Are Core Hire Hare ~アレコレヒレハレ~

自作のweb漫画、長編小説、音楽、随想、米ラジオ番組『Coast to Coast AM』の紹介など

053-そして研究室へ(後後編6)

2012-11-26 22:24:29 | 伝承軌道上の恋の歌

「父さんが…しかし、なぜ?まるで分からない…だってヤエコはあの時すでにレシピエントが既にみつかっ…」
 そう言いかけて僕は脳裏に浮かんだものに口を遮られた。そうだ。思い出した。あの夜の一月程前に彼女のレシピエントが決まったという知らせを受けたことを。そしてその提供者が今は誰のことだか分かる。その彼女がここを逃げ出す訳も、父が彼女を見つけ出し殺そうとした訳も。そしてヤエコが死んだ訳も間違いなく彼女に深く関わっている…
「…それ以上は言うな、シルシ。考えてもいけない。ただ、懐かしむだけのためにある過去だ。太一も自ら死を選ばざるを得なくなった本当におろかで凄惨な計画だったのだ。君もつらい思いをするだけだ」
「…くそ…クソッ!」
 僕は思わずヨミの顔がのぞくカプセルを思う様に殴った。
「シルシ君…!」
 アキラが僕の腕を両手で掴んで止める。
 あいにくカプセルは一度かすかに振動を表面に伝えただけで、中のヨミはただ静かに目を閉じていた。
「さあもう時間だ。もうすぐやつらが来る」
「やつら…?」
「ああ。ヨミの父親とその取り巻きさ。このヨミに会いに来るんだ」
「教えてください。ヨミ、それにイナギはどうしてあんなことを…」
「その話は今度にしよう。あれは本当に計算外の事象のほつれだったのだから」
 やはりイナギの行動はウケイ先生にも予想がつかなかったらしい。
「…先生もういっちゃうの?またボク達の知らないところに?」
 そう言ってアキラはウケイ先生の腕にすがる。
「ああ。最後にアキラ、さあもうお別れだ」
 そう言ってウケイ先生はアキラを引き寄せる。
「先生、やだよ…」
 アキラは力なくそう嘆くと背の高いウケイ先生の肩に手を回して声を震わせた。だんだんとそれは嗚咽が混じり、ウケイの背中にすがった両手が白衣のシワを深くしていく。ところが。アキラが一瞬、「…あ」と声をもらすと力なく手を解くとそのままその場に力なく倒れこんでしまった。
「…先生?」
 アキラは何が起こったのかも分からないまま倒れこんで意識を失った。ウケイ先生の右手には小さな注射器のようなものが握られていた。何が起こったのかも理解できないまま戸惑っていた束の間、ウケイは倒れたアキラを乗り越え信じられないくらいに素早く僕に飛びかかり、厚手のセーターを貫いて肩に鈍い痛みを与えると、容器に残っていた溶剤を全て僕に流し込んだ。
「…ウケイ先生…あなたは」
 みるみる全身の力が抜け、どうにかウケイ先生の白衣の袖にしがみついていた片腕もあえなく崩れ落ちた。
「とにかくシルシ、お前が来てくれたことは好都合だ」
 好都合?そうか。いずれ僕もアノンと同じようにここに連れ去られる運命だった。それならどうかアノンより僕を先に生贄にしてくれないだろうか。もう疲れたんだ。寝る前にいつも練習してた。このまま二度と目覚めることなく終われるならそれもいいと。アキラ、巻き込んでしまってすまない。トトは…トトがちゃんと段取り通りしてくれれば、たぶん大丈夫だ。薄れ行く意識の中でわずかに開いた僕の瞳にウケイ先生が携帯電話を取って何かを話しているのが見えた。
「…ええ、手はずは整ってます。はい。そういうなら是非いらしてください。証拠をお見せしますから…」
 駄目だ。外界と僕をつないでいた細い糸もそろそろ途切れようとしているのが分かる。と、わずかに残った皮膚の感覚が耳元に人の気配を伝えた。『アノンを連れて早くここから逃げるんだ。そして一週間アノンを守れ』確かにそれは僕に伝えた。『あの夜のヤエコとマキのようにうまくやるんだ…』

…つづき

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053-そして研究室へ(後中編5)

2012-11-25 21:54:00 | 伝承軌道上の恋の歌

「これは…」
 見えたのは灰色の波打った髪と、透き通るように白い肌、それに眠るように穏やかな表情をしてる。ガラスの向こうに覗くなめらかな肌の裸体は人のような人形にも人形のような人とも思えた。
「アキラ…誰か分かるか?」
「…ヨミ…ヨミで間違いないよ」
 アキラはそう答えるのに少しうろたえた。この絵空事のような事実を自分の言葉で定めてしまうことへの恐れを感じていたんだろう。
「ああ、その通りだ。ヨミは…生きてるんだ…あのポンプも全て、この研究所のシステム全てがヨミの身体の一部なんだ。これがあの温室の秘密だ。ごく一部のものをのぞいて職員たちにも、そして君の父親にも明かしたことはない。地球の寒冷化対策も太陽フレアからの生存戦略も、未来のリサイクルシステムも自然エネルギーによる自主電源の確保も全て方便さ。この装置を作るためのものだった。そして…」
 ウケイ先生は大きく吸い込んだ息を自分の胸にこみ上げる色々な感情を洗い流すようにゆっくりと吐いてからこう言った。
「…そして、これがデウ・エクス・マキーナの真実なのだ」
 デウ・エクス・マキーナ。まさかその言葉をウケイ先生の口から聞くことになるとは。
「この装置の以前の住人がアノンだ。アノンはこの研究所のための実験体でありレシピエントだった。本来ならある程度成長したところであらかたの臓器を奪われ、そのまま死んでしまうはずの運命だった。しかし、私はそうしなかった。いつかまたこの子が自らの力で生き延びられる日が来ることを願い私は生かし続けたのだ」
 それで僕は悟った。
アノンが何故記憶を持たないのかを。アノンは長い長い夢を見ながらこのカプセルの中でひたすら命をつなげていた。僕と同じ運命の元にいながら、僕はその研究者の死んだ息子の代わりに偽りの子となり、彼女は身体をバラバラにされて半ば死の淵で命を紡いでいたとはなんと皮肉な関係だろうか。
「僕達のような人間は…あの死んだ女の子の他にもいたんですか?」
 そう聞く僕の声は震えていた。が、ウケイ先生はそれに応じない。
「私はアノンを生かした。不思議に思うだろうな。人の命を弄んだ私が今更そのような感情に目覚めたというのも。それは単なる私のエゴだ。それ以外に説明のしようがない。しかし、この装置は彼女が自由を得たちょうどその頃に次の住人が決まった。まるで図られたようにな」
 そもそも何故アノンがここから出られたのか。それは誰かの犠牲があったからだ。ウケイにそれができた時といえばあの『事故』をおいて他にない。そして僕は二人の女の子の姿が脳裏によぎった。
「その次は…まさか…」
「ああ。あの夜に死んだ少女だ。私達は『マキ』と呼んでいた。しかし彼女は前と後の住人とは事情が違った。彼女は不可逆的に『死んでいた』。ただ、循環器を回し続けてそのみずみずしさを維持させていた。しかし、私は思うのだ。あそこに入りながら、マキは夢を見ていたのかも知れない…それがこの騒ぎを起こしてる。私はそう思うのだ。驚くほど忠実にこの研究所にまつわる私達の物語をメタファーしていた。デウ・エクス・マキーナ。機械仕掛けの神。私もヨミに教えられて最近知ったのさ。本来の語義はともかくとしてなかなかに本質を得たネーミングじゃないか」
「その彼女は…今…」
「ヨミが危機に陥った。だからマキの代わりにここに入れた。ヨミはいわば遅れてきた最後の患者だ。…もう素材はなかった。ヨミは遅すぎた。間に合わなかったのだ。あの部分は、アノンのために…もう随分前に彼女に使ってしまった」
「…」
「ああ、シルシ…お前を生かすためにも身体を使った…ヤエコの身体を提供した」
「…そんな」アキラがつぶやく。
「アキラ、勘違いしないで欲しいのだが、ヤエコはシルシのために死んだのではない。その前から死んでいた。シルシが事故に遭う前にだ」
「…そうです。その事実から逃れるために僕は周知活動をしていたようなものですから。ウケイ先生、僕は初めてこの問いかけをします。ヤエコはなぜ、どうやって死んだんですか…?」
 ウケイ先生は黙っていた。その代わりにヨミの顔に触れようとするかのように手のひらをなめらかなガラスの表面に這わせた。
「それは私にも分からない…ただヤエコは自ら命を絶ったのだと聞いた。少なくとも太一はそう言っていた」

…つづき

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053-そして研究室へ(後前編4)

2012-11-24 22:21:28 | 伝承軌道上の恋の歌

 そこは異様な空間だ。部屋の中央にある巨大なカプセル状の装置と、そこから伸びているおびただしい数の配線とポンプの類。木が根を張るように部屋の壁につたって伸びている。が、見ているうちに人の肌から浮き出て見える血管にも思えた。有機的な無機質。それはまるで…
「ここはいわば私の個人的なラボだ。もとは薬品などの管理室だったものを、改造したんだ。ここの職員だったものもこの存在を知るものはほとんどいないだろう。地上にある温室はここの存在を隠すためのものだったのだ。さあ入りなさい」
 ウケイ先生に促されるままに僕はアキラの手を引いて、部屋の中に足を踏み入れた。そこはちょうど温室の広さと対応しているようで、さほどの大きさはなかった。もう一度自分を確かめるように周りを見渡す。しかし、ここに抱いた最初の印象はなおさらに強烈に頭の中で繰り返した。
「『伝承軌道上の恋の歌』のPVみたい…」アキラがつぶやく。
 そうだ。確かに今僕たちの前に広がる光景はまさにそれを連想させてしまう。僕を含めて研究所の関係者にすら秘された空間のはずだ。アノンがいつか言ったように『転写』したというのだろうか。しばし立ち尽くしていると、ふと空調だけが響く静寂に混じって微かな気配がした。あたりを見渡す。僕はある一点で目をとめた。それは片隅に顔をうずめてうずくまっている、人の姿だった。女の子に間違いはない。長い髪が身体を這って伸びていた。異様な部屋の中で、そこから逃れようとしているように身じろぎせずに片隅で身を丸めている。ワンピースに見えるのは白い病衣で、光が八方から反射して影すら落とさないせいからまるで幽霊だ。
「…アノン」
 そう僕が声をかけると、女の子はゆっくりと顔を上げる。やっぱりだ。アノンだ。やっと会えた。アノンは僕の顔を確かめると、それまで曇っていた顔が安堵で緩んでいく。別れてから数日なのにその顔はひどくやつれて見える。窪んだ瞳が泣きはらしたように赤くなって周りが腫れていた。それから力なくよろめきながら立ち上がる僕にすがって何事か必死で僕に語りかけようとする。
「どうして逃げ出したり…」
「…あ…あ」
 でも、うめき声のようなかすれた息が漏れるだけで、それは声にならない。
「…アノン、落ち着くんだ」
 僕はアノンの両方の肩を強く握ってアノンをどうにかなだめようとした。
「アノンちゃん、声が出ないんですか?」アキラがウケイ先生に聞く。
「…ああ。心因性のものだ。強いショックを受けたから」
「先生、アノンは一体…!?」
「あ…」
 アノンは何か声にならない声で僕に訴えかけようとしている。その唇は何か短い言葉を繰り返していることに気づいた。
「何が言いたい?アノン」
「…ヨミ…ヨミ、ヨミだな?それでヨミがどうしたんだ、アノン?」
 僕の言葉にアノンは強く頷いた。なおも何かを告げようとするがしかしかすれた空気がわずかに喉から発せられるだけで、はっきりとした音にならない。強く握った僕の腕は急に力を失って目がうつろになってその場に倒れこんでしまった。
「アノン!」
「アノンちゃん!」アキラが叫ぶ。
「…大丈夫、緊張が解けて気を失っただけだ。ここに来てから一睡もしていないようだったから。そこに寝かしてやるといい」
 ウケイ先生はそう言ってここの雰囲気には場違いに佇むベッドを指さした。
「なぜアノンがここに?」
 アノンを横にした僕は背中でウケイ先生に聞いた。罪のないアノンをここまで追い詰めた理不尽さに怒りに近い感情がこみあげてくる。
「彼女だ…彼女のためにだ」 
『彼女』ウケイ先生はそう言いながら、部屋の真中にあるカプセルにふれた。やはりあれは人を入れるための装置に違いない。よく見ると上部には見開きのように透明な部分があるのが分かった。それまで気づかなかったのは、天井からの強い光が反射していたからだ。ウケイ先生は僕達に確かめるように無言で促している。あのPVと同じならそこに眠るのはマキーナのはずだが、この現実では…
 恐る恐る近づいて二人で覗き込む。が、僕たちの顔が表面の形状通りに歪んで映し出されるだけだ。手をかざして光を遮ると一瞬そこには若い女の顔らしきものが覗いた。

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053-そして研究室へ(前中編2)

2012-11-22 22:17:50 | 伝承軌道上の恋の歌

「この研究所の所長でありシルシの父親である太一には二人の子供がいた。奥さんも彼と同じく研究者だったが、実験中の事故が元で早くに死んでしまった。太一は大いに嘆いたが、悲劇はそれだけではなかった。彼女の忘れ形見である二人の子供にも重大な遺伝子病を患っていたのだ。それは我々にとってまるで未知のもので、症状が出始めると見た目にこそ分からないが急激な内臓疾患を伴い死に至る。処置が遅れた長男は三歳で死んだ。その彼らの症状が我々の研究によってもたられたものである疑いが出たのはまだ少し後のことだったが、それはまた別の話だ。その時生まれたばかりの妹ヤエコも心配されたが幸い息災に見えた。しかし、太一が恐れていたことは現実となった。ヤエコがちょうど十歳の時、兄と同じ兆候を見せ始めたのだ。対処はしたが、それには過酷な処置が必要だった。定期的な透析や血液の入れ替えが必要だったのだ。生かすことは可能だが、しかしこれではいずれ死んでしまう。大規模な臓器移植をしなければならない。それでも生き延びられるかは分からなかったが、ヤエコの体力が持つ年頃までどうにか持ちこたえて最後の望みにつなげるしかなかった。このことを太一はごく限られたものにしか打ち明けなかった。未知の疾患に対する彼の研究者としての功名心もしくは自尊心のようなものだったのかも知れない。長男が死んでから我を忘れたように太一は研究に没頭していたからね」
「ウケイ先生、そのヤエコちゃんのお兄さんって…」
「シルシ…と言った」
 ウケイ先生が答えたのはたったの一言だった。しかし、これから彼によって語られる事の顛末を予感させるには充分だった。
「ここで研究所そして太一はもう一つこの大きな秘密を抱えていた。もともと彼は臓器移植に関しても造詣が深かったが、何より彼の独自のルートによる上質で新鮮な臓器を提供することでこの研究所は業界でも一目置かれていた。一体どこからそれらを手に入れることができるのか?ES細胞幹による臓器生成を完成させてると囁かれたりもした。事実、私達の研究はそのためのものだったから。しかし、それは深い深い闇だった。彼の息子が死んでいく少し前、すぐに太一は亡き息子と同じくらいの、どこか異国情緒を感じさせる男の子を連れてきた。聞けば身寄りのない子供を引き取って養子に迎えたのだという。これで妻やヤエコも寂しくはないだろうと」
「…その子が『シルシ』君…」アキラがうつむいたままつぶやく。
「その通りだ。彼はどこから引き取ったのか?そして何故?知る由もなかったが、あえて深く聞くことははばかられたのだ。彼は過酷な運命を持て余したが、部下とは言え親友の一人のつもりであった私自身もそうだった。全く知らなかったといえば嘘になる。しかし、関わらなかったのだ。あの太一が死んだあの事故が起こるまでは。そして私は衝撃的な真実を知った。彼は異国の闇社会より人身売買で買われた人間から取り出された臓器を手に入れていたのだ…」
「…そんな…」
 アキラが小刻みに震えている。
「でも、それならなぜ僕は無事だったんでしょう?」
「正確な時期は定かではないが、太一の闇を知った奥さんがそれをやめさせたからだ。シルシのために死ぬ目的で連れてこられた異邦からの遺児はそのために助かり、亡き妻の意向に従い彼を養子にした。戸籍どころか書類上は存在すらしない子のために自分の息子と偽ってね…シルシ、君はそのことに薄々気づいていた。そうだろう?」
「ええ。首元の番号も僕の顔立ちもあまりに両親やヤエコとは違っていましたから…」
 そして僕の顔はどこかアノンと同じだ。今ならそう言える。
「話を戻そう。しかし、太一は恐れていた。ヤエコがいつか息子と同じ病気を併発するかと…果たして恐れていたことが起こった時、太一は再び悪魔の手先となって材料となる女の子を手に入れた。家族で一人残った娘のヤエコのために、ね」
「それがアノン…ですか?」僕は聞いた。
「いや違う。アノンはその前から、『シルシ』より前に『ここ』で生まれた。アノンではない、別に女の子がいたのだ」
 そこでアキラはハッとして思わず声をあげた。
「それがあの事故で死んだ女の子…!」
「そうだ。その子はヤエコの手術の直前になって逃げ出したんだ。太一は血眼になって探したさ。彼女が逃げられるのはヤエコの命にも、そして彼のみならず研究所自体にも危ういことだったから」
「じゃあ、その女の子を轢いたのって…殺したのって…」
「ああ、その事実を永遠に闇に葬るためだ」
「…そんな」
 アキラはあまりのことに言葉を失っていた。

…つづき

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053-そして研究室へ(前前編1)

2012-11-21 23:01:43 | 伝承軌道上の恋の歌

 翌朝、ずっとタクシーから見慣れた車窓が流れるのに僕達は黙って従っていた。ロボットのように無言の運転手に連れられて両脇のドアは自動で開いて僕達は降りた。重い足取りで立つ、その場所の先にある眼の前の構造物は決定的に断定的に現実を歪めて在った。
「この前来たばっかりなのに今日は特別懐かしいね」
 アキラが初めて口を開く。
「僕にはまるで違って見えるよ」
「大丈夫。お互い何も変わってないから」
 アキラは笑うと僕の手を取った。
「誰かに見つかったら?」
「むしろ捕まった方がアノンに会えるかもしれない。でも大丈夫。無謀な賭けじゃない。トトには一時間以上連絡なかったら、動いてもらうように頼んでるから」
「…分かった」
 アキラはそれきり黙る。そしてゲート横の通用口のスロットにカードを通すとゲートが上がる。二人で重なって通れば何のことはない、あっけなく通り過ぎることができる。
「ほんとずさんだよね。実は誰でも出入りできるんじゃない?」アキラが言うと
「ウケイ先生に言わせると様式美なんだそうだ」僕は答えた。
 人影はない。が、気配は感じていた。アノンはきっとここにいる。確信をもって鍵のかかっていない裏口の扉を開く。僕達だけの足音が響くひっそりとした医療棟の廊下には複数の人の足あとがはっきりと見て取れた。
「…この足あとって…」アキラがつぶやく。
「ああ」
 間違いない。モノを襲ったやつらのものだろう。僕はその足跡の中にただ一つはぐれて伸びている足跡がある。それに導かれるように僕は歩を進める。
「どこに行くの?」アキラが不安そうに聞く。
 長らく閉鎖された研究棟に相応しくないあの『温室』、光の差す庭へ続いていた。スチール製の扉を音を立てないようにゆっくりと開けると、微かな物音と人の気配があった。
「…シルシくん、誰か居るよ」アキラが殺して僕にそう伝える。
「…ああ」
 それはガラスのドームの中で、ひだまりを一身にあびて立っている。少し丸まったこちらに背は白衣に包まれて、五十がらみを思わせる波打った灰色の髪が、光になびいていた。手元にはじょうろを持って、窓辺に並べられた花壇の花に水をやっている。どうやら彼が足あとの主のようだ。その一歩目を踏み出す前にも僕達は少しも戸惑わない。彼に向かっていく。そして僕を追い越してアキラがずっと早足になって。
 後ろ姿の彼が手を止める。こちらに気づいたようだ。しかし振り返ることはなかった。
「…シルシか?」
 大きくひらけたガラスの窓にうっすらと浮かび上がっている僕らとそしてその男の顔。
「…それにアキラ」男はそう言うと振り返った。
「…ウケイ先生!」アキラが声を震わせる。
「久しぶりだな」
 白いものが混じった口ひげの奥に隠れた口元が密かに笑う。目尻の少したれた穏やかな瞳には厳しく強い光が宿っていた。やっぱりウケイ先生だ。何も変わってない。
「どうしてどっかにいっちゃったんですか!ボク達ずっと探してたんだよ」
 アキラの声にはどこか甘えた響きがあった。
「どっかに言ったわけじゃない。ずっと見ていたさ。観測するたびにそこに世界が定まるのを感じながら、な」
「…また、わけわからないこと言って…良かった、ウケイ先生だ」
 感極まったアキラに抱きつかれると、ウケイ先生は優しく頭を撫でてやった。
「ああ。アキラは少し…いやだいぶ変わったな…女の子らしくなった」
「ははは。まあね。でもウケイ先生のお陰だよ」
 ウケイ先生は肩を抱いたまま優しくアキラを引き離すと僕を見る。
「…ウケイ先生。僕は…」
 精一杯の僕の声はかすれたまま彼に届いた。
「僕は間違えたんですか?」
「…」
 ウケイ先生は答えない。だから僕はもう一度聞いた。
「僕はどこで間違えたんですか、ウケイ先生?」 
 ウケイは
「どこまでアキラに話したんだい?」と僕に聞いた。
「まだ全部じゃないよ…」アキラが代わりに答える。
「アキラ、お前には私からちゃんと言っておくべきだった。そうすればもう少しシルシも楽になれたのだろうな」
「違うよ、先生。ボクの責任でもあるんだ。あれからずっと大変で、シルシ君がまた事故に巻き込まれたり、今度はまた誰かに殺されそうになってたり…」
「すまないな。この騒ぎは私のせいでもあるんだ」
「やっぱりウケイ先生、知ってる。それじゃボクだけ仲間はずれにされてたみたいだよ」
「しかし知ってしまったらもう無関係とはいえなくなる。それでも知りたいかい?」
「はい。覚悟はできてます」
 ウケイ先生はアキラをそっと引き離して傍らにあるカウチに腰を下ろすと、アキラと僕を隣に並べる。
「…では話そう」
 そう言って祈るように両手を組んでふとももに肘をついて背中を丸めた。その目はどこか定まらない遠くを見ているようだった。

…つづき

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052-帰ってくる場所

2012-11-19 22:09:38 | 伝承軌道上の恋の歌

 街の公民館の二階の多目的ホール。フルーツバスケットみたいに一つだけ置いてあるパイプ椅子にアキラは座っていた。ここにいるとほんの少し前のことなのにまるであの時の自分にすっぽりはまっていくのを感じる。もう何度目かに腕時計を眺める。月の第三水曜日の午後七時。それがセラピーの時間。空のパイプ椅子にはシルシとそれに来てくれてた人達。例えば、すぐに来なくなっちゃったけどイナギとヨミ。いつもこうやってシルシ君と二人でぼんやり待ってたっけ。約束しても来てくれない人の方が多かったから。今考えても狙いは良かったと思う。狙いは。ただちょっと経験不足だったし、もっと続けたら絶対に違ったはず。だから、こうやってひとりでもここに来てる。どうにかして二人で灯した火を継ぎ続けなきゃ。サイトだってちゃんとあるし、飛び込みオーケーだからいつ誰が来るとも限らない。
 と、重たい鉄のドアがゆっくりと開く音がした。思わず外行きの顔になって作り笑いができてる自分がアキラは可笑しく思う。でも本当に待ってるのは、たったの一人だ。だからアキラは椅子に座ったまま静かに顔を上げると、こう言った。
「来てくれたんだ?」
「…ちょっと忘れ物を取りに来たんだ」
 シルシはか細い声でそう答えた。少し見ない間に随分くたびれてしまったようだ。
「IDカード、アパートにおいたままでさ…」
 そう言うとシルシはアキラの正面に崩れるように椅子に持たれた。
「もちろん持ってるよ。自分のだけだけど、ほら…」
 アキラは傍らに置いたカバンから取り出すと印籠みたいに差し出して見せつける。
「…ああ、それだ」
「どうしてって聞いていいよね?」
 アキラの声が少し低くなる。
「…研究所にアノンがいるんだ」
「止めても行くんだよね?」
「ああ。アキラ、僕はもっと昔に死んでたはずの人間なんだ。だから全てを隠さなきゃいけなかった。だから『周知活動』をした。みんなに嘘を本当と信じ込ませた。アキラやトト、他のみんなにも…」
 まるでシルシはうわ言みたいに話し続けるから、
「大丈夫。もういいよ」とアキラが遮る。シルシのことは無理もないんだ。ほんとうに色々なことがあったから。ここまで彼を追い込んでしまった原因の一つは自分にある。
「このIDカード、生体認証で本人しか使えないのは知ってるよね?」
 だからアキラはそう言った。

…つづき(これまでの物語のまとめ・参)

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051-逃避行

2012-11-18 21:24:53 | 伝承軌道上の恋の歌

 僕は途方にくれて、電気街に紛れて店内においてあるPC端末を触っていた。夕日はまるで壊れそうになった半熟の目玉焼きのようにじくじくとした曖昧な形をしてる。店内においてあるPC端末を触り終わって外に出ると、アノンは惚けたようにショーウィンドウの前に立っていた。たくさんの液晶テレビがそびえて壁のように並んでアノンの顔をカラフルに照らしている。まばゆいほどに光るたくさんの画面にはマキーナのCGが洗脳みたいにシンクロして同じ場面を写していた。
「…アノン?」
「うん?泊まれそうなところ見つかった?」
「ああ、行くぞ」
 僕はアノンの手を引っ張った。
「ねえ、知ってる?マキーナが逃げたのもきっとこんな日、こんな風だった…」
 アノンは足早に歩く僕に半ばかけるようにしてついてきながら明るい声で言う。
「マキーナがいたならな…」
「マキーナはいたよ…そして神話は時と場所を変えながら繰り返して現実に転写するの。イナギがそうしたように。そして私達もね…」
「イナギから聞いたのか?」
 僕は足を止めてアノンに振り返る。
「ううん、ヨミ。ヨミが全部知ってたの…」
「それじゃ、なんで僕なんかをオリジネイターだと疑ったんだ?」
「だって、私もそれに初めて気づけたのはイナギの事故のほんの少し前のことなんだ。ただ、それでも全てが明かされたわけじゃなかった。でも、この前のアキラ達の話でようやく分かったんだ」 
 幾つもの画面いっぱいに映った歌を歌うマキーナの顔が一斉に僕達二人を見つめてる。歌詞の音のひと粒ひと粒が意味をなくして色のついた音素のままただ周りを飛び回ってる。そんな中でアノンの声と言葉だけが僕にちゃんと伝わった。
‐あの夜、シルシの乗っていた車に轢かれた女の子、それがマキーナだよ
 液晶テレビの光のカーテンをバックに向きあうアノンと僕はただ黙った。マキーナの元型はあの女の子…アノンはそう言った。アノンの出したその答えは、握っていた手のひらを広げてみたらそこにあったくらいに当たり前のことだったのかも知れない。だから僕は黙った。まだ僕は真実から目を背けたかったんだ。いつしかマキーナの姿はなくなって、ありきたりなニュース番組が映っている。
「…ウケイは…ウケイは全部知ってる。最後にあった時ウケイはもう少しだけ時間が必要って言ってた。ヨミを救うための時間。あともう少しだったのに、結局バレちゃった。考えたらバカみたいだよね。イナギはあんなことをしたし、私も今までいっぱいの人の前に出たから。でもね、多分それも仕方のないこと。マキーナはね、やっぱり寂しかったの。誰にも知られずに死んだから。でも、マキーナの記憶はここにとどまって様々な依代に形を変えた。それがイナギや私。そしてスフィア。これは本当に不思議なことで、きっとウケイも予想してなかった。シルシたちだってバレないように頑張ってきたのにね。ははは…」アノンは力なく笑う。
「…アノン、行くぞ」
 僕は返事の代わりにそう言ってアノンに背を向けて歩いた。今は僕たちを追っているやつらに捕まらないことだったから。そのせいで僕はアノンの最後の言葉を知らずにいた。
「…だから、バイバイ…シルシ…」

…つづき

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イナギ10‐ヨミの告白(後編)

2012-11-17 22:17:37 | 伝承軌道上の恋の歌

 × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
 タクシーを降りて、僕はアパートの部屋にヨミを迎 え入れた。ヨミを肩に抱えてドアを開けると、真っ暗な部屋の風呂場のドアから音と光が漏れている。とにかくアノンを抱えて、ベッドに運ぶ。それから僕は無 理にバスルームにドアをこじ開けて、その中に押し入る。目の前にある洗面台の栓をしてから思い切り水を流す。さらにもうひとつの曇りガラスでできたカーテ ン式のドアを開ける。そこにはアノンがいた。彼女は空の風呂の中に服を着たまま座っていた。
「…イナギ?」
 僕を見上げるアノンの目は泣きはらしていた。 
「あ、あの…ヨミの服洗濯してからお洋服持って行ってあげようと思って…」
 ヨミのことを知っていたのだろう。こいつがウケイと繋がっていることは自分にはもう知れたことだ。でも、僕は無言だ。その次に何をするかは何にも変わらないから。アノンをもう一度見て僕は確信した。あの異国風の大きな瞳も、白い肌も、少し拙い言葉もすべてが納得がいく。 
「アノン…お前がいる理由が初めてわかったよ」
  僕はそう笑いかけて、アノンに飛びかかった。そしてアノンの喉笛を押すようにして首を締める。声も出せずに苦しむアノンをそこから引きずりだして、水の溢 れ続けている洗面台の中にその顔を突っ込んだ。アノンはおとなしく応じようとはしない。どうにか逃れようと、手足をばたつかせて暴れる。いくらあがいたと ころで僕の力に及ぶわけもなかったが、アノンも力の限りは抵抗をした。これは少し僕の予想に反していた。そして、後ろ足にしたたかに膝を蹴られた僕がよろ けると、洗面台の下に敷いてあったマットに足を取られ、そのまま後ろに勢い良く倒れこんで、後頭部を打つ鈍い音がした。その隙にアノンは難を逃れると、僕 には一瞥もせずに息を切らしたままアパートから逃げて行った。
 こうして僕の計画はみじめに失敗した。 
 しかし次のレシピエントは決まっていた。それは僕自身だ。ヨミは反対するだろう。けど、もう意識をなくしてしまった。だからいい。問題はウケイだけだ。思えば、それには幾分の彼へのあて つけみたいなものも含まれていたのかも知れない。でも、僕はもう決めていた。あとはウケイにそれを決行させるしかない。彼は逃げている。一秒でもその命を 長らえたいと思っている。ならそれを利用しよう。それが一縷の望みだ。彼に決断をさせるのだ。利用するのだ。自分が全てを知っていて、それをいつでも世間 に公表できるということを伝えることで。セットに生きの良いレシピエントも付けてやれば、きっとヨミは命を取り留めることができるはずだ…

…つづく

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イナギ10‐ヨミの告白(中編)

2012-11-16 22:23:04 | 伝承軌道上の恋の歌

× × × × × × × × × × × × × × × × × × × 
 ヨミが目がさめたのはもう夜になってからだった。僕はずっとヨミの眠るすぐ傍らで彼女を見守っていた。
「心配かけてごめんなさい。大丈夫、すぐ良くなるから…」
 まだ夢うつつのヨミがイナギに微笑んだ。『それは嘘だ。僕にはもう分かっているんだ。ヨミ、お前は助からない。唯一の方法をのぞいて…』僕はヨミを見つめる。今をどれだけ頭に焼きつけたところで綺麗な思い出になんてならない。僕が欲しいのは今一瞬じゃない。明日も、あさっても、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も、十年後も、何時までも二人でいられるってことなんだ。こう考えたことだってある。死んだらヨミは一生僕のものだって言えると。誰にも取られることはないんだから。でも僕は望んでしまったんだ。ヨミ、お前のせいで。
「イナギ?どうしたの?」ヨミが聞く。
「いや、なんでもない…」
「アノンちゃん、どうかあの子をよろしくね」 
 アノン?こんな大事なときになぜあいつの名前を?あんなヤツのことは関係ないじゃないか。何もわかってないのはヨミの方だ。僕の想いも、なにも…そんなだれにでもあげられる優しさは僕は欲しくないんだ。
「なんでそんなことを言うんだ!?あんなやつどうでもいいじゃないか」
「違うの。あの子は私にとって特別なの。」
「なんでだ!僕との生活よりずっといいって言うのか?そんな馬鹿なことがあるか」
「イナギ、あなたは分かってないの…」
「わかりたくもない。それ以上言うなら、僕はあいつを殺してやる」
「イナギ、わかってない。わかってない…」
 ヨミはかすれる声を振り絞って言う。彼女を興奮させてしまったらしい、ヨミは苦しそうに深い呼吸を繰り返す。だが僕はウケイを呼ぶのをためらった。ウケイまた二人で超然とした高みから僕を憐れむだけだ、と。
「ごめん、ヨミ。言い過ぎた…」
 こう言うのが僕の精一杯だった。
「…イナギ、ありがとう…私、少し寝るね…」
「ああ、おやすみ」
 そう言ってヨミはまた眠りに落ちた。それはかなり楽観的な見方で、本当は気を失ったのかも知れないと僕は思った。
 そして、その夜僕はヨミを連れだした。

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イナギ10‐ヨミの告白(前編)

2012-11-15 22:06:46 | 伝承軌道上の恋の歌

 ウケイの診察室にてヨミは小さなメモ帳に絵を描いていた。うなされた時に見舞って見る夢だった。自分を映した鏡が散らばって、バラバラに映った身体の部位が勝手に動き出し、それが頭だけになった自分を襲うんだった。
「イナギ、どうしたの?」
 僕は静かに部屋に入って来る。こわばったその表情にヨミは全てを悟ったようだった。
「ヨミ、お前…」と僕は声を震わせる。
「ウケイ先生から聞いたのね?」
 ヨミは筆を止める。
「あいつがお前がいなくなるって言うんだ。嘘だろ?」
「私は分からないの。ただ、受け入れようとは思ってるわ。そうしたら、本当に色んなものが少しだけ綺麗に見えたの。本当に奇跡みたい…」
「ああ。そんな馬鹿なことがあるわけない。ヨミ、嘘だろ?お前のせいだ。お前のせいで、もう僕は本当に弱くなった。お前がいなくなると思うと、不安で仕方ないんだ。こんなのは嫌だ。ヨミどうしたらいいんだ?」
「弱いって悪くない。はかないって綺麗でしょ?イナギの心が前より綺麗になったってだけ。確かにイナギは変わった。私は今の方が好きよ」
「僕は嫌だ。自分が持たないよ。叶わないなら、お前より早く死にたい」
「そんな事言わないで、イナギ。イナギは優しくなれたのよ。その分だけ周りのみんなを救ってるのよ。みんなの分だけ自分を犠牲にできるようになったの。ほら、私だってどんなに救われたか…」
「もうお前と会う前に自分がいたことも信じてないんだ。頼むよ、ヨミ。お前のためなら何でもする。だから…」
 僕はヨミの前に跪いて、すがった。
「こんな話があったの。それはとある医療関係の研究所で起こったこと。彼らはある研究をしていたの。詳しくは知らない。ただ、とても高い報酬と研究費とひきかえのとても危険なテーマの研究だったそう。何事もリスクなしには成果は得られないもの。そして彼らもその例外ではなかった。決して取り戻せない代償を払うことになった。子供たちが重大な内臓欠陥を抱えて生まれてきたの。でも、その不祥事を彼らは隠そうとした。そして、その中の人達は研究所を新たに立ち上げ、研究に勤しんだの。自らの子供たちを救うためにね。子供たちの中には命を落とす者が現れてしまうこともあった。その中で彼らが得られた成果はただ一つ。人の臓器を移植することだった。それもほとんど全てのね。根本的な解決にはならなくても、命を長らえることはできた。でも、レシピエントはそう簡単には見つからない。何よりこの惨事を引き起こす原因となった彼らの研究それ自体が公になるのを嫌った。だから正規の手段すら取ることもできない。だから彼らは禁じられた方法に手を染めたの」 
 僕が見るヨミの瞳は深い色の奥で冷たい光りを宿して見える。ヨミはその目をゆっくりとイナギに向けて言う。
「それはね、外国から連れてこられた子供たちを使うことだった。最初は身体の一部で済んでも、最後は命を引換にしなければいけなかった。でも、ある時事件が起こった。その子供たち二人が逃げ出したの。外に出ることには成功しても、結局異国の地で為す術もなく放浪するしかなかった。ちょうど真冬の季節。二人はとにかく冷たい雨と風を逃れるためにとある公園に行き着いた。そして、そこに自分たちの生きた証を残した。それからどうなったと思う?結局二人とも見つかって死んだの」
「ヨミ、全部知ってたのか?」
「全部じゃない。ウケイ先生は何も教えてくれないから」
「でもなんで…」
「それはね、私がその元患者だったから…」
「…ヨミ…」
「ふふ。私も罪人だったの。イナギは軽蔑する?」
「する訳ない。犠牲になればお前の命を救えるってことだろ?それなら…」
「ううん、イナギ、違うわ。私はそれを望んでない。それにね、もう遅い…」
「…こうなるまで隠していたのか」
「隠していたわけじゃない。でももう決まっていたことだから」
「だったら僕の命をくれてやるだから…」
「やめて。私が今こうなることで一人の命が救えたことなの。それで私は十分…」
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × 
そこは室内中が湿度と熱気とポンプの音で満ち満ちていた。部屋中を覆う植物は水槽の中に根を下ろしていて、その循環をその下にチューブを伸ばしたポンプが行っているようだった。その隅で身を屈めて機械をいじっていたウケイは人影が床に映るのに気づいた。
「…ヨミか?休んでなくはダメだよ」背中を丸めたウケイは一顧だにせずに言う。
「…ウケイ先生」
 僕はその後姿に向かって初めて彼の名を呼んだ。
「…ああ、イナギ君か。どうかしたかね?」
 汗まみれウケイは僕を認めると、首から下げたタオルで汗を拭った。
「ヨミを救って下さい。何でもします」イナギは彼にそう言った。
「…それは彼女の意思だ…君も受け入れろ」と間髪入れずにウケイは言う。
「僕の命で彼女を救えるなら、それでも構いません…」
「君は何も分かっていない」
「ヨミから全部聞いた。それを暴かれて困るのはあなたでしょう?」
「それは私だけじゃない。多くの犠牲を出すことになる」
「嘘だ。自分が困るんじゃないか」
 自分の予想した通りだ。やつは答えられない。
「今日はヤエコと私の同僚であった父親の命日だ。どうか静かに迎えさせてくれ」
「絶対にヨミは助けてもらう。絶対に…」
 僕はそう言って温室から飛び出した。

…つづき

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