ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

心がざわざわ

2011年04月12日 | 日記
心がざわざわ

 大震災の発生から1ヶ月が経ちましたが、私の心はざわざわしています。

 あのおばさん達がいけないのです。東京都葛飾区の金町浄水場で乳児の基準を超える放射性物質が検出されたと発表の有ったあの日、おばさん達はどうしてハゲタカになってしまったのだろうか。乳児の母親の先輩としてスーパーの食品売り場におばさん達のバリケードを張って乳児の母親を守るという行動も取れただろうにと残念でなりません。

 震災発生直後1週間位のパニック買い溜めは、あれは仕方が無かったと思います。人間の心の働きは基本的に受動的で、自発するところはあまり有りません。心の働きは反応覚、反射覚といった面が強く、環境世界からの刺激に反応するかたちで現れます。ですからあの日の午後3時前におよそ5分間に及ぶ震度5の横揺れを経験し、地震が収まってテレビをつけるととんでもない大津波の画像が目に入って来た首都圏の住民達は、自然の大津波から、言わば玉突きのように心の大津波を起こしてしまいましたが、それは当たり前と言えば当たり前の事なのです。うちの夫婦は反応が鈍くて買い溜め等思い付かずに対応が後手に回りましたが、それでも1週間もすれば段々お米も、卵も、そして最後には水もガソリンも買えるようになりました。それは首都圏の住民達の心の津波が引いて行くような感覚でした。

 あのおばさん達はいけません。水の汚染が発表される前に地震は起きませんでしたし、発表も淡々としたものでした。心の働きとしてパニックを引き起こすような環境からの刺激は少なかったのに、あれはどうした事だったのでしょうか。もしあの後、2、3日乳児よりも長く生き延びられたとしたら、あのおばさん達は何を思ったでしょうか。罪の意識を感じたでしょうか、それとも2、3日余計に生きられたと満足したのでしょうか。あのおばさん達には、「起こった事は仕方が無い、ハイそれまでよ」という割り切りも選択肢として持って欲しかった。

 さて、私の心のざわざわには、他にも原因が有るようです。

 東北弁が聞き取れません。テレビで被災者のインタビューをしている時に、画面に字幕が出るとよく理解出来るのですが、字幕が無いと、その人が何を言っているのか分かりません。耳に入って来ません。東北弁には濁音が多く、また言い回しにも独特の物が有って、それは文法的には全く問題が無いのですが、熊本県出身の私には馴染の無い言い回しなのです。一般に、話を聞いている時に、私達は次に出て来る言葉をあらかじめ頭の中に用意しながら理解を早めようとしますが、熊本県出身の私が東北弁を聞いていますと、用意した言葉がヒットしないのです。また、同じ東北弁でも北の方と南の方では違うようですが、始めから聞き取れる量が少ないものですから、どこがどう違うのか、どうもはっきりしません。もやもやします。

 アメリカのオバマ大統領のコメントを字幕を見ながら理解するのと、東北弁を字幕を見ながら理解するのと、そう違いが有りません。これは同じ日本人として相当ざわざわしますよ。

 被災地の方々がこれから大規模に首都圏へ移住される事も予想されますが、その時に言葉の障壁が現れるかも知れないと思う時、私の心は更にざわざわして来ます。

 それにしても昨日から今朝にかけては余震の花火大会でしたね。



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