ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

車の運命は

2013年07月26日 | 日記
車の運命は

 昨年の12月、車を運転していますと突然バッテリーの警告灯が点きました。近所のガソリンスタンドで見てもらいますと、車の発電装置が働いておらず、バッテリーへ電気が供給されていない、従ってバッテリーの残量だけで車は走っているのだと言います。車はどこまで走れるのだろうか。これは恐怖です。妻と私はそのまままっすぐに車のディーラーへ向かう事にしました。車がいつ止まるかハラハラしながら走って居ますと、バッテリーの警告灯は途中で消えてしまいました。

 ディーラーで車を見てもらいますと、メカニックのおじさんはバッテリーの警告灯が点いている状態でないと正確なチェックは出来ないと言います。どうして警告灯が点いて、そしてまた消えたのかと聞いて見ますと、寒さのせいかも知れないと言います。走っていて車が温まったら警告灯が消えたのかも知れない。メカニックのおじさんは、しばらく様子を見て、また警告灯が点いたらそのままいつでも来て下さいと言い、念のために修理する際の見積もりを作って見ますねと続け、しばらくして見積書を持って来ました。発電装置とベルトの交換で8万6000円くらい掛かるようです。

 それからバッテリーの警告灯が点く事は無く、車検も無事に通過し、私達夫婦はあの事件をすっかり忘れていました。

 7月10日、梅雨も明けた猛暑の中、私は車で近くのスーパーへ祭壇に飾るお花を買いに行きました。普段なら散歩がてらに歩いて行くのですが、この暑さは堪りません。スーパーから家へ戻っていますと、もうすぐ家と言う所で聞きなれない警告音が聞こえ、私は車を止めてみました。あのバッテリーの警告灯が点いています。家へ戻った私は妻に「あのバッテリー警告灯が点いたよ」と言いました。警告灯はまた消えるんだろうな。7月11日、12日と妻は車を使いました。私が「警告灯は点いた?」と聞きますと、「最初は点かないけど、じきに点いた」と言います。そして運命の7月13日。スーパーへ車で買い物に行った妻から私の携帯に電話が入りました。「色々な警告ランプが点いて、家まで走るかどうか分からない」と言います。

 私は、いくらなんでも家までは走るだろう、ディーラーに修理予約の電話を入れ、それから自動車保険の保険会社に電話をしてレッカー移動について問い合わせをしておこうと、ディーラーに貰っておいた見積書と自動車保険の保険証書を手許に揃える事にしました。すると妻が帰って来ました。ついに車が止まってしまったと言います。一緒に家を出て見ますと、家の前の公道に、車は少し残念な止まり方をしていますが、他の車の通行には問題が無いようです。しかしまあ、よくぞここまで戻って来たものです。車はどんどんスピードを落とし、なんとかかんとか辿り着いてここでアウトになったと言います。不幸中の幸いと言いましょうか奇跡的と言いましょうか、私ならとうの昔に諦めて停車していた事でしょう。

 用意しておいた保険証書を見てレッカー移動のお願いをしました。証書番号、こちらの住所、搬入先のディーラーの住所店名、私の携帯番号を告げて電話を切りますと、折り返し保険会社から電話が有り、40分程でレッカーが向かいますと言います。私はディーラーに電話を入れ、車の症状を話して午後4時前後にはレッカー車がそちらへ行きますと告げました。妻は、「最近はレッカー車じゃなくて積車の筈よ」と言います。自動車保険にはレッカー移動無料の特典が付いている筈です。

 レッカー車が来ました。妻の言う積車です。レッカーの青年は手際よく積車の荷台を地面に着地させ、ワイヤーを車に掛け、車のミッションをニュートラルにして車の外からハンドルを取り、器用に車を荷台へ引き上げました。まあまあ手際の良い事。青年は積車の際のチェック用紙にサインをもらい、ディーラーへ向かおうとします。「私はどうしたら良いのでしょうか」と私が間抜けな質問をしますと青年はしばらく躊躇したあと、「レッカーはタクシーじゃないんで本当は駄目なんですが、今回だけは良いですよ、助手席に乗って下さい」と言います。私がトラックの助手席に乗るのは会社の営業でビールの引き売り(前もってビールをトラックに積んでおいて酒屋さんを回り、無理にお願いして買ってもらう事)以来の事です。そして、そもそも車のレッカー移動等、私の人生で初めての事でした。

 ディーラーに着くと青年は器用に車を下ろし、私に挨拶をして帰って行きました。ディーラーではすぐに車を見てくれましたが、電源がすっかり無くなっているので応急のチェックも出来ない、ついては2、3日後に検査をして電話をします、その上で修理のお話を進めましょうとの事 でした。ディーラーの人がJRの最寄駅へ送ってくれ、私はうちの最寄駅からタクシーで帰宅しました。

 車がアウトになる直前にはブザーが鳴り続け、あらゆる警告灯が点きまくったといいます。バッテリーは勿論駄目でしょうが、発電装置の他にも影響が及んでいるのでは無いだろうか。修理代は20万円位かな、それとも30万円?廃車の心構えもしておかないと・・・等々、不安は募ります。

 翌々日の朝、ディーラーから電話が有りました。発電装置(オルタネーター)が基準の半分位しか発電していないので交換の必要が有る、またバッテリーがアウトなのでこれも交換、ついては約11万円掛かりますとの事でした。私がお願いしますと、これから部品を取り寄せるので、修理の出来上がりは20日になりますと言います。やれやれ、発電装置の故障は他には影響していなかったようです。20日にはディーラーから修理が終わりましたとの電話が有り、私達夫婦で車の引き取りに行きました。こうして車はやっと我が家に戻りました。

 これだけのお金を掛けて修理しましたので車にはあと5、6年は走ってもらいたいものですが、他の部分も劣化が進んでいるかも知れず、我が家の車の運命や如何にであります。






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エアコンが効かない

2013年07月19日 | 日記
エアコンが効かない

 今年の冬は大変寒く、本当に春は来るのだろうかと思っていましたら、ある日突然に春が来て桜が咲いたものです。そしてまた、夏は突然にやって来ました。7月6日に梅雨明けが発表されると次の七夕の日、つまり7月7日から連日の大変な猛暑が襲って来ました。まだ灯油ストーブの油抜きもやっていないのに、この突然の変化は堪ったものでは有りません。

 エアコンを点けますとどうもおかしい。去年までは28℃に設定すれば丁度良かったのに、27℃に設定しても冷え方が良くなく、エアコンの向こう端まで冷気が届きません。私はエアコンの吹き出し口に両手をかざしてみました。そうしますと吹き出し口の向かって右側からは冷風を感じますのに左側はどうも風力が弱い。吹き出し口の羽を左右に開きますとそれが良く分かりますし、また目を閉じてみますとかざした両手にはっきりと違いを感じます。

 妻がヤマダ電機に電話をして状況を説明しますと、折り返しに翌々日に修理に伺いますと返事が来ました。エアコンの構造は上部が空気の吸い込み口、中央が空気の冷却装置、冷却装置にはフィルターが掛かっています。そして下が冷気の吹き出し口になっています。うちではフィルターには掃除機をかけていますし、何年かに1度は冷却装置にエアコン洗浄をスプレーしています。ですから故障は冷気の吹き出し口の筈です。私は吹き出し口の向こうに2つのプロペラが付いていて、その左側のプロペラの回転が悪くなっているのだと考えました。プロペラを交換するとなれば部品取り寄せになるでしょうし、修理には何日掛かるのでしょうか。「修理している間、この暑さをどうしたら良いの」と妻が呟きます。なるようになるさ。

 ヤマダ電機から修理屋さんが来ました。修理屋さんは吹き出し口の上下風向調整板を器用に外してペンライトで中を覗きます。エアコンの中にはプロペラ等付いてはおらず、丁度ドラム式換気扇のようにローラーが回っているようでした。修理屋さんはこのローラーに埃が付着して目詰まりを起こしているのだと言います。修理屋さんはエアコンを「まろやか運転」にしたまま、つまりローラーを回しながらペンライトを頼りにブラシで丁寧に埃を落として行きます。真っ黒な埃の落ちて来る事落ちて来る事。

 修理屋さんは、この埃は湿気から来るのだと言いました。ここはキッチンですから湿気の多いのは間違い有りません。「エアコン洗浄をすれば良かったのですか?」と私が聞きますと、「業者にエアコン洗浄を頼んでも、洗浄するのは冷却装置だけで、吹き出し口はやりませんね」と答えてくれました。

 エアコンの調子は元に戻り、室温28℃の設定でも冷気がエアコンの向こう端まで届くようになりました。何よりも修理の時間が短くて助かりました。そしてヤマダ電機の無料サービス期間が8月末までだったのでギリギリセーフ、修理も無料で終わりました。

 そう言う訳でエアコンの日頃のメンテナンスはフィルターと冷却装置だけでは駄目でした。皆さんも気を付けて下さいね、と言っても何に気をつけたら良いのでしょうかね。



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2冊のヨーガ・スートラ

2013年07月05日 | 日記
2冊のヨーガ・スートラ

 YOGAの事を私はヨガと表記していますが、一般的にはヨーガと表記しています。ところが私のヨガのグル(先生)であるジバナンダ・ゴーシュ先生はYOGAをジョガと発音されていましたので、私はヨーガとジョガの中間を取ってヨガと表記しているのです。しかしここではパタンジャリもスワミ・サッチダーナンダも佐保田鶴治さんもヨーガと表記していますので、私もYOGAの事をヨーガと表記する事とします。

 私は2冊のヨーガ・スートラを続けて読んで見ました。先ずは株式会社めるくまーる発行、スワミ・サッチダーナンダ著の「インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ」、そして株式会社平河出版社発行、佐保田鶴治著の「解説ヨーガ・スートラ」です。パタンジャリが書いたヨーガ・スートラを、1冊はスワミ・サッチダーナンダが解説し、もう1冊は佐保田鶴治さんが解説した本です。スワミ・サッチダーナンダは実践的、体験的な書き方をしていますが、佐保田鶴治さんは学問的で、言語学に基づいた用語の定義を重んじる書き方をしています。佐保田鶴治さんも大阪大学教授を退官したあとに自らヨーガ道場を主催している程の人ですから相当の実践、体験が有る筈ですが、その体験を押し出す事無く、終始、学問的な立場を貫いています。

 スワミ・サッチダーナンダは私が30年以上掛けて獲得しましたものを事も無げに、コンパクトに書いていて、「なーんだ、遠回りしちゃったよ」と私を(嬉しく)がっかりさせてくれましたが、読後には何の印象も残りませんでした。一方佐保田鶴治さんは、これを読み返しますのは3回目ですが、読む度に新しい発見が有ります。スワミ・サッチダーナンダと佐保田鶴治さんの人柄が偲ばれる所ですが、ヨーガ・スートラの翻訳を複数の著者で読む事が出来て、ここは先人の努力の有り難さに改めて思いが至ります。また佐保田鶴治さんは仏教との比較も丁寧に書き、またヨーガ・スートラの本編の前後にヨーガの歴史や概要に触れて、何とか読者に分かって欲しいという熱意が伝わって来ます。

 さて、ヨーガ・スートラの本編は4つの章で成っています。佐保田鶴治さんはそれを三昧章、善那章、自在力章、独尊位章とし、一方スワミ・サッチダーナンダは三昧部門、実修部門、成就部門、絶対部門としていますが、それは翻訳時の言葉のアヤで、その内容は一緒です。それではこれからヨーガ・スートラの本編をざっと流して見てみましょう。

 先ずは第1章の三昧章ですが、これは意外な入り方です。ヨーガの修行の最終段階であるサマディ(解脱、三昧)の有様がやたらに詳しく書かれているのです。有想三昧、無想三昧、有種子三昧、無種子三昧等とサマディ(解脱、三昧)の深さに応じて段階的に説明してあるのですが、ヨーガの修行をする人達が、その生涯で体験する事の難しいサマディ(解脱、三昧)について、いきなり説明されてもちょっとねえ。遥か彼方のサマディ(解脱、三昧)の、そのまた彼方の有様をいきなり読まされますとヨーガの修行に対する熱意が萎えてしまいそうです。

 これについてスワミ・サッチダーナンダは、ヨーガを始める人達にその最終目標を示す事で、ヨーガの初心者にやる気と希望を与える為だと説明しています。スワミ・サッチダーナンダは優しい人なのですね。

 先ずはサマディ(解脱、三昧)の獲得へ向かって一歩一歩進み、もしサマディ(解脱、三昧)を体験出来たら、それからサマディ(解脱、三昧)についての細かい分析を始めても遅くは有るまいと私は思います。そこで、ここでは三昧章の最後の1句、「最後に、この行(サムスカーラ)も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する」を摑まえて、最も消去するのが難しい心の働きは行(サムスカーラ)である事を確認しておきましょう。行(サムスカーラ)とは、「経験した事の記憶が潜在意識化したもの」の事です。第1章の三昧章は、ヨーガ・スートラの最後に置いてもおかしくないと思います。

 次は第2章の禅那章です。ヨーガ・スートラは、最初に三昧章から入ると言うカットバックの手法を取っていますので、物語の流れとしてはこの禅那章からがお話のスタートだと言っても良いでしょう。禅那章は唐突にクリヤ・ヨーガ(行事ヨーガ)から始まります。クリヤ・ヨーガ(行事ヨーガ)についてスワミ・サッチダーナンダは「このクリヤ・ヨーガと言う言葉は、シュリー・スワミ・ヨーガーナンダ・パラマハンサが宣教したものとして耳にしたことのある人もいるかもしれないが、それはパタンジャリのクリヤ・ヨーガと混同されるべきではない。ヨーガーナンダの言うそれは、呼吸とマントラの特殊な組み合わせである。パタンジャリが述べているのは、より精妙な修練に向けての準備のために日常生活の中で守られるべき事柄に対する、実利的な示唆である」と注意を促しています。ヨーガ・スートラでのクリヤ・ヨーガについての記述は次の2句、「苦行、読誦、自在神への祈念の3つを行事ヨーガという。」「行事ヨーガのねらいは、三昧の心境を発現することと、煩悩を弱めることとにある。」です。この苦行(タパス)、読誦(スヴァーディアーヤ)、自在神への祈念(イシュワラ・プラニダーン)の3つは、あとに出て来るヨガの8段階の中の第2段階である勧戒(ニヤマ)の一部で、勧戒(ニヤマ)はヨーガの準備段階に当たりますのに、どうしてこれを禅那章の頭に、パタンジャリは持って来たのでしょうか。

 佐保田鶴治さんは、行事を大切にするバラモンに支持してもらう為に、あえてこの章の冒頭に行事ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)を持って来たのだろうと推測しています。ありそうな事ですし、パタンジャリのヨーガ・スートラに行事ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)が移植混入された感は有ります。さて、行事ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)の「煩悩を弱める」からパタンジャリは「煩悩」を拾い出し、次は煩悩について述べます。「煩悩には、無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲などがある」とし、煩悩は静慮(ディヤーナ、瞑想)によって除去することができると述べたうえで、「明哲の士にとっては、一切は苦である」と定義します。

 禅那章は次にサーンキヤ哲学の説明に入ります。サーンキヤ哲学はヨーガを支える、解脱体験の構造を示すものです。サーンキヤ哲学は二元論です。プルシャ(真我)と言う精神原理とプラクリティ(自性)と言う物質原理を立てます。プルシャ(真我)は「見る者」であり、プラクリティ(自性)は「見られる者」です。プルシャ(真我)はプラクリティ(自性)の展開を見るだけで、プルシャ(真我)自身は活動をしません。しかしプルシャ(真我)はプラクリティ(自性)の展開を自分自身であると錯覚し、そこに「苦」を覚えます。そして更に、プルシャ(真我)が自身をプラクリティ(自性)とは全く別者である事を悟った時にサマディ(解脱、三昧)が起こります。「苦」からの解放です。

 ここで強調しておきたい事は、人間の心の働きも、身体も、環境世界も全てプラクリティ(自性)が展開したものであり、プルシャ(真我)はそれらとは全く別のものだと言う事です。私達は日常、自分の本質を喜怒哀楽の感情や自我意識や統覚(物事を編集統合する働き)だと思っていますが、それは錯覚なのです。

 瞑想の中で、プラクリティ(自性)の展開した結果の方から、大元のプラクリティ(自性)へと逆に収斂して行きますと、プラクリティ(自性)までは連続していますが、プルシャ(真我)に戻る時には別世界への跳躍が起こります。この経験についてはスワミ・サッチダーナンダも佐保田鶴治さんも同じ事を言っています。

 プラクリティ(自性)の展開については、このブログの、2010年1月1日に掲載しました「サーンキヤ哲学」をご参照下さい。また、スワミ・サッチダーナンダはプラクリティ(自性)の展開を分かり易く図で説明しています。

 サーンキヤ哲学、つまり解脱体験の構造の説明に続き、禅那章はヨーガの8部門に入ります。8つの段階の練習を続けるとサマディ(解脱、三昧)に到れますよと言う実践の講義です。ヨーガの8部門とは、禁戒(ヤマ)、勧戒(ニヤマ)、坐法(アサナ)、調気法(プラーナヤーマ)、制感(プラティヤーハーラ)、凝念(ダーラナ)、静慮(ディヤーナ)、三昧(サマディ)です。

 ①禁戒(ヤマ)は外的態度で、非暴力(アヒムサ)、正直(サットヤ)、不盗(アステヤ)、禁欲(ブラフマチャリヤ)、不貪(アパリグラハ)の5つです。

 ②勧戒(ニヤマ)は内的態度で、清浄(シャウチャ)、知足(サントッシュ)、苦行(タパス)、読誦(スヴァーディアーヤ)、自在神への祈念(イシュワラ・プラニダーン)の5つで、その内の苦行(タパス)、読誦(スヴァーディアーヤ)、自在神への祈念(イシュワラ・プラニダーン)は禅那章の最初に出て来る行事ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)の事です。

 ③坐法(アサナ)は、一般的にヨーガのポーズと呼ばれているもので、安定した、快適なものである必要が有ります。

 ④調気法(プラーナヤーマ)は呼吸のコントロールですが、気(プラーナ)には生気や呼吸の意味が有りますので、単なる呼吸法以上の意味が有ります。調気は出息と入息と保息とから成ります。調気法(プラーナヤーマ)はグル(先生)の指導を受ける必要が有ります。

 ⑤制感(プラティヤーハーラ)とは、諸感覚器官が外部からの刺激に対して反応しない訓練の事で、これはかなり難しいです。しかし、制感(プラティヤーハーラ)が出来るようになりますと、自然に次の凝念(ダーラナ)に入っている事が分かります。

 禅那章はヨーガの8部門の内の5部門で終わり、第3章の自在力章がスタートします。

 自在力章はヨーガの8部門の6番目、⑥凝念(ダーラナ)から始まります。凝念(ダーラナ)は、心をひとつの物に集中させる事です。

 ⑦静慮(ディヤーナ)は瞑想のことで、禅はディヤーナを漢字に当てた言葉です。スワミ・サッチダーナンダは静慮(ディヤーナ)の際に、瞑想の対象と関係した、あるいは関係はなくとも、すばらしく高揚的なヴィジョンを得る事もある、と言います。

 ⑧三昧(サマディ)は解脱体験です。佐保田鶴治さんは、主観の存在が忘れられて客体だけが意識の野を占領する状態だと説明しています。またスワミ・サッチダーナンダは、瞑想の対象がひとり輝くときの事だと言っています。ヨーガの8部門は以上です。

 さて自在力章では、ヨーガの8部門の⑥凝念(ダーラナ)、⑦静慮(ディヤーナ)、⑧三昧(サマディ)を綜制(サンヤマ)と呼びます。そして綜制(サンヤマ)からは超自然的能力(シッディ)が生じるとして、その超自然的能力(シッディ)の内容が延々と綴られます。にわかには信じ難い内容ですが、佐保田鶴治さんはシッディには「成就」の意味が有って、ヨーガの修行が成就した事の証拠として超自然的能力(シッディ)が生じるとしたうえで、「心と物質の間に二元的な区分を立てず、心から物質へ、物質から心への相互転換も不可能では無いことになるし、感官を媒介としない認識も有り得ることになる。ヨーガの考え方は迷信どころか、かえって近代科学に近いとも言えよう」と述べ、また「それはヨーガの最終の目的ではない。行者がそれらの霊能に有頂天になると、せっかくの三昧は挫折してしまうのである」と注意しています。スワミ・サッチダーナンダは超自然的能力(シッディ)について、「それが来るなら受け取るが、それを追い掛ける事はしない」と優しく説いています。

 さて、いよいよ最後、第4章の独尊位章です。この章では輪廻転生や真我や三昧について説明していますが、佐保田鶴治さんは、この章は仏教の哲学に対抗対応する為に書かれていると説明し、スワミ・サッチダーナンダはこの章は大方を原文の直訳に当て、プルシャ(真我)とプラクリティ(自性)の関係を詳しく説明するのに留めています。

 ここでは輪廻転生だけを取り上げておきましょう。輪廻転生と言うからには何かが継承される筈です。そうで無いと、人はただ死に、人はただ生まれるだけです。それでは何が継承されるのでしょうか。先ずは我想(アハンカーラ)です。自我意識の事ですが、自我意識と言っても純粋に「我有り」と言う意識で、パーソナリティの事では有りません。次は行(サムスカーラ)です。これは経験した事の記憶が潜在意識化したものです。そして業(カルマ)、行動によって生じた負荷の事です。ここに於いて輪廻転生からの「解脱」の、大変難しい事が分かります。

 さて、随分と長くなってしまいましたが、ヨーガ・スートラが大変に科学的、合理的な体験哲学の書である事が分かりますよね。私等、今回大変にすっきりしました。皆さんにもこの2冊の併読をお薦めします。















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