京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

動物行動学の昨今

2020年09月03日 | 評論

 一昔前に、日本でもエソロジー(動物行動科学)というものがはやった時代がある。コンラッド・ローレンツの『ソロモンの指輪』がベストセラーになり、サロンでは、ちょとした知的なご婦人もその分野の話題をしていた。

動物行動における鍵刺激とか解発因という用語が使われ、本能、生得的(innate)と学習の区別は何かといった議論がよくなされた(アイベル・アイフェルベスト著 『比較行動学 1,2』みすず書房 1978)。

 たとえばイトヨ(魚)の求愛行動では1)ジグザグダンス、2)求愛、3)導入、4)追尾、5)巣口提示、6)入巣、7)身体の蠕動、8)産卵、9)射精といった美しいシークエンスが、その手の教科書に掲示されていた。

イトヨには何の意志力も思考力もなく、本能に組み込まれたプログラムを順番にとりだしていけば、目的を達することができると考えられた。このシークエンスが、途中で遮断されると、最初にもどってはじめるか、葛藤行動が起こるとされた。庵主は昔これを聞いて、イトヨはそんなに頭が悪いのに、よくぞこれまで滅びずに生き延びて来たものだなと思ったものだ。

無論、あの頃も動物の記憶、知性や意志などの存在と働きを論ずる人もいたが(たとえばインベルト・グリフィンの『動物に心があるか』など)、心の存在などと言うと、たちまち「擬人主義」というレッテルを貼られ、批判が浴びせられた。

 しかし、最近の動物行動学では反対に、動物一般の「心の問題」をとらえる方向にすすんでいるように思える (National Geographic 別冊『動物の言葉—驚異のコミュニケーション』を参照: 2020/07/06)。AIの開発によって、人の意識とは何かを探求する傾向が、この背景にあると思える。様変わりしたようだが、心の起源の探求こそ生物学の本来の目的の一つだった。

 旧エソロジーが人間以外の動物を「機械」と見なしていたのに対して、21世紀のニューエソロジーは彼らをヒトと同じ「心的存在」と見なして研究しはじめている。彼らは多様な感覚器をそなえ、言語を使用し、感情を持ち、文化や学習を行う。ヒトにおけるこれらの心的特性はヒト起源ではなくて、段階的に前の祖先から進化してきたもののようである。

このように考えると、人がイルカを殺して食べる根拠はあるのだろうか?ライオンがリカオンを捕食するのとは違うように思える。イルカにも家族がおり、知性を使い、感情を持っている。イルカにも惻隠の情があり、溺れた人を助けることもある。一方でチンパンジーは、群れで他の霊長類を狩るという。ライオンーイルカーチンパンジーーヒトー人の境目は何なんだろう?

 

追記 1 (2020/12/27)

エマ・タウンゼンドの『ダーウィンが愛した犬たち』(勁草社 渡辺正隆著2020)は、まさに動物の感情表現が人のそれと同等にあることをダーウィンの観察を通じて述べているものである。少し言い過ぎかもしれないが、ダーウィンの進化論は、ガラパゴスフィンチの研究よりもむしろ愛犬の行動(表情)の観察から出たとしている。ダーウィンは『人間の由来』で、人間と動物は深淵によって隔てられた世界ではなく、地続きだと主張している。犬が棒をくわえて行ったり来たり走り回るのは主人をからかうというより認識力によるのであり、それにより人間と動物に共通の起源がある証拠の一つとしている。人間的な美徳というものも、もとはというとヒトと動物の共通の祖先から受けついだものと言える。

 

追記2(2020/12/28)

人と犬が共感できる背景はそれぞれのネオテニー化であると思える。自然の動物は、食う食われる、安全な場所で寝る起きる、子孫を増やす育てるで精一杯の生活をしている。余裕のあるのは親によって保護されている子供の頃だけである。ある意味、文化は幼児期にしかない。人は寿命が延びて幼児期が延長してネオテニーがすすんだ。人類はますます幼児化してきて、コロナ禍の対応で分かるように、危機に対応できなくなっている。犬は本来、猟犬や番犬として選抜されたが、いまでは形態や性質の可愛い品種が好まれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする