ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

覚えたくない

2010年02月26日 | 日記
覚えたくない

 ずいぶん前にNHKのドキュメンタリーを見ました。此度の世界同時不況の原因であるアメリカの投資銀行が、何故その暴走を止められなかったのかというテーマの番組でした。驚いたことに、世界のニュースに登場するような人達がインタビューに答え、番組はそれらの投資銀行や投資銀行のトレーダー達がなにを考え何をしたのかをよく伝えていました。

 業績が低迷していた投資銀行(日本では証券会社)業界のなかで1行だけが急速に業績を伸ばします。それは日本に例えるならばサラ金の債権を証券化して投資信託の中に混入させ、彼らの言う「金融工学」のことを知らない年金組合や投資ファンドに売りさばき、売り抜けては儲けを掠(かす)め取るという、倫理観のかけらも見えないやり方でした。他の投資銀行達もそのやり方に気がつき、その銀行からトレーダーを引き抜き、高額の給与を与えて新しい金融商品を作り出して売り上げを伸ばすという、無から無を生じさせるような仕組みが回り始めたのです。こうして投資銀行業界全体が「金融工学」を駆使した金融商品を売り出し、販売競争を激化させるのですが、スタートからその内部には「崩壊」の予兆がありました。

 トレーダーの引き抜き合戦によって新しい金融商品を作り出すので、トレーダー達の給与がどんどん上がって、投資銀行は売り上げは伸びるのに、その利益は投資銀行の社長とトレーダー達への給与として消えてしまい、投資銀行それ自体はいっこうに利益を確保出来ないのです。そうして、いつかは破綻すると分かっている金融商品を、「なんとかなるさ」という程度の確信のもとに売り続けていったのですから「なんともならない」のは当たり前のことでした。そうしてリーマンショックをきっかけに、信用という名のお金は投資銀行から潮が引くように逃げ出してしまいました。

 「レバレッジ」という言葉も出てきます。投資銀行が、担保の何倍ものお金を銀行から借りることなのだそうです。それまで投資銀行は売買手数料を稼ぐ仲介業(問屋)だったのですが、「金融商品」という商品を作って販売するという、メーカーに変化していたのです。ですからメーカーとしては商品に混入させるための「いかがわしい債権」を仕入れるための運転資金が必要になってきました。そこで「レバレッジ」を使って資金を調達した訳ですね。

 放送には出てきませんでしたが、「CDS」という言葉もあります。日本のバブル崩壊の時には無かった言葉です。「CDS」と言われても何のことだか。「クレジット デフォルト スワップ」の頭文字だそうです。いやいや、「クレジット デフォルト スワップ」と言われても何のことだか分かりませんね。

 日本のバブルの時には、例えば(1)という裏づけのある信用に、もうひとつ(1)という裏づけの無い信用を加えて合計(2)という信用を作り出して(2)のバブルが発生しました。それがアメリカの場合には、この(2)という信用に保険会社が(2)という信用を付けて(4)という信用を作り、(4)というバブルを作り出してしまったのです。投資銀行が作った金融商品に、もしこれが破綻したらうちが保証しますよという、これを「クレジット デフォルト スワップ」と言うのですね。

 いろいろと整理してみましたが、アメリカのバブルの発生と破綻は、「強欲」が生み出したものです。数々の洒落た言葉が出てきますが、根源は「強欲」です。

 一通りアメリカのバブルの経過を理解したその後は、どの投資銀行が最初に金融商品を作り出したのかとか、他の投資銀行の名前を覚えるとか、あるいは「レバレッジ」とは何なのかとか、「CDS」とは何かとかを、私の頭に記憶させて覚えているのは嫌だなあと思います。それらの言葉には「強欲」というものがひっついているからです。

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グラインドハウス・ムービー

2010年02月23日 | 日記
グラインドハウス・ムービー

 2007年公開の映画でグラインドハウス・ムービーと銘打った2本の映画を観ました。1本はロバート・ロドリゲス監督の「プラネット・テラー」、もう1本はクエンティン・タランティーノ監督の「デス・プルーフ」です。

 そもそもグラインドハウス・ムービーとは、1960年代の後半から1980年代の前半に渡って製作公開された低予算映画のことで、映画の観客は殆どが男性、アメリカでは24時間ぶっ通しの上映、日本では3本立ての3流映画、ただただ暇を潰すために観る映画で、思い出せる題名としては「世界残酷物語」「恐怖の植物人間」「愛欲の魔人島」「悪魔のいけにえ」「燃えよドラゴン」「saddist 邦題は悲しい奴」「フライング・キラー」「スナッフ」等々、思い出せる映画館は渋谷の全線座、東映地下、飯田橋名画座、荻窪オデオン座、新宿の地球座、地下ミラノ等でした。アメリカではロジャー・コーマンというへたくそな監督がその類でしたが、彼には若手を育成する才能があって、スティーブン・スピルバーグや「タイタニック」「アバター」のジェームズ・キャメロンを育てました。「フライング・キラー」はジェームズ・キャメロン監督の映画です。グラインドハウス・ムービーはその後のハードコア・ポルノの出現で姿を消してしまいました。そのグラインドハウス・ムービーを懐かしむ2人の監督がそれらしい映画を撮ろうと作ったのが冒頭に述べた2本の映画です。果たしてその出来栄えは?

 先ずはロバート・ロドリゲス監督の「プラネット・テラー」。米軍の基地内でのいさかいによって間違って放出された細菌兵器でゾンビと化したバケモノ達が周辺の住民達を襲い、住民達がそれをなんとかしのぐという単純なストーリーなのですが、ストーリーがなんとも分かりにくい。グロテスクな場面が次から次へと続く、それはいいんです。登場人物たちが意味の無い会話をする、その意味の無さがストーリーの理解の邪魔をする。エル・レイという名の青年がこの映画のヒーローなのだが、エル・レイの容貌があまりにチンピラ風なので、誰がこの映画の主役なのかがさっぱり分からない。ほとんど映画の終盤でエル・レイが主役なのだと分かる始末です。また、細菌兵器の専門家の青年がこの映画を転換させるキーマンなのですが、どうにも容貌がチンピラ風情で、これも観客がストーリーを読む邪魔をします。ヒロインのダンサーのセクシーダンスもカット割りがテキトーで、こっちに入ってこない。もしかしたらダンサーがへたなのでこんなカット割りでごまかしたのかとも疑ってしまいます。次の映画「デス・プルーフ」のセクシーダンスのほうがよっぽどいいです。この映画の救いは最後の戦闘シーンです。ヒロインのダンサーが片脚を失い、義足として着けたランチャー付きの自動小銃の乱射は見事、拍手喝采です。しかし、映画の最後が「ターミネーター」になってしまったので、笑うよりも泣きたくなってしまいました。

 次にクエンティン・タランティーノ監督の「デス・プルーフ」。「デス・プルーフ」とは「防水仕様」ならぬ「防死仕様」のことで、スタントマンがどんなに乱暴な運転をしても絶対に死なない装置を仕組んだ車のことです。元スタントマンの男が「デス・プルーフ」仕様のアメ車で女の子達を襲います。殺戮劇が2回あるので、映画は前編と後編とに分かれます。前編・後編共に、最初にかかる歌は「ベイビイ イッツ ユウ」、泣かせます。女の子達はとりとめのない会話を続けますが、その会話の効果が随所に出てきます。気の利いた伏線という訳です。さて、私の1番のお気に入りのカットがあります。カメラが女の子をズームアップしようとして逆にズームバックしてしまいますが、間違いに気がついたカメラはすぐにズームアップに戻ります。グラインドハウス・ムービーはお金が無いので、こういうことを平気でやるのです。この瞬間、私は渋谷の全線座の客席にフラッシュバックしていました。

 元スタントマンの男は「デス・プルーフ」仕様のアメ車を女の子達の車に激突させて殺戮するのですが、大型の自動車がクラッシュするので大迫力です。ところが後編の最後には手のひらサイズのリボルバー拳銃が形勢を逆転させます。大型アメ車とリボルバー。タランティーノらしい展開です。この映画にはまだまだ見所があります。携帯電話でメールするカット。ジュークボックスでレコード盤がセットされるカット。そして題名は知らないけれど次々にかかるポップ・ミュージック。

 グラインドハウス・ムービーはタランティーノの勝ち。ロドリゲスには初心に帰ってもらいたいものです。
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ブリジット・バルドーとミレーヌ・ドモンジョ

2010年02月19日 | 日記
ブリジット・バルドーとミレーヌ・ドモンジョ

 私の友人にワインを輸入販売する会社で管理職を務めている人が居ます。ワインに造詣が深く、昨年ヴィノテークというワイン雑誌に請われて小論文を掲載しました。内容は葡萄の収穫される土地やワインの語源を調べることでそのワインの本性を明らかにしようとする試みで、なかなかエキサイティングなものでした。私は少し別の視点から友人に質問をし、友人から回答がありました。

 友人の了解を得ましたのでここで内容をご紹介します。

 友人への質問

 貴君のヴィノテーク掲載の論文を読み、大変刺激を受けました。特に語尾に「ot」の付く単語の解説がおもしろかったです。ところでフランス女優のブリジット・バルドーやミレーヌ・ドモンジョもスペルの最後は「ot」だったと思いますが、そうすると、「かわいこちゃん」といった意味が入っているのでしょうか?

 友人からの回答

 おもしろいところに、気が付かれましたね。さっそくネットのフランス人名語源辞典で調べてみたら、以下のとおりでした。

 Brigitte Bardot ブリジット・バルドー 本名同じ---1934年9月28日生まれ パリ出身。オーヴェルニュ地方(リヨンの西側あたり)のアリエ県や東部地方に多い苗字。大抵の場合、Bard やBartのようなゲルマン系の名前の指小辞・愛称。Barta とは、現代フランス語のhache アッシュ「斧」のことを指すので、末尾に-otが付いていることから、「小さい斧」といった意味になると思われます。

 ここからは、私の想像ですが、ご先祖は樽職人だったかもしれません。というのは、アリエ県は、コニャックやフランスワインの樽の原材料である樫材の産地として昔から非常に有名で、アリエ県には今でも製樽工場がたくさんあるからです。当然ながら、樽作りには、斧や小斧は必須の道具です。

 なお、もうひとつの可能性として、ヴォージュ地方の同名の地名、Bardot から来ていることもあるそうです。このBardotのほうの意味は、「粘土質の土壌」だそうで、指小辞と関係しているかどうかは、今のところ不明です。

 Mylène Demongeot ミレーヌ・ドモンジョ 本名Marie-Hélène Demongeot マリー・エレーヌ・ドモンジョ---1936年9月28日生まれ ニース出身。Demongeotは、Demongeに、指小辞を作る-otが付いたもので、ブルゴーニュ地方のコートドール県やオート・ソーヌ県(ブルゴーニュの東側)に多い苗字。類語でDemangeもあります。Demongeの意味は、Dominique ドミニクと同じで、「主の」。また、mongeは現代フランス語のmoineムワーヌ「僧」のことを指します。従って、ご先祖は修道僧の家系の可能性が高いと思います。-otが付いているので、「小僧」でしょうかね。

 というわけで、どちらの名前も、-ot の付いた愛称または派生語なので、まさにヴィノテーク誌に載せた今回のエッセーと関連していると思います。
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チルチルミチル

2010年02月12日 | 日記
チルチルミチル

 私がワイン課に所属していました時に、ワイン課では通常の営業活動と併せて展示会への出展もやっていました。日常ワインの啓蒙や業務用の新製品の紹介をする為です。蛇口付きの小樽入りワイン(樽は偽者で、中にパック入りワインをセットする)等も展示したものです。展示会会場のブースを借りて商品を陳列し、期間中は営業部員が張り付くのですが、そういった時には会社の女子社員に手伝いを頼む訳にもいかず、マネキン会社の派遣を頼みました。そうしたマネキンさん達の中には才色兼備の人も結構居て、ワイン課のメンバーの1人はマネキンさんと結婚しました。

 ある展示会を私が担当しました時、やって来たマネキンさんは性格の良い、雰囲気のある美人でした。皆さんはマリナ・ブラディというフランスの女優をご存知ですか。イタリア映画の「女王蜂」などに出演したセクシーな女優でしたね。マネキンさんは若き日のマリナ・ブラディのような雰囲気を持っていました。マネキン会社からの書類に彼女の名前が書いてありましたが、古木ミチルと書かれていました。変わった名前だねと私が言うと両親が童話のチルチルミチルから取ったのだと説明してくれました。なかなか優秀だったので、彼女には何度か別の展示会にも来てもらいました。

 ワイン課からデパート課へ異動になった私はD百貨店も担当する事になりました。D百貨店では年に1度「世界の洋酒フェア」という催しをやり、私の会社も出展します。私はイギリスのビーフイーター・ジンの試飲販売を計画し、かねて使っていたマネキン会社にマネキンを頼み、ビーフイーターの衣装も社内で取り寄せました。ビーフイーターとはロンドン塔の番兵のことで、牛肉を食べる事を許されていたことが名前の由来のようです。ビーフイーターの衣装がどんなものかは、お酒屋さんでビーフイーター・ジンのラベルを見てください。赤い制服なのですがズボンではなくスカートをはき、その下は長い靴下です。

 マネキン会社からやってきた女の子はとんでもない美人でした。アメリカの女優のブルック・シールズをやさしくしたような面立ちです。彼女がビーフイーターの衣装に着替えると、それはもう、眩いばかりでした。なにしろ超ミニスカート姿なのですからたまりません。D百貨店の若者社員達は顔を赤らめて彼女の前を右往左往しています。マネキン会社からの書類を見ますと、名前は古木ミカとあります。古木さんとはどこかで聞いた名前だがと私は思いました。

 自分がワイン課に居た時にあなたと同じ事務所の古木ミチルさんという人にお世話になったのだけれどと言いますと、それは私の姉ですと彼女は答えました。お姉さんはヨーロッパに留学した事もあり、ピアノが専門だと言います。そして彼女自身は神田にある英語専門の短大に通っているのだそうです。

 D百貨店のお酒売場の係長さんも主任さんも彼女に魅了されている様子だったので、私はこの2人を誘って古木ミカさんとの4人でお昼を食べることにしました。係長さんも主任さんも大感激だったので、私はこんなに安く上がる接待は無いと気付きました。

 それから私は古木ミカさんに電話をしては出てきてもらい、係長さんと主任さんを誘ってD百貨店から遠くないスタンドバーに集まって4人で飲む会を何度かセッティングしました。彼女はその美貌に似合わず素直な性格で、私が電話しますと嫌な顔もせずに出て来てくれて、皆で楽しい時を過ごしました。飲み会が終わると皆でJRの改札を通り、「私達はこっちのホームですから」と2人のお客様に別れを告げ、お2人が見えなくなると私は彼女を連れてもう1度改札を出て、無線タクシーに乗って彼女を家まで送ってそのまま帰宅したものです。

 そんな事を何度か続けていますと、彼女は「父が心配している」と言います。父親としたらそれは心配でしょう、私が何者かも分からない訳ですから。私は彼女の母上に電話をして申し上げました。お嬢様のおかげで営業活動がうまく行っていて本当に助かっている事、ミチルさんもミカさんも太陽をいっぱいに浴びたようにまっすぐに明るく育っていらっしゃる、自分にも2人の娘が居るので彼女達のように育って欲しい事等々。母上は、上の娘ばかりにお金を掛けてしまって下の娘には同じ事をしてやれていない等と言われました。私へのご家族の嫌疑は晴れたようです。

 D百貨店の係長さんが結婚される事になりました。係長さんは私をメーカーの担当者ではなく友人として招待したいと会社に掛け合ってくれましたが、それはやはり無理でした。私は係長さんに古木ミチルさんにピアノの演奏をお願いしてはどうかと提案しました。そして、演奏の謝礼も必要だが、必ず彼女の席を用意して、1人分のコース料理を出すようにと付け加えました。披露宴の司会を務めた主任さんは、彼女の演奏は素晴らしくて大変披露宴が盛り上がったと報告してくれました。

 私は商社を経営している友人KMに頼んで彼の部下に来てもらい、キーホルダーを5個作ってくださいとお願いしました。キーホルダーの両面には古木ミチルさんとミカさんの顔写真が入っています。私は4人での飲み会にこれを持って行き、皆に配って言いました。「本日古木ミカ・ファンクラブ友の会を結成します。これからはこのキーホルダーが会員の証です」。お姉さんのと合わせて2個のキーホルダーを手にした古木ミカさんは本当に嬉しそうでした。

 私の先の妻に乳がんが見つかったのはそれからすぐの事でした。手術は成功し、先生は「もう再発はしませんよ」と言ってくれましたが再発しました。妻の告別式に古木ミカさんは参列してくれました。D百貨店の係長さんが伝えてくれたのでしょう。

 私のキーホルダー箱にはあのキーホルダーも入っています。キーホルダーでは日本のマリナ・ブラディとブルック・シールズが今も微笑んでいます。




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ロングステイ

2010年02月05日 | 日記
ロングステイ

 私は出身が九州のためか夏の暑さには強く、一方冬の寒さには弱い体質のようです(もっとも最近では夏の暑さにも弱くなってきましたが)。在職中私はほとんど営業職だったので外回りが多く、東京の冬の寒さはこたえました。ですから私も55才を過ぎた頃から、リタイアしたら1月か2月の寒いシーズンには海外の暖かい所でロングステイしたいものだと思うようになりました。ロングステイといえば第1の候補はハワイとなるのですが、ハワイはアメリカ有数のリゾート地なので物価が高い。とても年金で暮らせるようなプランは立てられません。そこでもう少し安く上がる所を探すことにしました。

 2005年の2月にはサイパンへ行って見ました。ロングステイの条件として私は成田から乗り継ぎの無い直行便のある場所と決めておきました。日本で何かあった時にすぐに帰国する必要があるからです。その点サイパンへは直行便で往復しますし、成田から約3時間というのも魅力です。サイパンではガラパン地区のホテルに泊まりました。ガラパン地区はサイパンでも1番の繁華街だとガイドブックには書いてありました。ホテルにチェックインすると妻と私はガラパンの街を歩いてみました。歩道の一部は舗装されておらず、砂埃が舞い上がっています。商店の看板のペンキは剥がれっ放しで、まるで昔の映画の「OK牧場の決闘」のオープンセットのようです。歩道には猫の死骸が放置されていました。街の中心部へ行くと韓国の足裏マッサージの呼び込みのうるさいこと。

 ホテルに戻って気が付きましたのは、ほとんど日本語が通じない事、そして私の英語が通じ難い事でした。又、ホテルのサービスがハワイと比べると大変のんびりしています。室内のセイフティボックスが故障していたので直してくれと頼んだら、忘れた頃にやって来ました。又、滞在中に大きな地震があって室内の大型テレビが床に落ちてしまい、元に戻してくれと頼んだら、修理のおじさんがやって来たのは3時間後でした。

 冬に日本からサイパンにやって来る観光客はほとんどがリタイアおじさんのようで、それぞれにゴルフバッグを持っていました。彼等の現地での態度は横柄で、マナーも良くないようです。さて、私達が1番注目したのは食べ物でした。おしなべて不味いのです。ハンバーガーもハワイと比べて相当不味いし、コーヒーも美味しくない。私達の気持はだんだんサイパンから離れて行くようでした。

 妻と私はガラパン地区の中央にあるDFS(免税店)ビルに寄ったついでに、ビルの裏側を歩いて見る事にしました。ビルの裏側には表側と違って寂れた佇まいの街並みが有りました。アパートもいくつか有りましたが、私達が気になったのはアパートの窓でした。窓には鉄格子、しかもかなり太いものが入っているのです。「相当治安が悪そう」と私は呟きました。結局私達がサイパンでのロングステイを諦めるのには、食べ物が不味い事に加えて、あのアパートの鉄格子を見た事が決定的な要因となりました。

 サイパンは観光には良い所です。ビーチの水は綺麗ですし、太平洋戦争の戦地巡りの半日ツアーもなかなかの物です。バンザイクリフやラストコマンドポスト、それに余りに小さい日本軍の戦車。海上に出れば墜落した零戦の残骸も見られます。美しい風景があの戦争の悲惨さを際立たせています。皆さんにはなんだサイパンかと馬鹿にせずに、1度訪問されることをお勧めします。

 さて翌年の6月にはグアムへ行って見ました。今度は事前にグアムのタモン地区の繁華街に近いコンドミニアムと、繁華街にある安価なホテルを探しておきました。タモン地区の繁華街はハワイのワイキキと比べると幅も奥行きも無いひとつまみのエリアでした。サイパンのガラパン地区と比べるとグアムのタモン地区は山坂が多くダイナミックな地形をしています。妻と私はホテルから巡回バスで繁華街へ出て、そこから地図を広げて目的のコンドミニアムを探して歩きました。上り坂がきついのなんの。道の右側に別のコンドミニアムが有ったのでそこで地図を確認しているとコンドミニアムの中から白髪の白人のおじさんが出て来ました。私達を怪しいと思ったのか単に興味を持ったのかは分かりません。私が「近々リタイアするのです」と言うと「それはおめでとう」。「それでコンドミニアムを探しています」と言うと「それは結構」。私が「このコンドミニアムを探しているのですが」と地図を示すと、「この道を登った左側にあるよ」と教えてくれました。坂道を登って行くと目的の物件は有りました。プールも付いていて、プールサイドのデッキチェアでは日本人と思われる若い女性がグラビア雑誌をめくっています。フロントには誰も居ませんでした。私がフロントの電話を取ると、「ハロー」と応じてくれます。「ここのコンドミニアムを見学したいのですが」と言うと「どこのホテルにご滞在ですか」と聞きますので、「いやいや私はここのフロントから電話しているんですよ」と答えます。電話の向こうの女性は「すぐに日本人のスタッフを向かわせます」と応じてくれました。

 しばらく待っていると日本人の青年がやって来て、私達は彼の後についてエレベーターに乗って部屋を見せてもらいに行きました。部屋はステューディオというタイプで、簡単に言うとホテルのツインの部屋にミニキッチンが付いたものです。ミニキッチンは玩具のように小さく、バスタブも小さいものでした。部屋の掃除は週に1回してくれるそうです。案内の青年には名刺を貰っていたので、「お願いする時には電話します」と言って私達はコンドミニアムを出ました。妻と私は話し合いました。部屋が小さくて監獄みたいだ。繁華街への道は坂がきつく、毎日往復するとなればかなりつらそう、そして何よりも暑い。巡回バスで行けるスーパーに置いてある食品も鮮度が良くない。ロングステイをすると毎日の食事のことで妻の負担が重過ぎる。年中暑いグアムの監獄のように狭いコンドミニアムで単調な生活をして妻は食事の支度に不自由する、コンドミニアムでのロングステイはすっかり魅力の無いものになってしまいました。そして前に調べておいた繁華街の中の安いホテルを覗く頃には2人共グアムでのロングステイへの想いが消え去っていました。

 私の自宅は東京の郊外にあって周りには緑も多く、朝は屋根の上の野鳥の足音で目覚めます。山坂も適当にあって散歩コースもなかなかに良いものです。リタイアしてしまえば冬の寒さもあまりこたえなくなりました。早朝の出勤も無く、雪の中の外回りも有りません。会社員だった時には気付かなかった四季の移り変わりもなかなか楽しめます。結局私達は自宅にロングステイして慎ましく生活し、行きたい所が見つかったら海外のパッケージツアーに参加することにしました。お話がぐるっと回って元に戻り、まるで童話の「青い鳥」のようですね。


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