継続する「私」
世の中の世、世代の世、世界の世、この、世の漢字は30年を表しているそうです。時代の主流はだいたい30年で入れ替わると言う考えですね。人生を30年毎に区切って10才、40才、70才の自分を振り返って見れば良く分かります。10才の私はまだ子供で勉強中、世の中から教育を受けています。40才の私はまさに社会の真ん中で世の中を背負って仕事に家庭に励んでいました。そして70才の私はリタイアして年金生活、社会の変革については次の世代にお任せです。このようにだいたい30年で世代は入れ替わりますね(バイデンさんは期限切れ)。
さてここで世代は交代しますけれども私は私、10才でも40才でも70才でも同じ「私」(パーソナリティ)が継続して来たのが分かります。毎朝目覚めますと別人になっていた訳も無く、常に私は私でした。それではどうして私と言う主体(パーソナリティ)は継続していると感じるのでしょうか。年齢と共に身体も変わり体力も変わり考えも変わって来ましたが、そこにはいつも「私」が居ました。そして「私」とは何?
先ずは自我意識、「我有り」と言う感覚です。これをインドではアハンカーラと言います。ラマナマハリシが言いますように、一人称が無くなれば二人称も三人称も無くなり世界はひとつになります。私が、私と他人や環境世界とを区別するが為に「私」は実現します。自我意識(アハンカーラ)は私を構成する重要な要素ですね。しかし、自我意識(アハンカーラ)だけで継続する「私」が出来上がる訳では有りません。
それでは継続する私を特徴づける(決定づける)ものとは何でしょうか。
それは記憶です。子供が成長して行く時に記憶はどんどん積み増して行きますね。しかし記憶がどんどん増えて行きますとそれで頭はいっぱいになりますので、そうならないように、記憶は潜在意識の中に貯蔵されて行きます。この潜在意識の事をインドではサムスカーラと言います。仏教では阿頼耶識(あらやしき)とも言うようですね。潜在意識(サムスカーラ)は時々記憶として表面化しては私達に強い印象を与えます。
1人ひとりの経験した事の記憶がその人の人格を特徴づけまして、先の自我意識(アハンカーラ)とこの潜在意識(サムスカーラ)とがその人の人格(パーソナリティ)を決定づけると言えます。自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)が人格(パーソナリティ)に色を付けているのが分かりますね。
私達は自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)と今の観察とで出来ています。
さて、ここまでで継続する「私」の正体がだいぶん分かって来ましたので、今度は意識の次の段階へ進んでみましょうか。
ヨーガ・スートラでは最も退治する(消滅させる)のが難しいのがこの潜在意識(サムスカーラ)だと言います。心の働きを静止させ、更にこのやっかいな潜在意識(サムスカーラ)を消滅させたあとにやっとサマーディ(解脱)が実現する。そうしますとサマーディ(解脱体験)は継続する人格の消滅とも言えますね。
解脱体験(サマーディ)の中では継続する「私」は消滅します。しかし私は解脱体験(サマーディ)の中で死んでしまう訳では有りませんで、意識はまた元の私に戻ります。インドにはジーヴァンムクタ(生きたままの解脱)と言う言い方も有ります。
解脱体験(サマーディ)は継続する「私」からの跳躍とも言えますね。ヨガの境地を人格(パーソナリティ)の確認→人格(パーソナリティ)の消滅→消滅した人格(パーソナリティ)からの跳躍→真我(プルシャ、霊性)の輝き、とでも表現しましょうか。
ここで見地と言いますか、見方と言いますか、立場と言いますか、他の側面からもこれを眺めて見ましょう。
10才の私も「今」の私、40才の私も「今」の私、70才の私も「今」の私でした。ただ「今」が転変していただけ。そうしますとサマーディ(解脱体験)とは転変する「今」が転変から抜け出す事でも有りますね。
世の中の世、世代の世、世界の世、この、世の漢字は30年を表しているそうです。時代の主流はだいたい30年で入れ替わると言う考えですね。人生を30年毎に区切って10才、40才、70才の自分を振り返って見れば良く分かります。10才の私はまだ子供で勉強中、世の中から教育を受けています。40才の私はまさに社会の真ん中で世の中を背負って仕事に家庭に励んでいました。そして70才の私はリタイアして年金生活、社会の変革については次の世代にお任せです。このようにだいたい30年で世代は入れ替わりますね(バイデンさんは期限切れ)。
さてここで世代は交代しますけれども私は私、10才でも40才でも70才でも同じ「私」(パーソナリティ)が継続して来たのが分かります。毎朝目覚めますと別人になっていた訳も無く、常に私は私でした。それではどうして私と言う主体(パーソナリティ)は継続していると感じるのでしょうか。年齢と共に身体も変わり体力も変わり考えも変わって来ましたが、そこにはいつも「私」が居ました。そして「私」とは何?
先ずは自我意識、「我有り」と言う感覚です。これをインドではアハンカーラと言います。ラマナマハリシが言いますように、一人称が無くなれば二人称も三人称も無くなり世界はひとつになります。私が、私と他人や環境世界とを区別するが為に「私」は実現します。自我意識(アハンカーラ)は私を構成する重要な要素ですね。しかし、自我意識(アハンカーラ)だけで継続する「私」が出来上がる訳では有りません。
それでは継続する私を特徴づける(決定づける)ものとは何でしょうか。
それは記憶です。子供が成長して行く時に記憶はどんどん積み増して行きますね。しかし記憶がどんどん増えて行きますとそれで頭はいっぱいになりますので、そうならないように、記憶は潜在意識の中に貯蔵されて行きます。この潜在意識の事をインドではサムスカーラと言います。仏教では阿頼耶識(あらやしき)とも言うようですね。潜在意識(サムスカーラ)は時々記憶として表面化しては私達に強い印象を与えます。
1人ひとりの経験した事の記憶がその人の人格を特徴づけまして、先の自我意識(アハンカーラ)とこの潜在意識(サムスカーラ)とがその人の人格(パーソナリティ)を決定づけると言えます。自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)が人格(パーソナリティ)に色を付けているのが分かりますね。
私達は自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)と今の観察とで出来ています。
さて、ここまでで継続する「私」の正体がだいぶん分かって来ましたので、今度は意識の次の段階へ進んでみましょうか。
ヨーガ・スートラでは最も退治する(消滅させる)のが難しいのがこの潜在意識(サムスカーラ)だと言います。心の働きを静止させ、更にこのやっかいな潜在意識(サムスカーラ)を消滅させたあとにやっとサマーディ(解脱)が実現する。そうしますとサマーディ(解脱体験)は継続する人格の消滅とも言えますね。
解脱体験(サマーディ)の中では継続する「私」は消滅します。しかし私は解脱体験(サマーディ)の中で死んでしまう訳では有りませんで、意識はまた元の私に戻ります。インドにはジーヴァンムクタ(生きたままの解脱)と言う言い方も有ります。
解脱体験(サマーディ)は継続する「私」からの跳躍とも言えますね。ヨガの境地を人格(パーソナリティ)の確認→人格(パーソナリティ)の消滅→消滅した人格(パーソナリティ)からの跳躍→真我(プルシャ、霊性)の輝き、とでも表現しましょうか。
ここで見地と言いますか、見方と言いますか、立場と言いますか、他の側面からもこれを眺めて見ましょう。
10才の私も「今」の私、40才の私も「今」の私、70才の私も「今」の私でした。ただ「今」が転変していただけ。そうしますとサマーディ(解脱体験)とは転変する「今」が転変から抜け出す事でも有りますね。