水銀の謎
ヨガの練習でアサナ(ヨガのポーズ)と2つの呼吸法、そして眼の集中が終わってプラーナヤーマ~メディテーションに入る前と後に神様にご挨拶をするのですが、正座をして目を閉じ手を合わせますとヴィジョンが現れます。シヴァリンガム(リンガとヨーニが結合した形のシヴァ神のご神体)が現れ、次にシヴァリンガムのリンガ(男根)とヨーニ(女陰)の結合部分から水波が円状にひろがり、水波は転変してヴェールになり、そしてヨーニの先端から水銀が流れ落ちます。水波とヴェールは何となく分かるものの、水銀とは何の事だろうか。水銀は人体に毒ですから銀なのだろうか、しかし流れ落ちるのだからやっぱり水銀・・・この意味は何なのだろうか。
気になりますのでせりか書房発行、ミルチャ・エリアーデ著の「ヨーガ②」を読み返して見ました。エリアーデの「ヨーガ①」にはサーンキヤ哲学の説明やヨーガ・スートラのヨガの8段階、そしてウパニシャッドに出て来るヨガや「マハーバーラタ」や「バガヴァッド・ギーター」に出て来るヨガについて詳しく書いて有りますので何度も読み返していましたが、「ヨーガ②」はタントリズムや錬金術や土着インドとヨガの関係を書いて有りましたので関心が持てず、あまり読み返していませんでした。しかし最近では去年あたりから私の練習しているハタ・ヨガがタントラに非常に近い事が分かって来ましたので、「ヨーガ②」に何かヒントが有るかも知れないと思ったからです。
そうしましたら、果たして、有りました。
第7章ヨーガと錬金術に下記の記述が有ります。
ラサすなわち水銀は、シヴァ神の精髄である。それはまたパーラダ(パーラは向こう岸の意)と呼ばれる。なぜならば、それはこの世界の向こう岸に通じているから。それは同様にしてハラ(シヴァ)の種子であり、そして、雲母は女神(ガウリー)の卵子である。
なるほど、そう言う事だったのか。
しかし、この文を読まれる方にはこれが何の事か理解出来ない方もおられるでしょう。パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」との間にあまりにも飛躍が有るからです。そこでミルチャ・エリアーデの「ヨーガ②第6章ヨーガとタントリズム」からヨガの8段階とハタ・ヨガの橋渡しをしている記述を4つ程抜き書きしておきましょう。
1、タントリズムにおいては、インド精神史においてかつてないほど人体が重要となる。
2、⑴サーダナ(成就法)にとってなくてはならない部分として生の全体的経験が重要であるとされており、これはすべてのタントラ的学派の一般的立場である。⑵更には、身体を神聖な身体に変えるために身体を支配する意志があり、これは特にハタ・ヨーガの立場である。そのような支配は、諸感官とそれらの諸機能に関する正確な知識をもとにして、控え目に始められねばならない。なぜならば、「自分たちの身体を、一つの柱を有し九つの門(を有し)五持仏(によって統轄された)一軒の家(である)と知らないヨーガ行者がどうして(ヨーガにおける)完成を得ることができよう」。
3、性交が「反対物の結合」として考えられたということは、幾つかの文献がマイトウナ(交接)という語をサンヒター(結合)という語に置きかえていることによっても更に証明される。この「サンヒター」という語は音節、音韻、メロディー等の連結法を表すのに用いられるが、神々やブラフマンと一体になることを表現するためにも用いられる。
4、すべての裸の女性は、プラクリティを具現する。したがって、自然が有する底のしれない秘密や無限の想像力を考える場合に感ずるのと同じ尊崇と超脱とをもって、裸の女性は見られるべきだ。ヨーギニー(女性ヨーガ行者)の儀礼的裸形には、本質的な、神秘的価値が存する。もし人がその裸の女性の前で、宇宙の秘儀の啓示を前にしたときに感じるような、恐怖の感情を心の奥で見出さないならば、如何なる儀礼もなく、ただ世俗的な行為があるのみであり、よく知られたすべての結果(業の鎖を強化すること等)を生むだけである。第二の段階は、女性=プラクリティがシャクティの具現へと変形することである。
どうでしょうか、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」が「心の働きの静止」を主張しているのに対し、ハタ・ヨガがその「心の働きの静止」の為には細密な体の観察や細密な心の観察が必要な事を主張している事が良くわかりますね。「ヨーガ・スートラ」のヨガの8段階は日常生活での普通の意識モードから入って行けますが、タントラではそれに加えてイマジネーションが必要なようです。改めましてハタ・ヨガは心と体の生理学なのだと実感しました。
ヨガの練習でアサナ(ヨガのポーズ)と2つの呼吸法、そして眼の集中が終わってプラーナヤーマ~メディテーションに入る前と後に神様にご挨拶をするのですが、正座をして目を閉じ手を合わせますとヴィジョンが現れます。シヴァリンガム(リンガとヨーニが結合した形のシヴァ神のご神体)が現れ、次にシヴァリンガムのリンガ(男根)とヨーニ(女陰)の結合部分から水波が円状にひろがり、水波は転変してヴェールになり、そしてヨーニの先端から水銀が流れ落ちます。水波とヴェールは何となく分かるものの、水銀とは何の事だろうか。水銀は人体に毒ですから銀なのだろうか、しかし流れ落ちるのだからやっぱり水銀・・・この意味は何なのだろうか。
気になりますのでせりか書房発行、ミルチャ・エリアーデ著の「ヨーガ②」を読み返して見ました。エリアーデの「ヨーガ①」にはサーンキヤ哲学の説明やヨーガ・スートラのヨガの8段階、そしてウパニシャッドに出て来るヨガや「マハーバーラタ」や「バガヴァッド・ギーター」に出て来るヨガについて詳しく書いて有りますので何度も読み返していましたが、「ヨーガ②」はタントリズムや錬金術や土着インドとヨガの関係を書いて有りましたので関心が持てず、あまり読み返していませんでした。しかし最近では去年あたりから私の練習しているハタ・ヨガがタントラに非常に近い事が分かって来ましたので、「ヨーガ②」に何かヒントが有るかも知れないと思ったからです。
そうしましたら、果たして、有りました。
第7章ヨーガと錬金術に下記の記述が有ります。
ラサすなわち水銀は、シヴァ神の精髄である。それはまたパーラダ(パーラは向こう岸の意)と呼ばれる。なぜならば、それはこの世界の向こう岸に通じているから。それは同様にしてハラ(シヴァ)の種子であり、そして、雲母は女神(ガウリー)の卵子である。
なるほど、そう言う事だったのか。
しかし、この文を読まれる方にはこれが何の事か理解出来ない方もおられるでしょう。パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」との間にあまりにも飛躍が有るからです。そこでミルチャ・エリアーデの「ヨーガ②第6章ヨーガとタントリズム」からヨガの8段階とハタ・ヨガの橋渡しをしている記述を4つ程抜き書きしておきましょう。
1、タントリズムにおいては、インド精神史においてかつてないほど人体が重要となる。
2、⑴サーダナ(成就法)にとってなくてはならない部分として生の全体的経験が重要であるとされており、これはすべてのタントラ的学派の一般的立場である。⑵更には、身体を神聖な身体に変えるために身体を支配する意志があり、これは特にハタ・ヨーガの立場である。そのような支配は、諸感官とそれらの諸機能に関する正確な知識をもとにして、控え目に始められねばならない。なぜならば、「自分たちの身体を、一つの柱を有し九つの門(を有し)五持仏(によって統轄された)一軒の家(である)と知らないヨーガ行者がどうして(ヨーガにおける)完成を得ることができよう」。
3、性交が「反対物の結合」として考えられたということは、幾つかの文献がマイトウナ(交接)という語をサンヒター(結合)という語に置きかえていることによっても更に証明される。この「サンヒター」という語は音節、音韻、メロディー等の連結法を表すのに用いられるが、神々やブラフマンと一体になることを表現するためにも用いられる。
4、すべての裸の女性は、プラクリティを具現する。したがって、自然が有する底のしれない秘密や無限の想像力を考える場合に感ずるのと同じ尊崇と超脱とをもって、裸の女性は見られるべきだ。ヨーギニー(女性ヨーガ行者)の儀礼的裸形には、本質的な、神秘的価値が存する。もし人がその裸の女性の前で、宇宙の秘儀の啓示を前にしたときに感じるような、恐怖の感情を心の奥で見出さないならば、如何なる儀礼もなく、ただ世俗的な行為があるのみであり、よく知られたすべての結果(業の鎖を強化すること等)を生むだけである。第二の段階は、女性=プラクリティがシャクティの具現へと変形することである。
どうでしょうか、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」が「心の働きの静止」を主張しているのに対し、ハタ・ヨガがその「心の働きの静止」の為には細密な体の観察や細密な心の観察が必要な事を主張している事が良くわかりますね。「ヨーガ・スートラ」のヨガの8段階は日常生活での普通の意識モードから入って行けますが、タントラではそれに加えてイマジネーションが必要なようです。改めましてハタ・ヨガは心と体の生理学なのだと実感しました。