ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

面白い仏教

2021年03月01日 | 日記
面白い仏教

 仏教は難しい、分かりにくいと一般に私達は思いますね。仏教はインドから中国に渡って漢語に翻訳され、それが日本に伝わったのですから仏教の経典を読むのも大変ですし、また仏教の経典が余りにも膨大なのでその全貌をつかむのはとても容易では有りません。比叡山は仏教の図書館とも呼ばれているようですし、道元も法然も日蓮もその一部を取り分けたのだと言います。

 しかし仏教にもその肝(きも)と言うべき部分は有る訳ですし、それを以下に述べてみます。

 原始仏典

 原始仏典の中でも「縁起説法」と「無常説法」が肝(きも)です。「縁起説法」の縁起とは縁によって起こると言う、その内容を順番に説明しています。AによってBが起こりBによってCが起こる。CによってDが起こりDによってEが起こり、そして遂にはEによってFに至ると言う訳でして、Fは苦で有りAはそもそもの苦の原因です。そこで今度はFから順に点検を遡ってAに至り、最終的には苦を脱すると言う訳です。

 次に「無常説法」。無常とは事象は常に転変すると言う意味なのですが日本では無常と無情と発音が重なる為に情緒的に受け止められているようです。ですから「無常説法」は「転変説法」と呼んだ方が分かり易いですね。事象は常に動いており、時間が止まって動きが止まると人間の認識作用も止まり、一瞬にして世界は消滅してしまいます。「無常説法」には認識論が隠れていると私は思います。「バガヴァッド・ギーター」の始めの方でクリシュナはアルジュナに言います、「私はお前達の為に活動を続ける、何故ならば私が活動を止めると世界は消滅するからで有る」。「バガヴァッド・ギーター」は仏教では有りませんが、同じ思考がその底には流れていますね。世界は転変していて、私達はその中で考えたり活動したりを続けています。ナタラージャ(踊るシヴァ神)は転変する世界を踊り進みます。ナタラージャはヒンドゥー教の神様ですが、このあたりの思考は仏教も同じですね。さて、仏教の次の肝(きも)は般若心経です。

 般若心経

 般若心経は「空」の思想です。そしてその「空」と言うのが良く分からない。そこで原始仏典の「縁起説法」を振り返って見ますと、縁によって起こるでしたね。般若心経は「縁起説法」の発展形です。因縁の因(直接的原因)と縁(間接的原因)とによって事物は形作られる。そこで因と縁と言う竹の皮で編み上げられた手毬を想像して見ましょう。因と縁とで形作られた手毬の中身は空っぽ、これを「空」の思想と言います。因と縁だけが実在で手毬の中身は空っぽですから、仏教は手毬の中に永遠の魂などと言うものを認めません。これが仏教の恐ろしいところです。そして、次の仏教の肝(きも)は瑜伽行派の唯識説です。

 瑜伽行派の唯識説

 仏教がいよいよタントラ化しようとする直前のあたりだと思うのですが、瑜伽行派の唯識説と言うのが有ります。瑜伽行派とはヨガ行者達の事ですから、これはヨガ行者の唯識説と言う事になります。唯識説は認識論ですね。人が何かを認識する時には認識する主観と認識の対象、そして認識の表象の3つが有ります。認識作用は一瞬の事ですけれども、そこには時間の流れ、すなわち変化が有ります。ですから瑜伽行派の唯識説は原始仏典の「無常説法」の発展形と言う事になります。認識作用の中での時間の推移を念頭に置いて認識の流れを観察して見ましょう。

 認識の主観が認識の対象を観察します時に、人は見たいように物を見ますから、認識の対象と認識の表象とは別物と言う事になります。瑜伽行派の唯識説ではこの認識の表象だけが実在で有るとして、認識の主観と認識の対象を実在では無いとして退けます。そして認識の表象と阿頼耶識(あらやしき、記憶の倉庫)との永遠の循環だけが実在で有る。これがどうも瑜伽行派の唯識説のようです。

 瑜伽行派の唯識説は認識論として大変に面白いのですが、少しばかり頭の使い過ぎ、仏教がそのあと衰退してヒンドゥー教に合流したのもうなずけます。

 今回は般若心経と瑜伽行派の唯識説を原始仏典の発展形として眺めて見ましたが、こうしますと仏教もなかなか面白いですね。






コメント (2)
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