以前からたまに訪れていた小田原ですが、この1年くらいで10回は越えているでしょうか。酒匂川から河口を経由小田原駅に達するコースと、小田原駅から河口経由で小田急最寄駅に達するコースのいろいろです。
市内に史跡の案内板が各所にあり、その中で2ヵ所その前を通るときは必ず参詣するのが山王神社と途中にある厄除け不動です。
さて先日たまたまいつもの市内の史跡案内図を見ていて見つけたのが、「北条氏政・氏照墓所」です。もちろん小田原は北条氏の居城であり、豊臣・徳川連合軍に滅ぼされたのも知っておりました。
その氏照の墓所が駅の近くにあるというのでは、お参りしないわけにはいきません。
駅前の繁華街の横道を入ったところの、建ち並ぶビルの一角の場所にありました。掲示板に気が付かなければ通り過ぎてしまうようなこじんまりした佇まいでした。
こんな感じです。アベックの鍵を付ける観光場所にもなっているのに怒りを感じました。
これが墓所です。北条氏四代城主とその弟の墓所です。さびしいです。
墓碑のアップです。
さて北条氏は豊臣・徳川連合軍に滅ぼされたのですが、特に北条氏照は八王子城主として武蔵野国一体に絶大な人気をはくし、また戦上手としての名声を得ておりました。そのため助命嘆願の訴えがあったのですが、氏政・氏照ともども切腹させられてしまいました。
さらに氏照に関して言えば、居城であった八王子城は連合軍に徹底的に破壊され、のちに史跡として調査されたときに完全な形で残された陶器が一つもなかったと言われたほどです。さらにその後明治になるまで、八王子城跡は徳川幕府から御留地として一切の立ち入りを禁じられていたのです。
ですから小田原の墓所もご覧のとおりさびしいものになっています。八王子城址にも氏照の墓所がありますが、死後100年たってからの偲んで建てられたものらしいです。
率直に言いまして、私の思い入れもありましたが、もう少し立派な墓所だと思っていました。自刃した石があるのも驚きました。
当日墓所に気が付いてお参りしたのですが、先に来ていた年配男性3名の観光客があれこれうんちくを語りだして、墓の前を占領していました。お参りする様子もないので彼らを退かしてお参りさせていただきました。
この画像はいったん引き揚げて、繁華街を一回りして戻ってからじっくり撮影させていただいたものです。
市内に史跡の案内板が各所にあり、その中で2ヵ所その前を通るときは必ず参詣するのが山王神社と途中にある厄除け不動です。
さて先日たまたまいつもの市内の史跡案内図を見ていて見つけたのが、「北条氏政・氏照墓所」です。もちろん小田原は北条氏の居城であり、豊臣・徳川連合軍に滅ぼされたのも知っておりました。
その氏照の墓所が駅の近くにあるというのでは、お参りしないわけにはいきません。
駅前の繁華街の横道を入ったところの、建ち並ぶビルの一角の場所にありました。掲示板に気が付かなければ通り過ぎてしまうようなこじんまりした佇まいでした。
こんな感じです。アベックの鍵を付ける観光場所にもなっているのに怒りを感じました。
これが墓所です。北条氏四代城主とその弟の墓所です。さびしいです。
墓碑のアップです。
さて北条氏は豊臣・徳川連合軍に滅ぼされたのですが、特に北条氏照は八王子城主として武蔵野国一体に絶大な人気をはくし、また戦上手としての名声を得ておりました。そのため助命嘆願の訴えがあったのですが、氏政・氏照ともども切腹させられてしまいました。
さらに氏照に関して言えば、居城であった八王子城は連合軍に徹底的に破壊され、のちに史跡として調査されたときに完全な形で残された陶器が一つもなかったと言われたほどです。さらにその後明治になるまで、八王子城跡は徳川幕府から御留地として一切の立ち入りを禁じられていたのです。
ですから小田原の墓所もご覧のとおりさびしいものになっています。八王子城址にも氏照の墓所がありますが、死後100年たってからの偲んで建てられたものらしいです。
率直に言いまして、私の思い入れもありましたが、もう少し立派な墓所だと思っていました。自刃した石があるのも驚きました。
当日墓所に気が付いてお参りしたのですが、先に来ていた年配男性3名の観光客があれこれうんちくを語りだして、墓の前を占領していました。お参りする様子もないので彼らを退かしてお参りさせていただきました。
この画像はいったん引き揚げて、繁華街を一回りして戻ってからじっくり撮影させていただいたものです。