戒壇堂の下 


源平花桃 






吉城園に入りました。

沈丁花 

シャクナゲ 


リュウキンカ 

ミツバツツジ 

ユキヤナギ 

ボケ 

吉城園から氷室神社へ。
ここもインバウンドが驚くほどいっぱいでした。
氷室神社 

氷室神社の大きなシダレザクラが枯れてから、心にぽっかりと穴が開いたような感じがしています。
氷室神社のソメイヨシノ 



ナラノココノエザクラ 




奈良八景は、東大寺鐘、春日野鹿、南円堂藤、猿沢池月、佐保川蛍、雲居坂雨、轟橋旅人、三笠山雪です。
「轟橋」の石碑 


奈良九重桜 

ナラノココノエザクラは、奈良八重桜とは別の品種です。
この時期、奈良八重桜はまだ芽が出ている状態ですが、奈良九重桜は豪華に咲いています。
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http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm068.htmlに奈良八景のことが詳しく書かれています。
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以下はhttp://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm068.htmlからの引用
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轟橋旅人の轟橋がどこにあるのか、地元の人間も多くが首を傾げるのにちがいない。西大門跡の南は緑地帯となって、みどり池と呼ばれる南北に細長い池がある。水は濁って浅く緑色をおび、岸の松が影を落とす。西側の岸に「轟橋」と刻んだ石碑が立っている。石碑の前は雲居坂で、周辺に橋があるわけでもなく、説明もつかないので、事情に通じていない人には何のことかわからないだろう。
「轟橋」の石碑が建つちょうど前の歩道は、敷石とは異なって長方形の石が3枚並んではめ込んである。跨いで越えられるほどの、この石が、実は轟橋の跡なのだという。『大和名所図会』(1791年)の図版には、「とどろき橋」と記した溝板のようなものが、雲居坂を横断して興福寺の子院とみどり池をつないでいるのが描かれる。『奈良曝』(1687年)では、「轟橋。雲井坂の南ニみどりか池のほとりにわづか成はしあり。車三りょうならぶゆへにかくいふとかや」と説明する。『大和名所記』(1682年)も、「轟橋。東大・興福両寺の中間、押明の門(西大門)の南のほとり。此橋のならびの北に雲井坂あり」とあり、これらの図版、説明が根拠になって、轟橋石碑ができたことがわかる。
しかし、話はこれで終わらない。『奈良坊目拙解』(1735年)の中で、村井古道は異説を展開する。雲居坂が北に下り平坦になるあたりで、吉城川が東から西へ流れる。この川にかかる従弟井(いとこい)板橋=現威徳井橋が轟橋だと主張する。古道は、通説の轟橋を緑池樋口小橋とよんでいるが、それは樋口の溝に蓋をしたものであったことがわかる。それ程度のものを橋とすることに、合理主義者の古道は違和感を持ったにちがいない。
雲井坂の歩道に残る手前の三つ並んだ板石が轟橋の跡か。右手の芝生に立つ黒い石が「轟橋」石碑
古道は自己の説を証明するために、2つの理由をあげる。八景の順番は第四左保川蛍、第五轟橋旅人、第六雲居坂雨と続くが、これは地形的に左保川と雲居坂の中間に轟橋があったことを意味するから従弟井板橋が轟橋だという。もうひとつは、八景の半々が東大寺と興福寺に関わって設定されているから、緑池樋口小橋を轟橋だとすると興福寺に関わるものが五つとなってバランスが崩れるという。
古道の説の影響か、『大和志』(1736年)では、轟橋を「宜寸川(=吉城川)を跨ぐ」とする。また現代の『奈良県の歴史散歩』(1993年)でも、轟橋を「吉城川のほとりにあったらしい」と推測する。
『大和史料』(1914年)では、通説と古道の説を両方取り上げて通説に軍配をあげる。『大和史料』の図版で興味深いのは、「とどろきのはし」として四筋の平行線が引かれ、「みどりかいけ」に通じていることだ。これは今歩道に残る3つの板石との関連を思わせる。
通説の轟橋は樋口の蓋であって、これを橋と見るのは、古道ならずとも違和感はある。しかし、古道の従弟井橋もせいぜい小川にかかる橋でしかなく、八景に数えるには物足りなく感じる。
「轟橋」の石碑が建つちょうど前の歩道は、敷石とは異なって長方形の石が3枚並んではめ込んである。跨いで越えられるほどの、この石が、実は轟橋の跡なのだという。『大和名所図会』(1791年)の図版には、「とどろき橋」と記した溝板のようなものが、雲居坂を横断して興福寺の子院とみどり池をつないでいるのが描かれる。『奈良曝』(1687年)では、「轟橋。雲井坂の南ニみどりか池のほとりにわづか成はしあり。車三りょうならぶゆへにかくいふとかや」と説明する。『大和名所記』(1682年)も、「轟橋。東大・興福両寺の中間、押明の門(西大門)の南のほとり。此橋のならびの北に雲井坂あり」とあり、これらの図版、説明が根拠になって、轟橋石碑ができたことがわかる。
しかし、話はこれで終わらない。『奈良坊目拙解』(1735年)の中で、村井古道は異説を展開する。雲居坂が北に下り平坦になるあたりで、吉城川が東から西へ流れる。この川にかかる従弟井(いとこい)板橋=現威徳井橋が轟橋だと主張する。古道は、通説の轟橋を緑池樋口小橋とよんでいるが、それは樋口の溝に蓋をしたものであったことがわかる。それ程度のものを橋とすることに、合理主義者の古道は違和感を持ったにちがいない。
雲井坂の歩道に残る手前の三つ並んだ板石が轟橋の跡か。右手の芝生に立つ黒い石が「轟橋」石碑
古道は自己の説を証明するために、2つの理由をあげる。八景の順番は第四左保川蛍、第五轟橋旅人、第六雲居坂雨と続くが、これは地形的に左保川と雲居坂の中間に轟橋があったことを意味するから従弟井板橋が轟橋だという。もうひとつは、八景の半々が東大寺と興福寺に関わって設定されているから、緑池樋口小橋を轟橋だとすると興福寺に関わるものが五つとなってバランスが崩れるという。
古道の説の影響か、『大和志』(1736年)では、轟橋を「宜寸川(=吉城川)を跨ぐ」とする。また現代の『奈良県の歴史散歩』(1993年)でも、轟橋を「吉城川のほとりにあったらしい」と推測する。
『大和史料』(1914年)では、通説と古道の説を両方取り上げて通説に軍配をあげる。『大和史料』の図版で興味深いのは、「とどろきのはし」として四筋の平行線が引かれ、「みどりかいけ」に通じていることだ。これは今歩道に残る3つの板石との関連を思わせる。
通説の轟橋は樋口の蓋であって、これを橋と見るのは、古道ならずとも違和感はある。しかし、古道の従弟井橋もせいぜい小川にかかる橋でしかなく、八景に数えるには物足りなく感じる。
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