故郷の鹿児島から「さつま揚げ」が届いた。前後して届いたさつまの焼酎の肴にしながら戴いた。魚だけではなく野菜が混在していて、これまでのものと異なり美味しいさつま揚げであった。
故郷のことを思えば、脳裏のどの部分に仕舞い込んでいるのかはわからないけれど、育ててくれた親兄弟のことや、もいで食べた柿や琵琶や蜜柑の木々、ウナギやもずく蟹や海老を生け捕った美しい川の情景が懐かしく浮かんでくる。
都会では食糧難でろくなものは食べられないという時代に、今思うと何とも贅沢な田舎暮らしであったことが今更の如く連想されてくる。
今や日本の原風景であった集落は細り、子供の気配すらなくなりつつあるという。わが田舎も例外に漏れることなく、所謂限界集落の条件を整えつつある。その現状に至った遠因の一端が己にもある。
故郷では、人口が減少する中で、町では若者達が地元産業を活性化させようと果敢に奮闘していると年賀状で知らせてきた。
世界人口は毎年1億人ずつ増加する傾向にあると国連が発表している。一方で世界では温暖化による砂漠化が広がり、耕地面積は年々減少している。既に世界は食糧難でアフリカ諸国などでは子供達がその影響を受けているという。フランスなどヨーロッパ以外の国々は、食糧自給率を満たしていない。日本もTPPが実現以降は27%に落ち込むと農水省は公表している。
国はお金があれば、食料は調達できるとしているが、どこから調達しようとしているのであろうか。世界中が食糧危機になれば、争奪戦、つまり近隣国と食糧確保のための争いが起きるは必然である。
お金も人間が生きる手だてには無視できない。しかし、腹が減っては第一巻の終わりである。フランスのように100年先、1000年先の未来永劫に生きる国民のことを真剣に考えて、環境を守り、食糧を確保している国もある。食糧自給率は実に140%を保持しているという。つまり、国力を支えているのである。
現状のままでは、原発被害だけではなく、日本はそう遠くなく、食糧危機から都市部から飢えの社会が確実に訪れようとしている。人ごとではないのである。
農業生産は国内産業の2~3%だからと軽視している場合ではないのである。子供達の将来を口にする大人達は、食糧を100%確保する手だてを確立した上で講じて貰いたいものである。
農家は優遇されているなどとして、農村を軽視することは、長期的に見れば天に唾するの例えに他ならない。国や産業者が、これらの意識の中で産業の発展を論じ、講じて貰いたいと切実に切望する次第である。
何時の日か美味なるさつま揚げや美味しいご飯は限界集落だけで食べられることとなる日が来るかもしれない。
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