愛と想像力
「愛」という言葉が有りますが、どう言う気持を「愛情」と言うのでしょうか。「大好き」、「可愛い」、「いつも気に掛かる」、「心配で仕方が無い」、「有るがままを認め、それを受け入れる」、こう言った気持ちは確かに「愛情」と言えるでしょう。また「愛」を「慈悲」とも言いますが、「慈」とは子を育み育てる、親の子に対する気持ちでしょうし、「悲」とは自分より早く衰え、また先に死んで行く親を思う子の気持ちと言えるでしょう。「愛」とは重たく深い気持ちですので、「これが愛だ!」と1度に表現出来るものでは無いようですが、これ等のような男女の愛や親子の愛の他にも「愛」と呼べるものが有るようにも思います。
何年か前にNHKの「ニュースウオッチ9」と言うニュース番組で大江健三郎へのインタビューをしていました。その時に、正確には覚えていませんが、大江健三郎は「近頃は政治家も、市民も、経営者も、労働組合も、ジャーナリストも、作家も、皆、想像力が乏しくなっている」と言った内容の話をしていました。そして「想像力とは相手の立場に立ってみる事、相手の身になってみる事だ」と続けていました。
この時に大江健三郎の言った「想像力」、これも「愛」と言えるのではないでしょうか。「私は妻を愛している」は「私は妻の立場が良く分かるし、何をどう思っているかが痛い程分かる」となりますし、「私は子供達を愛している」は「私は子供達の立場が良く分かるし、何をどう思っているかが痛い程分かる」となりますから、「想像力」も「愛」だと言えそうですね。このように考えますと「愛」は社会的にも広げられそうです。
「愛」が「想像力」によって社会的にも広げられるとしたら、それでは、もっと広げて「人類愛」はどう扱いましょうか。家族の間での愛なら相手が数人ですからなんとかなりそうですが、相手が人類ともなれば、とてもとても・・・。
でも、がっかりする事は有りません。自分という「個」を精密に観察して見れば「個」の中には人類の持つ普遍性がぎっしりと詰まっている筈です。ゴータマ・ブッダは自分という「個」を深く観察して、全ての人間が直面しているのは「苦」であると思い知りました。そして更に「苦」の原因は「執着」であると発見し、「執着」を断つ事で「苦」を「滅」する方法、技術までを獲得しました。これを「苦集滅道」と言います。ゴータマ・ブッダは「想像力」を「個」から人間の持つ普遍性にまで及ばせて、そして「人類愛」に到ったのでしょう。
おそらくゴータマ・ブッダが人類で初めて「人類愛」を獲得した人、人間の持つ普遍性を把握した人であろうと私は思っています。そして、「人類愛」と言いますと言葉が大きすぎて超人ででもないと持つのは不可能な気がしますが、人間の持つ普遍性なら私達のような一般人にでも把握出来ると思います。自分という「個」を精密に深く観察すれば、そこに人間の持つ普遍性は色々と思い当りますよね。
そしてまた、苦労の少ない人生を送った人達はどうしても想像力の引出しが少なく、なかなか相手の立場に立ってみたり相手の身になってみたり出来ず、つまり親身になる事が出来ず、冷淡でドライな「評論家」になりがちなようにも思います。気を付けましょう。「オール ユー ニード イズ ラブ」で有ります。
「愛」という言葉が有りますが、どう言う気持を「愛情」と言うのでしょうか。「大好き」、「可愛い」、「いつも気に掛かる」、「心配で仕方が無い」、「有るがままを認め、それを受け入れる」、こう言った気持ちは確かに「愛情」と言えるでしょう。また「愛」を「慈悲」とも言いますが、「慈」とは子を育み育てる、親の子に対する気持ちでしょうし、「悲」とは自分より早く衰え、また先に死んで行く親を思う子の気持ちと言えるでしょう。「愛」とは重たく深い気持ちですので、「これが愛だ!」と1度に表現出来るものでは無いようですが、これ等のような男女の愛や親子の愛の他にも「愛」と呼べるものが有るようにも思います。
何年か前にNHKの「ニュースウオッチ9」と言うニュース番組で大江健三郎へのインタビューをしていました。その時に、正確には覚えていませんが、大江健三郎は「近頃は政治家も、市民も、経営者も、労働組合も、ジャーナリストも、作家も、皆、想像力が乏しくなっている」と言った内容の話をしていました。そして「想像力とは相手の立場に立ってみる事、相手の身になってみる事だ」と続けていました。
この時に大江健三郎の言った「想像力」、これも「愛」と言えるのではないでしょうか。「私は妻を愛している」は「私は妻の立場が良く分かるし、何をどう思っているかが痛い程分かる」となりますし、「私は子供達を愛している」は「私は子供達の立場が良く分かるし、何をどう思っているかが痛い程分かる」となりますから、「想像力」も「愛」だと言えそうですね。このように考えますと「愛」は社会的にも広げられそうです。
「愛」が「想像力」によって社会的にも広げられるとしたら、それでは、もっと広げて「人類愛」はどう扱いましょうか。家族の間での愛なら相手が数人ですからなんとかなりそうですが、相手が人類ともなれば、とてもとても・・・。
でも、がっかりする事は有りません。自分という「個」を精密に観察して見れば「個」の中には人類の持つ普遍性がぎっしりと詰まっている筈です。ゴータマ・ブッダは自分という「個」を深く観察して、全ての人間が直面しているのは「苦」であると思い知りました。そして更に「苦」の原因は「執着」であると発見し、「執着」を断つ事で「苦」を「滅」する方法、技術までを獲得しました。これを「苦集滅道」と言います。ゴータマ・ブッダは「想像力」を「個」から人間の持つ普遍性にまで及ばせて、そして「人類愛」に到ったのでしょう。
おそらくゴータマ・ブッダが人類で初めて「人類愛」を獲得した人、人間の持つ普遍性を把握した人であろうと私は思っています。そして、「人類愛」と言いますと言葉が大きすぎて超人ででもないと持つのは不可能な気がしますが、人間の持つ普遍性なら私達のような一般人にでも把握出来ると思います。自分という「個」を精密に深く観察すれば、そこに人間の持つ普遍性は色々と思い当りますよね。
そしてまた、苦労の少ない人生を送った人達はどうしても想像力の引出しが少なく、なかなか相手の立場に立ってみたり相手の身になってみたり出来ず、つまり親身になる事が出来ず、冷淡でドライな「評論家」になりがちなようにも思います。気を付けましょう。「オール ユー ニード イズ ラブ」で有ります。