程なく僕達は神宮橋のたもとにある歩道橋の上に二人立っていた。
「研究所から逃げてくるときここを渡ったの覚えてる?それでふと思いだしたんだ。見間違えじゃなきゃいいけど」
ふいに起こる強い風にマフラーをなびかせたアキラが帽子を抑えながら言う。とにかく僅かな可能性に望みをつなげるしかない。欄干の上に視線を滑らせるように眺めていくと僕はそれを見つけた。
「…どう?」
足を止めたところでアキラが追いつく。あった。間違いなく同じ文字だ。
「まだだ。まだ上書きされていない…」
「じゃあ、モノくんがここに来るかも知れないってことだよね?」
「ああ。そう思いたい」
今は少しでも安心できる理由が見つかれば、明日の朝をどうにか迎えられる。アノンにも悪いけど、それ程に今の僕達は無力だった。とにかくトトの無事は明日までつないだ。もう一人、アノンはどうだろうか?ウケイの言葉を信じるならあと一週間アノンをやり過ごさせなければいけない。トトの行方を追いながら、だ。
帰ると、アノンはきっとウケイ先生と同じに椅子に寄りかかりぼんやりと机の上の写真を眺めていた。僕達はその中の一つに両親と生まれたばかりの自分がいることを告げずにいた。アノンも既に知っているだろう。コートに浮かんだ雨粒を払いながら僕は
「アノン…あったよ。新しい『ゆらぎ』がな」と言った。
「…トトが…」アノンが答える。
「…ああ。でも、まだ上書きされてないところがあった。まだ時間は残されてるはずだ。何とかして助けなきゃいけない」
「…うん」
きっとここを訪れた患者と同じに、ポールになったハンガーにコートかける。
「アキラは?アキラはどうするの?」アノンが聞く。
「もちろんトトちゃんとアノンちゃんの無事を見届けるまでは付きあうよ?」
「…そう」
アノンは何かに迷ってる
「僕達は何ができるだろうな…」
僕は独り言をつぶやいてすぐ近くの診察用のベッドに勢い良く腰掛ける。そして沈黙。アノンの身を守るにしても、ここで隠れていても何も始まらない。トトを見つけるためにはいずれ危険をおかさなきゃいけない。僕達はどうすればいい?思案にくれていると、
「…私、歌いたい」アノンがうつむいたままそうつぶやいた。
これが物言いたげな態度の理由だ。アノンの膝の上で固く結んだ手が震えていた。
「…シルシ、私歌いたいよ。最後になるかも知れないから…これ以上マキーナが歪められてくのを見てられないよ」そう言って僕の腕にすがる。
「アノン、それだけは駄目だ」
「それに私探してる人がいる。もう見つからない。シルシ、その人は、マキーノは私達の最後の一人なんだよ?」
「…アノン、違うんだ」
「なんにも違わないよ?デウ・エクス・マキーナにだって転写してる。マキーナを助けだした男の子のアンドロイド。マキを助けだして逃げたもう一人のレシピエント。なんにも違わない。全部ちゃんと伝わってる。だから…」
僕はアノンの手を掴んで離すと、身を屈めて彼女の目を水平に見つめた。
「アノン、聞いてくれ。確かにマキは一人で逃げたんじゃない。それは間違いない。でも、助け出したのはマキーノじゃない。そこが違うんだ…」
疑いとして浮かんできた存在の名。ウケイ先生も決して告げなかったその一人。恐らく彼は知っていた。そして僕もあの『ゆらぎ』で確信を持ったその少女の存在。
「じゃあ、誰だって言うの?」
アノンが聞くから、僕は初めてそれに答えた。
「ヤエコだ」
「…え?」
「お前が探していたのはヤエコだったんだ…」
そう言うと僕は立ち上がって、すぐ近くの診察用のベッドに腰掛けた。
「そんな…」
アノンは言葉を失ってる。それはそうだ。彼女がスフィアでやってきたことの意味を今なくしたんだから。むしろウケイ先生が自らそう教えたのかも知れない。
「僕の『周知活動』と同じさ。嘘を支えにして、今ここじゃない何かを信じてられたんだ。ウケイ先生に感謝しなきゃな。しかもそれで研究所の闇をも葬ることができるんだ。先生にとってもこんなにいいことはなかったんだ。僕達は使われたんだよ」
僕はそう言ってため息をついた。だから、僕の前に立ったアキラに真っ直ぐな目で
「シルシ君、説明して?」と言われた時自分を少し恥じた。アキラが僕の隣に静かに座る。それからアノンに向かって
「知りたいのよね?アノンちゃん」と優しく問いかけると、アノンは黙ってうなづいた。
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