葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

天衣無縫 -私の祖父の思い出 1

2010年07月12日 13時07分34秒 | 私の「時事評論」
①家風というもの

 我が家には「家風」といったものがある。そう書くと封建時代そのもの、世界遺産の生き残りといったようなカビ臭い奴、役に立たない骨董品を崩れかけた裏庭の土蔵から持ち出してきたようなおかしなことを言っている奴だ。お前それでも正気か、現代人として生きていけるのか、そんな眼差しで私を見る人が多いかもしれない。

 だが、私は正気も正気、まともな話をしている現代人のつもりでいるのである。

 日本中、どこに住んでいる者も、ほとんどは家庭で育ち、社会へ巣立っていく。その家庭には必ず個性というものがある。「俺はそんなところで育っていない。ごくごく当たり前の普通の家で育った」といわれるかもしれない。だが、いくら普通といったって、それぞれの家に特徴がある。特徴がない個性のないものなどは存在しないのだ。そこで成長したからには必ずその影響が身に付く。独特の体臭のようなもの、それを私は家風と呼ぶ。
  家に生まれ家族と暮らし、大きくなるにつれ、どうも自分がほかの人と、く似ているがどこか違うと気になり始めたのは、小学校に入ってから、今までは接点を持たなかった友人がたくさんでき、友人がそれぞれ少しずつ違っているのに気付いてからだった。それは育った家の匂いのようなものだった。

②島流しの流人の子

 私の祖父は、私の就学前に既に幽界に去っていたが、祖母や父からよく我が家の先祖の話を聞かされた。先祖は福岡県の筥崎宮という神社の神主をやっていた。かつては全国八幡宮のご本家である大分県・宇佐神宮の神主だったが、ここ筥崎にその御分霊がまつられる足利時代についてきて、いらいここの神主になった。
 だが、徳川時代になり、徳川幕府の政策で仏教寺院が今の市役所のような役目を果たすようになり、住民の戸籍なども寺の台帳が用いられるようになると、寺の勢力が強大になり、神社にも僧侶たちが入ってきて取り仕切るようになり、神社のまつりもお経をあげて香をたく仏教風に変わっていった。それに我慢がならず、昔ながらのまつりに戻そうとしたのが幕末の我が家の先祖であった。

 仏教の輸入された「唐(から)ごころ」に汚染されず、皇室を中心に日本で育った伝統の姿に神社を戻せ」という新しい学問は、賀茂真淵、本居宣長などが生みだした江戸中期の「国学」という日本で初めての国産の神道学でもあった。そんな新しい学問の影響も彼には強かったが、幕府は神主がこんな学問をして、幕府の仏教政策に反して独自の動きをするのを禁じていた。幕府には日本独自の精神や学問を深めることよりも、仏教利用の便利な行政を重視したからである。
 それを無視して、昔ながらの神社の祭りを復活したい、皇室のまつりと相通ずる神道のまつりを復活したいと活動をして京都にまで行き、幕吏につかまり唐丸かごに入れられて連れ戻され、座敷牢に入れられ、それでもまた、「神さまのことだ、止めるわけにはいかぬ」と活動をして捕まり、今度は島流しになり、島で死んだのが私の祖先だった。幕府も尊皇のまつりに復活させたいと活動したからといって、打ち首にするわけにもいかぬ。島流しにしてからも、「詫びたら釈放してやる」と説得したのだが、「俺は神主だ、神さまへの信仰に妥協はない」とこれを拒否、ついに島流しになったままで一命を絶ったのだった。

 もちろん、わが一門は断絶した。私の先祖は彼の弟だったが、封建時代の掟だ。連帯責任を取らされた形で家屋敷財産すべて没収、神社の仕事ばかりではない、村の付き合いからも放逐された。家にいた二人の男の子(数え12と3歳)兄弟、母親に生まれたばかりの女の子がいたのだが。
 二人は両親、特に母から「伯父は決して間違ったことをしたのではない。いつの日か家を再興して、筋の通った神社にせよ」と日々教えられ、川に捨てられた野菜や、海で打ち上げられた海草などを食べながら、それでも病気の父を抱えて、歯を食いしばって働きながら勉強した。そして兄は大阪に出て幕末から明治にかけての屈指の大商人に出世、弟は勤皇の志士として活動ののち、明治維新ののちに、再び筥崎宮の宮司に返り咲いた。波瀾に満ちた生涯だったが、二人は力を併せて無念だった両親、先祖たちの汚名をぬぐった。

③男の生きる道とは

 こんな日々を繰り返したのが我が家の先祖である。資料も結構残っている。我が家では正月に、雑煮の前に先ず一家そろって大根の葉のかゆを食べる。流人とされた先祖たちは、少年の拾ってきた河原の大根に切り捨てた葉や、近くの海岸の海草などのかゆを食べ、歯を食いしばって自活しながら家の復興に全力を注いだ。その志と執念を子孫は忘れないために必ず食べることになっている。
 これが家風の基なのだ。家風は生きている。家再興の二人の兄弟、その弟が私の曾祖父だ。その子、私の祖父はそんな弟(筥崎宮の宮司)に育てられ、その兄(大阪在住の明治の大商人・政治家)に子供のように可愛がられ、浪人をしながら生涯を尊王攘夷の実践に打ち込んだ。耕次郎も二男で、兄が父の奉仕する筥崎宮を引き継いだので、生まれながらに心の中に膨れる情熱を抑えることのできない彼は、無類の敬神家であったが、野にあって兄を助け、全国の神社を盛り上げようと一生を過ごした。この前に当ブログに書いた私の祖父、耕次郎がその人である。

 祖父は情熱のほとばしるままに行動し、悲しんだり苦しんでいる人のことを思っては、それが知らない人、隣国の民であっても涙を流し、これこそ人道的な方針であると思えば、例え首相や大臣であっても直接訪問しては情熱的に道を説く直情一本の男だった。

 日本が朝鮮を領土に組み込み、そこに朝鮮神宮を立てようとしていると聞くや、そこに日本の神々をまつろうとしているのに反対し、
「朝鮮の人には朝鮮の大事な信仰がある、その神々をまつるのこそが友人としてのとるべき道だ」
と、全国の神社に奉仕する神主さん方の同意を取り付けて直接政府にお容認に説得したり、日露戦争が近いと感ずるや、お札を持って連合艦隊のひそかに集結するさせ歩に行ったりした男だが、そんな話しは次に譲ろう。

(続く)
上の写真は先祖が流島死した玄界灘の一孤島

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