ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

子供等の心配

2013年04月26日 | 日記
子供等の心配

 先月友人KM夫婦とうちの夫婦とで食事をしました時に友人KMに「兄弟の心配するより子供等の心配をしろよ」と言われ、私は反射的に「子供等に対して、僕はやるべき事は全部やったし、今更、もう心配はしたくないよ」と反発しました。早くに母親を亡くした3人の子供等を1人で育てた私の苦労が分かっていないとの思いも有りました。話はそれで終わったのですが、友人KMの言葉が今も私の胸に刺さっています。

 友人KMはどう言う事を言いたかったのだろうか、今更聞けないしなあ。私は子供等に対して愛情が足りなかったのだろうか。「心配しろ」と言われても何を心配するのやら、今や30代の前半から後半の3人の子供達にですよ。「心配する」とは子供達が私の思う様になっていないから私の思うようになるように圧力を掛ける事でしょう。子供達は幼い頃には親の言う事を素直に受け入れますが、中学生、高校生にもなりますと自我意識が出て来て反発するものです。ましてもう30代。そしてまた、3人の子供等はまだ結婚していませんので、結婚相手は居ないのかとは思いますが、それは本人次第でしょう。

 私の子供等への「思う様」とは、心身共に健康に働いて安定した収入を得て欲しい、また娘達には安定した収入の有る男性と結婚して欲しい、息子には気立ての良い人と結婚して欲しいと言う事でしょうか。簡単に言いますと、「心配掛けないでくれ」ですから、これは親のエゴです。また、「思う様」になったとしても、それは一時的の事で、それが不幸の種になる事も有るでしょう。幸せは子供等ひとりひとりが自分で獲得するものです。子供等が「幸せ」と思えば「幸せ」なのですし、「不幸せ」と思えば「不幸せ」なのです。子供等がやりたい事をやっている時は「幸せ」と感じるでしょうし、その結果が良くなければ「不幸せ」と感じるでしょう。

 昔と違って世の中も複雑になっています。銀行は、昔は潰れない業種のトップでしたが、今はそんな事は有りません。また、東京電力は銀行以上に安定的な会社だと思われていましたが、これですものね。昔は有名企業の正社員になれば年収も自動的に上がりましたが、今はどうでしょうか、会社は人を減らしますから正社員も大変でしょう。ましてや非正規雇用ですともっと大変です。嫌な時代です。

 今では私も年金生活ですから、カネの心配はしてやれません。そしてお金以外の心配をしますと、子供等にとっては独立性の侵害とも受け取られますでしょう。子供等は自分のやりたい事をやって、その結果は各自で吟味するのが良いでしょう。

 結局、子供等に何かが起これば飛び上がってジタバタし、子供等が平穏な時にはこちらも平穏にと言う、現在の有り方が一番良いように思うのですが、どうでしょうか。



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夢見の構造

2013年04月19日 | 日記
夢見の構造

 「死は夢見からの目覚めである」と言う言葉が降りてきました。私達は常識的には日常生活を覚醒と見、死を昏睡と考えていますが、それとは丸反対のこの言葉をどう解釈しましょうか。

 私達が熟睡して夢を見ていない時、目覚めますと私達は「ああ、良く寝た」と思います。これは、眠っていた間、私達は消滅していた訳では無く、熟睡していた間も存在していた事は自覚していると言う事を示しています。

 私達が眠っていて夢を見ている時に、私達は確かに存在していますし、周りの人達とも会話をしますし会社のデスクも有ります。しかし夢の中では私達の日常生活と比べて不便な事も有ります。夢の中で私達は算数の簡単な計算が出来ません。どうしても電話番号を押せないと言う人も居ますね。一方で日常生活と比べて便利な事も有ります。私達の想念がいくらかは夢の行方、夢のストーリーを思う様に動かす事が出来ます。夢の映像を見ながら、映像を見ているもう1人の自分が居ると言う自覚が有るからですね。

 私の場合、私の見る夢は大概は悪夢、悪い夢です。ですから夢から目覚めますと、「ああ、夢で良かった。こんな夢はもう見たくない」と思います。夢を作り出しているのはインドで言うサムスカーラ、つまり以前に「経験した事の記憶が潜在意識化したもの」です。過去の不安だった経験のその「不安」が象徴的に新しい夢を形成するのです。

 さて、それでは、私達が目覚めている時の日常生活のリアリティとはどんなものかを点検して見ましょう。私達にはパーソナリティ(個性)が有ります。そしてパーソナリティ(個性)は人それぞれです。人それぞれだからパーソナリティ(個性)とも言うのです。そうしますと私達はパーソナリティ(個性)と言う色眼鏡を通して日常世界を見ている事になります。私達はパーソナリティ(個性)と言うカレードスコープ(万華鏡)を覗きながら、それを通して、「これが現実世界だ」と思い込んでいます。実際にはパーソナリティ(個性)の数だけ日常世界が有るのです。日常世界は私達の想念が作っていると言うこの事実は否定出来ないものでしょう。私達は自分の想念世界をリアルなものだと錯覚しているのだとも言えます。詩的に表現するならば、私達は自分の作り出した夢をリアルな日常世界だと思い込んでいるのです。

 私達は見たい物は見ますが見たくない物は見ません。また、見える物はリアルに受け止めますが、見えない物は無視をします。無視ならまだ良い方で、私達は見えない物には無関心です。

 私達はテレビの映像を無警戒に見ていますが、どうしてテレビに映像が映るのかを知りません。技術者はテレビの電波の働きの習性を知っているのでしょうが、何故電波が有るのかについてはスルーしています。今日ではインターネットの画像は日常生活に不可欠の物になっていますが、私達はインターネットの理屈を知りません。技術者はインターネットの電波の働きの習性を知っているのでしょうが、何故電波が有るのかについてはスルーしています。私達は何でも知っていると思いながら何も知らない生活をしています。砂上の楼閣です。

 先へ進みましょう。インドでは解脱体験をした人の事をジーヴァン・ムクタと言います。ジーヴァンは「生きている」と言う意味で、ムクタは「解脱」と言う意味です。直訳するならば「生前解脱」です。生きているうちに解脱体験するのは大変に難しい事だから、そう言う表現が有るのでしょう。そうしますと、待てよ。

 人は皆、死んだら解脱すると言う事か。

 心の働きは身体の働きの一部に過ぎません。ですから人が死ねば身体と共に心、想念や夢も消滅します。そして残るのは「自己の真実」である絶対主観です。パーソナリティ(個性)が消滅した時に人間の普遍性である「自己の真実」、真我、絶対主観が現れます。

 「死は夢見からの目覚めである」は、あながち間違いでも無いようです。



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紀伊國屋書店

2013年04月12日 | 日記
紀伊國屋書店

 大学時代の友人達と久しぶりに新宿で飲む事になったので、待ち合わせの時間よりも1時間程早く新宿へ出て紀伊國屋書店を覗いて見ました。紀伊國屋書店を覗くのは恐らく25年ぶりの事です。

 1階の新刊書売り場はすっかり模様が変わっていて戸惑いましたが、2階より上は昔と比べて違和感は有りません。宗教、哲学、歴史、思想のあたりへ行き、先ずは仏教のコーナーを見て驚きました。「これは」と思う本は全部うちの本棚に有るのです。勿論、本の装丁や価格は変わっていますが間違いなく同じ本です。私が20才から30才の頃に買った本ばかりですから、その頃と売り場の景色が変わっていません。そこに1冊だけ新しい本が有りました。春秋社発行、福島慶道著の「趙州録提唱」です。この本は先月近くの書店で買って2回読み返しました。福島慶道と言う人は平成23年に亡くなっていますから、殆ど直近の人と言えます。東福寺派管長を務めた昭和生まれの人ですから、明治生まれのお坊さんよりも話は分かり易く説得力が有ります。しかし、「時間論」、「空間論」、「生死論」と言う根本の所は道元の方が遥かにはっきりと説明していて、現代が道元に追いついていない、これは残念な事です。禅の限界なのでしょうか。

 25年ぶりに覗いた仏教コーナーに新しい本が1冊しか無く、いまだに昔の本ばかりが並んでいるのは、現代の日本で仏教が衰退している事の現れなのでしょうか。

 次に私はヨガ(ヒンドゥーイズム)関連のコーナーを覗いて見ました。ここにもうちの本棚に有る本ばかりが並んでいましたが、新しい本もいくらかは有ります。ラヒリ・マハサヤにクリヤ・ヨガを伝授したヒマラヤの聖者ババジの本が有りました。しっかりした装丁の本で3500円位でしょうか、ちょっと高くて手が出ません。また、ラヒリ・マハサヤの弟子の弟子でアメリカにヨガを広めたパラマハンサ・ヨガナンダの対話集も出ています。パラマハンサ・ヨガナンダと言えば、私が昔2000円で買った「ヨガ行者の一生」が装丁も新しく3500円で売られています。他には北インドのリシケシュにシバナンダ・アーシュラムを開設したスワミ・シバナンダの本が何冊か有りました。シバナンダの本が出版されているのは喜ばしい事です。

 さて、仏教と比べますとヨガ(ヒンドゥーイズム)の方が、まだ、活気が残っていると思いました。そして元々仏教もヒンドゥーイズムの大きな流れの一環なのに、日本では仏教とヒンドゥーイズムとが全く別の物として捉えられているようで、これは大変に残念です。

 キリスト教関連の本は、私は調べませんでした。キリスト教は、「新約聖書」1冊で充分です。私は元来、イエス・キリストを卓越したヨガ行者だと考えていますので、キリスト教教団の教えとイエス・キリスト自身の教えとは大分と違うのだろうと思うのです。神学の勉強をしている余裕は私には有りません。

 さて、昔は仏教やヨガ(ヒンドゥーイズム)についての新刊書が次々と発売されていましたのに、最近では「これは」と思う本があまり発売されていないのは、最近の若者達に「精神世界」への熱意、「自己の探求」への熱意が薄れて来ているからなのでしょうか。それとも若者達に熱意は有るのに、それに答えてあげられる人材が居なくなっているからなのでしょうか。

 最近、サリン事件を起こしたインチキ教団に事件を知らない若者達が新たに入信しているとのニュースを聞きますが、これはどう考えましょう。実存の悩みを抱える若者達に対して、既存の仏教のお寺やキリスト教の教会が明快な解答を与える力量を持っていないのも重大な理由のひとつだと思うのですが。

 1時間ばかり紀伊國屋書店をぶらついた私はなんだか疲れてしまい、そして友人達との待ち合わせのお店へ向かいました。





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古池や

2013年04月05日 | 日記
古池や

 漫然とテレビを見ていましたら、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の一句が降りてきました。この句は小学校か中学校の時に教わっています。静かだけれど穏やかな陽だまりの中の情景を詠んだものだとばかり思っていましたが、今回は全然違いました。「古池や」は静止画です。次の「蛙飛び込む」は動画で、そして「水の音」は「ちゃっぽん」ですから「音」ですね。つまり、「画」→「画」→「音」と転変しています。一瞬の出来事なのですが芭蕉は見事に「今」を切り取っており、特に「蛙飛び込む」から「水の音」、つまり「画」から「音」への転変が素晴らしい。

 もう1度読んで見ます、「古池や 蛙飛び込む 水の音」。映画のワンシーンのように転変していますね。ロングショット「古池や」→ズームアップ「蛙飛び込む」→音声「水の音」という具合でしょうか。

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という句も有りますが、これは「目には青葉」という視覚、「山ほととぎす」という聴覚、「初鰹」という味覚を並列に並べているだけで、「静止画」から「動画」、そして「音」へのような転変が有りません。「古池や 蛙飛び込む 水の音」の方が断然よろしい。

 ところで、「古池や 蛙飛び込む 水の音」を禅の境地と言う人も有るようですが、どうでしょうか。ちょっと大袈裟な気もします。確かに「画」→「画」→「音」と「転変」していますが、同じ世界の中での転変であって、全く次元の違う所への転変では有りません。禅は全く次元の違う所へ転変し、そして元へ戻ります。もっとも芭蕉は芭蕉なりに禅を勉強して「転変」の語に至り、この句を詠んだのかもしれませんね。

 ところで、時間には「今」と「さっき」と「過去」しか有りません。「過去」は「今」の中に有り、そして「未来」という言葉は有りますが「未来」という言葉に実体は有りません。「未来」が出現した時、それは「今」であって「未来」では有りません。そして「今」は経験であり、「さっき」は記憶です。「今」と「さっき」と「過去」との関係、これは面白い。「今」が「さっき」になり「さっき」が「過去」になると「過去」は「今」の中に有る。

 如何ですか。

 「転変や ああ転変や 転変や」。
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