何時咲いてくれるであろうかと心待ちしていた白いバラが高温下の8月18日に咲いてくれました。
1昨年の夏、妻の誕生祝いに、茨城で暮らす娘から届けられた花飾りの中にあった純白のバラが気に入って、挿し木してだおん鉢で育てきたのが咲きました。
思い入れがあるだけに、妻がこまめに水やりを欠かさなかった成果が、35℃を超す暑さの中で咲いてくれました。
娘らは、震災直後1ヶ月半ほど関西へ避難してきていましたが、その後は東日本各地の皆様同様に、日々の生き方を軽視できない状況下にあります。
どのような暮らしをしているのやらと、白無垢の美しいバラの花を愛でながら、思いを巡らしているところです。
写真下は昨日撮りました。
写真上は、朝方のやっとの雨の恵みで生気をみなぎらせた様子を今朝撮りました。
夏咲き種のバラであることがわかりました。
開花の喜びをバラにも娘にも心から感謝であります。
今年も高温と乾きに堪えながら、朝顔の原種とされる丸葉昼顔が咲き始めました。
この花は、私が最も気がかりで好きな花の一つです。
純白の花弁にブルーのスミ付けの美しさは、墨絵画家でも表すことは至難であろうと想像を巡らすほどに、素晴らしい色と模様を発現させる遺伝子ならではの表現であります。
この単純でシンプルさにその長所が認められるのです。
早朝に撮りましたが昼頃になれば。このブルーは淡いピンクに色変わりします。
清楚のイメージは色香のイメージに変化するのです。
今夏は高温のために、水やりが遅れると葉が縮れやすくなります。
また、涼しければ夜まで開いたままなのに、今年のように暑くて乾くため、午後の3時頃には花はしぼんでしまいます。
これから、3~4ヶ月間、霜が落ちるまで来る日も来る日も咲いてくれます。
毎年、お盆の頃になると民家の庭先や道路沿いで見かける植物があります。
写真の植物がそれで、緑白のコントラストが実に美しく、真夏にぴったりの清涼感があります。
真夏に目立つ植物なのに、名前はハツユキソウと言います。
白色の覆輪模様からイメージされたのだろうことが想像できます。
花は小さく、通りすがりでは気付かないほどです。
マクロで見てみると、小さな花に隠れて小さな実があり、これが雌花なのでしょうか。
この植物は、ポインセチアの仲間だそうで、何れも葉が観賞される植物であることには違いはありません。
今年は例年以上の猛暑に見舞われていますが、涼しげなこの植物のおかげで、暫し暑さを忘れることが出来ます。
昨日のことです。
いつものように山道を散策し、ひぐらしやアブラ蝉をターゲットに木立を注視している目前の楢の木に思いがけない玉虫に出会うことが出来ました。
凡そ10数年ぶりに出会ったと記憶しています。
玉虫は、エノキの葉を餌にしていると聞いたことがあります。
周辺の林の中にその木があるのかもしれません。
虹のような美しさと読んだことがありますが、植物を餌にしている玉虫は、外敵に襲われないための保護色なのだろうと、勝手に想像を巡らしています。
宝石のような美しさとも読んだことがあります。
そのようなイメージにも見て取れますが、木の葉の美しさも忘れてはなりません。
その美しさを玉虫は模していると、私は感じています。
玉虫との出会いが、私の山道散策が一層楽しみとなりました。
毎年花を付けてくれる樹木にムクゲがあります。
他の花と異なり、ろくに手入れもせずに、植えっぱなしにされ、余り目立たない花でもあります。
しかし、咲いてくれた花びらを注意深く観察すると、実に綺麗な花であることが理解できます。
花の模様も色香を漂わせて美しいですが、花粉のつぶつぶをアップして見れば、まるで蝶の卵のような形をしていることがわかります。
2~3mもの高い枝に咲いている花に、小さなアリさんらがうごめいています。
この花粉が目当てのようですが、ムクゲにしてみれば、これだけ多くの花粉の受粉にはアリさんらの力が不可欠なのでしょう。
それに花弁をアップしてみれば、着物地に描くことの出来ないような、微妙な紋様が美しい。
夏休みが終わる頃に鳴くのがひぐらしだと先入観がありました。
けれども、最近は夏休みが始まる頃からひぐらしは鳴いているのです。
所用があって、その帰り道、舗装をしてない林道に向かって近道をしました。
日陰の林道は涼しく、レギュレーターを明けながらの走行で、真夏とは思えないような爽快感を味わいました。
すると、周りの林の中からひぐらしの一斉に鳴く音が私の耳を劈くのです。
時は午後の3時を回った頃のことです。
誰かに号令でも掛けられているかのように、林一帯のひぐらしが一斉に鳴き一斉に鳴き止むの繰り返しなのです。
ひぐらしらのオーケストラを8トラック盤で聴いているような迫力なのです。
暫く、拝聴しそろりそろりとその場を移動するのですが、続く林の中では1~2km移動しても、その合奏はそのまま聞こえてくるのです。
おそらくは、合奏することで個々の居場所が特定できないように身を守るための彼らの策なのだろうと、そんな思いと、その余韻を味わいながら、緑陰ひぐらしオーケストラの会場を後にしました。