ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

無門関

2021年07月04日 | 日記
無門関

 株式会社春秋社発行、安谷白雲著の「無門関」を読み返して見ました。大学に入学した18才の時に読んで何が何だかさっぱり分からなかった本です。この本が出版された翌年に鈴木大拙が亡くなっていますので、あの頃はちょっとした禅ブームでしたね。

 「無門関」とは中国の宋の時代(日本では鎌倉時代)に無門慧開和尚が禅の修行者達の為に「公安」と称する禅の大切な問題48則を選んでこれを提唱し、南宋の理宗皇帝に献納した書だそうでして、主に唐の時代(日本では平安時代)のお坊さん達の公安が収録されています。

 この本を18才の時に読んでさっぱり訳が分からなかった理由は今では何となく分かります。中国人は詩を重んじますがインド人は理を重んじます。そして現代の日本人も理を重んじますので私もこれ等の公安の詩的表現に戸惑ってしまったのでしょう。今ではヨガ関連の本も沢山出版されていて解脱の構造についても明確な説明を読めますので良い時代になりました。しかし鈴木大拙はこの中国の詩的表現を好んだようですね。

 さて、安谷白雲さんは自ら見性をし、大悟徹底したと言われる程の人ですから説明の表現も親切で分かり易い(解脱体験をした人は親切で分かり易い言葉を使います)のですが、漢文による仏教の流れを受けていますので解脱体験の構造が明確には表現されていません。

 中国にしても日本にしても、お坊さん達がインドのサーンキヤ哲学やヴェーダーンタ思想を外道として排除せずに仏教を勉強していれば明確な説明が出来ただろうにと残念な事です。ヨガはインド思想の根本ですからヨガが分かればサーンキヤ哲学もヴェーダーンタ思想も仏教も良く分かって来ますし、これら3つの思想のどれを信条にしても良いのです。

 道元が宋に渡った時に中国の仏教は風前の灯だったそうですし、今の日本でも仏教は葬式仏教になってしまっていますね。中国でも日本でも、分からないのが有難いと言うので有ればその思想が廃(すた)れるのも当たり前でしょう。ヨガの練習から入るインド思想は大変分かり易く、このやり方が現在も脈々と続いているようです。

 さて安谷白雲さんにお話を戻しましょう。安谷白雲さんは見性を経験したあとも坐禅の研鑽を積んで大悟徹底しましょう、そして大悟徹底のあとには悟り臭さを残さないように更に研鑽しなさいと言います。そして解脱体験の中身は最初の見性の際でも大悟徹底の際でも同じだと言います。流石(さすが)ですね。安谷白雲さんは主観と客観の対立がいけないのだと言います。主観と客観と言いますと分かりにくいので主観と対象と言い換えても良いでしょう。そうしますとサーンキヤ哲学が思い浮かびますね。主観(心)と対象(環境世界)を区別するな、これはサーンキヤ哲学の教えです。サーンキヤ哲学では心と身体と環境世界は同根でひとくくりですから、安谷白雲さんもサーンキヤ哲学の用語を使えばもっと分かり易かったでしょうね。ラマナマハリシはヴェーダーンタ思想の人ですがその思想を説明しますのにサーンキヤ哲学の用語を多用しています。また安谷白雲さんは禅は薬、そして仏教の教理は処方箋のようなものだと言います。処方箋を睨んでも病気は治りませんし薬も飲まないと病気は治りません。うまい事を言いますね。

 「無門関」を読み終わりますと1つの問題が浮上して来ます。解脱体験は人間の全てを知るのに大切な体験です。そして解脱体験の時には自我意識が消滅し記憶が消滅し条件が消滅しますね。そうしますと解脱体験が続いている間は日常生活がうまく出来なくなります。日常生活では自我意識を駆使し記憶を駆使し条件を駆使しますから解脱体験の際には日常生活を助ける人が必要になりますし、ラーマクリシュナがサマディ(解脱体験)に入った際にはお弟子さん達が先生の命を守る為にお手伝いをしていました。

 日常生活をこの世と表現し解脱体験をあの世と表現するならば私達はこの世とあの世を行ったり来たりするのが望ましいようです。そして日常生活では自我意識や記憶や条件を駆使しますが、人生のここ1番と言う時には自我意識も記憶も条件も消滅させて腹の底から決断をする、これが良いようです。

 最後に、お話の本筋からは離れますが、「無門関」の中で安谷白雲さんが説明している仏教用語を紹介しておきましょう。末尾の(かっこ)内は私の感想です。

 正法眼蔵

 空を正の一字であらわしている。~ 法とは絶対差別の実相をさしている。~ されば正は内容の平等を示し、法は外観の差別を示したのであって、すべての存在を正法の二字で明確に示している。この事実を正しく見破るところの、心の眼を「正法眼」という。~ この正法眼を開くと、誰でもいっぺんに宇宙を占領することができて、絶対に不自由しない。それを蔵という。(道元は正法眼蔵をここから持って来ましたか)。

 仏の三身

 仏の三身とは、法身(ほっしん)の仏と、報身(ほうじん)の仏と、応身(おうじん)の仏であって、これをまとめて、法報応(ほっぽうおう)の三身(さんじん)と呼んでいる。

 第一の法身(ほっしん)の仏とは、法をもって身とする仏であって、普通の仏教語では、仏性(ぶっしょう)または法性(ほっしょう)と呼ばれている(ヨガではダルマ、法と言いますね)。

 第二の報身仏(ほうじんぶつ)とは、万徳円満の人格(仏格)を成就なされたところの、目鼻を持った具体的の仏様である(これは人格神の事でしょう)。

 第三の応身仏(おうじんぶつ)とは、報身の仏が、衆生済度の必要に応じて、人間界を救うために、全く人間と同じ状態になって、教化活動をするところの仏様である(今風に言うならばアヴァタラ、アヴァター、化身ですね)。

 末尾の(かっこ)内に表現しましたように、日本語を、再度現代語に翻訳する必要が有ります。









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