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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

ヨーガ・ヴァーシシュタ

2021年06月06日 | 日記
 ヨーガ・ヴァーシシュタ

 お気に入りのブログ「うちこのヨガ日記」でうちこさんが紹介していたので5月の連休にアマゾンで買いました。株式会社ナチュラルスピリット発行、スワミ・ヴェンカテーシャーナンダ英訳、福間巌邦訳の「ヨーガ・ヴァーシシュタ」と言う本です。2021年3月16日初版発行と有りますので出たばかりの本です。441頁も有って4000円もしますが、サンスクリット原典はこれの4倍のボリュームだと言いますから気が遠くなりますね。邦訳の福間巌と言う人はアーサー・オズボーン著の「ラマナ・マハルシの伝記」を翻訳した人なので、ここからもこの教典の内容ががヴェーダーンタ思想なのが窺えます。そして序文には「ヨーガ・ヴァーシシュタ」の哲学はカシミール・シヴァ派の教義にきわめて近いと有りますのでタントラによるヴェーダーンタ思想なのだと言えますが、この教典が成立したのは日本では江戸時代あたりになるのでしょうか。「ヨーガ・ヴァーシシュタ」とはヴァシシュタ仙人のヨガと言う意味だそうです。

 ヴェーダーンタ思想はサーンキヤ哲学の二元論を叩き台にしていまして、シャンカラの場合はサーンキヤ哲学のプルシャ(真我)とプラクリティ(現象世界)のうちプラクリティ(現象世界)をマーヤー(幻)として退け、プルシャ(真我)だけを実在としてそれをブラフマン(梵)と呼ぶ一元論ですし、ラーマーヌジャはプルシャ(真我)とプラクリティ(現象世界)の上にブラフマン(梵)を置いて一元論としていますが、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」はどのような一元論なのでしょうか。タントラの一元論ですからシャクティ(現象世界、女性のパワー)とシヴァ(真我)の合一をもって一元論にしているのかと楽しみでは有ります。

 さて、「バガヴァッド・ギーター」ではクリシュナ(神)がアルジュナ(人間)に説法するのですが、この「ヨーガ・ヴァーシシュタ」はヴァシシュタ仙人(人間)がラーマ(神)に説法する形になっていまして、バラモンは神をも動かすと言うヴェーダの時代に先祖がえりをしたかのような体裁で、これがヴェーダーンタ思想である事を示しています。

 ところでサーンキヤ哲学には「サーンキヤ・カーリカー」と「ヨーガ・スートラ」と言う明確な経典が有るのですが、ヴェーダーンタ思想にはこれがヴェーダーンタだと言うはっきりした経典が有りません。ヴェーダーンタとはウパニシャッドの事だそうですが、ウパニシャッドはその経典の数々が幅広く、またその内容がはっきりとはしておらず、人間の本質はプラーナ(気)では無いかと言う部分も有りますし、世界の本質はブラフマン(梵)で有り、それが個人に内在する時にはアートマン(真我)と呼ぶヴェーダーンタ思想に至る明確な経緯も良く分かりません。思想が色々と混在しているのです。そうしますとこの「ヨーガ・ヴァーシシュタ」がまとまったひとつの教典として期待されます。

 「ヨーガ・ヴァーシシュタ」ではヴァシシュタ仙人がラーマに色々な物語を語りながらヴェーダーンタ思想の内容を説きます。そしてその内容とは。

 「意識」だけが実在する本質(ブラフマン、梵)で有り、「意識」が心を作り、心が対象世界を作る。従って「意識」だけが実在で有って心も対象世界も実在では無い。

 心も対象世界も実在では無い。あれ、この思想はどこかで聞いた事があるような。

 認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象の3つが有り、そこで認識の表象だけが実在で有り認識の主観も認識の対象も実在では無い。これは瑜伽行派の唯識説(仏教)では有りませんか。「ヨーガ・スートラ」が否定した唯識説がサーンキヤ(ヨーガ・スートラ)の発展形で有るタントラの思想とはこれ如何に。そうは言ってもヴェーダーンタは「有」の思想で仏教は「空」の思想ですから、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」では「意識」が実在するブラフマン(梵)で有るとして仏教とは異なる「有」の思想を展開しています。しかしこれは頭の使い過ぎ。前々から私はヴェーダーンタ思想は頭では分かり易いけれどもヨガの瞑想ではなかなか体験出来ないと思っていますので、ハタ・ヨガ(タントラ)の肉体的な修練とこのヴェーダーンタ思想とがどう直結するのかをこの「ヨーガ・ヴァーシシュタ」でどう表現しているのかが興味の対象となりました。はたして。

 「ヨーガ・ヴァーシシュタ」では主張が一貫していまして、「意識」だけが実在(ブラフマン、梵)で有り「意識」が作り出す心や、心が作り出す対象世界は実在しないマーヤー(幻)で有ると断じます。そしてこの一貫した流れの中で、教典の後半の「ウッダーラカの物語」、「バーサとヴィラーサの物語」、そして「ブシュンダの物語」にハタ・ヨガの技法が出て来ます。プラーナ(前進する気)とアパーナ(下降する気)、チャクラ、ピンガラ・イダー・スシュムナーの3つのナーディー(脈管)、ルドラ(シヴァ神)とカーリー女神、レーチャック(呼気)、プーラック(吸気)、クンバック(止息)。まあ懐かしい事。

 しかし、一貫したヴェーダーンタ思想の中で、これ等のハタ・ヨガの技法が浮いて見えるのです。ヴェーダーンタと直結せずに、どうも坐りが悪い。思想だけを説けば良いのに、取ってつけたようなハタ・ヨガの技法が気になります。

 ですから、最初に書きましたように、シャクティ(プラクリティ、現象世界、女性)とシヴァ(プルシャ、真我、男性)の合一による歓喜、その歓喜を根本とする一元論にすれば良かったのに、その方がタントラらしいのに惜しい事です。

 しかし、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」が主張する、「意識」が実在するブラフマン(梵)で有るとする考えには私も大賛成です。ブラフマン(梵)はサーンキヤ哲学ではプルシャ(真我)の事です。そして「ヨーガ・ヴァーシシュタ」では心や身体や環境世界と言う現象世界をマーヤー(幻)として切り捨てていますが、私は現象世界(心と身体と環境世界)と真我の両方が実在するとするサーンキヤ哲学に与(くみ)します。シャクティ(現象世界、女性)とシヴァ(真我、男性)の合一による歓喜の何と甘美な事。

 「ヨーガ・ヴァーシシュタ」で展開する認識論は頭で構築する傾向が有ると思いますが「ヨーガ・ヴァーシシュタ」がヴェーダーンタ思想を集約した教典なのは間違い無いでしょう。そしてラマナマハリシがこの教典を大変尊重したと言いますから私も共に尊重したいと思います。









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