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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

『「小熊愛」から生まれる』〜小熊秀雄協会会報寄稿〜

2024-06-28 13:07:56 | 郷土史エピソード

久々の投稿です。
といっても記事ではありません。
今回は「小熊秀雄協会」の会報(第33号)に寄稿した『「小熊愛」から生まれる』の全文を掲載します。

「小熊秀雄協会」は、旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄を愛する人たちで作る団体です。
小熊の毎年の命日に、長長忌という集まりを開くなど、詩人の活動を後世に伝えるさまざまな活動をしています。
ワタクシもことし会員に加えていただきました。

なお「小熊秀雄協会」は、年会費1000円で加入することができます。
小熊を愛する方、興味を持っている方、ぜひご検討ください!



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「小熊愛」から生まれる  旭川郷土史ライター&語り部・那須 敦志


放送記者としてのキャリアの晩年、NHK旭川放送局に勤めていた頃から、ふるさとである旭川の郷土史情報を発信する活動を始め、10年あまりになります。
手法は、ブログやnote、YouTubeなどネットでの発信に加え、雑誌や新聞への寄稿、執筆などさまざまです。
退職後の現在は、年6〜10回の歴史講座も開催しています。

その私のホームタウン、旭川で小熊秀雄が活動したのは、大正11(1922)年から昭和3(1928)年までの約6年間です。
短い間ですが、新聞記者でもあった当時の彼は、幅広い分野で地元の文化・芸術活動を牽引しました。
その足跡は、かつて北都と呼ばれた北海道第2の都市にくっきりと刻まれています。



画像・小熊秀雄(1901−1940)


優れた表現者の作品や生き様は、後世に長く影響を与えます。
そしてそのなかから新たな作品や取り組みが生まれることが少なくありません。
旭川の場合、その典型例は、言うまでもなく、小熊と、彼をリスペクトするさまざまな個人・団体の活動です。

その先駆けは、昭和20年代に始まった佐藤喜一(さとうきいち)らによる小熊研究の取り組みとなりましょう。
彼らの地道な努力による成果は、のちの小熊全集の出版などにつながります。



画像・佐藤喜一著「小熊秀雄論考」(昭和43年)


昭和40〜50年代で特筆されるのは、旭川の劇団「河(かわ)」の活動です。
「河」は、劇作家、清水邦夫(しみずくにお)との共同作業などで、当時、中央の演劇界からも注目を集めた劇団です。
この時期、「河」は、小熊の長編叙事詩「長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)」や「飛ぶ橇(そり)」の群読、同じく小熊の童話「焼かれた魚」をベースに、さまざまな現代詩をコラージュした実験的な舞台「詩と劇に架橋する13章」など、意欲的な舞台創作を繰り広げます。



画像・「河」による長長秋夜の群読(昭和40年代か)


画像・「詩と劇に架橋する13章」の舞台



昭和55(1980)年には、上京前日の小熊と妻つね子の葛藤を描いたラジオドラマ「小熊秀雄の出奔(しゅっぽん)」が、「河」のメンバーの出演によりNHK旭川局で制作されています
(ドラマは、地元在住の北けんじが書き下ろし、のちにNHKの専務理事を務める当時の新人ディレクター、木田幸紀(きだゆきのり)が演出しました)。

この他、昭和43(1968)年に旭川市によって創設された詩の文学賞、小熊秀雄賞が、旭川文化団体協議会から小熊秀雄賞市民実行委員会によって引き継がれ、半世紀以上の歴史を重ねていることは広く知られているところです。

こうして続く旭川での「小熊愛」から生まれる取り組み。
実は私も、総合プロデューサーと脚本を担当した令和3(2021)年の旭川歴史市民劇に小熊を登場させました。

その作品、「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」は、大正末〜昭和初期の旭川が舞台の群像劇です。
架空の10代の若者たちが、小熊ら当時旭川で活躍していた実在の人物と出会い、さまざまな経験をする中で自らの生きる目標を見つけます
(劇のエンディングは、小熊の詩「青年の美しさ」を登場人物全員が一節ずつ朗唱するという演出でした)。



画像・旭川歴史市民劇の舞台(2021年)


小熊は、主に劇の前半で重要な役回りを担いますが、そのなかに、当時10代で、やはり旭川にいたのちの歌人、齋藤史(さいとうふみ)と言葉を交わすシーンがあります
(実際の2人も、同じ短歌の勉強会に所属するなど面識がありました)。
このなかで、小熊に上京の意思が固い事を知った史は、「良い仲間がいて仕事もある旭川を何故離れるのか」と問いかけます。
これに対し小熊は、「弱い私は温かいところにいると自分と向き合えない。本物の詩は書けない」と答えます。
そして創作がそうした不自由なものなら自分はやりたくないという史に、「それが私の業(ごう)であり、使命なのですよ」と告げます。

この「使命」という言葉、この場面を書いているうちに自然と出てきました。
劇にはさまざまなテーマが折り込まれていますが、特に重要なのが「人にとって使命とは」という問いです。
そして先程の台詞に小熊はこのように続けます。
「あなたにはあなたの使命があるように」。
この言葉を受け止め、やがて史も短歌の道を歩むことを決意します。
こうした一連の台詞や展開、詩人としての生涯を燃焼尽くした小熊が、私に書かせてくれたものと感じています。



画像・旭川歴史市民劇の舞台(2021年)


旭川では、去年も、地元在住の漫画家、日野あかねさんによる小熊の生涯を描いた初の漫画作品「漫画 詩人小熊秀雄物語」が発表されて話題を呼びました。
ゆかりの地、旭川からは、今後も「小熊愛」から生まれるさらなる取り組みが続いていくに違いありません。



画像・旭川新聞の記者時代の小熊




(「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の脚本は、2021年刊行の拙著「旭川歴史民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ ―コロナ禍中の住民劇全記録―(中西出版)」に掲載されています。また物語は「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ(デザインエッグ社)」でも読むことができます)。





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「perfect days」と一期一会 & チャランケが足りない!

2024-03-09 17:11:24 | 雑記
久々の投稿です。

今回は短い雑記的な文章を2本載せます。
1本は映画の感想、もう1本は意見表明的なものです。

いつもの歴史ものではありませんので、あくまでお時間とご興味のある方のみ、続けてお読みください。




                   **********




「『PERFECT DAYS』と一期一会」


ヴィム・ヴェンダース監督の映画「PERFECT DAYS」を観ました。

役所広司さん演じる主人公は、東京の公衆トイレの清掃作業員です。
都会の片隅の古いアパートに住み、いわゆるルーティンのように規則正しく、つつましい行動を繰り返す日々を送っています。
ただ彼にとって、その毎日は決して同じものではないことが、映画が進むに連れて分かってきます。

「こんどはこんど、今は今」。
無口な主人公がそう言うシーンがあります。
10代で予備校に通っていた頃、授業の中で人生論を述べ出す一風変わった高齢の英語講師がいました。
ある日「不確実な世界のなかで唯一信じる事ができるものがある」と言ってその講師が教えてくれたのが「一期一会」という言葉でした。
「昨日起きたことは変えられない。明日どうなるかはわからない。ただ今この瞬間だけ自分が左右できる確かなもの。だから今を大切にしなさい」と、その時、老講師は言いました。

映画の主人公は、一日の始まりや昼の休憩時間、必ず空を見上げます。
それは祈りのようでもあり「一期一会」を生きている現れのように思えます。
映画の中でひんぱんに登場する木漏れ日のカットは、その象徴のように見えました。

一方、これも頻繁に登場するトイレの清掃作業のカットは、崇高さを感じさせるほど、やはり美しく描かれています。
そこには、コロナ禍でクローズアップされたいわゆるエッセンシャルワーカーへのリスペクトの思いが込められているようです。
同じく一言も台詞のない田中泯さん(50年近く前、彼の踊りを旭川で観ました)演じるホームレスや、主人公のボロアパートなど、通常はマイナスのイメージのあるものも美しく描かれているのが印象的でした。

映画のようなシンプルで規則正しい生活には憧れるものの、実際にはなかなか行うことはできません。
たださまざまな感謝の気持ちを持って、毎日を過ごすことだけは忘れないでいたい、改めてそう思わせてくれた映画体験でした。





「perfect days」チラシ




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「チャランケが足りない!」


パレスチナ、ガザ地区での死者が3万人を超えたそうです。
この世の地獄のような状態を、世界はいまだ止めることができていません。

あえて書きますが、今回のこの事態と言い、ロシアとウクライナの情勢と言い、つくづく国家などない方が良いとさえ思ってしまいます。
これら地域の大多数の人は、同じ「市民」「生活者」であるという意味において、「兄弟姉妹」のようなものです。
それが国や政府の間に対立が生まれ戦争が始まると、なぜ傷つけあい、殺しあいしなければならないのでしょうか。
歴史上、数え切れない人の命が奪われてきたのに、国家はいまだに戦争をやめようとしません。

同じく歴史を振り返れば、国や政府を持たなくても存続した社会の例は、世界中にあまたあります。
北海道の先住民、アイヌもそうです。
そうした社会では人々が「水平」につながり、生き物が本来持つ助け合う力=「相互扶助」によってコミュニティが継続的に維持されました。

かつて湾岸戦争のニュースを聞いたアイヌ文化伝承者の萱野茂さんが「チャランケが足りないなぁ」とつぶやいたという話が、最近読んだ本に載っていました。
チャランケはアイヌのもめ事の解決法です。
知恵と言葉を尽くし、相手が納得するまで徹底的に議論します。
チャランケの最中、怒って拳を振り上げでもしたら、それは即負けなのだそうです。

民主主義の考え方は、もともと北米の先住民族の社会にあり、それが西欧の思想家の間に伝わり広がったという説があります。
いまこそ世界は、驕りを捨て、国なき社会のありように学ばなければならないと思います。






筆者も参加したガザでの停戦を求めるスタンディングデモ(2023年12月・旭川駅前)



萱野茂(1926−2006・萱野茂二風谷アイヌ資料館蔵)





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「朝の食卓」2023

2024-01-03 14:04:34 | 郷土史エピソード
「朝の食卓」は、北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊で長年愛されているコラム欄です。
執筆者は、北海道各地で活躍するさまざまな立場の約40名。
ワタクシもその一人です。
執筆者となって2年目の2023年は、郷土史関連を中心に5本のコラムを書きました。
そこで去年に続き、このブログにも、2023年版「朝の食卓」コラムをまとめて掲載いたします。

なお「朝の食卓」は文章だけのコラムですが、このブログでは関連画像を加えています。




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(その1 2023年1月19日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「どちらいか」

「どちらいか」。
今ではほとんど聞かなくなりましたが、旭川や周辺で昔から使われている言葉です
(「どちらへか」という場合もあります。読みは「どちらえか」です)。
何かお礼を言われた時などに「いえいえ、どちらいか」と使います。
「どういたしまして」「こちらこそ」という意味ですね。
もともとは徳島で使われてきた方言だそうです。
徳島は、旭川の基盤となった二つの屯田兵村のうち、永山兵村への移住者が特に多かった土地です。
これが旭川で「どちらいか」が使われるようになった背景のようです。
実は、このことは旭川市の博物館に勤めていた知人から教わりました。
彼は道東の出身で、旭川生まれの先輩職員が電話口で聞き覚えのない言葉を使っているのを聞き、興味を持って調べたのだそうです。
「最初に聞いたときは、一瞬『ロシア語?』と思いました」。
知人が真顔で言うので、私は噴き出してしまいました。
確かに東欧圏の国の言葉にありそうな語感です。
と言っても、この「どちらいか」は、四国にルーツのある言葉です。
ただ、私には北海道にふさわしい言葉と思われます。
厳しい自然環境の中で、お互いに助け合って生きることが不可欠だった先人たちの心意気が伝わってくるからです。
大正生まれの旭川っ子だった亡き母は、よく何かのお礼を言われた時、「いいえ、なんもです。どちらいか」と頭を下げていました。
その姿が今も目に浮かびます。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像01 永山屯田兵村(明治30年代・旭川市中央図書館蔵)




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(その2 2023年3月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ヤマニの兄貴」

「ヤマニの女は人殺し女子 胸を突こうか首切りましょか イッソ! とどめを えェ刺しましょか」。
芝居のせりふではありません。
大正末期から昭和初期にかけて、旭川にあったカフェー「ヤマニ」の新聞広告のコピーです。
この刺激的な文章を考えたのは、オーナー店長だった速田弘です。
通称「ヤマニの兄貴」。
試験放送を始めたばかりのラジオを客集めに利用するなど新機軸を打ち出し、店を旭川一の人気店に育てました。
彼の特徴はマルチな能力です。
新聞広告ではカットも自ら描きました。旭川初の弦楽アンサンブルではチェロも弾きました。
そんな多才さを武器に当時の飲食業界に新風を吹かせた速田。
しかしその後は波乱の人生を過ごします。
まず1933年(昭和8年)。
満を持してレストランとカフェーを併設した新店舗を出しますが、戦時色の強まりにつれ、経営は悪化。
翌年、多額の負債を抱えた速田は自殺を図ります。
一命は取り留めたものの、旭川から姿を消した彼でしたが、戦後は銀座を代表する高級クラブ「シローチェーン」を創業し、大成功を収めます。
「花の東京」を舞台に実業家として鮮やかな復活を果たしたのです。
先日、旭川で開催している歴史講座で速田について紹介したところ、「そんな人が旭川にいたなんて勇気が出ます」と目を輝かして話してくれた方がいました。
地元生まれのこの魅力的な実業家がさらにどんな人生を歩んだのか、引き続き調べるつもりです。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像02 速田弘(1905−?・旭川新聞・昭和9年12月3日)


画像03 カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)


画像04 ヤマニの広告(昭和6年・旭川新聞)


画像05 シローチェーンの広告(昭和29年・日劇ミュージックホールパンフレットに掲載)





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(その3 2023年5月17日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「伝説のママ」

上京のたびに顔を出していた新宿ゴールデン街の小さな店が閉まると聞いたのは、2年前のことです。
店の主は、ゴールデン街の伝説のママと呼ばれていた根室出身の佐々木美智子さん(89)。
コロナ禍で社会が大きく動揺していた時期で、ソーシャルディスタンス(社会的距離)など取りようもない店だけに、やむを得ないと思ったことを覚えています。
その佐々木さんは、伝説のカメラマンでもあった人です。
先日、札幌で開かれた写真展を見に行きました。
会場には、1960年代の日大闘争で全共開の学生に同行して撮影した作品や、原田芳雄さんが主演し、74年に公開された映画「竜馬暗殺」で担当したスチール写真などが並んでいます。
見ていてあることに気付きました。
ほぼ全ての作品に人が写っているのです。
そういえは、今回の写真展のタイトルは「出逢い」。
彼女の生きざまを雄弁に物語っているように感じました。
会場で約3年ぶりにお会いした佐々木さんは、少女のように目を輝かせていました。
聞けば、コロナ禍によってできた時間を利用し、一時期暮らしたブラジルで撮りためた写真を竪理して写真集を出したとか。
表現者としての枯れることのないエネルギーに、大いに刺数を受けました。
写真展は20〜28日に道立函館美術館(22日休み)、6月7〜11日には佐々木さんの故郷、根室市の総合文化会館でも開かれる予定です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像06 佐々木美智子さんの写真展(2023年5月・札幌)


画像07 写真展会場でのトークショーの佐々木さん





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(その4 2023年7月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「賢治来訪と歴史探求」

8月2日は、1923年(大正12年)に宮澤賢治が旭川を訪れてから、ちょうど100年に当たります。
これに合わせて、出版社の未知谷から刊行されたのが、旭川市中央図書館の元館長、松田嗣敏さんの「宮澤賢治✕旭川 心象スケッチ『旭川。』を読む」です。
賢治の旭川訪問は、教え子の就職依頼と前年に病死した妹トシをしのぶ傷心旅行で、樺太に向かう途中の出来事です。
その体験は「旭川。」という28行の詩にされています。
この来訪についての私の知識は、賢治が農事試験場を見学しようと旭川に寄ったものの、郊外に移転していたため、再び汽車に乗って稚内に向かったという単純なものでした。
ところが、この本によると、賢治が旭川に着いたのは朝5時前、稚内行きの列車が出たのが正午前。
滞在時間は7時間もあったのです。
ならば時間的には移転した試験場に行くこともできたのではないか。
松田さんは、当時の時刻表に加え、同時代に書かれた手記などを参考に、移動に使った馬車の推定経路や速度まで割り出しながら可能性を探っていきます(結果はネタバレになるので香きません)。
さらに詩に香かれた一つ一つの事象や言葉も細かく分析し、考察を深めていきます。
それはまるで、探偵による謎解きのようです。
歴史研究では、なかなか実証できない事実がたくさんあります。
その際は明らかになっている事実から、一つ一つ推論を積み上げて実相に迫ります。
そうした歴史探求の醍謝味と面白さを存分に感じさせてくれた著者に感謝です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像08 宮沢賢治(1896−1933・「宮澤賢治全集第2巻(詩 坤巻)(近代日本人の肖像より)」


画像09 松田さんの著書






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(その5 2023年10月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「漫画になった小熊秀雄」

「旭太郎」という名前を知っていますでしょうか。
詩人の小熊秀雄が、かつて住んだ旭川にちなんで付けたペンネームで、漫画の台本を書いた時に使っていました。
この台本のうち、1940年(昭和15年)刊行のSF漫画「火星探検」は、若き日の手塚治虫や小松左京に影響を与えたほどの出来栄えでした。
その傑作の刊行から80年余りたった今年、小熊の生涯を描いた初の漫画作品「漫画 詩人小熊秀雄物語」が刊行されました。
描いたのは旭川在住の漫画家、日野あかねさんです。
きっかけは、私が開いている歴史講座で旭川時代の小龍について詳しく知ったこと。
当時も評判だった小熊のイケメンぶりにも創作意欲が高まったそうです。
漫画は樺太で過ごした少年時代から始まり、新聞記者として活躍した旭川での20代、詩人として名をあげたものの病魔におかされた東京時代へと展開。
短い生涯を駆け抜けた詩人の姿が、史実をベースに、時に思い切り妄想を膨らませて描かれています。
旭川で知り合った妻のつね子や詩人仲間との絆にもスポットが当てられています。
優れた表現者の生きざまは、時代を超えて多くの人に刺激を与え、新たな作品や活動が生まれます。
この漫画で描かれている小熊の歩みもその一つだと感じました。
漫画は電子版(Amazon)で読めるほか、旭川の出版社「あいわプリント」に注文できます。
若い世代にも小熊のことを知ってもらうきっかけになるのでは、と期待しています。
(旭川郷土史ライター&語り部)





画像10 小熊秀雄(1901−1940・「新版小熊秀雄全集」)


画像11 日野さんの漫画の宣伝チラシ





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「活劇工房」のこと

2023-10-24 10:43:17 | 個人史
 


久々のブログの更新です。
といっても今回は郷土史エピソードではありません。私が学生時代に在籍した劇団のことについて書いています。
「はじめに」にもありますが、自分の足跡を確かめる意味、今も続いている劇団の創生期のことを記録に残しておきたいという意味で書きました。
いつもの歴史ブログとは違いますので、あくまでそれでもいいやという方のみ読み進めてください。

なおほぼ同じ文章をnoteでも公開しています。
旧ツイッター「X」で周知したところ、現在の劇団の関係者である多くの若いみなさんがリポストしてくれました。
昔はこんな感じだったんだなと思っていただければ、私としてはうれしいです。

それでは、ここから本文です。




画像00 タイトルイメージ



(はじめに)


 東京杉並の明治大学和泉校舎を拠点に活動する「活劇工房(かつげきこうぼう)」という劇団があります。ネットを見ますと、大学公認の演劇サークルとあります。 
 実は、私は「活劇工房」のごく初期のメンバーです。一浪して文学部演劇学科(正確には文学部文学科演劇学専修)に進んだのが、1977(昭和52)年4月。すぐに「活劇工房」に参加しましたので、なんと46年前の話です。
 「活劇工房」の発足は、その前の年。ですから、劇団の歴史で言いますと、ことし(2023年)で47年目になります。
 半世紀近い歩みのなかで、劇団に在籍した人数はかなりの数に上ると想像できます。ただ創生期の「活劇工房」の活動については、ほとんど伝わっていないのではないでしょうか。
 と言いますか、自分たちがいた頃の「活劇工房」は、メンバーが数名に減るなど危機的な状況の時もありました(あとで詳しく書きます)。このため歴史うんぬんを言うよりも、今も劇団が残っていること自体が、私にとってかなりの驚きです。
 以下は昔話の部類になってしまいますが、自らの足跡を確かめておきたい、そして創生期の「活劇工房」の活動を記録としてネット上に残しておきたいという思いで書くものです。さらに関係者の目に止まって、後輩たちに引き継いでもらえるかも、という期待もあります。
 ただし記憶が不確かになっていることが多々あります。その点はご容赦ください。さらに人名については、一部を除き、本名は名字のイニシャルで、ペンネームや芸名についてはそのまま表記しました。これもご容赦ください。



画像01 第9回公演「櫛とヒコーセン」(1978年・シアターグリーン)


(当時の演劇学科と学内劇団)


 私が入学した当時の演劇学科には、スタニスラフスキーやガルシア・ロルカの翻訳で知られる山田肇先生を筆頭に、演劇科のOBでもある菅井幸雄先生、佐藤正紀先生らがいました。
 一方、学内劇団ですが、当時、明治には「演劇研究部」、「実験劇場」、そして「活劇工房」と3つありました。「劇研」「実験」「活劇」ですね。ネットで見ると、「活劇工房」だけでなく、「演劇研究部」も「実験劇場」も現役で活動しているようです。
 このうち「実験劇場」は、唐十郎ら大先輩の演劇科6期生によって作られた劇団です。「演劇研究部」はいつの発足か知りませんが、やはり「活劇工房」よりも歴史があるのは確かです。ということは、どちらも創設から半世紀を超えているはずですね。これもすごいことです。
 ちなみに演劇科の同期だった柴田理恵(現「ワハハ本舗」)は、「演劇研究部」に入って真面目なお芝居をしていました。ですので、後年、彼女が久本雅美とタモリの番組に出てきたときは、「あの柴田さんが」とたまげました。
 もう一つ、同じ演劇学科の原さんという方が立ち上げた「騒動舎イズミ・フォーリー」というコメディ志向の劇団もありました。彼らは映画を作ったり、コメディアンのポール牧さんと一緒に芝居をしたり、活発に活動していました。「騒動舎イズミ・フォーリー」は今はありませんが、ここもかなり長く続いたと聞いています(最近知ったのですが、「騒動舎イズミ・フォーリー」には、まだ高校生だった頃のケラリーノ・サンドロビッチも関わっていたそうです。これもびっくりです)。



画像02 第9回公演「櫛とヒコーセン」(1978年・シアターグリーン)


(ボックスを訪ねた日)


 私が演劇学科を目指したのは、高校3年生の夏、ふるさとである北海道旭川の伝説の劇団「河」の舞台を観たことがきっかけです。その舞台(奇しくも唐十郎の作品でした)にぶっ飛んだ私は、芝居の世界に関わって生きたいと熱を上げ、演劇科のある早稲田、明治などを受験。結果、明治大学に入ったのです(私と劇団「河」については、拙著「〝あの日たち〟へ〜旭川・劇団『河』と『河原館』の20年〜(2016年・中西出版)」に詳述しています)。
 大学では、演劇ではなく、演劇学を学ぶということは理解していました。このため最初から学内劇団に入ろうと考えていました。上記の3つの劇団はいずれも新入生の勧誘に来ていましたので、初日のオリエンテーションが終わった後、さっそくそれぞれの稽古場やボックス(居室)を訪ねました。
 その中でなぜ「活劇工房」に入ったかというと、一番ゆるーい感じだったんですね。「劇研」は若干堅そうな感じでしたし、「実験」はやや暗い印象を受けました。
 というか、私の場合、芝居をやると決めたものの、中学生のとき、有志でやった芝居に裏方で参加したことがあるのみで、高校演劇にも縁がありませんでした。このためどんな種類の人たちがいるか知らない劇団というものに若干の恐れもあり、一番フランクだった「活劇」に惹かれたのかもしれません。
 「下見」は「劇研」→「実験」→「活劇」の順でした。和泉校舎の奥、第2学生会館地下の「活劇」のボックスの扉を開けたのは、かなり遅い時間だったと思います。その日は、稽古はなかったのですが、一通りの説明を受けた時点で、もう気持ちは固まっていました。
 このとき、対応してくれたのは、当時の劇団の中心だった演劇学科3年のTさんでした。がっちりとした体躯で長身。旭川出身だと私が言うと、おれも北海道だよと返してくれました。彼は札幌西高の出身。同じ道産子がいることも安心材料の一つだったのかもしれません(ちなみにこの時の3年の演劇学科のクラスには、Tさんと同じ札幌西出身で、在学中の1978年から文学座での活動を始める田中裕子さんがいました)。
 「活劇」のボックスは地下でしたが、窓の外は掘り下げてあって陽が入る作りになっていました。その明るさもやはり良い印象を与えたと思います。ただ学生会館自体は、少し前まで活発だった学生運動のなごりなのか、壊れたドアや割れたガラスが放置されていて物々しい感じでした。3〜4階には、学生運動の残党であるセクトの人たちの拠点がありました。
 話が横道に行ってしまいましたね。戻しましょう。
 その日は、Tさんとあと2人の男子学生に新宿に連れて行かれ、シェーキーズで生ビールを飲みながらピザを食べました(まだ未成年でしたが)。大学生になったことを初めて実感した一日でした。
 以下、時代を追って、当時の「活劇工房」での活動について書きます(公演については、分かっている範囲で文末にリストを載せてあります)。



<1976(昭和51)年・創生期>


(創生期の「活劇」)


  結局、この年の新入生で「活劇」に入ったのは、私と、今も親交のある英文学科のM、そして演劇学科の女子学生と別の学科の男子学生の4人でした。
 上級生では、3年生が、作・演出を務めていたTさんと、照明担当のSさん。2年生が、お父さんが東宝に務めていて、子役経験もあるというОさん、それにハーフのような顔立ちだったKさん、広島出身のUさん、横浜から通っていたSさんの女性3人がいました。
 2〜3年生から聴いた話ですと、「活劇工房」ができたのは私たちが入学する前の年(1976年)。1975年演劇学科入学組の4〜5名が2年生のときに結成したのだそうです。ただ2回公演をしたあと、Tさん、Sさん以外のメンバーは脱退。その後、1年生だった4人が加わり、さらに新年度になって私たちが加わったという流れです。
 ちなみに「活劇工房」の旗揚げ公演の作品は「胸毛の生えた鉄腕アトム(1976年)」。オリジナル作品で、作・演出は初期の脱退メンバーの一人、上演場所は不明です(第2回公演の作・演出も同じ人と思われます。作品名、上演場所は不明です)。
 メンバー脱退後は、Tさんが作・演出を担うようになり、2本の作品を池袋のシアターグリーン(これも健在!)で上演しています。
 このうちの一本は、この年6月に上演された「無縁仏」という作品です(彼のペンネーム&芸名は烏山喧児です)。



<1976(昭和51)〜77(昭和52)年・第2期>


(始まった「活劇」の日々)



 当時の大学、特に文系では、かなり自由というか、学生が放任されていました。明治の文学部では、講義の出席も代返(友人のかわりに返事をする)可能な授業がたくさんありました。出席すらとらない講義もありました。リポートの提出などもほとんど求められませんでした。このため、私の場合、講義の半分以上は一度も授業に出ず、試験のみで単位を取りました。
 その試験も「○○について述べよ」などの設問が、事前に3つほど示されていて、そのうち一つないし二つに答えると言ったものがほとんどでした。あらかじめ回答を考えておき、試験ではそれを書くだけ。授業には出ていないので、出題者が求めるような回答は書けませんが、それでも「可」はくれました。
 ただこんなゆるい環境だったにも関わらず、私が1〜2年で取った単位は、一つも落とさなかった人の半分以下。周りからは、「留年コースと言うより中退コースだ」と言われましたが、なんとか1年の留年で卒業することができました。当時の寛容さに救われたようなものです。
 そんなダメ学生だった私も、ほぼ毎日、大学には出かけました。「活劇工房」の活動があったからです。
 当時の「活劇」は、午後4時から活動を行っていました。私は1年から4年まで、京王線の初台駅近くにあったさまざまな大学の学生が集まる男子寮にいました。寮の仲間と深夜遅くや明け方近くまで麻雀をして、昼前後まで寝て、遅い昼食を取り、それから支度をして稽古に行くという毎日。たまに午後からの授業に出ることもありましたが、ほとんど劇団中心の生活が続きました。


(「兄弟がいっぱい」)


 私たちが最初に参加したのは、烏山喧児ことTさん作・演出の第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年5月31〜6月1日・シアターグリーン)です。ある家族のもとに家出をしていた兄が帰ってくるというお話です。



画像03 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)


 もともと役者をしたいと思ったことは一度もなく、その適性もまったくないと思っていた私は、大道具、小道具の裏方で関わりました。
 当時、ダダイズムやシュールレアリズムに関心を持っていた私は、装置制作のかたわら、余った木材で一点ものの立体ポスターを作りました。マグリット風の青空に鳥が飛ぶデザインの外観のもので、これは白黒の写真が残っています。
 立体ポスターは、この後の公演でも作りました。マルセル・デュシャンのレディ・メイド作品「フレッシュ・ウインドウ」を真似たもので、観音開きの窓を開けると、芝居のタイトルロゴが見えるという凝ったものです。実は、このデュシャン風の立体ポスターとは、20年後、思わぬ再開を果たすのですが、それはあとで書くこととします。



画像04 「兄弟がいっぱい」の立体ポスター(1977年・シアターグリーン)


 「兄弟がいっぱい」では、全てが新鮮な経験でした。稽古始めの肉練(肉体訓練のこと。明治系の劇団では肉練と言うが、早稲田系の劇団では、「身訓」=身体訓練と言うと、当時聞かされていました。本当がどうかは不明です)は、柔軟体操が中心で、裏方の私も一緒にやりました。劇団にはつきものの、「アエイウエオアオ」や「あめんぼあかいなアイウエオ」といった発声練習も毎回欠かさずやっていました。
 なによりも空き教室を使っての立ち稽古が始まりますと(その後の「活劇」にはアトリエがあったようですが、当時は居室=ボックスしかありませんでした)、芝居が少しずつ立ち上がっていく過程がたまらなく面白く、午後4時が待ち遠しい日々が続きました。
 このときの公演では、同期のMが新人ながら役者デビューを果たしています。家出した兄を探す家族が出演するワイドショーの司会者の役です。
 彼は僕と同じで、演劇経験のないまま「活劇」に入りました。Mの他、「兄弟がいっぱい」の主要キャストでは、「兄」をTさん(烏山喧児)、「弟」をОさん、「妹」をKさんが演じました。
 この3人は、劇団に入りたての私から見ても、かなり達者な役者でした。Mの演技も初めての役に挑む必死さが早口でまくしたてる司会者の役とよくマッチしていました。



画像05 第5回公演「兄弟がいっぱい」司会者を演じるМ(1977年・シアターグリーン)


画像06 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)



 実は当時「活劇工房」はかなり背伸びをしていた劇団で、公演は、基本、オリジナル作品を学外の劇場を借りて上演していました。さらに対外的には、「明治大学」の名前は出さず、フライヤー(当時は単にチラシと呼んでいました)や、「ぴあ(数年前に創刊したばかりでした)」などの情報誌に出す告知にも、明治の名前は出しませんでした。
 実態は、学生劇団以外の何物でもないのですが、やはり背伸びをしていたとしか言いようがありません(劇場の借り賃は、長期の休みにそれぞれがバイトをして持ち寄ったお金で賄っていました)。
 ちなみに、「劇研」や「実験」は、当時、駿河台校舎にあった教室を改造した共有アトリエ、551ホールで公演していました。



画像07 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)


(初舞台!)


 続いてこの年7月には、第6回公演、烏山喧児作・演出「メランコリック・スーパーマン」をシアターグリーンで上演します。明治期に滋賀県で起きた大津事件に着想を得た作品です。大津事件は、当時、来日中だったロシアの皇太子、ニコライが。警備中の巡査に切りつけられた事件ですね。
 この公演、役者には縁のないはずだった私がなんと初舞台を踏んでいます。役は沼の主。私に芝居センスのないことを分かったうえでの起用で、絡みは一切ありません。
 登場は3回。1回目は劇の冒頭、無言で花道から登場し、舞台を横切るだけです。ただし姿は赤フン一丁。まあ、若くて痩せていたからできたことです。
 そのあと2回、登場シーンがありましたが、いずれも白いシーツ状の衣装をまとい、そこそこの長台詞を独白で語るというものでした。
 冒頭のシーンは良いとして、一度目の台詞のシーンの登場前は、緊張のあまり吐き気がする始末。こんな状態で本当に台詞をしゃべることができるのかと思うと、さらに緊張が増しました。
 ただ舞台に上がると、あら不思議、すっと緊張が解けたのです。長台詞を語りながら、客席の様子を落ち着いて見ることができたことを覚えています。
 なおこの公演では、寅さん役で知られるあの渥美清が観劇に訪れ、皆をびっくりさせました。東宝にいたОさんの父親の関係で来てくれたと後で聞きました。



<1977〜80年・第3期>


(相次ぐ引退)



 「メランコリック・スーパーマン」の公演終了後、劇団に激震が走りました。太い柱だった3年生2人にОさんを加えた3人が引退を表明したのです。
 第7回公演は、同年11月、私が宮沢賢治の詩「永訣の朝」などをベースにして書いた作品「水中花」を演出して、高田馬場にあった東芸劇場で上演しました(ペンネームは岸田志基です)。それが終わると、残りの上級生も、Kさんを除いて全員引退してしまいました。
 その時点で、同級生で残っていたのは私とMの2人のみです。ですからKさんと合わせて3人。東京生まれの男子学生が照明をやってくれることになり、これで4人。さらに別の劇団(騒動舎?)にいたAさん(阿西亜里)という同学年の女子学生を口説き落として引き抜き、計5人。
 ただ1人は裏方専門なので、役者は自分を入れたとしても4人です。これで上演できる芝居を書こうと、冬休みに旭川に戻り、「砧(きぬた)ー思ひは身に残り昔は変り跡もなし」という能の作品に着想を得た脚本を書きました。
 このときが初期の「活劇工房」としては一番の危機的状況ではなかったかと思われます。次回公演まで半年以上かかったのが、そうした事情を物語っています。


(一転、大所帯に)


 5人でなんとか頑張ろうという思いで東京に戻った私。ただ新学期が始まって新入生の勧誘に当たりますと、なんと入団希望者がわらわらと現れるではありませんか。
 結局、10人ほどが新たに加わり、メンバー不足の状態はたちまち解消に至ります。さらにその中に、普段はぼやきキャラながら舞台に立たせるとキリッと変貌する新潟出身のSがいました。さっそく彼を主役に抜擢。私は演出に専念しました。
 4人が出演した第8回公演「砧ー思ひは身に残り昔は変り跡もなし」(岸田志基作・演出)は、1978(昭和53)年6月に上演されました。場所は、今はなき六本木の自由劇場。串田和美や吉田日出子らが躍動した劇団「オンシアター自由劇場」の本拠地です。
 六本木の交差点近くのガラス店の地下にあった自由劇場は、一杯に客を入れても100人が限度だったのではないでしょうか。夏のシーズンオフで、比較的安く借りることができたと記憶しています(ただし公演時はものすごい暑さで、役者も観客も汗だくになっていました)。
 手元の資料を見てみますと、「オンシアター自由劇場」が、斎藤憐作、串田和美演出の名作「上海バンスキング」を自由劇場で初演したのは、1979(昭和54)年1月。我々の公演の半年後です。
 そんな場所で、実質は学生劇団の我々が芝居をしていたわけです。若さゆえの大胆さ以外の何ものでもありません。


(「櫛とヒコーセン」)



画像08 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像09 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像10 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里(1978年・シアターグリーン)



 続く第9回公演の「櫛とヒコーセン」(岸田志基作・演出、1978年11月)は、役者希望者が大幅に増えたことを反映して、一転大人数が出演する作品になりました。場所は原点に戻って池袋のシアターグリーンです。
 この芝居は、昭和の時代を生きた一般的な一人の女性の誕生から臨終までの生涯を描いた作品です。当時の私は、ドラマとは、ごく限られた特別な境遇の人の中だけに存在するものではなく、ありふれた日常を生きる人の中にもあるのだ、という思いを強く持っていました。
 ただありのままの人生をフラットに描いても、ドラマを感じてもらうことはできません。詳しいことは省きますが、作品では、人の一生を、できるだけ演劇的な手法で描くことに挑戦しました。
 例えば、女性の夫は、太平洋戦争で戦闘機のパイロットとして出陣して戦死しますが、舞台に登場する夫は、自身が飛行機になったかのように「ぶーん」と唸り声を上げながら両手を横に一杯に広げた姿で登場します(画像08参照)。
 「活劇工房」で、私は5本の作品を作・演出しましたが、この作品に一番愛着がありますし、唯一、手応えも感じた作品です。
 ここで感じた手応えをうまく自分の中で消化することができていたら、もしかしたらもう少し長く芝居に関わっていることができたかもしれません。ただ実際はそうはなりませんでした。この後、作・演出としての私は大きく迷走することになります。



画像11 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里、岸田志基(1978年・シアターグリーン)


画像12 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像13 第9回公演「櫛とヒコーセン」終演後の集合写真。観劇に来てくれた私の友人らも含まれています。(1978年・シアターグリーン)



(当時の演劇界)


 ここで少し脇道にそれて、当時の私たちが観に行っていた東京の劇団や印象に残る舞台について書いておきたいと思います。
 手元にある演劇史家、大笹吉雄さんの「戦後日本戯曲初演年表 第Ⅳ期(1976年〜1980年)」(社団法人日本劇団協議会)を見ながら、記憶を遡って書いてみます(ちなみにこの本の1977年と1978年のページには、なんと第5回から9回までの「活劇工房」の公演の情報も載っています。光栄ですが、さすがに恥ずかしい……)。
 まず概況から言いますと、私が「活劇工房」に在籍していた1977〜80年は、状況劇場、黒テント(演劇センター68/71)、早稲田小劇場、天井桟敷などのアングラ・小劇場演劇の活動はまだまだ盛んでした。一方で、世代的に自分たちに近いつかこうへい事務所や、野田秀樹の夢の遊眠社、渡辺えり子の2○○などが活動を始めたり、本格化させたりしたころです。
 貧乏学生でしたので、そうひんぱんには観に行けませんでしたが、これぞと思う公演には、劇団の仲間と誘い合って出かけました。
 まず強烈に印象に残っているのは、まだ浪人生だった1977年1月に矢来能楽堂で見た転形劇場の「小町風伝」です。詳しいことは書きませんが、演劇の持つ深さ、凄みを感じさせてくれた舞台でした。この舞台には、旭川出身の品川徹や若き日の大杉漣が出演していました。
 その2か月後には、早稲田小劇場の「鏡と甘藍(きゃべつ)」を、早稲田銅鑼魔館で観ています。銅鑼魔館は早大近くの喫茶店の2階にあった早稲小のアトリエです。彼らはこの後、富山に拠点を移して活動します。ぎりぎりのところで東京拠点時代の舞台に接したことになります。
 唐十郎の状況劇場は、このころ根津甚八に加え、小林薫の人気が上がっていました。前も後ろも両脇も、とにかく詰めるだけぎゅうぎゅうに詰めて座らされ、身動きもできない状態でも舞台に釘付けになったあの迫力と熱気は何だったのでしょう。
 たしか渋谷の百軒店跡地での紅テント公演では、小林薫が主役をつとめていた記憶があります。
 劇団の仲間と観に行った芝居では、早稲田小劇場から脱退した俳優たちが作った眞空艦(しんくうかん)の旗揚げ公演「ゴトーさんの荒野での静かな日々」(1978年6月)が印象に残っています。
 明大前に近い京王線の代田橋にある廃業したメッキ工場を改造したアトリエでの公演。戦前からあるのではないかと思われる古びた建物と、一種独特な俳優たちの佇まいが奇妙にマッチした舞台でした。
 あとはやはり黒テントですね。高校生のときに、旭川で「キネマの怪人」を観てぶっとんだ記憶がありますが、東京では「ブランキ殺し上海の春」(1979年5月)を仲間と観ました。確か休憩を入れて、4時間近くあったのではないでしょうか。
 相変わらず、役者はとにかく達者で、演出もスピーディで仕掛けも盛りだくさん。とんでもない長時間にも関わらず、舞台に惹き込まれます。
 ただ作者が伝えたいところはまったくわからない。ものすごく面白いが、ものすごくわからない。私にとって黒テントの芝居はそんな芝居でした。
 このほか、風間杜夫、平田満、加藤健一が出演したつか事務所の代表作「熱海殺人事件」を、紀伊國屋ホールで観たのも印象に残っています。


(迷走の2作)



画像14 第10回公演終演後(1979年・シアターグリーン)


 さて「活劇工房」の話です。3年生になった私にとって、1979(昭和54)年は苦しい年でした。
この年は、前年ほどではないにしろ、春に4〜5人の新入生を迎えたと記憶しています(その中には、後に声優となってカウントダウンTVのキャラクターの声などで活躍するIがいました)。
この年は、春にシアターグリーンで1本、秋に同じ池袋の文芸坐ル・ピリエで1本、それぞれ私の作・演出で公演していますが、どちらも脚本を書くのに難儀しました。
 今から考えますと、手応えのあった「櫛とヒコーセン」の路線をさらに深化させることを目指すべきでしたが、ストーリーを書くことを目指してしまったのですね。
 背景には、なかなか物語を作ることのできない自分を変えたいという気持ちがありました。



画像15 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


 私は子供の頃から本好きでしたが、どちらかというと、小説など物語系より、伝記物などノンフィクション系が好きでした。このため東西の古典的な名作小説などはほとんど読んでおらず、そもそも自分の中の物語の蓄積が少なかったのです。それは創作者としての私の大きなコンプレックスでもありました。
 ただ物語作りはやはりうまく行きません。春は銀行強盗もの、秋はヤクザの一家ものという作品を書きましたが、最後までストーリーをうまく展開することはできませんでした。特に秋のヤクザものは、稽古に入った段階でもまだ終盤が書けておらず、劇団員のみんなに迷惑をかけました(一応最後まで書いて、上演することはできました)。
 2本続けてのつらい執筆となり、私はしばらく作・演出を離れることにしました。



画像16 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


画像17 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)




<1980(昭和55)年〜?・第4期>


(引退へ)



 私の後の作・演出は、1学年下のHくん(和才秀)が担ってくれました。もともと小説を書いていた人で、劇団内で同人誌的な冊子作りにも励んでいました。
 第12回公演はその和才秀作・演出の「大地は一個のオレンジのように青い」(1980年6月・シアターグルーン)でした。
 そしてこの年秋、私は「活劇工房」での最後の活動、第13回公演「檸檬(れもん)」を演出しました。「檸檬」は、2年前の1978年、「斜光社」という劇団を主催していた竹内純一郎(のちに銃一郎)が発表した作品です。
 この公演では、思い切ってそれまでとは違うことをしました。初めてプロの劇作家の脚本を用い、公演場所も、「劇研」などが使っていた駿河台校舎内の551ホールに変えました。公演では、劇団員が手分けして集めた古新聞や古雑誌を、山のように舞台に積み上げて装置としました。



画像18 第13回公演「檸檬」終了後の集合写真。後ろに古新聞、古雑誌の一部が見える。(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


振り返りますと、自分が書いた脚本を演出する際は、執筆段階でのイメージと役者が演じる際のイメージに常に差があり、そのギャップを受け入れることにとまどいがありました。ただ脚本のイメージに無理やり役者を合わせようとすると、役者の良さが消えてしまいます。
 作・演出の場合は、いつもその点で苦労しましたが、「檸檬」では、役者とともに一から脚本の世界を組み立てていく実感があり、楽しく作業することができました。
 ただその一方で、自身の才能に一つの限界を見た寂しさもありました。同時にそのことは、やはり自分はものを書いて生きる人間になりたいのだと、強く意識する結果にもなりました。
 公演終了後、私は「活劇工房」の活動から事実上引退しました。



<その後(1)>


(17年ぶりのボックス)



 大学を卒業した後、縁あってテレビの世界に入った私は、記者、ディレクターとしてキャリアを積みました。カメラマン、編集マンと共同作業をしながら、取材をし、構成を立て、映像に原稿を添え、伝える。生まれ故郷の北海道でそんな毎日を送っていた私は、1996(平成8)年になり、初めて東京勤務を命じられました。
 たしか東京に行って2年目だったと思います。私用で杉並を訪れていた私は、ふと母校に立ち寄ってみる気になり、明大前の駅に降りました。
 木造だった駅舎は見違えるようになっており、やはり木造の飲食店が両脇に並んでいた甲州街道に至る道も、ビルが建ち並ぶ広い通りに変わっていました。
 変わっていなかったのは、甲州街道にかかる歩道橋の手前にある小劇場「キッド・アイラック・ホール」が入った小さなビルです。このホールでは、最初の方で書いた明大の騒動舎イズミ・フォーリーがよく芝居を打っていて、何度か観に行った覚えがあります。ちなみにこのビルとホール、10年ほど前に、ある御縁で知り合った著作家で美術館「無言館」の館長、窪島誠一郎さんの所有と聞いて驚きました。 
 歩道橋を渡って和泉校舎の構内に入りますと、新しくなった校舎に並んで見覚えのある建物もありました。さすがにもうないのだろうと奥に進むと、なんとあの第2学生会館がそのままの姿で建っているのではありませんか。しかもタイムスリップしたかのように発声練習の声まで響いています。
 昔この地下に「活劇工房」という劇団があったのだがと、外にいたTシャツ、ジャージ姿の3人の女子学生に声をかけますと、「ああ今でもありますよ。私たちのサークルです」とびっくりするような言葉が返ってきました。聞けば、ボックスもそのままだと言います。中を見たいとお願いすると、どうぞどうぞと案内してくれました。
 1階のフロアから階段を降りると、かつて装置の制作などに使っていた小さなスペースがあり、少し進むと左手にトイレ、その向かいが「活劇」のボックスです。
 木製のドアを開けると、昔のままの部屋がそこにありました。中央に大きめのテーブル。3方を囲うように長椅子。さまざまな劇団のチラシやポスターがびっしりと貼られた壁。その中には、我々の時代の「活劇」のチラシもありました。そして陽が入るあの窓。
 その時間に居合わせた後輩たちは、10人ほどだったでしょうか。ボックスはそのまま居室として利用していて、僕らの頃は軽音楽部が練習場として使っていた奥の空間は、「活劇」のアトリエになっていると教えてくれました。メンバーは数10人いると聞きました。
 「卒業したら俺もこんな形でここを訪ねることがあるかもね」。
 一人の男子学生の言葉に皆で笑いあったとき、長椅子と長椅子の間の隅っこに見覚えのあるものを見つけました。そう、1年生のときに作ったあのデュシャン風の立体ポスターです。自分が作ったものだと話すと、後輩たちは目を丸くしていました。
 後日、彼らの公演があの551ホールであるというので、差し入れを持って出かけました。熱演する後輩たちの姿に、かつての仲間の姿がダブりました。



<その後(2)>


(その後の私と演劇)




画像19 「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ 予告編(プレ公演)」(2020年2月・旭川市民文化会館小ホール)


 2019(令和元)年7月、旭川では約30年ぶりとなる市民劇の稽古がスタートしました。上演作品は、大正末から昭和初期にかけての旭川を舞台に、架空の若者たちと実在の人物たちが織りなす群像劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。「活劇工房」時代以来、37年ぶりに私が書いた戯曲です。
 あるきっかけからこの戯曲が地元の演劇人の目に止まり、市民劇の形で上演を目合すことになったのが2017(平成29)年。私は脚本担当兼総合プロデューサーという立場で組織づくりから関わりました。
 2020(令和2)年2月に「予告編」と題したプレ公演を上演した直後、コロナ禍という予想もしない事態に遭遇。しかし関係者の努力と熱意で、なんとか2021(令和3)年3月に本公演を行うことができました(詳細は、拙著「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジーコロナ禍中の住民劇全記録―」(2021年・中西出版)に詳述しています)。



画像20 「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ 本公演」(2021年3月・旭川市民文化会館小ホール)


 実はこの作品、10年あまり前からふるさと旭川の歴史について、ブログや講演、執筆などの形で発信する活動を続けている私の頭の中に、ある日、突然降りてきた物語がベースになっています。といっても全くのゼロから物語が生まれたわけではありません。
 舞台で起きるほとんどの出来事は、当時の旭川で実際にあったことです。詩人の小熊秀雄、画家の高橋北修、のちの歌人、齋藤史など、登場人物の約半数も、当時の旭川で活動した実在の人物です。
 物語は、架空の若者たちが、その実在の人物と出会い、実際にあった出来事と関わる中で生きる目標を見出していきます。
 物語を書けなかったことをきっかけに20代で演劇から離れた私。その後培った郷土史研究を含むさまざまな蓄積が物語を生み、30数年ぶりに演劇の現場に自分を導いたとでも言えるでしょうか。歴史市民劇の本公演には、「活劇工房」で同じ時間を過ごしたMも、東京から駆けつけてくれました



画像21 大学卒業の頃の筆者




<初期「活劇工房」公演リスト>


     作品名(作・演出  上演日 上演場所)
 
第1回 「胸毛の生えた鉄腕アトム」     不明   1976  不明
第2回  不明          不明   1976  不明
第3回 「無縁仏」        烏山喧児 1976 6.26~27  シアターグリーン
第4回  不明          烏山喧児 1976秋 シアターグリーン
第5回 「兄弟がいっぱい」     烏山喧児 1977  5.31~6.1 シアターグリーン                  
第6回 「メランコリックスーパーマン」   烏山喧児 1977・7 シアターグリーン
第7回 「水中花」        岸田志基 1977・11 東芸劇場
第8回 「砧〜思ひは身に残り昔は変り跡もなし」   岸田志基 1978・6 自由劇場
第9回 「櫛とヒコーセン」     岸田志基 1978 11.28〜29 シアターグリーン                    
第10回 不明           岸田志基 1979春 シアターグリーン
第11回 不明            岸田志基 1979秋 文芸坐ル・ピリエ
第12回「大地は一個のオレンジのように青い」  和才秀  1980 6.13~15 シアターグリーン                      
第13回「檸檬」 作竹内純一郎・演出岸田志基  1980秋  明大551ホール


(第5〜9回公演については、「戦後日本戯曲初演年表 第Ⅳ期(1976年〜1980年)」(大笹吉雄・社団法人日本劇団協議会)に記載のデータとすり合わせています。ほかは記憶のみが根拠ですので、必ずしも正確ではありません)





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「朝の食卓」2022

2022-12-23 16:42:34 | 郷土史エピソード



北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊には、長年愛されている「朝の食卓」というコラム欄があります。
北海道各地で活躍するさまざまな立場の方々、約40名が執筆しています。
ワタクシもことし(2022年)から執筆陣の一人に加えていただきました。

コラムでの肩書は「旭川郷土史ライター&語り部」。
その郷土史関連の話を中心に、ことしは10回書かせていただきました。

ただこのコラム、伝えるのは文章だけで、写真など画像はなしです。
初回のコラムにも書いていますが、ワタクシはもともとテレビ畑の出身。
何かを伝えるには、まず画像や動画でと考える癖がついています。
このためどうなるものかと考えていましたが、文章だけで表現するのは普段とは違った感じで新鮮でした。

また新聞のコラムということで、「掲載する時期」を意識した内容のものを書く楽しみもありました。
例えば、3回目はその時期強いショックを受けていたウクライナ侵攻について、4回目はその月が没後20年だった齋藤史さんについて、5回目はその月にオープン50周年だった買物公園について、などです。

ということで、今月は1年の区切り。
今回、このブログにも、2022年に掲載した10回分のコラムを載せることにしました。

なおこのブログでは、一部、関連画像を加えています。
合わせてお楽しみいただけると幸いです。




                   **********




(その1 2022年1月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「文章だけで」

すでにリタイアしていますが、長年、テレビの世界で過ごしてきた人間です。
たたき込まれたのは、論より証拠。
ひと目でわかる映像の重要性です。
たとえば、何か社会的な問題があったとします。
記者やディレクターは、こういう弊害がありますと、ただ説くことはしません。
実際に問題が起きている現場にカメラを入れ、その生の実態を映像に記録します。
そうしないと説得力がないからです。
ただ映像には、わかりやすい反面、誤解を与えたり、ときには悪用されたりする欠点もあります。
そうしたことを踏まえても、何かを伝えるにはやはり有効な手段です。
私がふるさと旭川の歴史について、講座やブログ、著作等で情報発信を始めて、もう10年になります。
この活動でも、できる限り映像=写真や動画をお見せしながら話を進めるようにしています。
お伝えするのは、普段なじみのない昔の出来事や人々のこと。
なおさら受講者や読者の皆さんとイメージを共有することが必要だからです。
ただ実を申しますと、「お話」だけで理解してもらえるほど、自分の文章や語りに自信がないという事情もあるのです。
ということで、書かせていただくことになりました「朝の食卓」。
もちろん画像や動画は使えません。
文章だけでどこまで思いを伝えることができるのか、チャレンジのつもりで取り組みたいと思っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)




                   **********




(その2 2022年2月10日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「那須の村」

数年前から祖先について調べています。
まだ道半ばですが、いろいろなことが分かりました。
中でも驚いたのが、私が生まれる少し前に亡くなった祖父、那須半蔵についてです。
半蔵は、1873年(明治6年)、和歌山県西牟婁郡長野村(いまの田辺市長野)で生まれ、1904年(明治37年)に旭川に本籍を移しています。
そのことが書かれた戸籍を見ていて、あることに気付きました。
半蔵の2人の妹は同じ村内に嫁いでいますが、ともに嫁ぎ先の性は那須。
母親も同村出身で、旧姓はやはり那須。
さらに戸籍には、記載事項の末尾にその時点の首長の印が押されますが、それも多くが那須なのです。
つまりは、那須だらけです。
調べてみると、旧長野村には、弓の名手として知られる平安末の武将将、那須与一の伝説があることが分かりました。
地区には与一の墓とされる石塔や、子孫が建てたという寺社があります。
明治になって全国民が名字を持つことになった際、地元ゆかりの著名人の性を名乗った人は少なくありませんでした。
この地区でも那須を名乗った人が多かったと思われます。
実はわが家と同じ宗派である与一ゆかりの寺に問い合わせたところ、半蔵の父母(私の曽祖父母です)や兄の位牌が、永代供養のため寺に預けられていることが分かりました。
この位牌に手を合わせるため、熊野古道のお膝元である同地を訪ねたいと思っています。
その際には、いまも地区にいるたくさんの那須さんに会えるかもしれません。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像01 那須与一(「源平合戦図屏風)より)




                   **********




(その3 2022年3月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ウクライナ侵攻に思う」

旭川は、戦前、旧陸軍第七師団の本拠地でした。
ですので、その歴史を振り返るとき、戦争との関わりを欠かすことはできません。
その第七師団の将兵が、初めて実際の戦場に立ったのが日露戦争です。    
1904(明治37)年2月に始まった戦争では、多くの死傷者を出しながらも日本軍が優勢を保ちます。
ただ大国ロシアの皇帝ニコライ2世は、戦局の巻き返しに自信を見せ、シベリア鉄道で戦場である南満州(いまの中国東北地方)に大量の兵を送るとともに、自慢のバルチック艦隊を極東に派遣していました。
そんな皇帝の態度を一変させたのが国内事情です。
戦争の長期化に伴う物価の上昇や労働環境の悪化で、民衆の不満が高まったのです。
開戦の翌年1月には、首都サンクトペテルブルグでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。
一気に高まった革命の気運に押されるかのように、ニコライはルーズベルト米大統領の斡旋を受け入れ、日本との講和に同意します。
先月、こうした日露戦争の推移を、旭川との関わりを中心にブログに掲載し始めた直後、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。
主導したプーチン大統領の姿は、権力を一身に集めたかつての皇帝と重なって見えます。
その蛮行を止めるには、日露戦争のときと同じく、ロシア国内での反戦の高まりが必要と多くの識者が指摘しています。
求められているのは、ウクライナの人たちに加え、侵攻に抗議するロシアの人々との連帯です。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像02 日露戦争に出征する第七師団の将兵(1904年・旭川市中央図書館蔵)


画像03 血の日曜日事件(1905・「図説 日露戦争」より)





                   **********




(その4 2022年4月28日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「齋藤史と旭川」

現代短歌を代表する歌人、齋藤史(ふみ)は、生前、2度旭川で暮らしました。
1度目は、1915年(大正4年)からの5年間。
父、瀏(りゅう)が、当時旭川にあった陸軍第七師団に異動したのに伴い、小学生時代を過ごしました。
瀏は、職業軍人であり、歌人でもありました。
2度目は、やはり父の旭川勤務に伴う1925年(大正14年)からの2年間です。
このとき、史は高等女学校を卒業して間もない多感な年頃でした。
この2度目の旭川暮らしの際、史は瀏を訪ねてきた歌人、若山牧水と出会います。
牧水は齋藤家に4泊し、感性の鋭さを見せる史に作歌を勧めます。
のちに史は、それが本格的に短歌の道に進むきっかけになったと繰り返し述べています。
一方、1度目の旭川滞在のとき、史の幼馴染に、のちの二・二六事件で決起し、処刑された栗原安秀、坂井直(なおし)の2人がいました。
事件では、彼ら青年将校を支援したとして、瀏も禁固刑を受けます。
きょうだいのように育った友人たちの刑死と父の収監。
事件は、生涯に渡り、史の創作上の大きなテーマとなりました。
「物語を持った最後の歌人」。
史はそう呼ばれています。
二・二六との関わりと牧水との交流、そのどちらにも旭川という土地が絡んでいることに感慨を覚えます。
2002年に93歳で亡くなった史。
4月26日は、それからちょうど20年の節目でした。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像04 齋藤史(1909−2002)


画像05 若山牧水(1885−1928)





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(その5 2022年6月6日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「買物公園50年」

旭川駅前から約1キロに渡って続く平和通買物公園。
今月1日で誕生から50年の節目を迎えました。
買物公園ができた時、私は中学2年生でした。
地元にできた全国初の恒久歩行者天国。
子供ながらも誇らしく思ったのを覚えています。
その買物公園、実は完成の3年前、実際に通りから車を締め出す大規模な社会実験がありました。
夏休みに合わせて行われた12日間の実験では、いつもは1日に1万5千台もの車が行き交う通りに、イスやテーブル、遊具や花壇などが並べられ、大勢の市民が繰り出しました。
日本の歩行者天国は、1970年、東京の4か所の繁華街で始まったことで知られるようになります。
この実験はその前の年の出来事。
歩行者天国に関しては、まさに旭川がトップランナーだったわけです。
ところで買物公園の誕生の背景には、事故の増加や排気ガスによる大気汚染の深刻化など、急速に進んでいたモータリゼーションへの深い懸念がありました。
そこで打ち出されたテーマが「人間性の回復」。
このためかつての買物公園では、愛らしい姿の原始人の家族がイメージキャラクターになっていました。
(旭川郷土史語り部&ライター)



画像06 買物公園の実験(1969年8月・旭川市中央図書館蔵)


像07 イメージキャラクターの原始人のイラスト





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(その6 2022年7月16日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「市制100年」

100年前にあたる1922(大正11)年8月1日、札幌、函館、小樽、旭川、室蘭、釧路の道内6都市は市になりました。
一斉に市になったのには訳があります。
明治政府は、1888(明治21)年に市制を定めた一方、開拓が始まってまもない北海道や沖縄県には適用しませんでした。
代わりに設けられたのが北海道区政です。
この制度のもと、1899(明治32)年に札幌区、函館区、小樽区が誕生し、大正時代に入ると、旭川、室蘭、釧路も区となりました。
その後の法律改正で、本州並みに市が誕生したのが1922年だったというわけです。
各自治体では、祝賀会やちょうちん行列、花電車の運行など祝賀行事が催されました。
区制時代は、区長が区議会議長も務めるなど、市に比べると自治権に制約があり、不満が溜まっていたことがうかがえます。
ただ、私の地元、旭川を見ますと、市制施行の8年前にあった町から区への移行の際の記念行事の方が、盛大でした。
不思議に思って調べますと、町時代の旭川は、先行して区となった札幌などに追いつきたいと、地域をあげて道や国に働きかけていたことが分かりました。
新旭川市史によると、中島遊郭をめぐり、設置を推進した道長官と、反対した旭川町長が対立し、町長が「道庁の横暴」を政党や報道機関に訴えたことで、道との関係が険悪になり、区制施行の要望まで道に拒否された時期もありました。
このような紆余曲折あって、努力が実ったのは、旭川で区制移行の運動を始めてから7年後。
市よりも区の誕生の方の喜びが大きかったのは、そうした事情が影響したものと考えています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像08 区制実施祝賀会当日の旭川区役所(1914年・「旭川区世実施祝賀会記念写真帖)より)


画像09 市政移行を伝える新聞記事(1922年・函館毎日新聞)


画像10 看板をかけ替えた旭川市役所(1922年・北海タイムス)





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(その7 2022年8月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「坂本直寛と旭川」

坂本龍馬のおいの坂本直寛(なおひろ)は、移民団体「北光社(ほっこうしゃ)」を作った北見開拓の先駆者であり、旭川ともゆかりの深い人物です。
直寛は故郷の高知でキリスト教の洗礼を受け、北海道移住後は布教活動に力を注ぎました。旭川には、1902年(明治35年)年に伝道師として赴任、6年余りを過ごしています。
当時、旭川には、米国人宣教師、ピアソン夫妻がいました。直寛は2人が取り組んでいた遊郭の設置反対や、遊郭で働く女性を救う廃娼運動にも協力します。
その直寛が、旭川の別の教会に通う2人の青年の訪問を受けたのは、赴任から3年余り後、すでに牧師となっていた頃のことです。2人の真剣なまなざしに胸を打たれた直寛は、教派を超えた特別な祈祷会を開くことを約束します。
この時の青年の一人は、鉄道員で、名前を長野政雄と言いました。直寛との出会いから3年後、彼は和寒町の塩狩峠で、客車の暴走を身を賭して食い止めます。この殉職は三浦綾子の小説「塩狩峠」で描かれ、多くの人の知るところとなりました。
直寛は坂本家の5代目の当主で、一家で北海道への移住を決断した人物です。このため蝦夷地の開拓に情熱を持っていた叔父、龍馬の夢を受け継いだと言われています。
旭川では、来月、全国各地にある龍馬を慕う団体 「龍馬会」の会員が集う「龍馬 world in 旭川」が開かれます。これを機会に、龍馬の子孫が地域に残した確かな足跡についても知っていただきたいと思っています。(旭川郷土史語り部&ライター)



画像11 坂本直寛(1853−1911・「坂本直寛の生涯」より)


画像12 三浦綾子著「塩狩峠」


画像13 塩狩峠の殉職碑





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(その8 2022年10月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「新旭川市史」 

旭川の宝と言えば何を思い浮かべるでしょうか。
実は私が密かに宝と思っているのが、郷土の歴史を綴った「新旭川市史」です。
「新旭川市史」は、開村100年の記念事業として1988年に編さんが始まりました。
これまでに通史と史料など8巻が刊行されています。
郷土史の情報発信をしている私は、道内各地の市町村史に当たることがよくあります。
その経験から言いますと、質、量ともに横綱級なのは札幌、函館、旭川の各市史。
なかでも「新旭川市史」は詳しいうえに一つ一つの史実の捉え方が深いといつも感心しています。
その旭川の市史、残念なのは、財政悪化等の理由で、2012年度以降、編さんが休止したままになっていることです。
このため道内の他の主要都市ではほぼ終えている戦後編の刊行の目処が立っていません。
ところが先日、うれしいニュースが入ってきました。
「戦後から平成の始まりまでは、残さなければならない責任が私たちの世代にはある」と、市長が編さんを再開する意向を明らかにしたのです。
マチの歴史は、そこで生きた先人たちの活動の集積です。
それを知ることは、地域の今を見つめ直し、将来を考えることにつながります。
市町村史は、いわばまちづくりの礎石のようなものです。
長いブランクによって編集担当者の高齢化が進むなど、再開には多くの課題があります。
ですが、市には、これまでの取り組みをしっかりと受け継ぎ、ぜひ「宝」にふさわしい戦後編を作ってほしいと願っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像14 新旭川市史




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(その9 2022年11月11日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「命根性」 

今年、生誕100年を迎えた三浦綾子さんの自伝小説を読んでいて、久々にある言葉に出会いました。
「命根性が汚い」。
生への執着心が強いという意味ですね。
子供の頃、大人たちがしばしば口にしていました。
「あいつは本当に命根性が汚い」と罵ったり、「私は命根性が汚いから」と卑下したり。
ただ話をよく聞くと、その汚さは、健康のために人より少し多くお金や気を使うといった程度なのです。
それなのに大人たちは、非常な罪であるように断ずるのです。
綾子さんも、子供時代に死について深く考えたことだけを理由に、「自分は命根性の汚い人間だと思う」と書いています。
では、なぜ生に執着することがそんなにも良しとされなかったのか。
背景には「時代」があったのではないでしょうか。
私の親世代が生まれ育ったのは、今よりも人の命が軽かった時代です。
特に自然環境が厳しく、命を守る社会インフラも乏しかった北海道は、その傾向が顕著だったと思います。
「命根性が汚い」と戒める言葉の底には、困難に立ち向かう、時には死をも恐れない気概、覚悟のようなものを持つべきだ、という考えがあるような気がします。
実は、大人たちの言葉で「命根性が汚いのは恥」と意識付けられた私は、命根性が人一倍汚いにもかかわらず若い頃から不摂生を続けました。
その結果、いま多くの生活習慣病を抱えて病院通いをしています。
「口ではああ言ってるが、実はみんな命根性が汚いんだよ」。
あの頃、誰かが耳打ちをしてくれていたら。
そう思わずにいられません。
(旭川郷土史ライター&語り部)




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(その10 2022年12月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「老いと向き合う」

かつて放送されたNHKのドキュメンタリーに、落語家の故立川談志師匠に密着した秀作があります。
その中に、師匠が畳の上で胎児のように体を丸め、頭を抱え込んでいるシーンがあります。
この時、師匠71歳。老いに伴う心身の衰えに、苦悩の余り悶絶しているのです。
最初に番組を見た時、私は50歳でした。
その時は、なぜそこまで師匠が苦しむのか理解できませんでした。
でも15年経った今は違います。
年をとりできない事が増えてくるのはつらいものです。
それまでの人生が、できない事をできるようにする、何かを獲得する、それと同じ意味だったからです。
それは師匠のような天才でなくとも同じです。
このような人の衰えを、かつて「老人力」と言う言葉で救おうとしたのが、やはり故人の赤瀬川原平氏です。
つまり、物忘れが増えるのも体力や判断力が弱まるのも、すべて「老人力が増したから」というわけです。
私はまだ氏のように老いを笑い飛ばす境地にはなっていません。
むしろ恐れがかなり勝っています。  
実は先日、図書館に行く途中、返す本を忘れたのに気付き、「まあいいや借りるだけでも」とそのまま向かったら、熟知しているはずの休館日だったという出来事がありました。
こうしたことはたまにあって、いつもなら半日は落ち込みます。
ただこの日は「何やってんだオレ」と一瞬は癇癪を起こしましたが、じきに落ち着く事ができました。
「まあこんなこともあるさ」というわけです。
これは果たして良い傾向なのか、否なのか。
考えましたが、結論は出ていません。
(旭川郷土史ライター&語り部)


 

画像15 赤瀬川原平著「老人力」








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