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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

グッチのヨーコさん

2011年05月27日 | 日記
グッチのヨーコさん

 私が新宿区担当に大分慣れて来た頃、会社では当時1番売れていたウイスキーよりもワンランク上の商品を拡売するよう指示を始めました。そしてしばらくして新宿3丁目にワンランク上の商品を専門に扱ってくれるスナックがオープンしました。お店の名はグッチ、そしてママの名前はヨーコさんと言いました。

 グッチのヨーコさんは山本リンダを少しふくよかにしたような美人でおっとりとしていて、少し頭が弱いのかと思わせる所も有る、男性にとっては魅力的な人でした。開店のお祝いに訪問した時こそヨーコさんも私も緊張しましたが、それから何度かお店を訪ねるようになるとお互いにすっかり打ち解けました。私はヨーコさんの魅力に惹かれて月に2~3度はお店に通うようになりました。お店には1人常連客も出来ていてボトルキープしたオールドパーをカウンターで飲んでいるのですが、私がお店に入るとヨーコさんはその客はほったらかしにして私にべったり付いてくれるのですから私は気分の悪かろう筈がありません。

 さて会社には業務店調査費というのがあって、営業部員はそれを使って業務店回りをします。しかし業務店調査費はその性格上同じ店を月に1回までしか使えません。ちょうどその頃私と同じ営業所には私と同期のYYが居て中野区を担当していました。同期のYYも中野区に馴染のお店が出来ていて業務店調査費をうまく使い回していました。会社に業務店調査費を請求するには領収書に併せて会社で毎月配布される月次の業務店調査表を提出します。調査表には訪問日、店名、金額、調査内容の記入欄があります。同期のYYの馴染のお店を例えばスナック・グリーンだとしましょうか。同期のYYは調査表に最初はスナック・グリーンと記入し、2回目には平仮名ですなっく・ぐりーんと記入し、3回目にはアルファベットでSnack Greenと記入して営業所長の目をくぐり抜けていました。そして私はその逆をやりました。1度目と2度目の領収書を自分で保管しておき、3度目に合わせて3回分の金額を領収書に書いてもらい、月に1回をクリアしたのです。皆、苦労しましたよ。

 グッチへは私1人で行ったり気の合う仲間と2~3人で行ったりしてはカラオケで盛り上がりました。そしてお店が閉まるまで1人で居残った時にはタクシーでヨーコさんをお家へ送ってそのまま帰宅しました。タクシーではヨーコさんとキスもしました。

 ヨーコさんには愛人と思われる男が居て、男から電話があるとヨーコさんは男と喧嘩して、「今日はお客さんとホテルへ行くんだから」などと言いました。お客さんとは私の事です。男へのあてつけなのか少しは本気なのか悩ましいところでした。私はヨーコさんとホテルへ行きたいとも思いましたが、お店を閉めてからですと時間も遅く眠気の方が性欲に勝ってしまうのは自分でも分かっていて、結局は帰宅しました。そしてそんな事は何度か有りました。しかし私には「浮気はしたくない」という思いも一方で確かに有ったと思います。私の思いは揺れ動いていました。

 ウイークデーのある夜めずらしく早くに帰宅していますと、同期のYYから電話が掛かってきました。同期のYYは言います、「今グッチから電話してるんだ、ママと替わるよ」。ママと少し話をした私は同期のYYに替わってもらい、「公私混同は止めてくれ」と怒って電話を切りました。思い返してみますと「公私混同」は私ですよね。

 狭い社宅に住んでいるので噂はすぐに広がります。ある日曜日の朝私がソファーで日経新聞の朝刊を読んでいますと、当時3才か4才になっていた長女が「グッチのヨーコさん、グッチのヨーコさん」と言いながら私の前を通り過ぎました。私の持っていた日経新聞はパッタリと半分に折れました。先の妻が長女に言わせたのです。カミナリが落ちるぞ、いや、ヒステリーかな。しかし意外な事に先の妻は以前よりも増して私に優しくなりました。

 「妻には1本取られた!」。そしてそれから私はいっそう妻一筋となりました。おしまい。




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ナンシオヤニラミ

2011年05月20日 | 日記
ナンシオヤニラミ

 私と双子の弟は中学に入ると友達の義仲君を誘って生物クラブに入部しました。生物クラブといっても部員は私達3人だけ、部活といっても週に1度理科室に集合して担当の先生と雑談するだけの屁のようなクラブでした。私達が生物クラブに入部したのは、中学3年になると天草合宿が有ったからです。私が幼い頃から父は昔天草で経験した事を話して聞かせてくれていました。「天草で海に潜るとタツノオトシゴのおったぞ」、私の頭の中の天草は、昼なお暗いジャングル、暗い海に潜ると沢山の海藻の合間に巨大なタツノオトシゴ、妄想が妄想を生んで竜宮城のようなイメージになっていたのです。当時は熊本市と天草の島々の間に橋は架かっておらず、余程のお金持ちでないと天草での海水浴など夢のまた夢でした。

 中学3年の夏休み、いよいよ念願の天草合宿が始まりました。当たり前の事ですが、天草にジャングルは有りませんでした。それでも広いビーチは有りました。熊本市内の海水浴場にはビーチなど無く、とにかく岩だらけで、岩にはフジツボがびっしり張り付いていて、海水浴とはフジツボでお腹に傷を作る事と私達は心得ていたものです。

 担当の先生と部員の4人はビーチへ出て波打ち際で動物探しをしました。膝まで海に浸かった私は足元の砂の間に何か居ないかと目を凝らしました。コブシ程の大きさの石が有りました。いや、動物のようでもあります。恐る恐るその物体に手を伸ばしますと、それはいきなり水中を飛び跳ねて3m程逃げました。タコです。大変な物を見つけちゃったよと私はタコの逃げた方へ向かいました。石のような物を再び見つけます。私がまたまた手を伸ばしますと、タコはくるっと反転して私の右腕に巻きついてしまいました。タコの8本の足の根元には確か歯が有る筈です。「うわあ噛まれる」と私は腕を高く挙げ、「センセー、センセー、タコに捕まれましたー」と先生を呼びました。先生は私の左腕を掴んで私を砂浜まで引っ張り上げ、そこでタコを引き剥がしてくれました。お手柄です。皆は予想外の獲物に大変高揚しました。

 楽しかった天草合宿も最終日となり、私達は船外機の付いた小さな漁船で熊本へ帰ることになりました。台風が接近しており、海は相当にうねっていました。漁船は沈没しないように小さな島から小さな島へと寄り添うように進みます。友達の義仲君は船に酔い、腹ばいになって頭を船から突き出しています。嘔吐物と一緒に義仲君も海に落っこちそうな勢いでした。

 夏休みも終わり秋になって私達は魚釣りに出掛けました。いつもフナを釣りに行く海に近い農業用水池ではなく、友人UKの記憶でも熊本から北へ向かった菊池市の手前の農村地帯でした。川幅が20mから30mくらいの川がありましたので、私達はそこで釣りをすることにしました。ゆるやかな川の流れにウキを遊ばせているとフナのような当たりがあります。そして釣り上げて見るとびっくり仰天、見たことも無い魚がかかっていました。手の平に乗る大きさなのですが、姿形はシーラカンスを超ミニにしたような怪しさ、そして何よりもカラフルなのです。赤色というか朱色を主体に青色、そして黄色も混じっていて、まるで熱帯魚のようです。こんな魚が普通の川に居るのか、これは大発見です。私達はこれを何匹か釣ると、勇んで家へ持ち帰りました。

 家へ帰ると父が「これはセイジャンババたい」と言います。これは熊本独特の呼び方で、本当の名前ではありません。父が魚類図鑑を持ち出してきて調べてくれました。どうやらオヤニラミという魚の1種でナンシオヤニラミという魚のようです。私達はこれを中学校の生物クラブの担当の先生のところへ持って行きました。先生もこの魚はご存知無く、先生が図鑑で調べてみると、やはりナンシオヤニラミでした。先生は魚をホルマリン漬けにしてガラス瓶に詰め、標本として理科室に陳列してくれる事になりました。理科室のお役に立ったので気分の良いこと。

 中学生時代の生物クラブでの天草のタコといい大発見のナンシオヤニラミといい、私にとっては現実と空想とが行ったり来たりするような大変にワンダーな出来事でした。



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ねこ

2011年05月13日 | 日記
 中学1年生の時の私の作文が当時の文集に残っていました。書き写して見ますので、皆さん、どれだけ熊本の方言が分かるか試して見てください。

 ねこ

 ついこのあいだ二階へ上がっていったら、どきーっとした。一匹の白と黒のもようの中ぐらいの大きさのねこが、机の下にすわりこんでいたのだ。大急ぎで姉と弟を呼んだ。太ったねこならぼくはすきだが、そのねこはやせていて、黄色と黒の目玉がつき出たようにしてギョロリと光っていた。姉が、「下に落としたっちゃ立つけん投げてみろか。」と言ったら、ぼくもおもしろそうなので、「うん、投げてごらん。」と言った。姉が、「あたが投げなっせ。」と言ったが、「やっぱーねこはさわろごつにゃーもん。」と言ったので、姉がえりくびをつかんでまどからポイと投げた。するとねこは、あばれるように体をグニャグニャとゆすって、となりの屋根に立った。ほんの一、二秒の間だったが、ねこが飛んでいる間だけ、どきどきーっとした。屋根の上にのったねこは、しばらく止まっていたが姉が「ミーミー。」と言ったら、ぼくたちの方を見て、となりの屋根からうちの屋根にとび移り、下の方の窓から入って来た。そんなことをしているうちにあいてしまって、ねこを屋根に投げてから、まどをせいて他の事をしていた。あとで、ねこはどうなったかなと思って窓を開けたら、まだ屋根のまん中にすわっていた。するととなりの家からひしゃくがみえたと思ったら、それから水がとんで来てねこにひっかって、ねこは屋根のすみっこににげてしまった。つぎの日学校から帰ってカバンをおろしたら、二階の方でニャーンというねこの声が聞こえた。台所にいた母が、「ちょっと見て来てごらん。」と言ったので、途中で曲がるようになっている階段をだだーっと上がりはじめて曲がろうとしたら、びっくりして息がつまりそうになった。昨日のねこが曲がるところでねころんで、顔を手でこすっていた。上がりかけた階段を、こんどは大急ぎで下りて台所にいた母に、「ねこん、階段のとけ来とるよ。」と言ったら、母は「いっときやしのうてみろかね。」と言った。すると居間の方から父が、「ねこは魚ばとったりして悪かこつばかるしかせんけんたいせつ。」と言った。ぼくも、「犬とねこん、けんかすーけんいかんよ。」と言った。母と話していると父が、竹ぼうを持って来た。それでぼくが、「いかんて、いかんて。」と言ってとめたが父は、「そぎゃんこつばするけんかさばつっぽぐとたい。」と言った。母が、「そらなんのこつね。」と聞いたので父が、昨日の夜にそのねこをかさでつこうとして、てつじょうもうにひっかけて、かさをやぶったことを話した。そしていっさんに階段をかけ上がって行った。びっくりしてあとを追いかけて行ったら、バターンと音がして、ワウワウキャウキャウと犬の声が庭の方からした。それはねこが庭におとされた時だった。また大急ぎで階段をおりて庭におりたら、もうねこはいなかったが、まだ犬はほえていた。それにこりたらしく、それからねこはこなかったが、夜にまどをあけると、そのねこがふいに入って来るような気がして、そのまどをあけるのがいやになった。

 いやあ、幼いですね。赤面です。



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父の思い出

2011年05月06日 | 日記
父の思い出

 私の父は平成10年に84才で亡くなりました。父は山口の国立大学を出てサラリーマンになったのですが生まれつき体が弱く、勤めもうまくいかず兵隊にも取られませんでした。子供が3人になって父は母と相談して料理学校を始めました。母が料理の先生をやり、父は裏方のスタッフでした。ですから仕事の負担は母が9割父が1割といった感じでした。父はいつも子供達を可愛がり、母はいつも父に罵声を浴びせていました。母が父を責める時、私は父の事を気の毒に思う余裕も無く、父と一緒に自分も責められているようなつらい思いをし、ひたすらちぢこまっていました。

 私には双子の弟が有ります。私達が大学受験をする時、見も知らぬ東京へ父が2人を連れて行き、受験の付き添いをしてくれました。大学には決して近くない寂れた和風の旅館に宿を取り、受験当日には電車で大学へ行きました。大学の近くの喫茶店で父は魔法瓶を喫茶店のウェートレスに差し出してこれに紅茶を入れてくれと頼み、ウェートレスはニコニコして紅茶を入れてくれました。私は喫茶店のテレビのチャンネルの多さにびっくりしました。弟と私は同じ大学の3つの学部を受験しましたので、延べ6学部の受験という事になります。

 弟と私は首尾よく全ての学部に合格しました。父としたら鼻の高いところです。弟と私が晴々とした気分でおりますと、父は私達を日劇ミュージックホールへ連れて行きました。最近では日劇ミュージックホールをご存知ない方もおられるでしょうが、当時は大変に有名な、上品なストリップ劇場でした。父は1番前の席の切符を買いました。息子達に見せてやろうと言うよりも自分が見たいという張り切りようでした。

 ストリップショーが終わると私達は劇場の近くの洋食レストランに入りました。父は勢い良く「カツライス」と注文しました。私には父が、楽しかった青年時代の学生生活での外食を思い出しているのだと分かりました。私の家では原則外食は禁止でした。料理学校の先生が外食しているところを見られたら問題だというのが理由でしたが、今思い返して見ますと、そんなことは理由にもなりません。きっと外食はお金が掛かったのでしょう。

 カツライスが終わると父はウェートレスに「デザートば下さい」と言いました。その方言に対してウェートレスはあからさまに軽蔑の表情を見せました。どうせ当人も田舎者なのに。父にとって日劇ミュージックホールやカツライスは本当に久しぶりの開放のひと時でした。

 2才年上の姉は既に東京の大学に通っており、私達2人が大学生になると姉は大学の寮を出て兄弟3人でアパート暮らしを始めました。子供が3人共東京へ出払ってしまった熊本の家でしばらくの間父は「さみしかー、さみしかー」と嘆いていたそうです。私はそんな事とは知らずに自分の大学生生活を作り上げるのに夢中でした。子供はいつかは独立するのです。

 父は昔から子煩悩で、毎週日曜日には私と弟に映画を見せてくれました。「キングコング」が掛かったときなど、私と弟は映画の始まる前から怖さの余りガタガタと震えていました。当時の封切り映画館は2本立てで、評判の映画と大したこと無い映画を上映します。私達親子3人は評判の映画の始まる時間に映画館に入り、評判の映画が気に入ると2本観終わった後続けて最初の映画をもう1回観ました。4人で映画館に入るときには切符売場で父が「4人(よったり)」と言ったのを覚えています。方言には日本の昔の言葉が残っていて、「よったり」という数え方は「古事記」に出てきますね。

 私が小学校の高学年の頃、母と姉は2階の寝室のふかふかのベッドで休み、父と私と弟は1階の和室の冷たくて重たい布団に川の字になって寝ていました。母は姉に料理学校の跡継ぎを期待したのでしょう。ある秋の日の夜中の事、私が目を覚ましますと父が布団に居ません。暗い家の中で私は息の詰まる思いで父を探しました。父は居ました。濡れ縁に立って腕を組み、軒先に吊るしてある虫かごのマツムシの音を聞いていたのです。父は自分の体が言うことを聞かないつらい毎日を思っていたのでしょうか。あるいは楽しかった自分の学生時代を思い出していたのかもしれません。私を見た父は私に「探したかい」と言って布団に戻りました。

 小学校を卒業するまで父は子供達に魚釣りをさせてくれませんでした。中学校に入りますと父はバスに乗って私達を川エビ釣りに連れて行きました。3人で川エビを狙っていますと、40cmはあろうかというタイワンドジョウが私の餌に喰いつきました。私が慌てて竿を引っ張りますと、釣り糸はプッツリと切れてしまいます。私はその時の興奮が忘れられず、中学生時代に私と弟はよくフナ釣りに行きました。フナ釣りといっても本当に狙ったのはタイワンドジョウやナマズで、釣竿を2~3本仕掛けてごろんと空を見ていると空高く舞っているヒバリが草むらにすとんと落ちてきました。こういう情景を思い出していますとブラザーズ・フォアの「遥かなるアラモ(グリーン リーブズ オブ サマー)」が胸に迫って来ます。

 大学生になった私が般若心経についての本を読んでいますと父は「般若心経ば読みよるかい」と大変満足そうでした。息子達が宗教哲学に関心を持つのを父は期待していたようです。ですから母にとっては父は厄介な夫だったのでしょうが、私にとっての父は私の人格形成に大変な影響を与えてくれた人でありましたし、今も感謝をしています。






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