AOBATO'S PHOTO

花や鳥たちの美しさや可愛らしい仕草などを写真に修めようと奮闘中です。

感謝御礼

2013-06-11 20:34:02 | エッセー

昨夏から当ブログの書き込みを中止しておりましたが、この度8回のエッセーを書き込みました。

皆様には、多数のご訪問を頂き誠に有り難うございました。感謝です。

実は、ブログを再開するに当たり、ページをログインしようとしましたら、余りにも閉じたままだったため、IDとパスワードのチェックに遭いました。

ところが、以前は自動ログインため、それらを意識する必要がなかったため、すっかり忘れていて、家捜しして漸くメモを探し当てて、新たなパスワードを登録しました。

今度は重要メモ帳に記録しました。

次からは同じように、下手なエッセーを続けていきたいと思っています。

時間つぶしの可能な皆様には、今後ともお立ち寄り頂きますようよろしくお願いします。

AOBATO


メジロと暮らした日々

2013-06-10 19:02:00 | エッセー

 

生き方

大きさは僅か15gにも満たない小さく可憐なメジロとの出会いから顛末に至るまでが、私と妻の生き方に深い影響をもたらした。悲喜(ひき)交々(こもごも)と言うが、私らには彼らの悔いを払拭(ふっしょく)できることはない。私らの心の中では、メジロたちに取り返しのつかない悲運を与えたと自戒している。メジロたちのことは、いつも私達の心の中にあり、忘れることはない。冥福を祈る妻は今でも、毎朝「おはよう」と声をかけて、お椀に水を注いで与え続けている。それが妻の生き様であり、その生き方は、私や子供たちや孫たちの無事を支えてくれた祈りの様にも思える。メジロらとの関わりから自らの生き方をも会得できたと感謝の日々である。これはメジロらを介した私達と生き物たちとが関わったドラマの一コマであった。 おわり

 

 

添え書き

その後、平成9年秋に転居したが、冬になれば相変わらず庭にメジロや様々な小鳥らを呼び寄せている。ブログに貼り付けた写真は、最初から2回目までは、現在の職場近くで、野山椒の実を食べているメジロらと、その後のは我が家に訪れたメジロを撮影したものである。甘いものを常食すると記述したが、野山椒の実は秋にみのるが、山椒特有で一粒口にすると、驚くほど苦く辛く、口にしたことを汗しながら後悔するほどで、メジロが食するとは、想像だにできない実であった。

 

 


メジロと暮らした日々

2013-06-09 11:02:17 | エッセー

 

記憶力

 メジロたちとの楽しい生活は、80年から凡そ3年半続いた。それからは、積雪の頃になれば、メジロたちが空腹を満たすために、垣根の小枝に半割りした温州蜜柑を突き刺さして、それが食い尽くされていれば、同様に突き刺すというメジロたちとの関わり方で何年かが過ぎていった。

 95年のことである。私が勤務する職場に免税燃料に関わる調査のために、年配で男性の係官が来訪した。その来訪者に対応したのは私であったが、その係官が挨拶もそこそこに開口一番「貴方はメジロの許可証を申請された方ではないですか」と切り出した。丁度15年前の出来事は単なる私の個人的な趣味の申請ごとであったが、当時対応の係官には、その申請ごとが何故かただごとではなかったのかもしれない。メジロを捕獲して飼育するための制度はあっても当該申請者は、前述のように皆無が常識であったはずである。ただ単に最初の申請ごとであったと言うことか。されど役所のことである。何でも初物は手柄であって、私のそれが係官に慶事をもたらしたのかもしれない。不特定多数を相手にする職業の主は、余程のことがなければ、後にも先にもたった寸時で一度だけの面識を15年後まで明快に記憶に留めているなどは、通常有り得ないことである。まさしく記憶力の天才としか言いようがない。出願者は、対応者のことを、寸分の記憶すらなかったが、その驚きの記憶力の源に何があったのであろうか。役所では、担当課など部署が人事異動で変わるが、メジロの担当者は時が経ち、意外な担当官として私の前に訪れ、FMドラマなみの印象的な出来事を告げた。公務中の私事のことで、詳細を聞き逃したことが今では悔いとなっている。つづく


メジロと暮らした日々

2013-06-08 10:05:55 | エッセー

 

決別

この日も同じように日光浴をさせるために、雨戸やアルミサッシを開けたまま、かごを座敷に置いて、妻はお隣さんと寸時の用を足しに行き、つい話し込んでしまったようである。そしてものの10分後のことである。自宅に帰った妻が見たものは、昇天した2羽のメジロたちの無惨な光景であった。床箱の上で静かに横たわっていたという。何がメジロらに起きたかである。それは宿舎の周囲を徘徊している野良猫の襲撃を受けたためであった。これまで、メジロの敵は野良猫と蛇とイタチであるとして、そのことは毎日留意してきたはずであった。かごの中にいる生き物はこれらの襲撃を受ければ、逃げ場か無く、その結末は火を見るよりも明らかであった。その最悪な事態が現実となってしまったのである。幸せの絶頂期を謳歌(おうか)していれば、往々にして、ありがちな典型的な出来事であった。メジロらは野良猫に襲われた危機感から、生命力を使い果たすほどに暴れに暴れて絶命したであろう。彼らの貴重な生命を、私らは壮絶な恐怖を与えながら奪ってしまった。妻と共にそのことへの計り知れない悔いを背負うこととなった。同時にそこはかとない悲しみと絶望感を共有する事態となった。一月余り、脱力感を味会う日々であった。胸の辺りにトゲでも刺さっている様な日々であった。妻の口数が減り、買い物に出た妻は、軽度であったが接触事故を起こすなど、尋常ではなかった。これほどまでに、メジロらの存在は、私たちの生活に密接に浸透していたのである。それまで、私たちは信心深くはなかった。先祖が仏教徒であったことから著明な寺に妻を誘った。そして仏壇へ向かってそれぞれに合掌した。そして、もう二度と生き物は飼わないと二人で誓ったのであった。その年以来、毎年彼岸にはお寺詣りを欠かすことはなくなった。つづく


メジロと暮らした日々

2013-06-07 17:14:50 | エッセー

 

妻の日課

 メジロかごには、杉の薄板で拵えた上蓋(うわぶた)の無い幅20センチ、長さ30センチの長方形をしたかごに合わせた床箱が取り付けられている。その床箱の幅木の深さは3センチあって、その幅木に4カ所の穴が明けてあり、かごの材質である竹ヒゴの間から鋲(びょう)を差し込み、床箱をかごに固定してある。床箱面の上5センチにはかごの長さを活かして2対の止まり木があり、メジロらはこの止まり木に止まって排便をする。だから床箱には止まり木の下に山形に糞が溜まる。妻はこの糞の掃除がし易い様に、床箱面に合わせて新聞紙や折り込み紙などを切り揃えて置いて、毎日給餌の時には糞が山になっていれば底紙を取り替えてから給餌にかかる。餌椀はかごの内側にあるが、餌椀の耳には穴が明いており、耳の部分をかごから外に出して、その穴に爪楊枝(つまようじ)に似た棒を横向きに差し込むことで椀は固定できる。餌用と水用の二つの椀は、2本の止まり木の一つの両端にそれぞれ固定させてあり、それらの椀を掃除して餌と水を入れると餌やりは終わる。

 メジロは緑色をした美しい小鳥である。この美しさの源が何によって保持されているかは理解し難いが、この鳥はやたらと水浴を好むのである。週に1度か2度、小さめのどんぶり茶碗に水を入れて、2対の止まり木の間の床箱の板の上に置いてやると、メジロらは競う様にぴちぴちと両羽根をばたつかせながら、女性の沐浴(もくよく)ならぬ水浴を楽しむのである。暑い夏は当然の様に、寒い冬の日にもまた当然の様に浴びるのを拒まないのもメジロの特徴の様である。これによりメジロは本来の美白が美しいまん丸い目白と美緑がきれいな天然色を保持しているのかもしれない。晴れた日にはそのまま座敷に置いて日光浴をさせるのも妻の楽しみの日課であった。つづく


メジロと暮らした日々

2013-06-05 18:29:11 | エッセー

 

許可証

 話は前後するが、その当時、私の職業は公務員であった。昔の郷愁にとらわれて、思いのままにメジロを捕獲してしまったが、思い通りに飼育を継続しても良いものかと、そのことの是非が私の脳裏の一角で燻(くすぶ)っていた。そこで、翌月曜日の午後は、自らのことでもなく、家族のためでもなく、これから家族になるであろうメジロたちのために、休暇を申請して受理された。メジロを飼うことを、どこへ問うべきかもわからずに、昼過ぎに私の居住地の管内の振興局へ電話をかけると、農業関係の担当者に繋(つな)がった。メジロを捕獲した様子を話し、飼うことの是非を尋ねると「メジロは保護鳥なので、勝手に捕獲したり飼うことは出来ないことになっています」が最初の説明であった。「5羽を捕まえて、飼おうと思うので、それにはどういう手続きが必要ですか」に対して、「先ず捕獲のための申請を行って下さい。出来れば1羽にしてください」「ペットショップではたくさんいるではないですか」「最大でも2羽にしてください」という回答であった。「なーんだ2羽だけか」と落胆していると、「飼われるのなら飼育のための申請も必要です」なんともややこしい手続きが必要なのだと思いながら、「手続きはそちらに言って申請しなくてはならないですか」「そうして頂くと許可証がそれだけ早く出ます」とのことで、電話を置くと、手続きに必要な印鑑や身分証明書と手数料を準備して振興局へ行って手続きを済ませたのであった。

 メジロを捕獲してから3日目の昼休みであった。メジロらは餌に慣れて、水槽のガラスを突かなくなったので、水槽からメジロ用の一つのかごに2羽を移した。2羽は頸から胸に至る辺りが他のものより黄色が濃く容姿(ようし)端麗(たんれい)なものにした。それは私の目利きであり良いかどうかで判断したものではなかった。悲しいかな外れた3羽のメジロたちは、私らとの辛い思いのみを残したであろうが、水槽の中から外野へと離してやった。

 メジロの捕獲と飼育のための申請を願い出てから、2週間経った頃に府から1通の封書が届いた。それには許可証2通が同封されていた。その2通の許可証を、何か特別な免許証でも取れたかの様に、絶好調の思いで開いてみて「あっと驚いた」のである。

この許可証の制度が何時に制定されたかは定かではないが、伝統文化の中心とされてきている府にあって、「捕獲許可証  ○○府第1号[メジロ]」、「飼育許可証 ○○府第1号[メジロ]」であった。数多ある府内のペットショップには様々な野生動物が販売されていたり、多くの愛好者らに飼われているであろうが、このことの審議についてはさておき、雪の日曜日我が家に食い扶持(ぶち)を求めてやってきたメジロたちによって、法と行政が噛み合っていない現状を具に知らされた次第であった。されど、およそ2週間は無許可のままで捕獲と飼育可能となった行為に対して、行政はかなり寛大であった。そして府内は勿論、他の都道府県で飼われている闇メジロではなく、我が家では、府内唯一の正真正銘のほんまもんのメジロが飼えることとなった次第である。この許可証の希有(けう)な発行により、我が家では可愛いメジロとの楽しい生活が始まったのである。メジロかごは南向きの座敷の北側鴨居にかけることにした。妻が炊事場の蛇口を開けたり、電気掃除機を動かせば、メジロたちは、その音に反応して、興奮の余り美しく高らかな鳴き声で私たちを喜ばせてくれたものである。メジロの美声のお陰で、我が家はやたらと掃除機がフル回転していたものである。家族での国内旅行では、必ず自家用車で出かけてメジロらとメジロの餌は常に同行した。鹿児島の実家にも2度同行した。このように、二人の娘たちとの4人家族にとって、日々の暮らしの中に幸福感をこのメジロたちが与えてくれたのは、紛れもない事実であった。つづく

 


メジロと暮らした日々

2013-06-04 20:23:01 | エッセー

捕まえる

 冬の夕暮れの訪れは早く、3時半を過ぎる頃には薄暮の気配となる。その日の薄暮を迎える頃になると、再びメジロの集団が来襲した。私は、捕獲の目的を抱いて野菜用で直径35センチほどの竹ザルを、昼間に柿を置いた辺りに持って行き、ザルは内側が下になる様に傾けて倒れない様に支柱を当てる。支柱には、水道用の13ミリ塩ビパイプを長さ20センチにして、その下方に、玄関まで届く長さの凧糸を括(くく)りつけた。そのザルの下側雪の上には、昼間と同じ熟した柿を置いた。すると、空腹故のメジロたちは日頃の怖さを忘れてしまったかの様に、ザルの中の柿をターゲットに次々と急襲した。すかさずロープを引くと、ザルの中には1度に5羽がザルの中に閉じこめられた。

 鳥かごの準備は間に合わなかった。そこで私は、鳥かごの代わりに魚用の四角い20×30×30センチの水槽を準備した。ザルの中に閉じこめたメジロたちはそのままにして、ザルの手前から積雪の中に穴を開けながら、拳(こぶし)を差し入れて、1羽ずつ捕まえて5羽のメジロを水槽に入れた。以前のことを思い出して、水槽を大きめの風呂敷で覆った。その直後、私はおよそ20キロメートルの距離にあるペットショップまでメジロの餌を求めるために車を走らせた。以前はサツマイモを焼いてうどん茶碗大のすり鉢の中ですり潰し、ビタミンAが含まれるハコベなどの草の葉をまぜて、盃に取っ手となる耳の付いたメジロ用の椀に餌を入れて与えていたものであったが、ペットショップで入手したメジロの餌は、緑色の粉餌で5羽分ずつ袋詰めされていて、それを水で溶いてサツマイモのそれと同じ柔らかさにして与えるという簡便なものとなっていた。同時にメジロ用の鳥かごと椀も入手した。

翌朝になって、水槽に被していた風呂敷を外して、上側だけに下敷き大の2枚のベニヤ板を置いた。メジロたちは、いきなりのことでばたばたと羽ばたいて、嘴を水槽のガラスに向けたが、嘴の周囲の羽根が抜けることや、傷ついたりはしなかった。このように捕獲直後はかごではなく、水槽の様なものの方が、メジロを痛めることは無いと感じたものである。その後餌を作り、水槽の中のメジロたちに、二つの椀に餌と水とを与えた。そして、その日の夕刻のことである。水槽を覗(のぞ)くとお椀の中は、食い尽くされていたのである。つづく


メジロと暮らした日々

2013-06-02 17:35:00 | エッセー

メジロと暮らした日々

子供の頃の意気込み

 小学校5~6年生の頃であった。同年代の近所の男の子とメジロを飼って、その鳴き声を競おうと言うことになった。そのためにメジロの捕獲法を大人たちに習ったものである。準備するものに、メジロを捕獲するのに必要なトリモチと小枝、メジロがトリモチに止まったときに捕まえるための海老網、メジロが思惑通りに捕まった時に入れる鳥かごと風呂敷が欠かせない。もう一つ大事なことがあった。それは捕まえるための囮(おとり)となるかごに入ったメジロである。囮のメジロは、大人たちが飼っているメジロを借用出来ないかと依頼したのであった。運良く借りられれば、シャープペン大で長さ20センチほどの小枝に粘着性の強いトリモチを塗り、それを括り付けた囮の入ったメジロかごを、メジロが訪れそうな場所に吊り下げて置くと、野生のメジロがそのトリモチの塗られた小枝に止まる。すると重さの軽いメジロは動けなくなり、それを海老網でそっと捕まえる捕獲法である。

メジロ取りで最初に行うのがトリモチ作りであるが、これが子供には難しい作業であった。トリモチは、モチノキという樹木の樹皮を剥ぎ取り、そのまま小川に持参して直径30センチ位の平らな岩を探して、その上に置き、拳大の石で細かく叩きつぶして、粘着性の物質だけを残して繊維質を除去すると、トリモチ(鹿児島ではヤンモチという)が出来上がる。最初はどの木がモチノキであることなど皆無であった。友達の中には、それを心得ているものがいて、自慢たらしく教えてくれるのである。しかしモチノキに木肌の似かよったも他の樹木の種類が多々あったり、木肌だけでなく、葉の形や付き方を熟知しなければ理解しにくいモチノキでもあった。

トリモチを小枝に満遍なく塗り立てて、かごに括り付けて置き、それに野生のメジロが止まれば、両足の指がくっつきメジロは直立不動となる。けれども身軽とは言え、ものの数秒も経てば、自重でメジロはトリモチの付いた棒を軸に180度下方に回転してぶら下がってしまう。そうなればメジロは、棒から下方へと糸を引く様にぶら下がって、仕舞いには足が離れて、難を逃れることになる。その数秒間が捕獲の可否に繋がる一瞬である。だから海老網が必要なのである。このようなメジロの捕獲は、1度や2度ではなかなかうまくいかない。当時は冷蔵庫を利用することもなく、トリモチは1日経てば粘性が落ちるために、翌日も使えるというものではなかった。再度メジロの捕獲に挑戦するならば、初手のトリモチ作りから何回も挑戦しなければならない。やがて何度目かにやっとの思いでものに出来ることになる。

運悪く囮のメジロが借りられないことも再々あった。この様な時にも、トリモチを活かした捕獲法があった。それは、山中には、蜂蜜ではないが、甘い蜜に似た樹液を出す樹木がある。メジロは桜や寒椿などの花々であったり、熟した柿や蜜柑など、密や果糖類を餌として生きているのである。このようにメジロが、樹木の一部からしみ出ている甘い樹液を啄(ついば)んでいる光景を見かけたものである。その樹液をメジロが啄み易い位置に、トリモチを塗った小枝を横向きに設置しておいて、メジロのおでましを根気よく待つのである。

このようにして捕まえたメジロは、余りにも野生環境と異なる人為的環境とのギャップからなかなかかごに慣れない。捕獲され、かごに閉じこめられ鳥たちは、かごから逃げ出したいために、嘴(くちばし)を四六時中かごの外へと突き出す。そのために嘴の周囲の羽毛が剥(は)がれて傷が付き易くなる。この様なメジロの怖がる動きを静止させ、傷が付くのを塞(ふさ)ぐために、風呂敷でかごごと覆ってしまうのである。結果的に動物であるメジロも餌と水に有り付けるために2~3日で慣れて、異常な興奮から一段落しておとなしくなり止まり木を往復する様になる。つづく


メジロと暮らした日々

2013-06-01 17:07:57 | エッセー

メジロと暮らした日々 

思いがけず

80年2月の日曜日のことであった。前日から降りつづいた雪は、丹波地方に40~50センチの積雪をもたらした。ネズミモチの垣根で囲まれた平屋の小さな公務員宿舎の狭い庭の積雪は、それ以上のこんもり感があった。寝坊してそろそろ10時になろうかという頃、角形のスコップを手に玄関先の雪かきに出たところ、雪を被った垣根の小枝の中に、この辺りではめったに見かけることの無かったメジロの群れがチュウチュウと鳴き騒いでいる。子供の頃鹿児島の田舎で、飼育していた懐かしいメジロの来襲であった。久方ぶりにメジロたちを目の当たりにした私は、居間の果物かごに置きっぱなしとなっていた富豊柿を思い出した。ほどよく熟して柔らかくなっていた柿を半分に割って、垣根の内側のこんもりと積もった雪の上に置いて玄関先に後すざりすると間もなくのことであった。10数羽の小さなメジロたちが垣根の中から一目散に熟し柿を急襲し、むしゃぶりつく様に柿の果肉をつつき始めたのである。積雪のために餌にありつけていなかったのであろうか、それはまさしく怖さより食欲が勝っているメジロたちであったが、真っ白の背景に濃い目のオレンジ色、それに加えて濁りのない緑色の彼らが織りなすコントラストは、印象派の巨匠たちが描いた多くの絵画も、この生鮮な総天然色には勝るものではなく、その絶世の美しさに、私は暫し興奮気味に見とれ楽しんだものである。空腹を満たし我が家から飛び去ってしまってからも、彼らの生命維持へのすさましい戦いにも似た様が私の脳裏から離れ去ることもなく、歓喜と興奮の坩堝と化した余韻となって続くのであった。このような鮮烈な余韻の中で、私の思いは何時しか童心に戻っていたのである。強力な生命力を私の前で露わにした彼らと生を共にしたい願望が沸き立ったのである。つづく