞』とは異なる)が図書館に保存されていて(一部欠号あり)、ワタクシもちょくちょく利用させていただいています(マイクロフィルムでの閲覧なので、手間がかかりますが・・・)。
その「旭川新聞」に、昭和4年から12年まで、8年にわたって掲載されたユニークな短信記事があります。
今回はそんな昔の名物記事?について、ご紹介したいと思います。


           ***********


で、その記事ですが、「赤い灯・青い灯」というタイトルが付けられています。
「赤い灯・青い灯」。
そう、「♪赤い灯~、青い灯~、道頓堀に~」の唄い出しで始まる昭和初期のヒット曲、「道頓堀行進曲」に出てくるカフェーのネオンのことですね。
当時、旭川にあったカフェーを中心とした飲食業界の話題やトピックスを紹介する記事です。

どんな感じかというと・・・。



(昭和8年1月7日掲載)

「先んずファン諸賢、営業者各位、芸妓女給女中諸嬢に対し新年の御挨拶をウヤウヤしく申し上げ、併せて本年も「赤い灯青い灯与太書き」にカナキリ声を張り上げハッチャキの御声援を賜はらんことを同人一同お願いする次第であります。(中略)
 で縁起の良い所で酉年生まれの諸嬢を御紹介すると芸妓方面では川貞の「久栄」駒止の「●代」(中略)。女給方面ではグロリーの「●代子」センターの「瞳」パーラーの「秋子」・・・」



 これは正月にちなんで、この年の干支、酉年の女給さんを紹介している記事ですね。 
 ほとんどがこのように一段弱、20行~40行といった分量の記事です。

 写真入りのこんな記事も見つけました。



(昭和6年5月7日掲載)

 
函館高女(高等女学校)出の女給さんを紹介した記事ですが、なんと名前は「エロ子」さん。
しかも店は「カフェー・エロス」です(エロという言葉のニュアンス、今とは違っていたようですが)。

当時の世相が分かるこんな記事もありました。

「学生のカフェー出入り問題については、学校当事者は可なり厳重に監視してゐるが、不良性を帯びてゐる学生は、この監視網を巧にスリヌケてカフェーの甘夢にひたってゐるのも少なくないといふ。その近い実例として旭川師範校の風紀退学問題などはこの間の真相を語るものであろう。(中略)
最近は制服制帽のまま或は学生でないかの如く装ひカフェーに出入してエログロに耽溺する如きは誠に嘆かわしいことでこれは是非学校当局及び家庭と協力してこの風潮の蔓延を防衛せねばならぬ。
心ある女給諸君はこの意を体して出入学生にはその将来を慮うてあまりチヤホヤしないことだ。そして又それがやがては大きな社会的貢献ともなろうといふものだ。」(旭川新聞「赤い灯・青い灯」・昭和6年5月7日掲載)

新旭川市史によりますと、旭川にカフェーが現れたのは、大正末期。
割烹料理店より手軽に酒が飲め、女給さんもついてくれることが受けてまたたく間に店が増え、昭和期に入ると70~80軒ものカフェーが、師団通や錦座(3条通15丁目)界隈、中島遊郭界隈で営業していたということです。

また木野工の「旭川今昔ばなし」には、昭和10年の統計データとして、カフェーの営業許可を受けている業者数115人、働く女給さんの数325人と紹介されています。

こうしたカフェー全盛の風潮に対し、既存の料亭などはかなり苦しい立場に追いやられていたようです。
次の記事には花柳界の対抗策の一端が描かれています。

「料理店及び遊郭がカフェの進出に圧倒されて青息吐息の惨状は独り『旭川』のみではない。日本全国到る所の花柳界がこの風潮に支配されてゐる。(中略)
かくて料理店は残存ブルジョワでは到底維持困難のためあらゆるサービスを看板に吸収策を講じ呼びかけてゐるの現状である。(中略)
その例としてカフェには芸者たるもの絶対入るべからず、客と同伴でも入ったものは厳罰に処すと決議したところもある位――イヤハヤ物々しいことでござる又その裏を利用して顔見知り客の入りそうなカフェへ芸者に網を張らしておく。チビリチビリとコーヒーを吸っている内に少しでも知った客が現れると『アラッベーサン暫く』てな調子で飛つき線香の稼げる料理店へ無理矢理連れ込むといったマコトにインチキな方法を実行してゐるところもあるといふから恐れ入ったる始末である。」(旭川新聞「赤い灯・青い灯」・昭和8年1月26日掲載)


               ***********


さてこの「赤い灯・青い灯」。
旭川市中央図書館で確認したところ、前述のように期間は昭和4年から12年までの約8年、全部で745本の記事が掲載されていました(1つ1つ数えたわけではありません。データベースになっている記事の「見出し」で調べた結果です)。

ただ最初の18本は短信ではなく、当時のカフェー事情を伝える長尺の連載記事でした。
おそらくはこの連載記事のタイトル「赤い灯・青い灯」が〝はまって〟いたため、そのまま短信記事にも利用したのだと思います。
この18本の連載記事、写真なども掲載されていて、当時のカフェー内部の様子をうかがい知ることができます。

 まずはこちら。
 記念すべき第1回の「赤い灯・青い灯」です。



(昭和4年5月9日掲載)


 取り上げている「ユニオンパーラー」は、大正14年に3条通8丁目左仲に開店した「喫茶店パーラー」が前身です。
昭和2年に3条通8丁目右7に移転し、改名してカフェーに転身しました。
「カフェー界の雄として一時代をリード(新旭川市史)」した名店です。

写真を見ると、白エプロンの女給さんが3人、カウンターの奥に経営者とみられる男性がいます。
天井にはシャンデリアが飾られ、壁際には洋酒の瓶が並んでいるように見えます。

「マスターが新し屋だけ、蓄音機のレコードも相当蒐集されている。(中略)サンドボックス(サウンドボックス?)から響き出づる、音はモンパリである。異国味もつひにエキゾテックならざる時が来たカフェーなのである。」(記事より)

また記事には「☓☓座談会、〇〇の会と文芸人や素人の会合にこの二階が利用される」という下りもあります。
この店は、詩人の小熊秀雄や鈴木政輝ら当時の旭川の文化人のたまり場であったことでも知られています。



(昭和4年5月16日掲載)


 旭川カフェー界の雄で、文化人のたまり場といえば、このブログでもたびたび紹介している「ヤマニカフェー」も忘れてはなりません。

 「赤い灯・青い灯」の連載記事では、2回にわたって「ヤマニ」が紹介されていて、やはり内部の写真が載せられています(ヤマニの外観の写真はたくさん残されていますが、内部の写真はこれのみかもしれません)。

 また記事の中で「ヤマニ」は次のように評されています。

「旭川のカフェーの第一期時代。敢てそう言はう。この第一期時代は、何処のカフェーに行っても現在のように内部の設備が整ってゐなかったが、今と比較して何処のカフェーに行ってもウエートレスに美人が揃ってゐた。その代表的なものは、金子寿バー、三ヶ月バー、やまにカフェーを指したであらう。やまににしろ、三ヶ月でも、金子でも、純然たるカフェーではなく、一部はレストランであり一部はカフェー情緒を漂はしてゐるが、その中に流出るカフェー情緒はやまにが最も色が濃かったといってよい。」

 ところで、この連載記事「赤い灯・青い灯」では、18回のうち5回で、写真ではなく、記事の内容に沿ったカットが使われています。
 その中に興味深い画家の名前を見つけました。



(昭和4年5月11日掲載)


(昭和4年5月13日掲載)



 旭川の文化史に詳しい方ならすぐにお分かりですね。
 「北修」と書かれたサイン。
やはりこのブログに何回も登場している画家、高橋北修です。
 記事の掲載が昭和4年5月ですから、この時、北修は30歳です。
 ちなみに前年の昭和3年6月には、親交のあった小熊秀雄が妻子を連れて旭川を離れ、本格的な東京での生活を始めています。

 大正末期から昭和初期、旭川を彩ったカフェーの名店群と、そこに集った若き文化人。
さぞや賑やかな街の様子だったのではないでしょうか。

最後に純粋な喫茶店ですが、有名なお店の内部の写真が掲載されていましたのでご紹介します。



(昭和4年5月23日掲載)


「白ロシア」。
旭川ゆかりの大投手スタルヒンの両親が経営したとされる8条通8丁目の喫茶店ですね。
 楽器を持っているのが、記事中にある看板娘ドーシャと思われます(中央の夫人はスタルヒンの母?)。

 なおスタルヒン一家は、この後、昭和7年に「白ロシア」の経営を譲渡して神戸に移り住んだものの、すぐに旭川に戻り、3条通8丁目に「喫茶店バイカル」を開店します。
 そしてその2年後、スタルヒンは日米野球のため急きょ結成された職業野球団に加わるよう説得され、東京に旅立ちます。