葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

斎藤吉久「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか」を読んで

2009年02月13日 20時19分56秒 | 私の「時事評論」
「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか」を読む

 天皇制度は諸外国の王制度とは全く違う出自を持っていて、しかも外国王制とは比較にならぬ歴史を持っている。天皇に関しては、私の事務所から出ている葦津珍彦(あしづうずひこ)の「日本の君主制」が、現代人にも理解し共感できる論によって明瞭に論証しているが、一番の特徴は、諸外国の王が、民を権力的に支配した覇王の後裔であるのに比べて、天皇は国民のためにひたすら己を捨てて祈り、祭りを行う祭祀王として二千年以上の歴史を歩んできたという独特のもの、その結果、国民の信頼の蓄積の上にあることだろう。
 しかし、そんな日本の日本らしい個性である天皇のまつりが、今危機にさらされているというのが、この斎藤氏の主なテーマである。何かのことがあるたびに、なんと天皇のお世話をする立場にある宮内庁によって、天皇のまつりがどんどん簡略化され、天皇の基本となる性格が歪められてきているという報告が生々しく語られている。
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 どうしてこんなことが平然と進められているのか。それには敗戦での米国占領時代の日本の従来の憲法を廃止させ、米軍が作った憲法を採択させたことが、きっかけとなっている。米国は日本を占領すると直ちに日本に対して彼らが作成した新憲法を採択することを迫った。それは日本が今後、国として発展していくことよりも、外国から攻撃されても反撃はしない、国が一つにまとまることができないようにしようとの目的をもった憲法で、国の制度を固める基本法というよりは、政府が活動することに制約を付した占領基本法のようなものだった。米国の軍事支配がどんな性格のものなのか、ベトナムやイラクなど、その後の米国の占領行政を知る者にはそれは容易に理解できるものだろう。
 天皇のまつりの話なので、憲法の欠陥に関してはここではこれ以上ふれないが、米国には当時日本が、国民の頭の中を狂信的に変え、死ぬまで戦わせる特殊な宗教である神道が支配する国で、その神道が権威を振るうカルト集団国家と映っていたようだ。日本人にとって迷惑この上もない偏見だが、こんな偏見に基づいて憲法に天皇条項を定めてしまった。そのため天皇の第一のお務めである「民のために祈る行為」は国事行為の中にも入れられず、しかも政教分離の原則は歪められ、日本では神道だけは、アメリカや諸外国のキリスト教、回教や仏教の国の儀式のように、国の儀式の場で使うことも許されずに追放された。その上に政教分離は神道だけを排除するものと解釈させる独断的な洗脳教育までを行った。私は神道の信者だし、神道こそ世界で最も穏やかな生き方を示していると信じているが、いやはやとんだ濡れ衣を着せられたものだ。
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 そんな恐ろしい環境を、その後も日本に定着させてきた力は、占領行政による公職追放の嵐の中で、新たに政治の推進役になった進歩派といわれる人たちであった。彼らは先輩が再び力を盛り返せぬように、スクラムを組んで力を保持し、マスコミや官界、教育界などに、占領解除後も占領当時と同様に、米占領軍のかつての方針そのままに、日本を維持することに力を入れた。例えば公務員試験、役人登用で圧倒的に力を持ったのは東大で、その中で憲法を教えたのは戦時中日本の暴走に理論的な根拠を与えた宮沢俊義氏だった。彼は誰よりも激しく戦前の解釈(それは宮沢氏が中心になって建てた論)を批判し、彼の法学を学んだものが、戦後の公務員の主流となり未だにその地位にある。宮内庁ももちろんそうである。
 新憲法には天皇第一のお勤め、「ひたすら民のために祈る祭り」の規定は外されている。しかも個人のためではない公の天皇のまつりと、個人救済のための祈願とを性格的に別のものとすることすらしない。そんな中で宗教儀式と宗教活動、どちらも憲法に出てくる用語だが、その二つの厳密な区別もなくそれを運用する。こんな乱暴な行政が行われてきた結果、ますます天皇の祭りは役人たちにとって、無用で混乱を招く前世紀の遺物に見えてくる。まして現代の日本人はすべからく底が浅く、欧米礼賛一辺倒の風潮があり、日本人の心の中に育まれてきた大きな力に対する敬意などは薄い。だが、祈る天皇が祭りから遠のくに従って、日本の皇室と諸外国の王制との区別もあいまいになってきて、天皇制度も底の浅いものになりかねない。
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 陛下のお祭りの着々と進む簡略化は、斎藤氏のデータを積み重ねた記述によると、昭和時代から進められているが、特に陛下のご高齢やご病気によるご公務の簡略化が大きな影響を持っている。そんな時にほかのお仕事よりも優先しておまつりが減らされたり簡略化されて、それがその後も復活されないことになる場合が多いという。陛下のご高齢化など、やむなく祭祀が一時的に簡略化される面は避けがたいこともあろう。だが、なぜそれが条件が変わったり新帝が即位されても御復古されないのか、そこに考えなければならないものがあると思っている。
 天皇の祭りは、陛下が陛下として行われる伝統的国民のためのお祭りであって、宮内庁が廃止や変更などを陛下に先立って決めることのできる性格のものではない。天皇には政治を超えた文化、社会、国民生活、精神面などはるかに広い国民的な広がりがある。他方お世話する宮内庁は官庁にすぎない。政治や憲法に取り決めた内容は、政治的に裁量できてもそれ以外のものが皇室にはある。政治は天皇の一部門にすぎない。宮内庁は、政府の官庁であるとともに皇室の仕事をお世話する下部機構でもある。宮内庁はそんな広い面でも天皇のお持ちになる働きを知って、その妨げがないようにお世話をしなければならない。
 もう一つ、これは民間への要望もある。天皇を崇敬する国民や団体は、当面する陛下のご公務削減により陛下のお祭りに一時は影響があっても、それは暫定的なものにすぎないとの宮内庁からの確約を得て監視するぐらいの運動は当然すべきなのではないだろうか。陛下のお祭りは大変なお務めであると聞く。だが、それをどうやって維持していくのかは、宮内庁の判断だけで決めて良いものではないと思っている。
 斎藤氏の本からは少し外れたが、何としても大切なことと思ったので一筆書きくわえておこう。
 参考、同書は並木書房よりいま発売されている。

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1 コメント

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天皇の祈りはなぜ簡略化されたか (東光大威)
2009-02-23 16:44:31
私も斉藤吉久著「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか」を買って読みました。
「稲作をなさる世界で唯一の君主」と云う事から、天皇陛下の祈りの本質を説明されている事に共鳴しました。
ミーハー週刊誌や皇太子妃をめぐる問題等を報じたマスコミの書き方に、奥深さの無い、売らんかなの姿勢を感じて居ました。敢えて云えば、「皇太子様への御忠言」を書いた西尾幹二先生の文章にも、物足りないものを感じていました。それが、斉藤さんの本で、物足りなさが解消された思いです。
勿論、葦津先生の文章にも共感致して居ります。
今後とも、警醒の文章をお書き下さるように、期待しています。
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