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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

「マニュアル」と「恍惚」

2010年04月30日 | 日記
「マニュアル」と「恍惚」

 イスラム教がキリスト教や仏教などの他の宗教とどう違うのかという関心を私は持ってはいたのですが、あまり追求してみようという思いはありませんでした。それはおそらく私が若いときに本屋さんでちょっと立ち読みした岩波文庫の「コーラン」の内容がばかばかしく思えたことと、ただただ自分の教養のためだけにこの長い本を読みたくはなかったからだと思います。ところが最近鈴木紘司という人が書いた「真実のイスラーム(学習研究社刊)」という本を読んでみたところ、なにかに思い当たりました。ここではそれについて述べてみましょう。

 「コーラン」は商人ムハンマドが40才のときに初めてアッラーという神の啓示を受けてから63才で没するまでに受け続けた神の啓示を、ムハンマドが口述してそれを側近の人達がメモに書き続けたものを1冊の教典にしたものだそうです。イエス・キリストが自分を「神の子」と言ったり、ブッダが「自分の悟りを教えよう」と言ったのに対し、ムハンマドはあくまでも自分は只の人間であり、アッラーの神の啓示を伝えるだけで、アッラーの啓示とムハンマドの人格とは全く関係がないと言ったそうです。確かにムハンマドには宗教的な修行をした形跡がありません。このへんはずいぶんとキリスト教や仏教とは違いますね。

 さて、「コーラン」の内容なのですが、アッラーは唯一の神でありこの世の全てを創造したと述べる部分を除けば、ほとんどが現在の民法や商法や刑法にあたる生活の上での細かい規則が書かれているのだそうです。例えば「女性は衣で顔を覆いなさい」とか「お金を借りても利子は払ってはいけない」とか、離婚のしかたとか、一夫多妻にする方法とか様々です。これは今の言葉で言えば生活の「マニュアル」ですね。アッラーを唯一の神であると信じたうえで「マニュアル」に従った生活をして何の疑いも持たないとすれば、それはそれで穏やかな生活を送れるとも言えます。なにしろ何の疑いも持たないのですから哲学的な悩みなどは生じない訳です。

 イスラムの特徴のひとつは「マニュアル」です。

 さて、お話は変わりますが、私はお風呂で歌を歌うのが好きです。私のお気に入りはアメリカのカントリーソングです。

 最近私はお風呂で歌を歌うとき、変わった体験をします。自分がボケてしまったかと思うような体験です。私が歌を歌うときに、私はその歌の歌詞の意味も分かっていますし、節回しも分かっていますし、声の出し方も分かっていますし、息のつぎ方も分かっています。そうすると私が歌を歌っている間に私の意識が止まってしまうのです。私の口と喉と鼻が自動的に歌っています。私がハッと気がつくと、私がその歌の何番のどのあたりを歌っているのか、一瞬、分からないことが度々あるのです。これはどうもヨガの段階のひとつであるディアーナ(禅定)とは違います。ディアーナ(禅定)は意識の集中に続いて現れる体験ですが、これは「放心」によって生じる意識停止の体験なのです。

 「集中」による意識の停止と「放心」による意識の停止とは明らかに別のものです。

 待てよ、これはイスラムと関係があるかもしれない。

 「コーラン」は黙読するものではなく音読するものだそうです。そして「コーラン」はアラビア語以外で読んではいけないそうです。他国語に翻訳された「コーラン」はもはや「コーラン」ではなく、「コーラン」のパロディなのだそうです。

 「コーラン」には毎日5回のマッカ(メッカ)に向かっての礼拝の作法が書かれています。また、「コーラン」を読誦(どくじゅ)する際の注意もあります。「急いで速く読まないように」とか、子音と子音が繋がったときにはどう発音するかとか、読誦(どくじゅ)するときの息のつぎ方とか、「コーラン」の始めから終わりまでを何日くらいかけて読むべきかなど、懇切丁寧な指示です。

 アラビア語で読誦(どくじゅ)される「コーラン」にはアラビア語独特の響きがあり、独特の発声と韻律があるようです。「コーラン」を読誦(どくじゅ)する人達はそれこそ何百回も読誦(どくじゅ)している筈です。ですから、「コーラン」の内容が生活の中での具体的な行いを指示する「マニュアル」であっても、「コーラン」を読誦(どくじゅ)していると、その音楽的な性質が強く出てきて、やがてはその人達の意識を停止させ、続いては「恍惚」の境地に入らせてしまうのではないだろうか。

 イスラムのもうひとつの特徴は「恍惚」です。

 イスラム世界の善良な人達がアッラーを唯一神と信じて何も疑わずに「コーラン」の「マニュアル」に従って生活していれば、人々は心穏やかに生活できる筈です。なにしろ生活のあり方に疑問を持ったり、また哲学的な悩みが生じることもありません。
 また毎日5回の礼拝の際に「コーラン」の読誦(どくじゅ)をすれば、時として意識が停止し、また「恍惚」の境地に入って幸福感も覚えることでしょう。多くの人達にイスラムが受け入れられるのはこういうところなのかもしれませんね。

 それではこれがテロリストの場合はどうなるのでしょうか。「コーラン」に書いてある「マニュアル」はテロの正当性を裏付ける理屈にもなり得ます。またテロリストが「コーラン」を読誦(どくじゅ)すれば、彼らは時として意識を停止させ、また「恍惚」の境地も体験できますから、自爆テロも可能になろうかというものです。

 「マニュアル」と「恍惚」の宗教は多くの人々に幸福感を与えることが出来るのと同時に、一歩間違えれば悲惨な自爆テロのきっかけともなり得る危険性を孕んでもいるようです。最後に私は、イスラム世界を訪問したこともなく、また「コーラン」を通読したこともありません。たまたま鈴木紘司という人が書いた「真実のイスラーム(学習研究社刊)」という本を読んでインスピレーションを受けたものであることを再度申し上げておきたいと思います。

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旧約聖書の不思議

2010年04月21日 | 日記
旧約聖書の不思議

 旧約聖書のダイジェスト版を読んでみましたが、その中でこれはちょっと納得できないよという不思議な部分がいくつかあったので、それを取り上げて見ましょう。

 最初の不思議は天地創造のところにあります。神は6日間かけてこの世界を創造して最後に1日休んだとあります。そして神が地球を創ったのは3日目で、太陽と月を作ったのは4日目だとしています。1日というのは日の出日の入りの循環をみながら、つまり太陽と地球の関係のうえで計られる時間のことですから、地球と太陽とが作られた4日目より以前の1日はどうやって1日と数えられたのでしょうか。不思議なことです。
 神が実際に地球と太陽を作ったのは3日目と4日目だったけれども地球と太陽を設計したのは当初からだったのだと考えればそれも不可能ではないのですが、それでも宇宙全体からすれば星屑のようにちっぽけな存在である地球と太陽との関係をもって宇宙全体の時間を計るのは不自然なことです。
 これはやはり旧約聖書の書かれた何千年も昔の人達が、天地創造とはこんなふうだったのだろうと想像したのだとするのが自然でしょう。こんなお話もあるんだよとニコニコしながら牧歌的な昔の人々を偲べばいいのですが、実際にはそうではないようです。日本では古事記の「神つ世」や「中つ世」、あるいは「人つ世」について研究されていて「こんなお話もあるんだよ」の位置づけになっていますが、ユダヤの世界ではどうなのでしょうか。

 2番目の不思議はやはり天地創造のところにあるのですが、6日目の終わりに神の姿に似せて人間を創造したとなっています。これはどうでしょうか。
 人間は神という概念を想像するときに、神を人間の姿で想像します。そのほうが神のことをありありと想像できるからです。そして宗教体験が進んでいくと、神は人格を脱ぎ捨てます。このプロセスは自然な流れです。
 ところがここでは「人の姿に似せて神を想像する」のではなく「神の姿に似せて人を創造した」ですから大変です。これは強烈ですよ。人間が神の姿に似せて作られたとするならば、人間は他の動植物とは違う別格の存在だということになります。これは環境自然に対する人間の傲慢な考えと言わざるを得ないでしょう。今でもユダヤの世界ではこの説を信じているのでしょうか。不思議なことです。

 3番目に私が不思議に思うのは、紀元前1800年頃になされた神からアブラハムへの契約、そして紀元前1300年頃になされた神からモーセへの契約の更新です。
 神はアブラハムやモーセに対してほとんど一方的に契約を申し出て、自らがイスラエル(ユダヤ)の神になります。こんなことがあるのでしょうか。神は全世界を創造したのですから全世界を愛するはずなのに、イスラエル(ユダヤ)だけの神になろうというのですから、他の民族はたまったものではありません。これはえこひいきです。差別です。今日の言葉でいうと「競争入札」ではなく「随意契約」です。
 全世界を創造した神にしてみれば、自らイスラエル(ユダヤ)だけの神になることには何のメリットも無いはずです。これは本当に不思議なことです。大昔の人達ならともかく、現在のイスラエル(ユダヤ)の人達はこういうことに疑いを持たないのでしょうか。

 私の4番目の不思議は、神(ヤハウェ)が他民族カナン(パレスチナ)が信仰する神々を嫌うことです。カナン(パレスチナ)の神にはバアルやダゴンや金の子牛といった神がいるのですが、神(ヤハウェ)はこれらの神を嫌います。これが私には不思議なのです。
 神は全世界を創造したのですからバアルやダゴンや金の子牛といったカナン(パレスチナ)の神をも自ら創造したはずです。いってみればこれらの神々は唯一神(ヤハウェ)の創造物であり、子分な訳です。カナン(パレスチナ)の人達がバアルやダゴンや金の子牛を信仰したとしても、やがてはその向こうの唯一神(ヤハウェ)に突き当たる筈です。ですから唯一神(ヤハウェ)は他の神々を嫌う必要はないのです。
 
 それなのに神(ヤハウェ)がイスラエル(ユダヤ)の神となって他民族カナン(パレスチナ)の神々を嫌うのは、神(ヤハウェ)が唯一神の立場を捨てて、自らが創造した他民族の神々と対立する、つまりそれらの神々と並列する同格の神に自ら格下げをしてしまうことになりはしませんでしょうか。

 各民族ごとに神がいて、民族同士が対立するときに神々もまた同時に対立するとしたら、これはもう多神教だと言わざるを得ません。
 一般にユダヤ教は一神教でインドや日本などのアジアでは多神教だと言われていますが、これはどうも違うようです。インドや日本には沢山の神がいるのですが、その神はそれぞれの役割に応じてその名前が変わりますが、その神々の向こうには神々を秩序立てる、おおもとのスケールの大きな単一神が想定されていると私は考えています。そうしますと、ユダヤ教が多神教でアジアが一神教であるとも言えるのです。

 さて、これまで私は旧約聖書についての4つの不思議について触れてみましたが、私の5番目の、最大の不思議は、旧約聖書がイスラエル(ユダヤ)の人達から批判・検討を受けてこなかったのかということです。
 旧約聖書が書かれた頃の大昔の人達はともかく、少なくとも中世から現代まで、旧約聖書が批判・検討されるチャンスは何度もあったはずですし、また、批判・検討されるものだったと私は思うのです。宗教哲学の世界での創造のための破壊です。これがなされないと、宗教哲学はそれぞれの時代を生き生きと映しだすことが出来ません。
 旧約聖書が世界にも稀な一大叙事詩、つまり文学だと位置づけられるのならば何の手を加える必要もないのですが、宗教の拠って立つ聖典であるとするならば、これに対する内省・批判・検討が何よりも必要なのです。世界の多くの民族の中でも頭脳明晰と恐れられるユダヤの人達がこれらの作業をやっていないとすれば、それこそ最大の不思議ではあります。




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シカンディン

2010年04月16日 | 日記
シカンディン

 マハーバーラタは古代インドの偉大なバーラタ王朝の中でのパーンドゥ一家(良い方)とクル一家(悪い方)との壮絶な戦争を軸に描いた壮大な叙事詩です。戦争ですから一応(良い方)と(悪い方)を対立させるのですが、どちらか一方が良い人達ばかりで、またどちらか一方が悪い人達ばかりと言うわけでもありません。たしかにクル方の王子であるドゥルヨーダナとその取り巻きの何人かは人格が低劣ですが、渡世の義理でクル方に加勢する戦士達には立派な人達が沢山いますし、一方パーンドゥ方に加勢する戦士達の中には「この人はちょっと」と思われる人もいるのです。

 パーンドゥ方に加勢する戦士達の中で「この人はちょっと」と思われる人達の中にシカンディンという戦士が出てきます。シカンディンは女性なのですが男性になりすまして戦争に参加する弓の達人です。彼女の参戦の目的は敵方の指揮官で、バーラタ一族の全てから尊敬されているビーシュマ爺様を殺すことです。

 ビーシュマ爺様はシカンディンが女性であることを知っているので、クシャトリアとして女性に暴力を振るう訳にもいかずひたすらシカンディンを避けるのですが、ついにはパーンドゥ5兄弟の1人であるアルジュナとシカンディンの猛攻を受け、シカンディンの矢に射抜かれて絶命します。それでも「私を射抜いたのはアルジュナの矢だ」と言い張って、なかなかに頑固です。

 このシカンディンとビーシュマ爺様との関係は、シカンディンの前世からの因縁を語らないと分かりません。

 ビーシュマはガンガー女神(ガンジス河の女神)の息子です。彼は「生涯独身」の誓いを立てます。のちにバーラタ王朝の王になりますが、「生涯独身」の誓いがあるため跡継ぎが望めません。そこで彼の異母弟を跡継ぎにしようと決めて、この異母弟のために妃を探しに出かけます。この異母弟の息子達が後にパーンドゥ家とクル家とに分かれることになります。

 さて、カーシーの国に着いたビーシュマは3人姉妹の王女達を見つけ、この3人を彼の異母弟の妃にしようと考えます。3人の王女のうち2人はそれを承諾してビーシュマに連れて帰られるのですが、1人は断ります。彼女には彼女が思いを寄せる青年がいたからです。

 残された王女は青年に私と結婚してくださいと頼むのですが、彼は以前にビーシュマと格闘をして負けたことがあって、「私に勝ったビーシュマの申し出を断った女性と結婚するわけにはいかない」と断られてしまいます。

 青年に結婚を断られた王女はビーシュマのところへ行き、「こういう訳なので私と結婚してください」と頼むのですがビーシュマは「生涯独身」の誓いがあるため、これを断ります。「私の2人の姉妹は結婚して幸せになったのに私だけはこんなことになってしまった」と、この「残された王女」はビーシュマを恨みます。

 私が見る限りビーシュマの態度や行いに落ち度はありません。ですからこれは「逆恨み」ですね。また、「嫉妬」の感情も見えます。この「残された王女」はビーシュマを殺すことだけを念じて自ら火葬用の薪を組み上げ、そして火の中に身を投じてしまいました。彼女は再び女性としてこの世に生まれ変わってきます。その名をシカンディンといいます。シカンディンはビーシュマ爺様を殺すことで恨みを晴らし、また嫉妬の感情を解消しようとするのです。

 マハーバーラタは壮大な叙事詩でその中に色々な人達が登場して色々な物語が展開するのですが、一貫して語られていることは、人間の「感情」のなかで一番よくないのは「嫉妬の感情」だということです。

 女性の嫉妬はスリリングですが、男性の嫉妬は大きなもめごとの種になってしまいます。バーラタ王朝内の大戦争も、もとはこの「嫉妬の感情」から起こったものです。マハーバーラタに登場する人達は(良い人達)も(悪い人達)もそれぞれにいいところもあれば欠点もあります。また、何の落ち度も無い人が「嫉妬」の対象になったり「恨み」を受けたりします。

 現代にも通じることですね。私達も自らの「嫉妬」の感情を抑制するようにし、また「嫉妬」を受けることのないようにうに心がけたいものです。
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空海「般若心経秘鍵」

2010年04月09日 | 日記
空海「般若心経秘鍵」

 空海の「般若心経秘鍵」を読みました。「天才」という言葉では捉えきれない「怪人」という印象のある空海のことですから、どんな恐ろしいことが書いてあるのかと思ってしまいます。ましてや「秘鍵」ですから、それはもう、構えてかかろうというものです。

 ところが読み進めていきますと、まるで大学の先生が中学生に説明しているかのようにやさしく、また懇切丁寧に解説しているのです。
 たとえば「序文」に続く「題意」なのですが、数多くある翻訳のなかの鳩摩羅什(くまらじゅう)の翻訳によるものを取り上げますよとした上で、「仏説摩訶般若波羅密多心経」という経題について、「説」と「心」と「経」の3文字は漢語であり、あとの9文字「仏(説)摩訶般若波羅密多(心経)」はサンスクリット語を漢字に当てたものだと解説しています。「そんなこと、教えていただかなくても分かっていますよ」と言いたくなるほど懇切丁寧なのです。この態度は終始一貫しています。

 しかし、「親切な人だなあ」と思いながら読んでいますと、空海ともあろう人が何故こんなことにこだわるのだろうという思いに一撃されます。空海は「般若心経」の分離分解の作業に入っていくのです。まずは経典の全体を5つに分離します。そしてその5つを、それぞれ又いくつかに分解していきます。そして、この部分は「普賢菩薩」の教えに当たり、この部分は「文殊菩薩」の教えに当たり、この部分は「弥勒菩薩」の教えに当たり、この部分は「華厳宗」の教えに当たり、この部分は「法華経」の教えに当たり・・・と続いていくのです。

 私は「宗教とはもともと極めて個人的な体験であり、人と競ったり、人に強制するものではない」と思っていますので、このように「教義の区別」や「宗派の区別」を進めることには大きな抵抗があるのです。

 空海のこの不可解な行動を理解するために、私はこの本の書かれた背景を想像してみることにしました。時は平安時代です。おそらく空海は天皇や貴族達に仏教を教えたのでしょう。当時の天皇や貴族達にとって「仏教」は「個人的な体験としての宗教」ではなく、「教養」だったのだと思 います。「教養」は「知識」でもあります。ですから天皇や貴族達が空海に求めたのは「教養・知識」だったのでしょう。

 「教養・知識」を求める天皇や貴族達に対して空海は「般若心経」を一旦バラバラに分解して、分解した部分のそれぞれに「教義や宗派の別」を当てはめていったのでしょう。それはまるで、かるた合わせのようです。

 「なんだ、そんなことだったのか」と私はがっかりして本を閉じてしまいました。

 ところがしばらくして私は「おっ」と気がついたのです。「これは空海のたくらみだな」。一旦バラバラに分解してしまった各部分を元に戻せばいいのです。元に戻した「般若心経」の中には空海が延々と述べた「教義や宗派の別」が全て含まれています。そうすると「般若心経」の中で「教義や宗派の別」が一本化され、やがて溶けて無くなります。ここで「般若心経」は「極めて個人的な体験である宗教」へと変質するのです。さすがですね。これを「空海トリック」と呼びましょう。

 やはり空海はただものではなかった。

 最後に、「般若心経」の最後のマントラについては、私、空海の説明に納得できません。最後のマントラとは「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」と読まれている部分です。
 最澄はこの部分を翻訳しなかったそうです。翻訳できるのに翻訳しなかったのか、もともと翻訳できなかったのか私には分かりませんが、翻訳できるのであれば翻訳してしまうのが人情でしょう。

 空海の説明はこうです。はじめの「ぎゃてい」は声聞乗の人達の修行の結果を顕し、次の「ぎゃてい」は縁覚乗の人達の修行の結果を挙げ、「はらぎゃてい」は大乗の教えを実行する菩薩達の修行の結果を指し、「はらそうぎゃてい」は真言の完全な世界を求める人達の修行の結果を明かし、「ぼじそわか」は、以上の様々な教えによって究極的さとりに入る、という意味を説いているとするのです。なんだかやたらとこじつけがましいですね。

 ここで佐保田鶴治さんの説明する内容を引っ張り出してみましょう。カタカナで表示すればこうなります。「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」です。「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー」の4つの単語は次の「ボーディ」にかかる形容詞で、訳すると「至りたもうた 至りたもうた 彼岸に至りたもうた 彼岸に至り終わられた 女性の菩提菩薩様」となります。そして最後の「スヴァーハー」は「供物をさしあげますよ」といった意味の、マントラの慣用句です。マントラの最後をこれで閉じるのです。

 「最後のマントラ」についてのこの佐保田鶴治さんの説明を読んで初めて、私は長年の疑問を解消できたと思ったものです。

 さて、「空海トリック」の部分は、一旦バラバラにしたものを元に戻してみると「経文」として通読でき、その内容もよく理解できるのですが、般若心経「最後のマントラ」は「空海トリック」のように元に戻してみると、あの、こじつけのような内容は消えて無くなるのですが、前回のようには理解できません。「意味」が分かりません。どうもこれは「空海トリック」の部分と「最後のマントラ」の部分とは内容の「質」が違うのだと考えざるを得ないのです。多分、「般若心経」を空海に教えた中国のお坊さんも「最後のマントラ」の意味が分かっていなかったのでしょう。

 佐保田鶴治さんは、「最後のマントラ」よりも前の部分は薬の効能書きのようなもので、一度通読して理解したらあとは何度も読み返す必要はなく、ほんとうに大事なのは「最後のマントラ」だと言っています。まったくその通りだと思います。「ガテー ガテー パーラガテー ・・・」とマントラを唱えることによって、このお経の題名にもなっている「般若波羅密多」つまり「プラジュニャー パーラミター」と呼ばれる「最高の智恵を得た女性の菩薩」、これは次の「観自在菩薩」つまり「アヴァロキテ イーシュワラ」と同じ方なのですが、その女性の菩薩を念じることによってその中に入っていく心理的な働き、言い換えれば「我」が「真我」の中に入っていく禅定の働きこそが「般若心経」のほんとうに大事なところなのです。

 空海はここでひっかかったのでしょうか。

 空海が中国で仏教の勉強をしたあと、観光気分でもいいのでインドに立ち寄っていたら、そしてあの暑さのなかでの人々の日常生活に触れていたら、「般若心経秘鍵」の内容も少し変わっていたのではないかと思いながら、当時の仏教を学ぶ日本からの学生達がどんなに苦労していたかをつくづくと思い知らされました。

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輪廻転生

2010年04月02日 | 日記
輪廻転生

 佐保田鶴治さんの「ヨーガ・スートラ」という本を何10年かぶりに読んでいましたら、「輪廻転生」についての記述がありました。佐保田鶴治さんは大阪大学でインド哲学の教授を務めた人ですし、自らヨガ道場を主宰したほどの人ですから、深い瞑想の体験もあったでしょうし、また色々なインド哲学の経典を読んだうえでの記述だと思います。
 
 要約しますと、「輪廻転生」の考えはインド哲学の根底にあるものだが、そもそも「輪廻転生」とはどういうことか。「輪廻転生」というからには、前世から現世へ、あるいは現世から来世へと引き継がれるものがなければならない。もし引き継がれるものが無いと、それは「輪廻転生」とは呼べない。ただ誰かが死に、そしてまた、ただ誰かが生まれるだけのことである。引き継がれるものが有るからこそ「輪廻転生」と言えるのだ。

 なるほど、と私は驚きました。いや、虚を突かれたと言ったほうがいいでしょう。「輪廻転生」は私にとってごく当たり前の考え、あるいは思考の前提だったので、「輪廻転生」の内容については考えてもいなかったのです。

 それでは、「輪廻転生」の際に何が引き継がれるのでしょうか。佐保田鶴治さんは、カルマ(業)とサムスカーラ(行)だと述べています。

 カルマ(業)とサムスカーラ(行)についておさらいをしておきましょう。まずカルマ(業)とは、「人生での行いの善悪によって生じる負荷」のことです。前世で悪いことをした人は、その行いによって生じたカルマ(業)を背負って現世に生まれ、現世での行いによって背負っていたカルマ(業)を解消するという訳です。この考えは日本では広く一般的に通用していますね。おそらくそれは日本での仏教の歴史が長いため、日本人の心の中に定着してしまっているからなのでしょう。アメリカ人ならそんな考えは理解できないところですね。

 それではサムスカーラ(行)とは何でしょうか。それは「経験したことの記憶が潜在意識化したもの」です。日常的には「考えの傾向」や「気分」として現れます。また、眠っているときに夢として象徴的に現れます。たとえば、「昨日これこれの嫌なことがあった。だから明日もこれこれの嫌なことがあるのではないか」といった心の働きです。

 佐保田鶴治さんによれば、カルマ(業)は輪廻転生の1回分限りの継承をします。前世での行いによって生じたカルマ(業)を背負って人は現世に生まれてきますが、現世での行いによってそのカルマ(業)は解消し、来世に継承されることはありません。ただ、現世での行いによって新しいカルマ(業)が生じます。ですからこのカルマ(業)が今度は来世に継承される。つまり引き継がれるカルマ(業)は1代限りなのですが、1代限りのカルマ(業)が次々に生じることで「輪廻転生」は続いていくという訳です。これはスムーズに納得できるところです。

 一方、サムスカーラ(行)は違います。サムスカーラ(行)は生命として誕生した原初のときから、「輪廻転生」を繰り返すなかで、累積的に継承されるというのです。原初のときからの全ての記憶が潜在意識として蓄積されるというのですから大変です。ただ、前世は猫だったのが現世で人間になると、人間には猫の思考器官がありませんから、人間としての一生の間、猫としての潜在意識が顕在化することは無いという説明です。サムスカーラ(行)が累積的に蓄積される。本当でしょうか。

 ここは以前にもお話ししましたサーンキヤ哲学を持ち出してこないと先へ進めないようです。

 サーンキヤ哲学では世界を構成する原理として、「精神原理」である「プルシャ」と「物質原理」である「プラクリティ」の2つの原理を立てます。サーンキヤ哲学は二元論です。

 プルシャ(精神原理)は時間や空間の制約を受けることなく、ただ「有」ります。ただ「有」って、プラクリティ(物質原理)が展開するのを見ているだけです。

 一方プラクリティ(物質原理)は3種のグナ(性質)、つまりラジャス(激質)・タマス(暗質)・サットヴァ(純質)のバランスが崩れたときに展開を開始して、人間の心の働き→身体の働き→環境世界の働きへと世界を広げて行きます。

 人間が生まれたり死んだりするときにプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)はどのように働くのでしょうか。

 プルシャ(精神原理)は時間や空間の制約を受けることなく、ただ「有」ります。ですから人間が生きようが死のうが関係なく、ただ「有」ります。

 一方プラクリティ(物質原理)は展開をします。人間の心の働き→身体の働き→環境世界の働きへと広がって行きます。このときプルシャ(精神原理)がプラクリティ(物質原理)に寄り添っているため、人間の「心の働き」は「我こそが自分の本質である」と勘違いをしてしまいます。

 人間が生まれると、プラクリティ(物質原理)が展開を開始すると考えたらいいでしょう。人間はプラクリティ(物質原理)の展開の中で一生を過ごすのです。
 一方、人間が死ぬと人間は環境世界を認識できなくなって、環境世界は消滅します。また、人間の身体の働きも心の働きも止滅します。その結果元のプラクリティ(物質原理)だけが残ります。
 あるいはプラクリティ(物質原理)の展開したものが逆に収斂を始め、元のプラクリティ(物質原理)の中に戻ってしまうと考えてもよいでしょう。

 ここで残された人達の感覚器官はプラクリティ(物質原理)を認識することが出来ないので、残された人達には全てが消えてしまったと見えてしまいます。

 話を元に戻しましょう。「輪廻転生」が繰り返される中でサムスカーラ(行)は累積的に継承されるのでしょうか。

 サムスカーラ(行)は般若心経に出てくる世界を構成する5つの要素である五蘊、つまり「色・受・想・行・識」のなかの1つです。サムスカーラ(行)は「心の働き」です。サーンキヤ哲学の中では、「心の働き」はプラクリティ(物質原理)の展開したものです。

 もし人間が死んだときにプラクリティ(物質原理)の展開したものが止滅する、あるいは展開とは逆に収斂してプラクリティ(物質原理)の中に戻ってしまうとしたら、サムスカーラ(行)の働きは一旦止滅、あるいは原初の状態に戻ってしまう訳ですから、サムスカーラ(行)はサムスカーラ(行)ではなくなります。

 人間が死ぬときに一旦止滅したり、あるいは原初のプラクリティ(物質原理)に戻ってしまうサムスカーラ(行)が、もとあった状態で「輪廻転生」の際に引き継がれるとは考えにくいものがあります。いくら私の尊敬する佐保田鶴治さんの説だとしても理解納得することが出来ません。腑に落ちません。

 むしろサムスカーラ(行)に似たものが、「心配性である」とか「おおらかである」といった「性格」あるいは「考えの傾向」として親から子へDNAとして引き継がれると考える方がスムーズです。もちろんこの場合、親の「経験の記憶」が子に引き継がれることはありません。

 「輪廻転生」の際に前世から現世へ、あるいは現世から来世へと何かが引き継がれないとそれは「輪廻転生」とは呼べないとする佐保田鶴治さんの説はもっともですので、ここではカルマ(業)は引き継がれることとしましょう。一方サムスカーラ(行)については、「引き継がれる」という説をいつの日か「そうだったのか」と思える時が来るかもしれませんが、ここでは一旦考えを休止することとしましょう。

 追記

 スワミ・サッチダナンダという人が「サムスカーラ(行)は輪廻転生する」と述べています。そしてサムスカーラ(行)は「本能」として現れるのだと言います。「本能」が過去何代もの輪廻転生で積み重ねられてきた「経験の記憶の潜在意識化したもの」の現れであるとの説は、なるほど理解出来るような気がします。またラマナ・マハリシもサムスカーラ(行)は輪廻転生すると言っています。

 サムスカーラ(行)が考えの傾向、つまり性格として継承されるのでは無く「本能」として継承されるのであれば納得できる話ですね。



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