立ったまま
私のヨガのグル(先生)は私に「死ぬ時は立ったまま死になさい」と言います。
最近ヨガのプラーナヤーマ(調息)の内容が変わりましてまだ慣れずにいます。そうしますと、プラーナヤーマ(調息)の何回目の呼吸のどのあたりをやっているのか分からなくなる事が有ります。眠り込んだ訳でも無く、また意識が散漫になった訳でも無く、これをどう表現するのかと思っていましたら、どうやら失神のようです。何秒間か意識が無くなるのです。
さて、そうしますと失神は良い兆候なのでしょうか。禅では無念無想と言いますが失神の時には確かに無念無想では有ります。しかし、これが良い兆候なのだろうか。
鈴木大拙は他の動物と人間の違いについて「自覚」と言う言葉を使います。「自覚」は「覚醒」と呼んでも良いでしょう。ここで「覚醒」と言います時の「覚醒」は、覚せい剤の「覚醒」とは全く違います(最近の日本語は面倒臭いですね)。無念無想とは言ってもそれを観ている私が居る、それが「自覚」、「覚醒」です。そしてそれが無いと折角の解脱体験(サマディ)も宙に浮いてしまって自己と結びつかず、ただの夢想に終わってしまいます。ですから、これほどに「自覚」、「覚醒」は大切な押さえるべきポイントなのです。
プラーナヤーマ(調息)の際の失神は進歩では無く「道外れ」、「道草」のようです。そして「失神」を経験せずに「自覚」を継続してプラーナヤーマ(調息)を終えた時には格別の爽快感が有ります。
さて、先生が言われる「立ったまま死ぬ」とはどう言う事でしょうか。最近思いますには、死の瞬間に睡眠状態でも意識朦朧でも意識散漫でも無く、意識が「自覚」、「覚醒」に有る事なのでしょう。そうで無いと折角の「死」のスペクタクルを観る事が出来ませんからね。
でも、かなり難しそう。
私のヨガのグル(先生)は私に「死ぬ時は立ったまま死になさい」と言います。
最近ヨガのプラーナヤーマ(調息)の内容が変わりましてまだ慣れずにいます。そうしますと、プラーナヤーマ(調息)の何回目の呼吸のどのあたりをやっているのか分からなくなる事が有ります。眠り込んだ訳でも無く、また意識が散漫になった訳でも無く、これをどう表現するのかと思っていましたら、どうやら失神のようです。何秒間か意識が無くなるのです。
さて、そうしますと失神は良い兆候なのでしょうか。禅では無念無想と言いますが失神の時には確かに無念無想では有ります。しかし、これが良い兆候なのだろうか。
鈴木大拙は他の動物と人間の違いについて「自覚」と言う言葉を使います。「自覚」は「覚醒」と呼んでも良いでしょう。ここで「覚醒」と言います時の「覚醒」は、覚せい剤の「覚醒」とは全く違います(最近の日本語は面倒臭いですね)。無念無想とは言ってもそれを観ている私が居る、それが「自覚」、「覚醒」です。そしてそれが無いと折角の解脱体験(サマディ)も宙に浮いてしまって自己と結びつかず、ただの夢想に終わってしまいます。ですから、これほどに「自覚」、「覚醒」は大切な押さえるべきポイントなのです。
プラーナヤーマ(調息)の際の失神は進歩では無く「道外れ」、「道草」のようです。そして「失神」を経験せずに「自覚」を継続してプラーナヤーマ(調息)を終えた時には格別の爽快感が有ります。
さて、先生が言われる「立ったまま死ぬ」とはどう言う事でしょうか。最近思いますには、死の瞬間に睡眠状態でも意識朦朧でも意識散漫でも無く、意識が「自覚」、「覚醒」に有る事なのでしょう。そうで無いと折角の「死」のスペクタクルを観る事が出来ませんからね。
でも、かなり難しそう。