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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

盤珪禅師

2013年03月22日 | 日記
盤珪禅師

 盤珪禅師の公案についての見解は前にご紹介しましたが、盤珪禅師に巡り合えた事が私は嬉しくて、ここに備忘録として盤珪禅師の事を書いておきます。

 盤珪禅師(1622-1693)は播磨の国に儒医を父として、5男4女の3男として生まれました。幼少の時に父親を失い母親に育ててもらいましたが、腕白者だった一面、2、3才の時から死ぬのを怖がっていたそうで、なかなか神経質な子供だったようです。

 成人しますと母親が先生を呼んで儒教の勉強をさせ、「大学」を読ませました。そうしますと「大学」の、「大学の道は明徳を明らかにするにあり」と言う所に到り、この「明徳」が分かりませんので儒者達に「どのようなものが明徳か」と聞きますと彼らは「そのような難しい事は私達には分からない、禅僧が知っているだろうから禅僧に聞いてくれ」と言います。そこでさる禅宗の和尚に参じて「明徳」の事を聞きますと「坐禅をせよ」と言われ、食事も忘れて幾日も幾日も坐禅を組みましたが分かりません。それから故郷に帰って念仏三昧もやってみたけれどもやはり分からない。次に円融寺の快雄法師を師として密教に励みましたが密教でもついに道は開けませんでした。

 そのうちに赤穂の雲甫和尚という人が立派な人だというので、その人に弟子入りをして、かねての願いである「明徳」を明らめようとしましたが、いくら入室をしても坐禅をしても「明徳」は明らかになりません。そこで彼はまた泣く泣く他に機縁を求めて行脚の旅に出ました。師も得られず友も無く、盤珪は1人で苦しみました。身の油をしぼって、人里離れた所に閑居して坐禅を組み、寝ないで修行をしました。またあちらに名僧がおられる、こちらに善知識がおられると聞けばそこへ行って入室し、数年間、およそ日本の国の中で行かなかった所は少ないと言います。それでも「明徳」は明らかに出来ませんでした。

 24才の年に赤穂へ戻り雲甫和尚を見舞いました。雲甫和尚が「修行はどうだった」と聞きますので「諸方の禅師方の門を叩いて修行してきましたが一向に分かりません」と答えますと雲甫和尚は「それはおまえが外に道を求めたからだ。向こうに目当てを立てて、外に向かって求めようとすれば、道はすぐに背いてしまう。私はとうに根本を教えてしまっている」と言われました。そう言われて盤珪は草庵に入って門を閉じ、自己に取って返す坐禅に打ち込みます。

 盤珪の坐禅の猛烈さは、敷いていた座布団に穴が開く程だったといいます。痔を発症して出血し、また胸を病み、食も進まず、身も心も憔悴し、ほとんど死に瀕するという状態になりました。その時、ふっと悟りが開ける。ある朝、縁に出てうがいをするに当たって、微風が梅の花の香りをほのかに送って来たのが縁になって、豁然として多年の疑団が氷解したのです。

 「おりふしにひょっと、一切事は、不生で調うものを、今までえ知らいで、さてさて無駄骨を折った事かなと思い到って、ようようと従前の非を知ってござるわいの」。これが盤珪の悟経験だそうです。一切事は「不生」で調う、それでもうちゃんと解決がついている。「不生」というのは、「諸法空相、不生不 滅」と般若心経でしょっちゅう読んでいる、生せず滅せず、あの「不生」です。

 「ついには願成就いたして、母にも良くわきまえさせ、死なせましたわいの。それより以来、天下に身どもが三寸の舌頭にかかるものがござらなんだわいの」。

 そこで盤珪は、師匠の雲甫和尚の所へ行って、自分の体験を報告しますと、和尚は「おまえは悟った、達磨の骨髄を得た。これからのち天下の人はもうおまえをどうすることも出来ない」と証明してくれました。その時盤珪は27才であったと言います。そしてこれからは師匠の命で行脚の旅に出ます。自己の体験の証拠に立ってくれる善知識を求め、更に自らの悟境の練磨を計る為です。師匠が言われるには「美濃に愚堂和尚という人があるが、よき人じゃ。証拠にも立たれんほどに、愚堂へ行って話してみたらば良かろう」。訪ねてみますと愚堂和尚は江戸へ出掛けて留守だと言います。無駄に帰るよりはと思い、そのあたりの和尚方にお話をして示しをいただいたが、「何とやらん履を隔てて痒きをかくように存ぜられ、此方の骨髄に徹しこたえませぬ」と申しますと「いかにもそう有る筈じゃ。我等が人に示すと言えども、経録の語を覚えていて、古徳の示しに従って、示しの通りに我等もまた人に示すぶんで、恥ずかしけれども、実に悟って示すには無し」と言われ、証拠に立ってもらう程の事にも及ばずに故郷へ帰りました。

 そのうちに道者という人が中国、その頃の明の国から渡来して長崎の崇福寺におられると聞きました。師匠の雲甫和尚からも「長崎の道者禅師の所へ行って相見してみたらどうか」と言われたので、道者にお目にかかって、やっと「この男は確かに生死を超えている」という証明をいただき、それは盤珪29才の時でした。そしてそれでも盤珪にとって道者は力量が足りなかったようです。

 盤珪は後年こう語っています、「今から考えてみると、道者の禅というものも、十分では無かったと思われる。今まで生きておられたら、わしが逆に教え導いて、立派な禅僧にしてやるものを、早く死んでしまわれて不幸であった、残念である」。徹底した自信ですね。

 雲甫和尚は臨終のとき法嗣(ほっす)の、盤珪からいえば兄弟子にあたる牧翁和尚に「将来わが日本の臨済宗を支えて立つ者は盤珪である。どうかおまえは兄弟子として、わしに代わってあれを仕上げてやってくれ」とくれぐれも頼みました。そして盤珪は38才の時に道号を初めて「盤珪」と名乗ります。その時牧翁和尚からお祝いに伝来の法衣を送られました。盤珪はこの時、道者には嗣法せず、兄弟子である牧翁和尚に嗣法の香をたいて、今は亡き雲甫和尚の法恩に報いたのだそうです。

 さて、盤珪禅師の公案についての見解は前にご紹介しましたので、最後に少しばかり盤珪禅師の言葉を引いておきましょう。

 「故事のひとつやふたつは、憶ようと思うたらば憶えかねもしますまいが、そのような事を示すは衆生に毒を食わすようなものにてござるわいの。毒を食わす事は、まずえしませぬ」。

 「人を見る眼が開けて、人の心肝が見ゆるならば、法成就したと思わっしゃれい」。

 「我が欲が汚さに、気ぐせをでかし、身のひいきをし迷います。仏心を退き、ついに凡夫になりますわいの。もとに凡夫は一人もござらぬわいの」。

 「ついちょろりと、凡夫になりまする。一切の迷いはかくのごとく、向こうのものに頓着して、我が身のひいきゆえに、仏心を修羅にしかえてひとりでに皆迷います」。

 「人々皆親の生みつけてたもったは、仏心ひとつで、余のものはひとつも生みつけはしませぬわいの。しかるに一切迷いは我が身のひいきゆえに、我がでかしてそれを生まれつきと思うは、愚かな事でござるわいの」。

 「でかして置いて直すというは、造作な事、無駄事というものでござる。でかさずに直す事は要りませぬほどに、ここをよくわきまえさっしゃれい」。

 「念は底にあって起こるものではござらぬ。従前見たり聞いたりした事の縁によって、その見たり聞いたりしたが、写るというものでござるわいの。もとより念に実体はありはしませぬによって、写らば写るまま、起こらば起こるままに、止まば止むままにて、その写る影に頓着さえせねば、迷いは出来はしませぬわいの」。

 「仏になろうとしょうより、仏でおるが造作がのうて、近道でござるわいの」。









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話を聞く

2013年03月15日 | 日記
話を聞く

 熊本の実家に独りで暮らしている母の要支援のレベルを昨年の6月に上げてもらいましたら担当の支援センターもそれまでとは別のセンターに変わりました。そして新しいケア・マネージャーさんにはまだ会えていませんでしたので、昨年11月の帰省時にお会いする事にしました。ケア・マネージャーさんは家まで来てくれ、そして私はケア・マネージャーさんの態度に驚き感動しました。母がその場にはふさわしくないような昔話を延々と始めましてもケア・マネージャーさんは一切それを遮ろうとしないのです。相手の信頼を勝ち得る為にはここまで我慢をするのだろうか。私は頭が下がりました。

 独り暮らしの母の安否が心配なので、子供達3人、つまり私の姉と弟と私とでローテーションを決めて、毎日誰かが母に電話をするようにしています。週に姉が2回、弟が2回、そして私が3回です。母に電話をしますと母はエンドレステープのように同じ話を繰り返しますが、週に3回もこれを聞きますのはちょっとした苦痛でも有ります。それでも私は昨年の11月にケア・マネージャーさんと会ってから心構えが変わりました。兎に角母にはしゃべりたいだけしゃべってもらって、母がしゃべり飽きて電話を切るまでは話を聞こう。そして私は母に長くしゃべってもらうのに、いくつかコツを覚えました。只々相槌を打つだけでは駄目で、母のエンドレステープが一時停止になりますと、「ところであれはどうなったね」と話をそらしますと母のおしゃべりは続行します。また「それはどう言う事ね」と話に念を押してアクセントを付けます。また稀には「鶴屋の前のバス停にはベンチの有るけん、そこで休憩すると良かよ」等とアドバイスをします。母はアドバイスをなかなか受け入れてくれませんが、私が母に対して関心が有る事は伝わります。また母の話が暗くなって来ますと、出来るだけ明るいエピソードを探してそれに当て、母の気持ちを明るい方に誘導します。

 母は最近、「おまえが良い人と再婚したからお母さんは本当に幸せよ、それまではおまえの事が心配で心配で仕方が無かった」と言いますが、これは間違いです。私の先の妻が亡くなりました時に、母は説明も詫びも無くお葬式には参列してくれませんでした。父は亡くなる前に「お葬式に参列しなかった事だけが心残りだ」と詫びてくれましたが、母にはいまだに詫びてもらっていません。またお葬式のあとに「孫達はさぞ悲しいだろう、淋しいだろう」と段ボールに入れたお菓子ひとつ送ってくれませんでした。そしてお葬式のあとも週に1回は母に電話をしていましたが、母は1度も私や孫達への心配の言葉は掛けてくれず、「息子達は何もしてくれない」と愚痴ばかりでした。少しばかりの送金はしていましたのに。

 それでも一昨年の9月に母が熱中症+αで救急車のお世話になって1ヶ月余り入院しました時に私の母への恨みつらみは吹き飛んでしまいました。母は今年92才になります。90才を過ぎたら、もう、仙人でしょう。過ぎた事をどうのこうの言う時期は過ぎてしまったようです。

 また、最近では私の内面に少しばかり変化が起こっているようです。元来私はイラチなので、妻や子供達の話を遮っては「それはこう言う事だよね、そうすると次はどうするの?」と結論を急いでいましたが、少しばかり家族の話を忍耐強く聞く事が出来るようになっていると思います。これも週3回の母への電話の効果でしょうか。



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春一番

2013年03月08日 | 日記
春一番

 「時間論」につきましては今では身に染みてすっかり私の物となっていますが、「空間論」については、頭では了解していますが、まだまだ身に染みてと言う所まで来ておりません。つまり、心の働きは身体の働きの一部に過ぎず、また身体は環境世界の一部に過ぎない。ですから心と環境世界、そして主観と対象とは「ひとつ」なのですが、どうも実感が湧いて来ないのです。そこで工夫をしてみました。

 富士山を前にして、こちらに主観を立てて、こちらから富士山に一体化しようとしても駄目です。しかし主観を立てずにこちらに富士山を取り込もうとしますと、容易に富士山を取り込む事が出来ます。富士山の感動は容易に私の中に入って来てくれます。同じような事が出来るのでは無かろうか。私は午後の散歩の際に、こちらに主観を立てずに景色を取り込んでみる心構えをしてみました。そうしますと木々の葉の呼吸しているのがリアルに分かりますし、花が咲いているのを見ますと、18才の乙女の横溢する生命力の放出が直に見えます。どうもこのあたりにヒントが有るのでは無かろうか。無心でいる事に集中して主観を立てずに環境世界を取り込む。ふんふん。

 3月1日には春一番が吹きました。昼食後に散歩に出ますと春一番の風は想像以上で、木々は風に押されてゴウゴウと言う音を立てて私を脅し、歩いている私は強風に当たってバランスを崩しそうになり、恐怖を覚えます。心と身体と環境世界との一体化は気象が穏やかな時よりも激しい気象の時の方が得られ易いようです。

 冬山で登山家が遭難死する時に、遭難者に主観が有って冬山と言う環境世界と対立しているのだろうか。どうもそうは思えません。遭難者と冬山の関係は、例えばバターとフライパンのようなものでは無かろうか。フライパンが熱くなればバターは溶ける、その時にバターとフライパンは一体で、主観と対象との対立なんか有りませんよね。冷気が迫れば人は死ぬ。そこには主観も対象も無い、心と身体と環境世界の一体化とはこんなものなのでしょうか。

 ところで、激しい気象に恐怖を覚えるのはアニミズム(自然崇拝)では無かろうか。アニミズム(自然崇拝)と「心と環境世界の一致」はどう違うのでしょうか。答えは「自覚」に有るようです。アニミズム(自然崇拝)には「自覚」が無いけれども「心と環境世界の一致」には確かに「自覚」が有ります。「主観の無い自覚」、この辺をもう少し調べて見ると良いようです。

 3月1日は私の歌友達のTさんと新橋のバーで待ち合わせをしていました。夕方になると私は春一番のアゲインストの風に逆らって最寄駅へ向かいました。新橋のバーは早い時間から盛況です。昨年亡くなったパティ・ペイジを偲んで私は「テネシーワルツ」を歌いました。マスターのギターとMIKIちゃんのキーボードに合わせて歌うのは気持ちの良いものです。歌い終わった私がTさんに「ノラ・ジョーンズって知ってる?」と聞きますとTさんは「知ってるよ」と答え、周りの客達も頷きます。Tさんが「娘がCD持ってるんで聞いたけど、なんか、かったるいよね」と言いますので私も「テレビで見たけどテネシーワルツをかったるく歌ってたよ。ネットで調べるとジャズピアニストって書いて有るけど、あれはカントリーだよね」と応えました。私が「ノラ・ジョーンズってラヴィ・シャンカールの娘だってよ」と言いますと、その事は誰も知らないようです。なかでもキーボードのMIKIちゃんはラヴィ・シャンカールを知らないと言います。カウンターの客達が一斉に「ビートルズにシタールを教えた人だよ」と説明しましてもMIKIちゃんは「?」。私の年代ですとラヴィ・シャンカールを知っているのは当たり前、ノラ・ジョーンズを知らないのは、まあ、そうだろう、なのですが、最近の若い人達は丸反対のようで、これはカルチャーショックでした。時代は変わったものです。

 さんざん盛り上がったあと、Tさんと私がお勘定をしてお店を出ようとしますとマスターが私に「もう1曲どうですか」と勧めます。私はジャンパーを羽織ったまま、「じゃあ、レイ・チャールズで有名な『愛さずにはいられない』をカントリー・テイストでお願いします」と応えました。この曲は元々はカントリーの曲なのですが、ブルース系のレイ・チャールズがカバーして大ヒットさせた曲です。マスターのギターとMIKIちゃんのキーボードに合わせてこの泣かせる歌を朗々と歌った私は大満足でした。

 さて、お店を出ますと傘が役に立たない程の大雨です。Tさんと私は少しでも濡れなくて済むように、ニュー新橋ビルの中を抜けて新橋駅へ向かいました。私が東京近郊の最寄駅を降りますと雨は上がっていて、代わりに風が冷たく吹いていました。

 3月1日は抽象世界に遊んだあと日常世界に遊んだ私の心を春一番が物狂おしくさせてくれた1日でした。



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