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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

五感をフルに

2025年08月23日 | 日記
五感をフルに

 最近は日本の北部(東部?)で熊が出没して人を襲ったというニュースをしょっちゅう目にしますが、当該の庁舎には「熊を駆除するな」と言う電話が鳴りやまないそうですね。勿論電話の半分は「早く駆除して」だそうですが「熊を駆除するな」更には「人間を駆除しろ」などど言う意見も有るそうです。「熊を駆除するな」の人達は五感をフルに働かせず頭だけで考えていますね。頭だけで考えると良い結果にはなりません。熊が出没する現場に自分が居ると想像すれば体が震え上がる筈です。

 まだまだ子供達が小さかった頃、我が家の玄関先に蜂が巣を作りました。足長蜂でしたが、刺されると相当痛いのは分かっていたのですがその頃私はヨガを始めたばかりで、アヒムサ(非暴力)の思想にはまっていましたので、しばらくは蜂には手を出さずにいました。しかしこれは危険です。私には子供達を守る義務が有ります。子供達が怖がるのを見て私はやっと蜂を、そして蜂の巣をやっつけました。頭だけで考えるのはいけません、五感をフルに働かせれば、蜂の駆除は当然の事でした。

 インドの聖者ラーマクリシュナに面白い説話が有ります。ある村人が、向こうから狂暴な暴れる象が迫って来ましたが、「象は自然のもので、自然から逃げてはいけないと神様が言っているので自分は逃げない」と言って象に踏み殺されたと言うお話で、ここでラーマクリシュナは「神様は象が来たら逃げろ!とも言っているよ」と優しく諭したと言うお話。

 頭だけで考えず、五感をフルに働かせましょうね。理屈は理屈でしかありません。
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外付け装置でYouTube

2025年08月16日 | 日記
外付け装置でYouTube

 11年前に買ったテレビでYouTubeを楽しんでいますが、この1か月くらいYouTubeの調子が良くありません。YouTubeを開き好きな曲を選んで実行しますと「読み込んでいます」の表示が出てそれが消えると真っ暗な画面になりいくら待っても曲を再生しません。再生しないのが3曲に1曲だったのが3曲に2曲になり、更には5曲に4曲と段々駄目になります。画面が真っ暗になって曲を再生しないとテレビ本体のスイッチをオフオンしないと次にYouTubeが動いてくれません。毎回スイッチをオフオンしますのでこれではテレビに悪そう。

 SONYに電話をしました。状況を説明しますとSONYの人が「2つ程試してみます。まずテレビのインターネット画面の右上の設定を選び、インターネットコンテンツの更新を実行して下さい」。しました。「次に画面左側の地球のマークを選び、オプションから入ってブラウザ設定、そしてCookieの全削除を実行して下さい」はい、しました。「それではYouTubeを試して下さい」、やはり駄目です。「そうですか、あなたと同様の型番のお客様から同様のご指摘をいただいています。テレビが映るのに買い替えるのはもったいないので、電気屋さんで外付けの装置を買って下さい」分かりました。

 ヨドバシカメラで事の次第を説明するとすぐにGoogle TV Streamerと言うのを紹介してくれます。妻が「私達に設定出来るかしら?」と聞きますと「出来ます」。Google TV Streamerが16,000円、そしてケーブルが3,280円、結構高いけどテレビを買い替えるよりは安いのでこれを買いました。

 帰宅して箱を開きますとスマホ程の大きさの本体に取扱説明書が同封されていますが取扱説明書の小さい事。名刺より小さい説明書にはごく簡単な説明しか無く、これではIT音痴の私にはさっぱり分かりません。そもそも「ネットで調べろ」の世界なんでしょうね。PCのインターネットでGoogle TV Streamer設定の仕方の動画を見つけ、それを見ながら妻と2人でああでは無いかこうでは無いかと悪戦苦闘します。

 テレビ画面の入力切替でHDMI1を選ぶ。本体に同封のコードを本体と電源コンセントに繋ぎ、次に買って来たケーブルを本体に差してもう一方をテレビのHDMI端子に接続。それからスマホにGoogle Homeをダウンロード。そしてテレビ画面のQRコードをスマホで読み取り、次はスマホでWi-Fiを選択、そして妻が読み上げるWi-Fiのパスワードをスマホに打ち込んでWi-FiとStreamerをペアリング。そしてやっと作業は完了しました。

 振り返って見ますとこれはスマホを基地としたGoogle世界の統合だったようです。

 夜になってGoogle TV StreamerでYouTubeを立ち上げますと本体に同封のリモコンでYouTubeの動きはサクサクスイスイ、昨日までのイライラは過去のものになりました。

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「怖い」は感情?

2025年08月02日 | 日記
「怖い」は感情?

 私達は常日頃、喜怒哀楽の感情と言いますね。ここで感情とは何でしょうか。私は感情とは環境世界からの刺激に対する反射、反応覚だと思っています。欲しい物が手に入ると嬉しい「喜」、欲しい物が手に入らないと怒る「怒」、持っているものを失うと悲しい「哀」、環境が快適だと楽しい「楽」の4つは環境世界からの刺激に対する反射、反応覚なのが良く分かります。

 この喜怒哀楽に加えてブッダの4つの態度と言うのがあります。それは慈悲喜捨の4つ。子供が可愛いと思う「慈」、親が自分より先に死ぬのが悲しい「悲」、友達が良い事をすると嬉しい「喜」、悪い事をする人とは関係を断つ「捨」の4つですが、これも環境世界からの刺激に対する反射、反応覚ですから感情と言っても良いでしょうね。ここで感情とは環境世界からの刺激に対する反射、反応覚だと定義しておきましょうか。

 さて、ヨガのブログを書いているおばさん(お姉さん?)が喜怒哀楽に怖いの「恐」を加えて喜怒哀楽恐とした5つの感情と言う表現をしています。なるほど、面白いですね。確かに恐怖は環境世界から受ける生命の危機に対する反射、反応覚ですからこれも感情と言えますね。未来に起こるかも知れない生命への危機に対する「不安」もいちおう反射、反応覚と言えますでしょう。そして、ここで。

 人間が生き残る為の内的な衝動と言うのが有りますでしょう。本能による衝動です。食欲、性欲、睡眠欲、そして便意や尿意もこれに当たるでしょう。「痛い!」の痛覚もかな。感情に対する内的な衝動。

 先程感情のカテゴリーに入れた恐怖の感覚、これは人間が生き残る為の本能的で内的な衝動とも言えますよね。未来に対する「不安」もそうです。そうしますと「怖い」の「恐」の感覚は感情であると同時に内的な衝動であるとも言えますね。

 そこで、とりあえずの結論としては怖いの感覚「恐」は感情でも有り、また生き残る為の内的な衝動でも有る、感情と衝動の中間あたりに位置するとしておきましょうか。

 しかし、喜怒哀楽は感情的と言いますが恐怖を感情的とは言いませんね。情緒的もそう。

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自分さえ良ければ

2025年07月19日 | 日記
自分さえ良ければ

 SNSを見ていましたら日本の仏教のお坊さんが「自分さえ良ければと言う考えはいけません、利己主義は」と法話で話しています。それはそうなんだけどと、何か引っかかりを感じます。

 「自分さえ」と言うからにはその人は周りの人達を意識、認識していますよね。「(周りの人達はともかく)自分さえ良ければ」と(周りの人達はともかく)が既に入っています。周りの人達を想定しての利己主義。しかし、そんな人はそんなに多く居るものでしょうか。

 私はこれまで人生の中で数人の嫌な人に出会いましたが、その人達はそもそも周りの人達には関心を持たず己の欲求、欲望に引っ張られて己の世界の中にだけ居ました。他人(ひと)の立場が分からない、他人(ひと)の痛みが分からない、己の主張だけをする、そんな人達でした。これなら他人(ひと)を意識しながらの「自分さえ良ければ」の利己主義の人の方がまだましです。

 中学校の体育の時間にサッカーのゴールネットが何故だか手前に倒れて来ました。私達は皆ゴールネットを押し返そうとしましたが1人だけその場を逃げました。先生はその生徒を「利己主義だ!」と言って責めましたが、その時にその生徒は「自分さえ良ければ」と考えましたでしょうか。ただ怖かっただけでしょう。恐怖に負けて周りが見えなかっただけ。

 周りに関心を持たず己の欲求、欲望に引っ張られるだけの人。恐怖に負けて周りを思う余裕を失っただけの人。実際には「自分さえ良ければ」と冷静に考える人よりもそういった原初の感情に巻き込まれる人の方が多いと思うのですが、どうでしょうか。

 「自分さえ良ければの利己主義はいけません」と言う前に、その時その時の己の感情だけに閉ざされて周りが見えない事の無いように、と気を付けたいですね。

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命とは何か

2025年07月05日 | 日記
命とは何か

 NHKテレビの不定期番組「人体」がこの間終了しましたね。IPS細胞の山中教授とタモリが進行する番組でしたが最後は「命とは何か」でした。山中教授の説明では命とは原初の単一の細胞だったのだそうですが、その単一の細胞の中には(生物では無い)無数の物質が有ってそれらが相互に作用しあい、そして細胞の働きを助けているそうで、それらの無数の物質の働き無しでは細胞は命として存続出来ないとの事でした。そして命とは何かを追及していると、分かれば分かる程分からない事がどんどん増えていくのだそうです。しかしこの単細胞の中の微細を追及するやり方は細胞(命)の究極の姿を探求する科学者達が神の領域を探しているかのようで、このアプローチでは結論に到らないように思いました。

 私達は日頃、大宇宙と小宇宙と言う考えをしますね。宇宙全体の摂理を大宇宙(マクロコスモス)とし、一方で私達の体(人体)を小宇宙(ミクロコスモス)として人体の中には宇宙の摂理が全て入っていると言う考えです。ここに山中教授の微細な単一細胞の世界を持ち込みますと、宇宙全体の摂理(大宇宙、マクロコスモス)の下に人体(小宇宙、ミクロコスモス)が有り、そして人体(小宇宙、ミクロコスモス)の下に単一細胞(極小宇宙)が有る、つまり大宇宙→小宇宙→極小宇宙と進む、まるでマトリョーシカのような世界が展開します。すると極小宇宙の次には何が有るのだろうか。

 物理学では世界を構成する極小の物質を追及した結果、それは物質では無く「振動」だったそうですね。

 そうすると、さて、物質とは何か?命とは何か?

 昔、仏教教典を数多く翻訳した中村元さんが「自己の探求」と言う本を出していたので読んでみました。中村元さんの事ですから宗教哲学的なアプローチをするのだろうと思って読みましたらなんと「生命の起源」へとお話が進んでしまい、がっかりしたものです。お話は自我→自己→息→生気論→機械論、そして生命の起源へと続いていました。中村元さんにして、なかなか難しい問題だったようです。

 「命とは何か?(自己の探求)」には生物学的探求、物理学的探求、そして宗教哲学的探求が有りますね。そして私は宗教哲学的探求です。

 「命とは何か?」、私が思いますのに、それは「経験」と「記憶」です。道端の石ころに命は有りませんが、経験はします。陽に当たったり雨に当たったり、しかしそれを記憶しません。一方で命は経験を記憶します。アメーバも植物も人間も経験を記憶し、その記憶によって良い道(方法?)を探し、そしてより快適な存続へと向かいます。

 ヨガでは経験はカルマ、記憶はサムスカーラ、そして自我意識のアハンカーラが揃えばそこはヨガの世界ですね。

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