盤珪禅師
盤珪禅師の公案についての見解は前にご紹介しましたが、盤珪禅師に巡り合えた事が私は嬉しくて、ここに備忘録として盤珪禅師の事を書いておきます。
盤珪禅師(1622-1693)は播磨の国に儒医を父として、5男4女の3男として生まれました。幼少の時に父親を失い母親に育ててもらいましたが、腕白者だった一面、2、3才の時から死ぬのを怖がっていたそうで、なかなか神経質な子供だったようです。
成人しますと母親が先生を呼んで儒教の勉強をさせ、「大学」を読ませました。そうしますと「大学」の、「大学の道は明徳を明らかにするにあり」と言う所に到り、この「明徳」が分かりませんので儒者達に「どのようなものが明徳か」と聞きますと彼らは「そのような難しい事は私達には分からない、禅僧が知っているだろうから禅僧に聞いてくれ」と言います。そこでさる禅宗の和尚に参じて「明徳」の事を聞きますと「坐禅をせよ」と言われ、食事も忘れて幾日も幾日も坐禅を組みましたが分かりません。それから故郷に帰って念仏三昧もやってみたけれどもやはり分からない。次に円融寺の快雄法師を師として密教に励みましたが密教でもついに道は開けませんでした。
そのうちに赤穂の雲甫和尚という人が立派な人だというので、その人に弟子入りをして、かねての願いである「明徳」を明らめようとしましたが、いくら入室をしても坐禅をしても「明徳」は明らかになりません。そこで彼はまた泣く泣く他に機縁を求めて行脚の旅に出ました。師も得られず友も無く、盤珪は1人で苦しみました。身の油をしぼって、人里離れた所に閑居して坐禅を組み、寝ないで修行をしました。またあちらに名僧がおられる、こちらに善知識がおられると聞けばそこへ行って入室し、数年間、およそ日本の国の中で行かなかった所は少ないと言います。それでも「明徳」は明らかに出来ませんでした。
24才の年に赤穂へ戻り雲甫和尚を見舞いました。雲甫和尚が「修行はどうだった」と聞きますので「諸方の禅師方の門を叩いて修行してきましたが一向に分かりません」と答えますと雲甫和尚は「それはおまえが外に道を求めたからだ。向こうに目当てを立てて、外に向かって求めようとすれば、道はすぐに背いてしまう。私はとうに根本を教えてしまっている」と言われました。そう言われて盤珪は草庵に入って門を閉じ、自己に取って返す坐禅に打ち込みます。
盤珪の坐禅の猛烈さは、敷いていた座布団に穴が開く程だったといいます。痔を発症して出血し、また胸を病み、食も進まず、身も心も憔悴し、ほとんど死に瀕するという状態になりました。その時、ふっと悟りが開ける。ある朝、縁に出てうがいをするに当たって、微風が梅の花の香りをほのかに送って来たのが縁になって、豁然として多年の疑団が氷解したのです。
「おりふしにひょっと、一切事は、不生で調うものを、今までえ知らいで、さてさて無駄骨を折った事かなと思い到って、ようようと従前の非を知ってござるわいの」。これが盤珪の悟経験だそうです。一切事は「不生」で調う、それでもうちゃんと解決がついている。「不生」というのは、「諸法空相、不生不 滅」と般若心経でしょっちゅう読んでいる、生せず滅せず、あの「不生」です。
「ついには願成就いたして、母にも良くわきまえさせ、死なせましたわいの。それより以来、天下に身どもが三寸の舌頭にかかるものがござらなんだわいの」。
そこで盤珪は、師匠の雲甫和尚の所へ行って、自分の体験を報告しますと、和尚は「おまえは悟った、達磨の骨髄を得た。これからのち天下の人はもうおまえをどうすることも出来ない」と証明してくれました。その時盤珪は27才であったと言います。そしてこれからは師匠の命で行脚の旅に出ます。自己の体験の証拠に立ってくれる善知識を求め、更に自らの悟境の練磨を計る為です。師匠が言われるには「美濃に愚堂和尚という人があるが、よき人じゃ。証拠にも立たれんほどに、愚堂へ行って話してみたらば良かろう」。訪ねてみますと愚堂和尚は江戸へ出掛けて留守だと言います。無駄に帰るよりはと思い、そのあたりの和尚方にお話をして示しをいただいたが、「何とやらん履を隔てて痒きをかくように存ぜられ、此方の骨髄に徹しこたえませぬ」と申しますと「いかにもそう有る筈じゃ。我等が人に示すと言えども、経録の語を覚えていて、古徳の示しに従って、示しの通りに我等もまた人に示すぶんで、恥ずかしけれども、実に悟って示すには無し」と言われ、証拠に立ってもらう程の事にも及ばずに故郷へ帰りました。
そのうちに道者という人が中国、その頃の明の国から渡来して長崎の崇福寺におられると聞きました。師匠の雲甫和尚からも「長崎の道者禅師の所へ行って相見してみたらどうか」と言われたので、道者にお目にかかって、やっと「この男は確かに生死を超えている」という証明をいただき、それは盤珪29才の時でした。そしてそれでも盤珪にとって道者は力量が足りなかったようです。
盤珪は後年こう語っています、「今から考えてみると、道者の禅というものも、十分では無かったと思われる。今まで生きておられたら、わしが逆に教え導いて、立派な禅僧にしてやるものを、早く死んでしまわれて不幸であった、残念である」。徹底した自信ですね。
雲甫和尚は臨終のとき法嗣(ほっす)の、盤珪からいえば兄弟子にあたる牧翁和尚に「将来わが日本の臨済宗を支えて立つ者は盤珪である。どうかおまえは兄弟子として、わしに代わってあれを仕上げてやってくれ」とくれぐれも頼みました。そして盤珪は38才の時に道号を初めて「盤珪」と名乗ります。その時牧翁和尚からお祝いに伝来の法衣を送られました。盤珪はこの時、道者には嗣法せず、兄弟子である牧翁和尚に嗣法の香をたいて、今は亡き雲甫和尚の法恩に報いたのだそうです。
さて、盤珪禅師の公案についての見解は前にご紹介しましたので、最後に少しばかり盤珪禅師の言葉を引いておきましょう。
「故事のひとつやふたつは、憶ようと思うたらば憶えかねもしますまいが、そのような事を示すは衆生に毒を食わすようなものにてござるわいの。毒を食わす事は、まずえしませぬ」。
「人を見る眼が開けて、人の心肝が見ゆるならば、法成就したと思わっしゃれい」。
「我が欲が汚さに、気ぐせをでかし、身のひいきをし迷います。仏心を退き、ついに凡夫になりますわいの。もとに凡夫は一人もござらぬわいの」。
「ついちょろりと、凡夫になりまする。一切の迷いはかくのごとく、向こうのものに頓着して、我が身のひいきゆえに、仏心を修羅にしかえてひとりでに皆迷います」。
「人々皆親の生みつけてたもったは、仏心ひとつで、余のものはひとつも生みつけはしませぬわいの。しかるに一切迷いは我が身のひいきゆえに、我がでかしてそれを生まれつきと思うは、愚かな事でござるわいの」。
「でかして置いて直すというは、造作な事、無駄事というものでござる。でかさずに直す事は要りませぬほどに、ここをよくわきまえさっしゃれい」。
「念は底にあって起こるものではござらぬ。従前見たり聞いたりした事の縁によって、その見たり聞いたりしたが、写るというものでござるわいの。もとより念に実体はありはしませぬによって、写らば写るまま、起こらば起こるままに、止まば止むままにて、その写る影に頓着さえせねば、迷いは出来はしませぬわいの」。
「仏になろうとしょうより、仏でおるが造作がのうて、近道でござるわいの」。
盤珪禅師の公案についての見解は前にご紹介しましたが、盤珪禅師に巡り合えた事が私は嬉しくて、ここに備忘録として盤珪禅師の事を書いておきます。
盤珪禅師(1622-1693)は播磨の国に儒医を父として、5男4女の3男として生まれました。幼少の時に父親を失い母親に育ててもらいましたが、腕白者だった一面、2、3才の時から死ぬのを怖がっていたそうで、なかなか神経質な子供だったようです。
成人しますと母親が先生を呼んで儒教の勉強をさせ、「大学」を読ませました。そうしますと「大学」の、「大学の道は明徳を明らかにするにあり」と言う所に到り、この「明徳」が分かりませんので儒者達に「どのようなものが明徳か」と聞きますと彼らは「そのような難しい事は私達には分からない、禅僧が知っているだろうから禅僧に聞いてくれ」と言います。そこでさる禅宗の和尚に参じて「明徳」の事を聞きますと「坐禅をせよ」と言われ、食事も忘れて幾日も幾日も坐禅を組みましたが分かりません。それから故郷に帰って念仏三昧もやってみたけれどもやはり分からない。次に円融寺の快雄法師を師として密教に励みましたが密教でもついに道は開けませんでした。
そのうちに赤穂の雲甫和尚という人が立派な人だというので、その人に弟子入りをして、かねての願いである「明徳」を明らめようとしましたが、いくら入室をしても坐禅をしても「明徳」は明らかになりません。そこで彼はまた泣く泣く他に機縁を求めて行脚の旅に出ました。師も得られず友も無く、盤珪は1人で苦しみました。身の油をしぼって、人里離れた所に閑居して坐禅を組み、寝ないで修行をしました。またあちらに名僧がおられる、こちらに善知識がおられると聞けばそこへ行って入室し、数年間、およそ日本の国の中で行かなかった所は少ないと言います。それでも「明徳」は明らかに出来ませんでした。
24才の年に赤穂へ戻り雲甫和尚を見舞いました。雲甫和尚が「修行はどうだった」と聞きますので「諸方の禅師方の門を叩いて修行してきましたが一向に分かりません」と答えますと雲甫和尚は「それはおまえが外に道を求めたからだ。向こうに目当てを立てて、外に向かって求めようとすれば、道はすぐに背いてしまう。私はとうに根本を教えてしまっている」と言われました。そう言われて盤珪は草庵に入って門を閉じ、自己に取って返す坐禅に打ち込みます。
盤珪の坐禅の猛烈さは、敷いていた座布団に穴が開く程だったといいます。痔を発症して出血し、また胸を病み、食も進まず、身も心も憔悴し、ほとんど死に瀕するという状態になりました。その時、ふっと悟りが開ける。ある朝、縁に出てうがいをするに当たって、微風が梅の花の香りをほのかに送って来たのが縁になって、豁然として多年の疑団が氷解したのです。
「おりふしにひょっと、一切事は、不生で調うものを、今までえ知らいで、さてさて無駄骨を折った事かなと思い到って、ようようと従前の非を知ってござるわいの」。これが盤珪の悟経験だそうです。一切事は「不生」で調う、それでもうちゃんと解決がついている。「不生」というのは、「諸法空相、不生不 滅」と般若心経でしょっちゅう読んでいる、生せず滅せず、あの「不生」です。
「ついには願成就いたして、母にも良くわきまえさせ、死なせましたわいの。それより以来、天下に身どもが三寸の舌頭にかかるものがござらなんだわいの」。
そこで盤珪は、師匠の雲甫和尚の所へ行って、自分の体験を報告しますと、和尚は「おまえは悟った、達磨の骨髄を得た。これからのち天下の人はもうおまえをどうすることも出来ない」と証明してくれました。その時盤珪は27才であったと言います。そしてこれからは師匠の命で行脚の旅に出ます。自己の体験の証拠に立ってくれる善知識を求め、更に自らの悟境の練磨を計る為です。師匠が言われるには「美濃に愚堂和尚という人があるが、よき人じゃ。証拠にも立たれんほどに、愚堂へ行って話してみたらば良かろう」。訪ねてみますと愚堂和尚は江戸へ出掛けて留守だと言います。無駄に帰るよりはと思い、そのあたりの和尚方にお話をして示しをいただいたが、「何とやらん履を隔てて痒きをかくように存ぜられ、此方の骨髄に徹しこたえませぬ」と申しますと「いかにもそう有る筈じゃ。我等が人に示すと言えども、経録の語を覚えていて、古徳の示しに従って、示しの通りに我等もまた人に示すぶんで、恥ずかしけれども、実に悟って示すには無し」と言われ、証拠に立ってもらう程の事にも及ばずに故郷へ帰りました。
そのうちに道者という人が中国、その頃の明の国から渡来して長崎の崇福寺におられると聞きました。師匠の雲甫和尚からも「長崎の道者禅師の所へ行って相見してみたらどうか」と言われたので、道者にお目にかかって、やっと「この男は確かに生死を超えている」という証明をいただき、それは盤珪29才の時でした。そしてそれでも盤珪にとって道者は力量が足りなかったようです。
盤珪は後年こう語っています、「今から考えてみると、道者の禅というものも、十分では無かったと思われる。今まで生きておられたら、わしが逆に教え導いて、立派な禅僧にしてやるものを、早く死んでしまわれて不幸であった、残念である」。徹底した自信ですね。
雲甫和尚は臨終のとき法嗣(ほっす)の、盤珪からいえば兄弟子にあたる牧翁和尚に「将来わが日本の臨済宗を支えて立つ者は盤珪である。どうかおまえは兄弟子として、わしに代わってあれを仕上げてやってくれ」とくれぐれも頼みました。そして盤珪は38才の時に道号を初めて「盤珪」と名乗ります。その時牧翁和尚からお祝いに伝来の法衣を送られました。盤珪はこの時、道者には嗣法せず、兄弟子である牧翁和尚に嗣法の香をたいて、今は亡き雲甫和尚の法恩に報いたのだそうです。
さて、盤珪禅師の公案についての見解は前にご紹介しましたので、最後に少しばかり盤珪禅師の言葉を引いておきましょう。
「故事のひとつやふたつは、憶ようと思うたらば憶えかねもしますまいが、そのような事を示すは衆生に毒を食わすようなものにてござるわいの。毒を食わす事は、まずえしませぬ」。
「人を見る眼が開けて、人の心肝が見ゆるならば、法成就したと思わっしゃれい」。
「我が欲が汚さに、気ぐせをでかし、身のひいきをし迷います。仏心を退き、ついに凡夫になりますわいの。もとに凡夫は一人もござらぬわいの」。
「ついちょろりと、凡夫になりまする。一切の迷いはかくのごとく、向こうのものに頓着して、我が身のひいきゆえに、仏心を修羅にしかえてひとりでに皆迷います」。
「人々皆親の生みつけてたもったは、仏心ひとつで、余のものはひとつも生みつけはしませぬわいの。しかるに一切迷いは我が身のひいきゆえに、我がでかしてそれを生まれつきと思うは、愚かな事でござるわいの」。
「でかして置いて直すというは、造作な事、無駄事というものでござる。でかさずに直す事は要りませぬほどに、ここをよくわきまえさっしゃれい」。
「念は底にあって起こるものではござらぬ。従前見たり聞いたりした事の縁によって、その見たり聞いたりしたが、写るというものでござるわいの。もとより念に実体はありはしませぬによって、写らば写るまま、起こらば起こるままに、止まば止むままにて、その写る影に頓着さえせねば、迷いは出来はしませぬわいの」。
「仏になろうとしょうより、仏でおるが造作がのうて、近道でござるわいの」。