実験科学者が美しいと感じるデータ-ミリカンの油滴実験は不正か?
『Betrayers of the Truth: Fraud and Deceit in the Halls of Science (真実の背信者たち、科学の殿堂における欺瞞と虚偽)』(日本語翻訳出版『背信の科学者たち』)は、ウイリアム・ブロードとニコラス・ウェイドによる、科学研究における不正の告発書である。1983年に出版され、日本では1988年に化学同人から牧野賢治により翻訳出版された。1988年の日本語翻訳版はその後絶版となり、2006年と2014年に、それぞれ解説を改めて講談社ブルーバックスから出版されている。二人の著者は当時の「ニューヨーク・タイムズ」誌の花形科学記者であった。この書は「科学者の不正行為」という研究倫理上の問題を本格的に扱った科学史の古典と言われている。科学実験データの捏造、アイディアや論文の盗用、オーサーシップ問題、確信バイアスなどを扱っている。科学研究におけるデータ捏造疑惑については、理研の「スタップ細胞」が社会問題となって記憶に新しい。
その本の中で取り上げらえている「不正事例」の一つがロバート・ミリカン (Robert A. Millikan: 1868-1953)の有名な油滴実験である。この実験は電子の電荷を求めるもので、帯電した油の粒子(最初は水滴を使用)を電界の中に置き、重力、浮力、電界によるクーロン力の釣り合い条件(あるいは運動速度)から油滴の電荷を計算した。ミリカンは、その大きさがある値の整数倍になることを示し、電子一個の持つ電荷を 1.592×10-19 C と見積もった(現在の電気素量の推奨値は 1.6021766208×10-19 C)。この単純ではあるが見事な実験は、高校の物理の教科書にも紹介されており、この成果によりミリカンは1923年にノーベル物理学賞を受賞した。
ミリカンの油滴実験の図解(illume No.37. 2007より)
ところがハーバード大の科学史家ジェラルド・ホルトン(Gerald Holton:1922~)が、ミリカンの死後、その実験ノートを調べると、140件の観測データのうち58を1913年の論文で選んで出していたという。ミリカンの実験ノートには、どのデータを使うか使わないかをミリカンの筆跡ではっきりメモされているという。このホルトンの調査をもとに『背信の科学者では』では、ノーベル賞クラスの研究でも「都合の良い」データを選ぶ不正があるが、結果オーライで見過ごされているとした。ブロードとウェイドのこの著作は総合的には質の高いインパクトなものであったので、この記述によりミリカンの「データ疑惑」の話はその後、世に敷延した。これは「確信バイアス」という不正の1種で、著者らは歴史的にガリレオ、ニュートン、メンデルの実験結果にも疑惑を投げかけている。
これに対して、ミリカンの実験には全く不正がなかったとしたのは、『The Prism and the Pendulum: The Ten Most Beautiful Experiments in Science (2003)』(日本語訳本『世界でもっとも美しい10の実験』 (第8章電子を見るーミリカンの油滴実験)青木薫訳、日経BP社)を著したロバート・クリース(Robert Crease )である。クリースは綿密にミリカンの歴史的資料を再調査した。それによると、1909年の「平衡水滴法」 (この頃は水滴を用いていた)に関する論文では、ミリカンはデーター38個の観察に等級をつけて発表した。そのうち、水滴の位置または電場の値に問題があるもの、電場を入れたり消したりした直後のもの、値が30%も平均より小さなものなど10個のデーターは捨てたと正直に書いている。デリケートな装置の不安定性を根拠にしている。すなわち熱による残留対流、部屋の震度、気圧の変化など制御できない要因によって水滴の運動が不安定なものは、データーとして入れなかった(これらのデータを入れても結果は変わらない)。そして1913年の有名は油滴を用いた報告の実験では、140個の記録を取ったが、58個を採用した。取捨した理由は上記と同じであったと思える。ただ、このサイエンス誌の論文では「選ばれた油滴ではなく実験されたすべての滴についてのもの」と述べている。要するに油滴の運動が「美しい」とノートに記載されたデータを選んで論文をまとめたのである。ミリカンは美しい運動をしない油滴はデータとは見なさなかった。
ホルトンも、ミリカンがデーターを都合よく取捨したと批判したのではなく、取り上げるべき適切なデータとそうでない不適なデーターとを区別したのだとしている。ちなみにホルトンは 1967年にRobert A. Millikan賞を受賞している。そもそも予測された電子の電荷が理論的に分かっていたわけではないから、ミリカンが「都合よく」データーを選択する基準などなかったはずである。いくつもの条件のスリットをくぐり抜けて実験研究は成功する。すべての条件を制御することは困難なことが多いので、何かのはずみで何枚ものスリットが重なりうまくいった時に、実験者は「美しい」と感じる。自然との共振と言える瞬間である。
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