年末の『クラプトン&ウィンウッド』の話をしたばかりだというのに
“和製クラプトン”の方が亡くなってしまったよ・・・
以下、スポーツ新聞の記事を要約
(まぁ、このスポ紙記事もWiki丸写しに近いのだが・・・)
『独特のハスキーな歌声と味わい深いギターで人気を集めたロック歌手の
柳ジョージ(本名・柳譲治)さんが、10日に腎不全のため死去したことが
分かった。
63歳。横浜市出身。
知人によると、故人の遺志により訃報は近親者のみに伝えらて、
11日12日に通夜と葬儀を済ませたとのこと。

学生運動が激しかった日大在学中の1969年、ブルースロックバンド
「パワーハウス」を陳信輝(62)らと結
成。
翌70年にザ・ゴールデンカップスの後期メンバー(ベース)として加入。
解散後の75年に「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成。
音楽キャリア当初は地味な存在だったが
「雨に泣いてる」「FENCEの向こうのアメリカ」「さらばミシシッピー」
などのヒットでメジャーな存在となり、
79年のアルバム「RAINY WOOD AVENUE」はオリコンチャート
1位を記録した。
レイニーウッドは、81年暮れの日本武道館公演で解散。
わずか6年間の活動だったが、R&Bやブルースロックをベースにした音楽が
ヒットチャートをにぎわせたのは
当時では異例のことで、その後の日本のロックやポップシーンに大きな影響を与えた。
(売れた曲は歌謡ロック的な物だったが・・・)
ソロ歌手として活動後も“泣きのギター”と呼ばれるフレーズから
「和製エリック・クラプトン」と称され、実際にクラプトンの楽曲『FOREVER MAN』
(アルバム『ビハインド・ザ・サン』収録曲)をカバーしている。

素朴でシャイな人柄も魅力で、多くのミュージシャンがファンである事を公言している。
05年には「柳ジョージ&レイニーウッド」を再結成し、08年にはフジロック
フェスティバルに出演した。
しかし、長年の酒好きがたたったのか、ここ数年は体調を崩すことも多く
今年5月22日の函館市芸術ホール公演を最後に、体調不良を理由に活動を休止。
所属事務所からも離れ、ファンクラブも閉会していた。』
・・・・との事
「クラプトン&ウィンウッドの会場にきっと居られるだろうな」と思っていたが
本家より先に亡くなってしまったのな・・・
売れたのが遅かったから、もっと若いと思ってたが、もう62歳だったのか・・・
クラプトン&ウィンウッドでは、お互いが相手のレパートリーから自分が好きな曲を
選ぶ試みがなされているが、そこでクラプトンの『フォーエバーマン』がチョイス
されているのも興味深かった
クラプトンは「忘れてた曲だけど、ウィンウッドが選んでくれてさ。これが演って
みるとイイんだよな」などと語ってたが、
クリーム時代からファンだった者からすると、レイドバックしていないクラプトンの
ロックナンバーは嬉しかったもんですよ
「さすがウィンウッド分かってるね!」と柳ジョージさんも思ったんじゃないかな?

ジョージさんは、キャリア初期で成毛滋さんとも交友あり
70年代英国ロック全盛期のロンドンへ渡ったりしている
成毛さんがジョージさんと角田ヒロさんを誘い、ジプシーアイズというグループを結成
本格ロックを演奏していたが、事務所に所属しておらずマネージャーもいない彼らを
日本の音楽業界は認めず
また、それぞれが別グループに所属していた事もあり、ジプシーアイズの音源はレコード化
ならなかったという
ジプシーアイズの演奏は、
成毛さんの公式サイト「Dr. Siegel's Archives(www.ne.jp/asahi/chelseas/terrace/DSA/menu.html )」で聴く事
が出来る
なかなか満足いく音楽活動が出来なかった成毛さんが誇らしげに思ったという数少ない
バンドだけに、ペイジ+クラプトンがグループを組んでハード・ブルースロックやった
みたいな和製ロックが聴けて、非常に興味深い。
盟友だった成毛さんも亡くなっている
あの世で気が済むまでハードなブルースロックを演奏して欲しいな・・・
70年代ロックの落とし子でもあった柳ジョージさん
心より御冥福を御祈り致します
“和製クラプトン”の方が亡くなってしまったよ・・・
以下、スポーツ新聞の記事を要約
(まぁ、このスポ紙記事もWiki丸写しに近いのだが・・・)
『独特のハスキーな歌声と味わい深いギターで人気を集めたロック歌手の
柳ジョージ(本名・柳譲治)さんが、10日に腎不全のため死去したことが
分かった。
63歳。横浜市出身。
知人によると、故人の遺志により訃報は近親者のみに伝えらて、
11日12日に通夜と葬儀を済ませたとのこと。

学生運動が激しかった日大在学中の1969年、ブルースロックバンド
「パワーハウス」を陳信輝(62)らと結
成。
翌70年にザ・ゴールデンカップスの後期メンバー(ベース)として加入。
解散後の75年に「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成。
音楽キャリア当初は地味な存在だったが
「雨に泣いてる」「FENCEの向こうのアメリカ」「さらばミシシッピー」
などのヒットでメジャーな存在となり、
79年のアルバム「RAINY WOOD AVENUE」はオリコンチャート
1位を記録した。
レイニーウッドは、81年暮れの日本武道館公演で解散。
わずか6年間の活動だったが、R&Bやブルースロックをベースにした音楽が
ヒットチャートをにぎわせたのは
当時では異例のことで、その後の日本のロックやポップシーンに大きな影響を与えた。
(売れた曲は歌謡ロック的な物だったが・・・)
ソロ歌手として活動後も“泣きのギター”と呼ばれるフレーズから
「和製エリック・クラプトン」と称され、実際にクラプトンの楽曲『FOREVER MAN』
(アルバム『ビハインド・ザ・サン』収録曲)をカバーしている。

素朴でシャイな人柄も魅力で、多くのミュージシャンがファンである事を公言している。
05年には「柳ジョージ&レイニーウッド」を再結成し、08年にはフジロック
フェスティバルに出演した。
しかし、長年の酒好きがたたったのか、ここ数年は体調を崩すことも多く
今年5月22日の函館市芸術ホール公演を最後に、体調不良を理由に活動を休止。
所属事務所からも離れ、ファンクラブも閉会していた。』
・・・・との事
「クラプトン&ウィンウッドの会場にきっと居られるだろうな」と思っていたが
本家より先に亡くなってしまったのな・・・
売れたのが遅かったから、もっと若いと思ってたが、もう62歳だったのか・・・
クラプトン&ウィンウッドでは、お互いが相手のレパートリーから自分が好きな曲を
選ぶ試みがなされているが、そこでクラプトンの『フォーエバーマン』がチョイス
されているのも興味深かった
クラプトンは「忘れてた曲だけど、ウィンウッドが選んでくれてさ。これが演って
みるとイイんだよな」などと語ってたが、
クリーム時代からファンだった者からすると、レイドバックしていないクラプトンの
ロックナンバーは嬉しかったもんですよ
「さすがウィンウッド分かってるね!」と柳ジョージさんも思ったんじゃないかな?

ジョージさんは、キャリア初期で成毛滋さんとも交友あり
70年代英国ロック全盛期のロンドンへ渡ったりしている
成毛さんがジョージさんと角田ヒロさんを誘い、ジプシーアイズというグループを結成
本格ロックを演奏していたが、事務所に所属しておらずマネージャーもいない彼らを
日本の音楽業界は認めず
また、それぞれが別グループに所属していた事もあり、ジプシーアイズの音源はレコード化
ならなかったという
ジプシーアイズの演奏は、
成毛さんの公式サイト「Dr. Siegel's Archives(www.ne.jp/asahi/chelseas/terrace/DSA/menu.html )」で聴く事
が出来る
なかなか満足いく音楽活動が出来なかった成毛さんが誇らしげに思ったという数少ない
バンドだけに、ペイジ+クラプトンがグループを組んでハード・ブルースロックやった
みたいな和製ロックが聴けて、非常に興味深い。
盟友だった成毛さんも亡くなっている
あの世で気が済むまでハードなブルースロックを演奏して欲しいな・・・
70年代ロックの落とし子でもあった柳ジョージさん
心より御冥福を御祈り致します