ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

継続する「私」

2022年06月18日 | 日記
継続する「私」

 世の中の世、世代の世、世界の世、この、世の漢字は30年を表しているそうです。時代の主流はだいたい30年で入れ替わると言う考えですね。人生を30年毎に区切って10才、40才、70才の自分を振り返って見れば良く分かります。10才の私はまだ子供で勉強中、世の中から教育を受けています。40才の私はまさに社会の真ん中で世の中を背負って仕事に家庭に励んでいました。そして70才の私はリタイアして年金生活、社会の変革については次の世代にお任せです。このようにだいたい30年で世代は入れ替わりますね(バイデンさんは期限切れ)。

 さてここで世代は交代しますけれども私は私、10才でも40才でも70才でも同じ「私」(パーソナリティ)が継続して来たのが分かります。毎朝目覚めますと別人になっていた訳も無く、常に私は私でした。それではどうして私と言う主体(パーソナリティ)は継続していると感じるのでしょうか。年齢と共に身体も変わり体力も変わり考えも変わって来ましたが、そこにはいつも「私」が居ました。そして「私」とは何?

 先ずは自我意識、「我有り」と言う感覚です。これをインドではアハンカーラと言います。ラマナマハリシが言いますように、一人称が無くなれば二人称も三人称も無くなり世界はひとつになります。私が、私と他人や環境世界とを区別するが為に「私」は実現します。自我意識(アハンカーラ)は私を構成する重要な要素ですね。しかし、自我意識(アハンカーラ)だけで継続する「私」が出来上がる訳では有りません。

 それでは継続する私を特徴づける(決定づける)ものとは何でしょうか。

 それは記憶です。子供が成長して行く時に記憶はどんどん積み増して行きますね。しかし記憶がどんどん増えて行きますとそれで頭はいっぱいになりますので、そうならないように、記憶は潜在意識の中に貯蔵されて行きます。この潜在意識の事をインドではサムスカーラと言います。仏教では阿頼耶識(あらやしき)とも言うようですね。潜在意識(サムスカーラ)は時々記憶として表面化しては私達に強い印象を与えます。

 1人ひとりの経験した事の記憶がその人の人格を特徴づけまして、先の自我意識(アハンカーラ)とこの潜在意識(サムスカーラ)とがその人の人格(パーソナリティ)を決定づけると言えます。自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)が人格(パーソナリティ)に色を付けているのが分かりますね。

 私達は自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)と今の観察とで出来ています。

 さて、ここまでで継続する「私」の正体がだいぶん分かって来ましたので、今度は意識の次の段階へ進んでみましょうか。

 ヨーガ・スートラでは最も退治する(消滅させる)のが難しいのがこの潜在意識(サムスカーラ)だと言います。心の働きを静止させ、更にこのやっかいな潜在意識(サムスカーラ)を消滅させたあとにやっとサマーディ(解脱)が実現する。そうしますとサマーディ(解脱体験)は継続する人格の消滅とも言えますね。

 解脱体験(サマーディ)の中では継続する「私」は消滅します。しかし私は解脱体験(サマーディ)の中で死んでしまう訳では有りませんで、意識はまた元の私に戻ります。インドにはジーヴァンムクタ(生きたままの解脱)と言う言い方も有ります。

 解脱体験(サマーディ)は継続する「私」からの跳躍とも言えますね。ヨガの境地を人格(パーソナリティ)の確認→人格(パーソナリティ)の消滅→消滅した人格(パーソナリティ)からの跳躍→真我(プルシャ、霊性)の輝き、とでも表現しましょうか。

 ここで見地と言いますか、見方と言いますか、立場と言いますか、他の側面からもこれを眺めて見ましょう。

 10才の私も「今」の私、40才の私も「今」の私、70才の私も「今」の私でした。ただ「今」が転変していただけ。そうしますとサマーディ(解脱体験)とは転変する「今」が転変から抜け出す事でも有りますね。






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宗教はひとつ

2022年06月01日 | 日記
宗教はひとつ

 一般的なキリスト教徒の態度はインド風に言いますとバクティ・ヨガ(親愛のヨガ)ですね。そして更にキリスト教徒の中でも深い黙想の末に想念が停止し、その際に何らかの啓示を受ける事が有るそうですが、これはインド風に言いますとジュニャーナ・ヨガ(知恵のヨガ)と言えるでしょう。

 エジプトのナイル川沿い、ルクソールの近くで発見された「トマスの福音書」と言うのが有ります。新約聖書の福音書にはイエス・キリストの行いと言葉が記録されていますが、この「トマスの福音書」にはイエスの行いは書かれておらず言葉だけが記録されています。そしてこの「トマスの福音書」はキリスト教の中ではグノーシス派と呼ばれているようですが、その内容はまるでインドのヴェーダーンタ思想です。

 イスラム教の一派にスーフィー教と言うのが有りまして(現在は禁止されているようですが)、男達がダンスホールでくるくるくると回転します。そしてその最後の境地をファナーと言いまして、ファナーとは「消滅」の意だそうです。そうしますとファナーは仏教のニルヴァーナ(涅槃)に似ていますね。

 インド思想の目から見ますとキリスト教もイスラム教もまるで一緒のように見えます。

 さて、ヨガはインド思想の根本です。ですからヨガが分かって来ますと(二元論の)サーンキヤ哲学も(一元論の)ヴェーダーンタ思想も、そして(ゼロ元論)の仏教も分かって来ますし、更にはサーンキヤの発展形のタントラも分かって来ます。

 サーンキヤ哲学では大元にプルシャ(霊性、真我)とプラクリティ(現象世界)の2つを立てて、この2つが実在すると主張します。プルシャ(霊性、真我)は当初自分はプラクリティ(現象世界)で有ると錯覚しますがプラクリティ(現象世界)はプルシャ(霊性、真我)にダンスを踊って見せて「あなたはあなた、プルシャ(霊性、真我)なのよ」と教え、プルシャ(霊性、真我)は我に返ります。これをサマーディ(解脱)と言います。

 次にヴェーダーンタ思想。ヴェーダーンタのンタは最後とか終わりと言う意味だそうでして、ヴェーダ時代の最後の教えを意味します。インドにはウパニシャッドと言う膨大な哲学書が残されていて、このウパニシャッドをヴェーダーンタと呼ぶようです。ウパニシャッドでは世界の本質をネティ(違う)、ネティ(違う)、ネティ(違う)と思考を進めて事象の本質に迫ります。そしてついにヴェーダーンタは現象世界をマーヤー(幻)として退け、現象世界の本質はブラフマン(梵)で有る、そしてブラフマン(梵)が個人に内在する時に、それをアートマンと呼びます。アートマンはサーンキヤ哲学のプルシャ(霊性、真我)の事で、ですからプルシャ(霊性、真我)=アートマン=ブラフマン(梵)と言う事になります。ヴェーダーンタ思想はプルシャ(霊性、真我)=アートマン=ブラフマン(梵)の一元論です。

 次に仏教。

 仏教では現象世界の事は詳細に調べますがプルシャ(霊性、真我)を認めません。この世界は因縁、つまり因(直接の原因)と縁(間接的な原因)とが織りなす仮の世界で有るとします。因と縁と言う竹の皮で編み上げられた手毬を想像してみて下さい。因と縁とで編み上げられた手毬の中身は空っぽ、これを空の思想と言います。また現象世界も因と縁とで形作られた仮の姿ですから、仏教は現象世界も実在とは認めません。ですから仏教はゼロ元論と呼んでも良いでしょう。

 しかし、サーンキヤ哲学もヴェーダーンタ思想も仏教も、先にヨガの解脱体験が有って、それをどう理解してどう説明するかの違いですから、お互いに論争するのでは無く、自分の好きな思想を選べば良いと思います。

 さて、最後のタントラ。タントラはサーンキヤの発展形で有り、タントラではサーンキヤのプルシャ(霊性、真我)をシヴァ(ヨガの神様)と呼び、プラクリティ(現象世界)をシャクティと呼びます。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したもので、ハタ・ヨガの身体と呼吸と心の操作でシャクティを体の基底部からてっぺんまで上昇させて最後にはシヴァと合一させ、そこに歓喜が完成します。

 このようにサーンキヤ哲学もヴェーダーンタ思想も仏教もヨガを根本とするものでその根本に相違は有りません。また最初に述べましたようにキリスト教もイスラム教もインド思想の目から見れば一緒ですので、結局宗教はひとつと言う事になりますね。佐保田鶴治さんが「八十八歳を生きる」に書いていますように宗教とはただひとつ、「Who am I ?」の探求です。

 一般に世界の3大宗教等と言いますけれども、それは生活規範が違ったりお祈りの仕方が違ったりするだけで、言ってみれば枝葉末節。大元は一緒なのです。日本国内でも仏教の宗派によって唱えるお経が違うとかお線香の立て方が違うとか儀式作法をうるさく言いますけれども、宗教の肝はその向こうに有ります。

 宗教とは極めて個人的な思想体験で有り、キリスト教だイスラム教だ仏教だ、あるいは仏教の中でも浄土宗だ禅宗だ真言宗だ日蓮宗だと言いますけれども、それは佐保田鶴治さんも言っていますが宗教の手前の宗派と言う社会的な区別です。本当の宗教は「Who am I ?」ただひとつです。









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