葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

東北大震災から二年過ぎ(上)

2013年04月02日 20時43分45秒 | 私の「時事評論」


 天皇陛下と東北大震災

 先月、あの東北地方を中心に襲った大地震と、それに伴う巨大津波から二年目の記念日が過ぎた。災害に遭った各地、被災者が疎開する避難地、首都東京で多くの殉難者の慰霊祭があり、早期復興が誓われた。東京の国立劇場での慰霊祭には天皇・皇后の両陛下も臨席され、犠牲者の標柱の前に深い哀悼の意を表明された。
 天皇陛下は、現憲法では国政には関与できないことになっている。国政の責任を担うのは政府をはじめ国・県・市町村などで、とくにそれを束ねるのは首相の責任となる。だが式場での陛下は、災害の責任はすべて御自ら背負いになっておられるとの沈痛なご表情で、痛切な哀悼の言葉を述べられた。国のすべてを背おわれる「祀り主」としての伝統のお立場は、悠久の歴史の中のほんの一時、しかも一部分を律するにすぎない憲法などで定められた軽いものではない。そのことは全国民が知っていて、陛下のお言葉には被災者に対し、未曾有の災害からの救助のために懸命に復旧の作業に励む人々に対し、心からの励ましのお気持ちが込められていて人々の心を打った。
 今回の震災の一部始終を、外から眺めた外国の人々が最も強く感じたのは、あの驚天動地の大災害の中でも、日本人が蜘蛛の子を散らすように我がちに四散するのではなく、秩序を乱さずに行動したことであった。日本人の歴史文明の中で長い間に培われてきた行動方式は国民に遺伝因子のようにしっかりしみ込んでいて、緊急の事態に日本人らしい進退をはっきり示す。これは世界の他の異文化の地には見られない特徴だと外国人記者などは驚嘆して世界に伝えた。震災の報に接して天皇陛下が被災者に対してお述べになった言葉は、全国民を被災者救済へ力を合わさせるものになったし、被災地をお見舞いになった陛下のお姿は、何よりの被災者たちへの励ましとなった。首相はじめ政府関係者たちに対しては取り囲んで、遅々として進まぬ救済に苦情や罵声を挙げていた同じ被災者たちが、陛下のお見舞いには涙して感激する。これを見て、日本人が昔も今も、変わらぬ日本人であり、片片たる憲法や法制度の変更などでは変わらぬものであることを実感させられた。
 戦後の日本は憲法や法制度などを中心に大きく変わり異質の国になったなどと述べるものは国内にも多い。だが、戦後70年も経過して、現在の陛下と国民の間には、数千年も続いてきた同じ心がいまも生き続けていることが明瞭に示された。こんな日本の姿を見ずして、地につかない空想的復興策を練ってみたところで日本国の円滑な運営はできない。言葉を代えるならば、政治や行政も、その日本人である意識を軽んじて70年間歩んできたが、その空回りした復興策が、早急な成果を上げるのを遅らせる結果になっていると言えるのではなかろうか。
 顧みれば関東大震災で首都近辺が壊滅状態になった時、その復興の先頭にたたれたのは当時摂政の宮であられた昭和天皇であった。あらゆることに優先して復興に進まれる陛下、そのけん引力によって日本は素晴らしいスピードで事態を乗り越えることができた。関東大震災での死亡や行方不明者は10万5千人、その大変は火災による焼死者だったが、津波も神奈川県などで10メートルにも達し、1000人を超す津波による死亡・不明者を出した。それでも政府は全力を復興に当て、この震災が特に焼死者の多かった事実を見て、都市災害に強い街づくりを中心に、内外にも国債を大量に発行せざるを得なかったが災害強い都市づくりを基本に大英断を持って進められ、その復興の姿が今の東京の基礎となった。復興計画は震災直後から後藤新平など多くの指揮官の将来の都市つくりの基本プランに沿って進められたが、災害の悲しく暗い思いを転換させるにも、それを超えて人々に希望を持たせる未来への設計図は必要だ。それが示されたのが大きな力になり、陛下がだれよりも早期復興を願っておられるというお姿が復興を可能にした、これに比べて今回の震災直後、政治はお互いの批判合戦に終始し、復興計画には、国としての将来の東北発展の青写真も復興計画もはっきりせず、しかも放射能汚染といういつ解決するかも分らぬ危険は手をつけられずに放置されたままで進められている。これで災害を受けた人々に明るい気持ちを持たせることができるのか。どうも未来への期待も希望も感ぜられないような気がしてならない。
 
復旧できるものできないもの

 大津波から二年が経過したが、被災地からは、復興が遅々として進まない情報が続々と伝えられ、被災者ばかりではなく、全国民の心を暗く沈んだものにしている。日本という国はそこに住む人々が心をつなぎ合って、苦楽をともにしながら築き上げてきた共同して助け合うことを基本にした国である。避難のために四方に散っている東北地方の人々が震災前の故郷に戻り、希望を持ち明るい気持ちで心から楽しみ、日々を建設的に暮らすことができない限り、日本はこの災害を乗り越えることができたとは言えないだろう。いまでは昔住んでいた地域に、まとまって住む土地さえ確保されていない状況だが、そこに人々が戻ってきて、再び人々の明るい共同社会が復興されて、はじめて震災の爪痕が埋まったと見るのが常識だろう。
 今回の復旧には時間がかかりすぎている。全国の人々、さらには外国の人々までが被災者の救助、被災者の立ち直りの資金募集などに協力をした。応援の手は世界中に広まった。だが、そんな善意はどのような形で生かされたのだろう。私もささやかで取るに足らないものかもしれないが精一杯の協賛をしたし、復興支援協賛のためのイベントなどにも積極的に加わって集めた資金を自治体などに提供をした。国自身も膨大な応援をしたのだと思う。だが現在の被災地の光景を見て、一体それらはどこに消えてしまったのかと、ため息をつきたい思いでいる。
 復興には、同胞たちの支援、諸外国の応援も生かされて、もっと効率的にかつ迅速に効果的に当たらねばならない。もたもたした姿ばかりが目についてならない。聞くに、従来のままの状態に復興しようと、最低限度の復興を目指しても、集まった資金はまともに振り向けてはもらえずに、中間にいる役所などが「書式や制度などが整わず、合理的な再建企画に合わない」などと言って滞ってしまっていると聞く。善意の資金が官庁の定めた将来の復興計画に、「有効て使えるか」などとの会議費や会合費などに使われてしまったり、災害復興とは直接つながらない部門に費消されたりして、存分に被災者の復興に活用されていないとのニュースも多い。これでは行政がこれでは復興を阻害しているといわれても仕方がない現状ではないか。
 どうすればよいのか。災害には復興できるものとできないものがある。あの大震災、とくにそれに伴って起こった大津波において、行くえ不明者を含む二万人の尊い人命が失われた。これなどは復興できないものの最たるものである。犠牲者には多くの子供たちや老人が含まれている上に、自分だけなら逃れることができたのに、同胞・仲間たちの避難を進めるために命を失った人柱も多い。だがこれらの命はもう、冷たいようだが以前に戻すことができないものだ。これに対しては、そんな人たちが生きていたら、おそらく全力で助けようとしただろう遺族たちの世話を行政が負担して、応援するだけでやむを得ないとする以外にない。そんな部分に支援の資金が使われることには意義はない。
 ただ、それだけでは足りない。次にはそのような犠牲者が増えないように、今回の犠牲の教訓から現段階でなしうる最低限度の教訓を学び、次の災害で急増して増えることのない対応策を固めて、次には現在も30数万人もいるといわれる避難被災避難者の一刻も早い故郷復帰を図りながら、東北復興の未来に向けた青写真を即刻立てて取り組むべきなのではないだろうか。
 地震や津波に襲われた被災地には以前にも勝る活気ある街を作り、そこで人々の明るい営みを再興させる策に万全を期すことだ第一だ。併せて、次に災害が襲ってくるときには、どう対応するかの、災害の程度に合わせた準備にも手をつけておかねばなるまい。

 どこに防御の節目を作るか

 そう思うのだが、いまでも津波の被災地は閑散とした膨大な原野が広がっている。再びあの大津波が押し寄せてきたらどうするか。これを考えるのは大切だ。ただその対応策にのみ時間がかかり、街の復興にまでブレーキがかかっているような現状をどうするか。考慮しなければならない問題が多い。
 今回、東北を襲った大津波は、ところによっては山を越す30メートル、40メートルの高さに達したという。そんなものを防ぐ防波堤などを完璧に作るプランを立てようとしたら、日本領土の沿岸は、見上げるような防波堤で取り囲まれてしまい、国土全体がまるで監獄のように殺風景なものになってしまう。それに第一、そんな大工事をするだけの原材料も資金もない。それを延々と協議する間待てというのか。これに関して、今回の地震や津波では「想定外」という無責任な言葉が政治家や関係学者の間で流行した。この言葉は無責任以外の何物でもない。災害に対しては、数年に一度程度は起こるもの、100年に一度程度は起こるもの、数百年に一度程度起こりうるものなどの程度に応じた対応策を「想定」し、それぞれに応じた対応を準備しておくのが行政の義務だと思う。
 特定の限界をもうけてでも、一刻も早い、そして災害にも耐える街づくりをして、直ちに対応方針は定められなければならない。そこの明るい暮らしを復旧するためには、数年に一度クラスまでの津波防御策を良く調べ、それらに加えて台風、高波などへは安全な機能を復活させ、まずその対応策を立てるべきだ。そして一生のうちに一度あるかどうかわからないそれ以上の大津波に対しては、避難体制をしっかり固め、避難道路の整備をするなどの順部が求められるだろう。加えて、老人や子供など避難弱者には、それ以上の事態がやってきて、万一彼らが不幸に流されても、攻めて命だけは安全なライフジャケットなどを要所に配備して、一日でも早い復興を期すべきであると思う。



 今回の大津波に際しても、調べてみると、海面からはそれほど標高は高くないところでも、被害に遭わなかった地域も多い。昔からの神社などが多く被害から免れて残っているし、古い集落が新しい住宅より津波の被害が明らかに小さい。津波の跡をつぶさに見ると、我々の知識は、先祖たちの知識にはるかに及ばなくなってしまっていたことを痛いほどに知らされる気がする。先祖たちの歴史には、その長さ故に蓄積された知恵が込められている。日本人は最近、身近にあるもの、郷土の歴史がかたりかけようとしているものを無視して、西欧科学知識にのみ依存して、それらの語りかけるものを無視しすぎたのではないか。
 対応策には、そんな我が国の歴史の知恵も生かすべきだと思う。
 また今回の津波では、津波による水死者が他の死者に比べて圧倒的に多かった。それらの死者を増やさない最も簡便な方法は、ライフジャケットの活用である。ライフジャケットというと首をかしげる人も多いと思うが、あの飛行機や船には座席の数だけ用意され、それをつけていれば水が来ると自然に膨れて水に浮き、しかも頭が水面上に出て、装備されている無線機で数日にわたり浮いている場所を発信続け、救助の人に救助を促す。これを装備していれば、8割9割の人が助かることは統計的に確かめられていて、しかも費用は一着当たり数千円の代物だ。これを学校や病院、養護施設をはじめ各家庭に装備しておけば、命だけは助けることができるのではないか。
 他にも、災害ごとに様々な工夫も浮かぶことだろう。
(次回に続く)


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