「マニュアル」と「恍惚」
イスラム教がキリスト教や仏教などの他の宗教とどう違うのかという関心を私は持ってはいたのですが、あまり追求してみようという思いはありませんでした。それはおそらく私が若いときに本屋さんでちょっと立ち読みした岩波文庫の「コーラン」の内容がばかばかしく思えたことと、ただただ自分の教養のためだけにこの長い本を読みたくはなかったからだと思います。ところが最近鈴木紘司という人が書いた「真実のイスラーム(学習研究社刊)」という本を読んでみたところ、なにかに思い当たりました。ここではそれについて述べてみましょう。
「コーラン」は商人ムハンマドが40才のときに初めてアッラーという神の啓示を受けてから63才で没するまでに受け続けた神の啓示を、ムハンマドが口述してそれを側近の人達がメモに書き続けたものを1冊の教典にしたものだそうです。イエス・キリストが自分を「神の子」と言ったり、ブッダが「自分の悟りを教えよう」と言ったのに対し、ムハンマドはあくまでも自分は只の人間であり、アッラーの神の啓示を伝えるだけで、アッラーの啓示とムハンマドの人格とは全く関係がないと言ったそうです。確かにムハンマドには宗教的な修行をした形跡がありません。このへんはずいぶんとキリスト教や仏教とは違いますね。
さて、「コーラン」の内容なのですが、アッラーは唯一の神でありこの世の全てを創造したと述べる部分を除けば、ほとんどが現在の民法や商法や刑法にあたる生活の上での細かい規則が書かれているのだそうです。例えば「女性は衣で顔を覆いなさい」とか「お金を借りても利子は払ってはいけない」とか、離婚のしかたとか、一夫多妻にする方法とか様々です。これは今の言葉で言えば生活の「マニュアル」ですね。アッラーを唯一の神であると信じたうえで「マニュアル」に従った生活をして何の疑いも持たないとすれば、それはそれで穏やかな生活を送れるとも言えます。なにしろ何の疑いも持たないのですから哲学的な悩みなどは生じない訳です。
イスラムの特徴のひとつは「マニュアル」です。
さて、お話は変わりますが、私はお風呂で歌を歌うのが好きです。私のお気に入りはアメリカのカントリーソングです。
最近私はお風呂で歌を歌うとき、変わった体験をします。自分がボケてしまったかと思うような体験です。私が歌を歌うときに、私はその歌の歌詞の意味も分かっていますし、節回しも分かっていますし、声の出し方も分かっていますし、息のつぎ方も分かっています。そうすると私が歌を歌っている間に私の意識が止まってしまうのです。私の口と喉と鼻が自動的に歌っています。私がハッと気がつくと、私がその歌の何番のどのあたりを歌っているのか、一瞬、分からないことが度々あるのです。これはどうもヨガの段階のひとつであるディアーナ(禅定)とは違います。ディアーナ(禅定)は意識の集中に続いて現れる体験ですが、これは「放心」によって生じる意識停止の体験なのです。
「集中」による意識の停止と「放心」による意識の停止とは明らかに別のものです。
待てよ、これはイスラムと関係があるかもしれない。
「コーラン」は黙読するものではなく音読するものだそうです。そして「コーラン」はアラビア語以外で読んではいけないそうです。他国語に翻訳された「コーラン」はもはや「コーラン」ではなく、「コーラン」のパロディなのだそうです。
「コーラン」には毎日5回のマッカ(メッカ)に向かっての礼拝の作法が書かれています。また、「コーラン」を読誦(どくじゅ)する際の注意もあります。「急いで速く読まないように」とか、子音と子音が繋がったときにはどう発音するかとか、読誦(どくじゅ)するときの息のつぎ方とか、「コーラン」の始めから終わりまでを何日くらいかけて読むべきかなど、懇切丁寧な指示です。
アラビア語で読誦(どくじゅ)される「コーラン」にはアラビア語独特の響きがあり、独特の発声と韻律があるようです。「コーラン」を読誦(どくじゅ)する人達はそれこそ何百回も読誦(どくじゅ)している筈です。ですから、「コーラン」の内容が生活の中での具体的な行いを指示する「マニュアル」であっても、「コーラン」を読誦(どくじゅ)していると、その音楽的な性質が強く出てきて、やがてはその人達の意識を停止させ、続いては「恍惚」の境地に入らせてしまうのではないだろうか。
イスラムのもうひとつの特徴は「恍惚」です。
イスラム世界の善良な人達がアッラーを唯一神と信じて何も疑わずに「コーラン」の「マニュアル」に従って生活していれば、人々は心穏やかに生活できる筈です。なにしろ生活のあり方に疑問を持ったり、また哲学的な悩みが生じることもありません。
また毎日5回の礼拝の際に「コーラン」の読誦(どくじゅ)をすれば、時として意識が停止し、また「恍惚」の境地に入って幸福感も覚えることでしょう。多くの人達にイスラムが受け入れられるのはこういうところなのかもしれませんね。
それではこれがテロリストの場合はどうなるのでしょうか。「コーラン」に書いてある「マニュアル」はテロの正当性を裏付ける理屈にもなり得ます。またテロリストが「コーラン」を読誦(どくじゅ)すれば、彼らは時として意識を停止させ、また「恍惚」の境地も体験できますから、自爆テロも可能になろうかというものです。
「マニュアル」と「恍惚」の宗教は多くの人々に幸福感を与えることが出来るのと同時に、一歩間違えれば悲惨な自爆テロのきっかけともなり得る危険性を孕んでもいるようです。最後に私は、イスラム世界を訪問したこともなく、また「コーラン」を通読したこともありません。たまたま鈴木紘司という人が書いた「真実のイスラーム(学習研究社刊)」という本を読んでインスピレーションを受けたものであることを再度申し上げておきたいと思います。
イスラム教がキリスト教や仏教などの他の宗教とどう違うのかという関心を私は持ってはいたのですが、あまり追求してみようという思いはありませんでした。それはおそらく私が若いときに本屋さんでちょっと立ち読みした岩波文庫の「コーラン」の内容がばかばかしく思えたことと、ただただ自分の教養のためだけにこの長い本を読みたくはなかったからだと思います。ところが最近鈴木紘司という人が書いた「真実のイスラーム(学習研究社刊)」という本を読んでみたところ、なにかに思い当たりました。ここではそれについて述べてみましょう。
「コーラン」は商人ムハンマドが40才のときに初めてアッラーという神の啓示を受けてから63才で没するまでに受け続けた神の啓示を、ムハンマドが口述してそれを側近の人達がメモに書き続けたものを1冊の教典にしたものだそうです。イエス・キリストが自分を「神の子」と言ったり、ブッダが「自分の悟りを教えよう」と言ったのに対し、ムハンマドはあくまでも自分は只の人間であり、アッラーの神の啓示を伝えるだけで、アッラーの啓示とムハンマドの人格とは全く関係がないと言ったそうです。確かにムハンマドには宗教的な修行をした形跡がありません。このへんはずいぶんとキリスト教や仏教とは違いますね。
さて、「コーラン」の内容なのですが、アッラーは唯一の神でありこの世の全てを創造したと述べる部分を除けば、ほとんどが現在の民法や商法や刑法にあたる生活の上での細かい規則が書かれているのだそうです。例えば「女性は衣で顔を覆いなさい」とか「お金を借りても利子は払ってはいけない」とか、離婚のしかたとか、一夫多妻にする方法とか様々です。これは今の言葉で言えば生活の「マニュアル」ですね。アッラーを唯一の神であると信じたうえで「マニュアル」に従った生活をして何の疑いも持たないとすれば、それはそれで穏やかな生活を送れるとも言えます。なにしろ何の疑いも持たないのですから哲学的な悩みなどは生じない訳です。
イスラムの特徴のひとつは「マニュアル」です。
さて、お話は変わりますが、私はお風呂で歌を歌うのが好きです。私のお気に入りはアメリカのカントリーソングです。
最近私はお風呂で歌を歌うとき、変わった体験をします。自分がボケてしまったかと思うような体験です。私が歌を歌うときに、私はその歌の歌詞の意味も分かっていますし、節回しも分かっていますし、声の出し方も分かっていますし、息のつぎ方も分かっています。そうすると私が歌を歌っている間に私の意識が止まってしまうのです。私の口と喉と鼻が自動的に歌っています。私がハッと気がつくと、私がその歌の何番のどのあたりを歌っているのか、一瞬、分からないことが度々あるのです。これはどうもヨガの段階のひとつであるディアーナ(禅定)とは違います。ディアーナ(禅定)は意識の集中に続いて現れる体験ですが、これは「放心」によって生じる意識停止の体験なのです。
「集中」による意識の停止と「放心」による意識の停止とは明らかに別のものです。
待てよ、これはイスラムと関係があるかもしれない。
「コーラン」は黙読するものではなく音読するものだそうです。そして「コーラン」はアラビア語以外で読んではいけないそうです。他国語に翻訳された「コーラン」はもはや「コーラン」ではなく、「コーラン」のパロディなのだそうです。
「コーラン」には毎日5回のマッカ(メッカ)に向かっての礼拝の作法が書かれています。また、「コーラン」を読誦(どくじゅ)する際の注意もあります。「急いで速く読まないように」とか、子音と子音が繋がったときにはどう発音するかとか、読誦(どくじゅ)するときの息のつぎ方とか、「コーラン」の始めから終わりまでを何日くらいかけて読むべきかなど、懇切丁寧な指示です。
アラビア語で読誦(どくじゅ)される「コーラン」にはアラビア語独特の響きがあり、独特の発声と韻律があるようです。「コーラン」を読誦(どくじゅ)する人達はそれこそ何百回も読誦(どくじゅ)している筈です。ですから、「コーラン」の内容が生活の中での具体的な行いを指示する「マニュアル」であっても、「コーラン」を読誦(どくじゅ)していると、その音楽的な性質が強く出てきて、やがてはその人達の意識を停止させ、続いては「恍惚」の境地に入らせてしまうのではないだろうか。
イスラムのもうひとつの特徴は「恍惚」です。
イスラム世界の善良な人達がアッラーを唯一神と信じて何も疑わずに「コーラン」の「マニュアル」に従って生活していれば、人々は心穏やかに生活できる筈です。なにしろ生活のあり方に疑問を持ったり、また哲学的な悩みが生じることもありません。
また毎日5回の礼拝の際に「コーラン」の読誦(どくじゅ)をすれば、時として意識が停止し、また「恍惚」の境地に入って幸福感も覚えることでしょう。多くの人達にイスラムが受け入れられるのはこういうところなのかもしれませんね。
それではこれがテロリストの場合はどうなるのでしょうか。「コーラン」に書いてある「マニュアル」はテロの正当性を裏付ける理屈にもなり得ます。またテロリストが「コーラン」を読誦(どくじゅ)すれば、彼らは時として意識を停止させ、また「恍惚」の境地も体験できますから、自爆テロも可能になろうかというものです。
「マニュアル」と「恍惚」の宗教は多くの人々に幸福感を与えることが出来るのと同時に、一歩間違えれば悲惨な自爆テロのきっかけともなり得る危険性を孕んでもいるようです。最後に私は、イスラム世界を訪問したこともなく、また「コーラン」を通読したこともありません。たまたま鈴木紘司という人が書いた「真実のイスラーム(学習研究社刊)」という本を読んでインスピレーションを受けたものであることを再度申し上げておきたいと思います。