京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

時間についての考察:ロマン・ローランの回帰する時間

2019年07月29日 | 時間学

 

 

『ひとつの世界の苦悩!同じ時刻に、多くの国々が圧迫と貧窮のために滅びつつある。大飢饉はヴオルガの民どもを貪り食ったころだ。ローマには黒シャツの先駆警吏どもの斧と鍼がふりかざされている。ハソガリーとバルカソ諸国の牢獄は拷問をうける人々の叫喚を窒息させている。古い自由の国フラソス、イギリス、アメリカは、自由が犯されるのを見殺しにして、腹を裂くやつどもを養成している。ドイツはその「先駆者たち」を虐殺した。モスクワ付近の白樺の森では、レーニンの澄んだ瞳が消え、彼の良心が滅びる。革命はその水先案内を失う。闇がヨーロッパを襲うかに見える。このニ人の子供の運命などがなんだろう。彼らの歓び、彼らの苦しみが、この海の中で一滴にとけ合った。耳を立てて聞け! おまえはそこに海のとどろきを聞くだろう。海全体が一滴一滴の中にあるのだ。あらゆる苦悩がそこに反射している。もしもその一滴一滴が、聞くことを欲したならここへおいで、うつむいてごらん! わたしが渚で拾った、水のしたたる貝殻に耳をつけてごらん! ひとつの世界がそこに泣いている。ひとつの世界がそこに死滅しつつある…..しかし、自分はまたそこに、すでに嬰児が泣くのを聞く』(ロマン・ローラン 『魅せられたる魂』より宮本正清訳)

 

  時間の矢がエントロピー増大とともに一方向に飛ぶように、世界の歴史は正義が増大する方向に進歩すると信じたい。しかし、人類は何度もおそろしい暴虐と愚かさを繰り返している。社会の歴史は、進歩の矢の時間ではなく、理不尽な環の時間で出来ている。マルクスは一度目は「悲劇であるが、二度目は喜劇である」といった。しかし二度どころか何度も愚行と悲劇を繰り返したのが人類の歴史である。それでも、ロマン・ローランは天性の楽天主義でもって、愛という希望が生まれくると信じたのである。

 

ロマン・ローランの生涯

  • 1866年1月29日 フランス中部のニエーヴル県クラムシーに生まれる.父エドム・ホール・エミール・ロランは公証人で、母はアントワネット・マリー。
  • 1868年 妹マドレーヌ生まれる(三歳で死亡)。
  • 1872年 2番目の妹マドレーヌが生まれる。
  • 1873年 クラムシーの公立中学校(現ロマン・ローラン中学校)に入学。
  • 1880年 パリに移住。高校サン・ルイに転入学、父は不動産銀行員となる。
  • 1882年 高校ルイ・ル・グランに転校。
  • 1883年 スイスのレマソ湖畔ヴイルヌーヴで夏をすごす。このときヴイクトール・ユゴーと出会う。
  • 1884年 シェイクスピアやユゴー、スピノーザに親しみ、ベートーヴェン、ワーグナーの皆楽に熱中する。5月15目再びユゴーに会う。高等師範学校の入学試験に失敗。
  • 1885年 5月21日、臨終のユゴーを見揃い、6月1日その葬儀に参列する。高等師範の入学試験に再び失敗。
  • 1886年 高等師範の入学試験に十番で合格、歴史学を専攻する。
  • 1887年 トルストイに手紙を書き、長文の返事をうる。
  • 1888年 スイスに旅行する。
  • 1889年 23歳 優秀な成績で高等師範学咬を卒業し政府の研究生としてローマに留学。
  • 1890年 モノーから紹介されたドイツの亡命婦人マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークを訪ねる。『ジャン・クリストフ』を着想。
  • 1891年 シチリア旅行。サルヴィアティに関する報告を脱稿。
  • 1892年 十月、コレージュ・ド・フランス教授ミシェル・ブレアルの娘クロチルドと結婚。学位論文執筆のためローマに旅行する。
  • 1893年 戯曲『聖王ルイ』『マントーヴァの包囲』執筆{未刊)。
  • 1895年『近代抒情劇の起原ーリュリー及びスカルラッティ以前のヨーロッパ歌劇の歴史』と『十六世紀のイタリアにおける絵画はなぜ顛廃したか』の二論文によって文学博の学位を得る。母校の講師に任命され、芸術史・音楽史を講ずる。ベルギー、オランダを旅行。
  • 1896年「演劇芸術』誌の編集に協カ。
  • 1897年5月妻とともにローマに旅行。トルストイヘ3度目の手紙。戯曲『敗れし人々』を執筆。 
  • 1898年 戯曲『ダントン』執筆。戯曲『狼J Les Loupsを執筆したが反ドレフェース派の陰謀を避けるために『死者たち』と題名を変えサン・ジュストの仮名で五月上演。
  • 1899年『パリ評論』の編集に参画。ベルリンに旅行し、R・シュトラウスを訪ねる。九月、妻とともにスイス旅行。ヌンツィオに再会。戯曲『理性の勝利』Le Triomphe de la Rajson執筆、上演。
  •  1900年 5月、ローマに旅行、スイスのルツェルソに旅す。論文『理想主義の害毒』発表。
  • 1901年 2月妻のクロチルドと離婚し、パリのモンパルナス通りのアパートに住む。ボン、ウイーンにベートーヴェンの生家とそのすごした家を訪ね、ベートーヴェン記念音楽祭のためマインツヘ旅行、トルストイヘ四度目の手紙。
  • 1902年 エコール・デ・オート・エチュード・ソシアルで音楽史の講座を担当。スイス、イタリアに旅行し、ローマでマイゼンブークに会う。戯曲『七月十四目』執筆、上演。『時は来たらん』Temps viendra執筆発表。伝記『フラソソワ・ミレー』を英文で刊行
  • 1903年 伝記『ベートーヴェンの生涯』La vie de Beethovenを発表。
  • 1904年 パリ大学の芸術史の講師となり、音楽史を開講。カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌから小説『ジャン・クリストフ』Jean‐Christopheの(曙)および(朝)刊行
  • 1905年 アルザス・ロレーヌに旅行。シュヴァイツァー、リクタンベルジュ、プリュニエールと相識る。『ジャン・クリストフ』(青年)、評論『ミケランジェロ』、戯曲『三人の恋する女』、論文『音楽都市としてのパリ』刊行。
  • 1906年 ジャン・クリストフ (反抗)、伝記『ミケランジエロの生涯』La vie de lVlichel‐Angeを刊行。
  • 1907年年 スペインに旅行。『ジャン・クリストフ』(広場の市)。
  • 1908年 シャン・クリストフ」(家の中)および『革命劇集』Le Thatre de la R6volutionを刊行。
  • 1910年  10月、パリで自動車事故のため負傷し、三ヵ月床につく。『ジャン・クリストフ』(女友達)、評論『ヘンデル』。11月トルストイ死す。
  • 1911年 ラヴイニャックの『音楽百科辞典』の編集に協力。病後の静養のためにローマに旅行。『ジャン・クリストフ』「燃えろ茨】、『伝記トルストイの生涯』La Vie de Tolstoi刊行.
  • 1912年 パリ大学を辞任。『『ジャン・クリストフ』(新しい日)を刊行、完結。
  • 1913年 『ジャン・クリストフ』』にたいしてアカデミー・フラソセーズから文学大賞を授与される。戯曲集『信仰の悲劇』Les Tragedie de la Foi刊行。
  • 1914年  48歳。 第一次世界大戦勃発。その報をスイス旅行中に聞き、スイスにとどまり、平和運動に専心する。ツヴァイクの協力を得て国際知識人会議をスイスで開こうと計画したが失敗。翌年までジュネーブの万国赤十字社俘虜情報局に志願して勤務。評論『戦いを越えて』を発表。小説『コラブリオン』執筆。 
  • 1916年  1915年度のノーベル文学賞を授与されるが、賞金はすべて赤十字社や社会市業団体に寄贈する。「クレランボー』執筆
  • 1917年 3月ロシア革命起こる。レーニンからロシアに同行を要請される
  • 1918年 平和に関してウィルソン大統領への公開状を発表。評論『エソベドクレース』Empedocle d'Agrigente、および小説『ピエールとリユース』を執筆。この年 11月休戦。
  • 1919年 5月母アントワネット死亡(七十四歳)、.6月ヴェルサイユ講和条約調印される。『精神独立の宣言』を『ユマニテ』紙に発表。
  • 1920年 『クレランボー』、『ピエールとリュース』Pierre et Luce刊行。
  • 1922年 スイスのヴィルヌーヴに妹のマドレーヌと移住。小説『魅せられたる魂』L'Ame Enchantee(アソネットとシルヴィ)、戯曲『敗れし人々』。 
  • 1923年 ロンドンで第一回国際ペンクラブ大会が開催され出席する。マリイ・クーダチェフ(のちのローラン夫人)と文通始まる。『ヨーロでハ』誌創刊。『魅せられたる魂』(夏)
  • 1924年 ガンヂーとの交友始まる。戯曲『愛と死の戯れ』を執筆。
  • 1925年 ドイツに旅行。
  • 1926年『ロマン・ローラン友たちの書』刊行。戯曲『花の復活祭』
  • 1927年ウイーンのベートーベン百年祭に出席、講演。反ファシズム委員会(アインシュタイン会長)が創設され、第一回集会で司会をする。
  • 1928年戯曲『獅子座流星群』刊行。
  • 1930年『ベートーベン研究』第二巻「ゲーテとベートーベン』刊行。
  • 1931年 6月16日父エミール死去(94歳)12月ガンジー来訪。
  • 1932年 アムステルダムで聞かれた世界反戦反ファシズム大会の議長となる。『魅せられたる魂』(予告するもの)。「ひとつの世界の死」および「マルヴィーダとの書簡集』刊行。
  • 1933年 ヒ″トラー政府よりゲーテ賞授与の申し出があったが拒絶する。六月、国際反ファッシズム委員会の名誉総裁となる。『魅せられたる魂』完結。
  • 1934年68歳。反ファッシスト行動委員会の第一回宣言に署名。マリイ・クーダチェフ(ロシア公爵の未亡人、父はロシア人、母はフランス人)と結婚。
  • 1935年政治論文集『闘争の15年』『革命によって平和を』刊行。
  • 1936年70歳。人民戦線内閣の援助で革命劇『ダントン』『七月十四日』上演。
  • 1938年 スイスのヴイルヌーヴからフランスのヴュズレーに転居。評伝『ルソー』戯曲『ロベスピエール』執筆。
  • 1939年フランス国立劇場で『愛と死の戯れ』上演。9月1日第二次世界大戦勃発。
  • 1940年 6月14日パリ陥落。
  • 1942年 『内面の旅路』刊行
  • 1943年 『ベートーベン研究』第4巻「第九交響楽」第5巻「最後の四重奏曲」刊行
  • 1944年8月パリ解放される。ソビエト大使館の革命記念祝宴に出席。12月30日ヴェズレーで死去。78歳。プレーヴに埋葬される。
 
参考図書
 世界の文学 31 『ロマン・ローラン:魅せられたる魂』宮本正清訳 中央公論社 (1963) 

 追記 1)

 晩年のロマン・ローランを批判する人々もいる。ローランがスターリンの暴虐な本性を見抜けずに、世界人民の希望の星と見なしていたことである。ワルター・クリヴイツキーが書いた暴露本『スターリン時代』(みすず書房 2019年第2版)には「この著名な作家が、その大きな威信のマントでスターリン独裁の恐怖を覆いかくすことによって全体主義に与えた援助は、はかりしれないほどだ」と述べている(p7)。ローランは文通していたゴーリキがスターリンによって暗殺されたことを知るべき立場にあったのである。

 
追記 2)
 終戦前の1944年に亡くなったローランは、ナチスドイツのホロコーストを知らなかったはずである。ジャンクリストフの祖国ドイツの蛮行をローランが知ったとすれば、どのように悲しんだであろうか?
 
 
 

 

 

 

 


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