ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

霧島、高千穂、青島

2023年11月18日 | 日記
霧島、高千穂、青島

 私は今月で77才(喜寿)を迎えますので、そのお祝いに夫婦で南九州旅行をして来ました。行程は鹿児島では霧島神宮、知覧、開聞岳を望む九州最大のカルデラ湖の池田湖、薩摩半島最南端の長崎鼻、龍門滝、桜島を望む城山公園展望台と西郷洞窟。そして宮崎では青島、高千穂峡、高千穂神社でしたが、その中でも大変印象に残った霧島、高千穂、青島について書き留めます。

 霧島

 国宝霧島神宮には招霊木(おがたまのき)と言うのが有りまして、天の国で天照大神が天岩戸に隠れた時に彼女を誘い出すべくまわりの皆が歌い踊るのですが、その時にその木の枝を使ったのだそうです。霧島神宮の参拝が終わりますとこのツアーの添乗員の女性が、霧島へ来るといつも参拝しているパワースポットが有るので案内しましょうかと言うのでついて行く事にしました。天にも届くほどの杉の木立の中の小径を歩き進みますと小径の側溝からは霧が立ち上っています。しかしそれは霧では無く、側溝には温泉が流れていて湯気が立ち上っているのでした。雨上がりの森の中、湯気とも霧ともつかない靄(もや)の中、雨は上がっていても杉の木々の葉はなお雨水を溜(た)め残していてそれがぽつぽつと降って来ます。水溜まりを避けながらなおも進みますと、突き当りの3段の石段の先には岩を積み合わせた幅2m程の正方形の壇が有り、壇の上にはミニチュアとも表現出来る程の小さな社(やしろ)が鎮座していました。ここを山神社と言うそうです。そしてそこでは幽玄な雰囲気の中で、囲まれた杉の木立の湿気と共に社(やしろ)から何らかのパワーを浴びたと思い、私はそれに驚き、また圧倒されました。

 神話の時代、天の国の神々が地上に降りてみようと下を覗きますと霧に覆われた場所が有り、そこへ降りる事にしようと決めたのだそうで、これが霧島の地名の由来なのだと聞きました。

 高千穂

 高千穂峡は10数万年前の4度に渡る阿蘇山の噴火による火砕流が元で峡谷になったのだそうでして、高さが平均80mのV字峡谷が7kmも続いています。遊歩道の下り坂を歩いていますと峡谷の底には狭い清流が流れていて、それが時には深緑色に、また白色、水色、枯れ葉色、深い青色の4色に、更には日の光を反射して白くきらきらと光って見えます。峡谷の高さ、狭さ、そして細い清流の見せる時々の表情の変化には驚き、また圧倒されました。

 神話の時代、神々が地上に降りてみようと霧島を目掛けて目印に鉾を投げ下ろしますと鉾は霧島では無く高千穂の峰に刺さりました。そこで高千穂が天孫降臨の場所となったそうです。そして降臨したのは邇邇芸命(ににぎのみこと)、天照大御神の孫にあたるようです。

 青島

 1970年に私はベルギーから来た金髪美人のベアトリス・アドリアエンス嬢を案内し、レンタカーのトヨタ・マークⅡを運転して2人で鹿児島→宮崎→大分→熊本とドライブをしました。あれから53年、青島は、そして青島の鬼の洗濯板はどうなっているだろうか。

 青島は青空も砂も緑も海も全て澄み切っています。そしてその、天国に居るかのような景観に私は驚き、また圧倒されました。そしてあの思い出の鬼の洗濯板。青島の全てが変わらず53年前のまま、そして変わったのは私だけ。私はしばらくは玉手箱を開けてしまった浦島太郎の気分で波打ち際に立っていました。

 青島神社を参拝しますとその奥に青島神社の元宮(もとみや)が有ります。私達夫婦はビロウ樹の葉が日影を作る涼しい小径を歩き進み、そして正殿よりもずっと小さい元宮(もとみや)も参拝しました。

 神話の時代、ここ青島は海彦山彦の兄弟のお話で有名な山彦こと山幸彦の場所だったそうです。山幸彦は天孫降臨の邇邇芸命(ににぎのみこと)の息子で有り、また神武天皇の祖父にあたるようです。

 さてここまで霧島、高千穂、青島について書きましたが、夫々に質は違いますけれども、そこには驚きと圧倒が有りました。私が思いますに、この驚きと圧倒が原始宗教の始まりだったのでしょう。景観や雰囲気が私を驚かせ圧倒しますが、驚き圧倒されるのは私。驚かせ圧倒する現象世界と驚き圧倒される私は響き合っており、これが正法眼蔵で道元の言う「山動く」なのでしょう。

 人々は神社やお寺で手を合わせお願い事をしますが、これは3次的なもの。先ずは驚きと圧倒が有り、そこに感謝の念が生まれ、そこにお願い事は有りません。インドでギブアンドテイクのバラモン教が内省的なヨガに変容発展したように、宗教的にお願い事は3次的で薄いものですね。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨガ哲学の3つの分野

2023年11月01日 | 日記
ヨガ哲学の3つの分野

 ヨガの哲学は色々と考察しますけれども、それはだいたい次の3つの分野に入るのだと思います。ひとつは認識論、次は時間論、そしてもうひとつは心と体についての考察。それを以下に述べてみます。

 認識論

 認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象が有りますね。人は見たいように物を観ますので認識の対象と認識の表象は別物。世の東西を問わず、人々はこの主観と対象と表象の関係について悩んで来ました。西洋世界では認識の対象に神を介在させて絶対のものとし、認識の表象を如何に対象に近づけるかを考えましたが、ヨガの哲学ではそう言うアプローチはしません。

 インドのサーンキヤ哲学は二元論でして、世界の大元にプルシャ(霊性)とプラクリティ(現象世界)を立てて、そのいずれも実在すると主張します。ですからサーンキヤ哲学では認識の主観も認識の対象も認識の表象も実在します。

 次に、ヴェーダーンタ思想と仏教は、どうもこのサーンキヤ哲学を叩き台にしているようです。

 ヴェーダーンタ思想のンタは最後のとか後ろのと言う意味が有るそうでして、ヴェーダ時代の最後の思想と言う事になります。ヴェーダーンタ思想ではサーンキヤ哲学のプラクリティ(現象世界)をマーヤー(幻)で有るとして否定し、プルシャ(霊性)のみが実在すると主張し、現象世界の実体はブラフマン(梵)であるとし、ブラフマン(梵)が個人に内在する時、それをアートマンと呼びます。アートマンはサーンキヤ哲学のプルシャですね。ヴェーダーンタ思想では意識(霊性)が心を作り心が現象世界を作るのだと考えて、意識(霊性)だけが実在し、心も現象世界も実在しないと言います。これを認識論で言いますと、認識の主観だけが実在し、認識の対象も表象も実在しない事になります。ヴェーダーンタ思想は意識(霊性)の一元論です。

 仏教では現象世界は因縁、つまり因(直接の原因)と縁(間接的な原因)とで編み上げられた仮の姿だと言います。因と縁とで編み上げられた手毬の中身は空っぽ、これを空の思想と言いますが、手毬の中は空っぽなので真の我、真我などと言うもの(芯)は存在しません。これをサーンキヤ哲学で言いますと、プラクリティ(現象世界)もプルシャ(霊性)も実在しない事になります。これを認識論で言いますと、認識の主観も対象も表象も実在しない事になりますね。しかし、同じ仏教でも瑜伽行派の唯識説では少し違いまして、認識の表象だけが実在し、認識の表象と阿頼耶識(記憶の倉庫)との永遠の循環が実在すると主張しているようですね。しかし、おおまかにみますと、仏教はゼロ元論です。

 以上、インドのサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教の認識論について述べましたが、西洋ではこれに神を介在させますが、インド思想では神を介在させる事も無く、認識の主観と対象と表象の関係は相対的ですね。

 時間論

 私達は日常生活の中で、時間は過去から現在へ、そして現在から未来へと続く経過だと考え、定規の上に過去や現在や未来を置いて考えますでしょう。時計を見てもそうですね。過ぎた時刻と今の時刻とこれからの時刻が時計には有りますでしょう。しかし、ヨガではそうは考えません。

 有るのは「今」だけ。過去の「今」が転変して現在の「今」となり、そして未来が実現する時、それは転変している永遠の「今」です。

 時間とは経過では無く変化です。先の認識論を考えて見ましょう。認識は一瞬の事ですが、そこには時間(変化)が有ります。主観が対象を認識し、過去の記憶と照らし合わせ、また自我意識とも紐づけて認識の表象を作り上げますでしょう。ですから、時間が止まれば(変化が止まれば)、認識作用は停止し、世界は一瞬にして消滅します。バガヴァッドギーターの始めの方で、クリシュナはアルジュナに言います、「私はお前達のために活動を続ける。そうしないと世界は消滅するからで有る」。そしてナタラージャ(踊るシヴァ神)は転変する世界を踊り進みます。

 心と体について

 西洋の科学的な見方からだと思いますが、人間の主体は心で有り、心が現象世界を出来るだけ客観的に観察する努力をすると考えますでしょう。

 フロイトは精神分析で人の意識を三角形で表し、その三角形の底辺にイド(本能)を置き、その上に超自我(家庭や社会での教育による意識)を置き、更にその上に自我(理性)を置いて、理性を最上のものとして理性が本能を抑圧するのが健全な姿だと考えましたね。しかしこれは間違いです。本能(体)が言葉(心)を駆使してその正当性を主張し、複雑な人間社会を生き抜こうとする、これが人間社会の実態です。

 ここで体=本能、心=言葉、と定義しておきましょう。

 デカルトは「我、思う故に我有り」と言いましたが、これも間違いですね。人間は(複雑な)社会的な動物ですから、互いにコミュニケーションを取りながら生活をします。個人が本能剥きだしですと社会的に摩擦が起きますので言葉を使って社会生活を調整します。本能が言葉を使って己を正当化する、これが実態です。「我、有るが故に思う(言葉を使う)」が本当でして、心が体を使うのでは無く、体が心を使っています。ですから、心は謙虚な姿勢で体の声を聴くようにしましょう。インドでは本能の事をシャクティ(女性の性的なパワーを神格化したもの)と呼んで大切にしています。

 そうしますと心(言葉)は体の一部と言う事になりますので、人は死ぬとそのパーソナリティはどうなるでしょうか。人(体)が死にますと体の一部である心は働きを停止し、消滅します。そうしますとパーソナリティは心ですから、パーソナリティは体と共に消滅し、霊性だけが残ります。スピリチュアルの先生が「お爺さんがあの世であなたの事を心配していますよ」等と言いますが、あれは嘘です。お爺さんの霊性は死と共に自由になるのですから、霊性をお爺さんと言う制約の中にいつまでも閉じ込めていてはいけません。

 さて、インドでは輪廻転生を思想の前提として扱っていますが、我々日本人もそうでしょう。そうしますと輪廻転生の際には何が継承されるのでしょうか。心と体は死に際して消滅する事を先ず押さえておきます。

 ヨガの思想では、輪廻転生に際して継承されるのはカルマとサムスカーラだと言います。カルマは行いによって生じた偏り(負荷)、そしてサムスカーラは経験した事の記憶が潜在意識化する事で生じた偏り(負荷)の事ですが、カルマは消滅する心の働きでは有りませんから消滅せずに継承されるのが分かりますが、それではサムスカーラはどうでしょうか。経験した事の記憶、これは心の働きです。しかしそれが潜在意識化する時に言葉は消え、心では無くなります。これを本能に組み込まれる新しい経験とでも言えば良いでしょうか。火傷をした経験も無いのに子供が火を怖がる、これがそうでしょう。

 人が死にますと、そこには心も体もパーソナリティも無く、ただ霊性だけが燦然と光り輝きます(私はサーンキヤの立場ですから)。

 さてさて、随分長くなりましたが、これまで認識論、時間論、そして心と体についてと、ヨガ哲学の3つの分野について述べてみました。如何でしたでしょうか。












コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする