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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

明治〜大正 旭川発のウイスキーがあった!?

2020-07-18 17:00:00 | 郷土史エピソード

図書館などで調べ物をしていると、時折、えっと思う画像や記述に出会す時があります。
そんな時は、骨董市でちょっとした掘り出し物を見つけたような気がします。
今日はそんな旭川の歴史のエピソードをご紹介します。



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画像1 ウイスキー貯蔵場(「臺臨記念寫眞帖」より)


こちらの写真、おなじみのウイスキーの樽が並んでいますね。
よく見ると、奥にもぎっしりと積み重ねられています。
実はこれ、明治時代末の旭川のある工場の中なんです。



画像2 神谷酒造旭川工場(明治44年・「臺臨記念寫眞帖」より)


その工場とは、「神谷酒造合資会社」。
焼酎の有名ブランドで知られる「合同酒精(現オエノンホールディングス)」の前身にあたる会社ですね。
明治末年にあたる44年9月、この「神谷酒造」の旭川工場に、北海道を訪れていた皇太子時代の大正天皇が視察に立ち寄ります。
これを記念して会社が発行した「臺臨(だいりん)記念寫眞帖」という冊子を見ていたところ、工場の様々な施設を紹介した図版の中にこの写真を見つけました。



画像3 神谷バーと神谷伝兵衛


旭川のこの工場は、「電気ブラン」で知られる東京浅草の「神谷バー」の創設者、神谷伝兵衛らが、初の国産アルコールの本格製造を目指して明治35年に創業しました(当初は「日本酒精製造」の経営、翌年から神谷単独の経営に)。
そしてこの「神谷酒造」がのちに同業他社と合併したのが「合同酒精」というわけです。
ちなみに工場では、原料のじゃがいもの絞りカスを使って養豚を行い、そのことがのちに豚骨と魚介を合わせたスープが主流の旭川ラーメン隆盛のバックボーンとなったとされています(詳しくはこのブログの記事「神谷バーと旭川」を参照してください)。



画像4 旭川工場の養豚風景(明治44年・「臺臨記念寫眞帖」より)


話を戻しましょう。
この工場について、実はワタクシはアルコール製造の専用工場と思いこんでいました。
なので、「臺臨記念寫眞帖」に載ったウイスキー貯蔵場の写真に驚いたわけです。
ただ写真から、工場内に貯蔵場があったのは疑いないとして、このウイスキー、実際に旭川工場で造られたものなのでしょうか。
他所で造って(または輸入して)貯蔵しただけということもあり得ます。
調べてみると、当時の旭川工場でウイスキーが生産されていたことを示す資料が複数見つかりました。
一つは、大正9年、株式会社となった「神谷酒造」が株主向けに作成した事業報告書です。
以下のような記述がありました。


「旭川工場 北海道旭川區ニ所在シ焼酎、味醂、酒精(注・アルコールのこと)、ウイスキー、白酒等ノ製造ニ関スル一切ノ設備ヲ有シ此等ノ製造ニ従事ス」



画像5 「神谷酒造」の事業報告書(大正9年)


同じく大正9年発行の「旭川工場の概要」には、銘柄まで書かれていました。


「醸造品目 飛行船印ウヰスキー 国産ウヰスキー 燕印ウヰスキー」



画像6 「旭川工場の概要」より(大正9年)


また大正元年に発行された旭川町発行の「旭川町勢一班」(今で言う自治体要覧のような冊子)には、明治44年の旭川での製造物の統計として、「ウヰスキー=650石・97500円」と書かれていました。



画像7 「旭川町勢一班」の統計(大正元年)


どうやらこの時期、旭川発のウイスキーがあったとこは間違いないようです。
さらに会社の社史である「合同酒精史」を調べてみると、先ほど紹介した銘柄のうち「飛行船印」のラベルの写真まで載っていました。



画像8 ウイスキーのラベル(「合同酒精史」より)


キャプションには「エアシップウイスキー(神谷・合同共通マーク)」とあります。
「合同酒精史」によりますと、「神谷酒造」は「合同酒精」の発足後も、神谷伝兵衛(2代目)個人の会社として東京で操業を続けたとあり、一時期、「合同酒精」と神谷個人会社の双方でこの銘柄のウイスキーを製造販売していたものと思われます。
ラベルには流線型が美しい飛行船の絵もあしらわれていて、なかなかの出来です。



画像9 神谷酒造旭川工場(大正2年・「合同酒精史」より)


と、ここまで来たところで、疑問が湧いてきました。
朝ドラの「マッサン」でも描かれていましたが、日本で初めてのウイスキーって昭和に入ってからの話ではなかったっけ?
サントリーのホームページで確認したところ、「昭和4年、日本初の本格ウイスキー『サントリー白札』発売」とありました。
神谷酒造旭川工場のウイスキー造りは明治末のことですから、およそ20年の時間差があります。



画像10 「白札」のポスター(昭和4年)


ここで注目したのが、「白札」の説明に添えられている「本格」という言葉です。
「初の本格ウイスキー」というからには、「本格ではないウイスキー」はすでに存在していたのでは?
結論から言うと、その通り。
明治期の日本では、輸入した醸造用アルコールに砂糖や香料を混ぜた調合ウイスキー(合成ウイスキー・模造ウイスキーとも)が生産されていました。
「神谷酒造」でも、旭川工場で生産した国産のアルコールを使ってこの調合ウイスキーの製造に乗り出していました。
それが明治38年であることもわかりました。
この明治38年、全国では旭川に続けと、関西を皮切りにやっとアルコールの製造工場が建ち始めた時期です。
こうしたことを考えますと、旭川発のこのウイスキー、日本初の本格ウイスキーではもちろんありませんが、日本初の「国産」調合ウイスキーだったのは間違いないようです。
酒どころとして知られる旭川ですが、日本のウイスキー造りの歴史の中にも、このように名前が出てくるのですね。
改めて旭川の歴史の奥深さを感じます。
ちなみにこの調合ウイスキー、味は本格ウイスキーとは比べようがなかったようで、昭和12年出版の料理本には「強烈な辛味が味覚を刺激し、一種不愉快な煙草のやにの如き臭味を有し」などと書かれているそうです。
なお「合同酒精」では、戦後、ネプチューンというブランドのウイスキーの製造を始めますが、これはもちろん本格ウイスキーです。



画像11 「ネプチューンウイスキー」(「合同酒精史」より)


余談になりますが、今回ご紹介した「神谷酒造」の「臺臨記念寫眞帖」には、旭川工場で製造した醸造用アルコールを箱詰めする「荷造場」の写真も掲載されています。



画像12 神谷酒造旭川工場荷造場(「臺臨記念寫眞帖」より)


木箱には、「北海道」という言葉とともに熊らしき動物のマークが入っています。
実はこれも「合同酒精史」にシールの写真が載せられていましたので、最後にご紹介します(熊と、後ろは旭川工場のシルエットでしょうか)。
なかなかに愛らしいトレードマークです。
ちなみに「熊印局方アルコール」とありますが、「局方」とは薬事法(当時アルコール類は医薬品扱いでした)で定められた基準内の製品であることを示す言葉だそうです。



画像13 熊印アルコールのマーク(「合同酒精史」より)



画像14 神社酒造旭川工場(大正元年・「旭川名勝」より)










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