グリーンに一礼
松山英樹選手がアメリカのマスターズで優勝しまして、これは日本人に限らずアジアからでも初めての快挙なのだそうでして喜ばしい事ですね。そしてこの快挙も素晴らしい事なのでしょうが、松山選手のキャディーの行いが話題になっているそうです。優勝を決めた松山選手のパットが終わるとキャディーはピン(旗竿)をカップに戻し、そして帽子を脱いでグリーン(コース?)に一礼をした、その様子が素晴らしいとツイッターの動画が250万回以上も再生されたそうで、松山選手の快挙に合わせてキャディーの行いも奇特で有ると評価されたようです。ところがキャディーは何の感情も持たず、ただ有難うとお礼のお辞儀をしただけだと言ったそうですね。私達には普通の行いでもアメリカのスポーツ界では奇特な行いだとされたのはどう言う訳でしょうか。
キリスト教もイスラム教も豊かな緑とは程遠いアラブで生まれた宗教ですので環境世界には余り関心を示さず、思考は神と人間の対立に集中されてしまうようです。一方で緑豊かなインドで生まれたヒンドゥー教や仏教では神と人間との間に自然(環境世界)を置いて考えますね。サーンキヤ哲学では心と身体と環境世界は同根でひとくくりですし、ヴェーダーンタ思想では梵我一如と言いまして自然(環境世界)の本質はブラフマン(梵)、そしてそのブラフマン(梵)は個人にも内在するとしてそれをアートマン(真我)と呼びます。また仏教では縁起説法と言うのが原始仏典には有りまして、縁によって起こると言う、物理学のような考えをします。
しかし、ここでこのキャディーに仏教への深い理解が有ったとも思いませんが、日々の生活の中で仏教的な態度は自然と身に付いていたんでしょうね。インド人でもその多くはヒンドゥー教や仏教を深くは理解していないのでしょうが日々の生活の中に宗教的な態度は滲み出ていますよね。この、なんとなく身に付いて滲み出ると言うのが良いのだと思います。総理大臣や官房長官は日本国旗に一礼をしますしお相撲さんは土俵に一礼、また柔道家は畳に一礼します。
今回の松山英樹選手のマスターズでの優勝、そしてキャディーのグリーン(コース?)への一礼は、改めて自然(環境世界)を畏敬する態度の大切さを世界に示したように思いますね。
ところでお話は違いますけれども、キリスト教やイスラム教は一神教で日本の土俗信仰は多神教だ等と言いますが、これは違います。神と言う概念は時間や空間を超越していますから、そもそも神と言う概念に数は無いのです。そして一神教でも多神教でも、人格神でも非人格神でも、また有神論でも無神論でもいっこうに構いません。大事なのは自然の摂理に対する礼拝の気持ちだと思います。
松山英樹選手がアメリカのマスターズで優勝しまして、これは日本人に限らずアジアからでも初めての快挙なのだそうでして喜ばしい事ですね。そしてこの快挙も素晴らしい事なのでしょうが、松山選手のキャディーの行いが話題になっているそうです。優勝を決めた松山選手のパットが終わるとキャディーはピン(旗竿)をカップに戻し、そして帽子を脱いでグリーン(コース?)に一礼をした、その様子が素晴らしいとツイッターの動画が250万回以上も再生されたそうで、松山選手の快挙に合わせてキャディーの行いも奇特で有ると評価されたようです。ところがキャディーは何の感情も持たず、ただ有難うとお礼のお辞儀をしただけだと言ったそうですね。私達には普通の行いでもアメリカのスポーツ界では奇特な行いだとされたのはどう言う訳でしょうか。
キリスト教もイスラム教も豊かな緑とは程遠いアラブで生まれた宗教ですので環境世界には余り関心を示さず、思考は神と人間の対立に集中されてしまうようです。一方で緑豊かなインドで生まれたヒンドゥー教や仏教では神と人間との間に自然(環境世界)を置いて考えますね。サーンキヤ哲学では心と身体と環境世界は同根でひとくくりですし、ヴェーダーンタ思想では梵我一如と言いまして自然(環境世界)の本質はブラフマン(梵)、そしてそのブラフマン(梵)は個人にも内在するとしてそれをアートマン(真我)と呼びます。また仏教では縁起説法と言うのが原始仏典には有りまして、縁によって起こると言う、物理学のような考えをします。
しかし、ここでこのキャディーに仏教への深い理解が有ったとも思いませんが、日々の生活の中で仏教的な態度は自然と身に付いていたんでしょうね。インド人でもその多くはヒンドゥー教や仏教を深くは理解していないのでしょうが日々の生活の中に宗教的な態度は滲み出ていますよね。この、なんとなく身に付いて滲み出ると言うのが良いのだと思います。総理大臣や官房長官は日本国旗に一礼をしますしお相撲さんは土俵に一礼、また柔道家は畳に一礼します。
今回の松山英樹選手のマスターズでの優勝、そしてキャディーのグリーン(コース?)への一礼は、改めて自然(環境世界)を畏敬する態度の大切さを世界に示したように思いますね。
ところでお話は違いますけれども、キリスト教やイスラム教は一神教で日本の土俗信仰は多神教だ等と言いますが、これは違います。神と言う概念は時間や空間を超越していますから、そもそも神と言う概念に数は無いのです。そして一神教でも多神教でも、人格神でも非人格神でも、また有神論でも無神論でもいっこうに構いません。大事なのは自然の摂理に対する礼拝の気持ちだと思います。