筒井康隆『老人の美学』新潮新書 835、2019
筒井康隆作品の本質はおおむね「人類への悪口」である。それが乾いたニヒリズムとなって、ときには陽気にときには陰鬱に、浮き沈みしながら漂流している。
筒井の初期のエッセイ集に「暗黒世界のオデッセイ」(星文社 1975年)というのがある。これは、田辺聖子さんとの対談を除いて、ほとんど悪口のオンパレードのような本だ。ここで、この悪口の王者が、悪口の解析をしてくれている。
ある人がぼくに関して表現した悪意を、ぼくに伝えた友人がいた。
「筒井のヤロー、って言ってたよ」
この場合、この友人の意図は、ぼくとその人との仲をより悪くしたかったわけであろうが、ぼくの反感は幾分なりともその友人に向けらてしまうわけである。
友人Aが自分に、「あの友人Bが君のことでこんな悪口を言ってたよ」と告げ口したとする。Bとは普段仲良くしているので、まさかあいつがと思が、あり得ないことではない。しかし、これは大抵の場合、Aが親切で情報を提供してくれているのではない。まず、Aは、Bを代弁者にして嫌がらせを言っている可能性が大だ。さらに、情報提供者のふりをして、すり寄り、かつBとの関係を悪化させようとする意図があるかもしれない。この手の悪口は、よく経験するが、目的は複合的で狡猾である。
筒井のある個人に対する最近の悪口は、揚書『老人の美学』の第4章「老人が昔の知人と話したがる理由」に出てくる。このエッセイの要旨は、定年退職後の老人は、昔の職場や仕事上の知人のところに、むやみに出向くべきでないという、常識的な忠告である。
ここに、仁尾一三という、だいぶ前の小説新潮の編集者についての悪口がでてくる。芸術劇場で筒井が白石加代子と朗読劇を共演した楽屋に、突然、仁尾氏があらわれ迷惑したという話しである。その顛末が、ヤケにねちっこく描写されている。
仁尾氏は2010年に亡くなっている。気づかいのある作家なら、エピソードを紹介するにしても、名前は出さないものであろう。しかも、筒井は自分の新人作家の頃に、たいへん仁尾氏の世話になったと書いている。礼儀として名前を出さないのが普通だ。
ここで、筒井が普通でなくなっているのは、きっとこの仁尾氏に昔、忘れられないようなひどい目にあったか、あるいはイヤなことを言われたのだろう。老人になると、不快なエピソード記憶が、カビの生えたメモリー格納庫から、ある日突然、出てくることがある。これを人にしゃべったり書いたりするのは、あまり美的なこととはいえない。
追記1) (2020/08/03)
数学者の森毅は「信頼とは悪口の言える関係のことだ。たとえば、友人同士でここにいない別の友人の悪口を言うぐらいのことはよくある。そうした悪口はたとえば本人の耳にも入るものだ。絶対に本人の耳に入らないようようだと、それこそ陰口でいやらしい。そしてその悪口が本人の耳に入っても、友人関係は崩れたりしない。そうした関係が信頼というものである」といっている(『森毅ベストエッセイ集』ー池内紀編 ちくま文庫 筑摩書房 2019)。
筒井と森をとりまく人の質によって、悪口の考え方が違っている。一方は文芸関係者であり、一方はアカデミーの人々であった。
追記2) (2020/08/12)
井上泰至は『<悪口>の文学、文学者の<悪口>』(新典社新書 3、2008)で江戸時代の作家(芭蕉、西鶴、近松、蕪村、一茶、上田秋成らが発した悪口の読解を行っている。井上によると、文学者の悪口はけっこう多いそうである。文学には個性が要求され、こだわりをもつ作家は、いきおい悪口が多くなる。おまけに語彙が比較的豊富なので不自由しない。文学者の悪口がその作家の文学の本質とかかわっているとも言っている。