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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

イエスタデイ

2013年11月29日 | 日記
 イエスタデイ

 ビートルズの名曲「イエスタデイ」を日本語に訳して見ました。

 イエスタデイ

イエスタデイ
全てのトラブルが遥か遠くの事に思えたのに
今ではここに留まっているかのようだ
ああ、昨日の事なんだよな

突然にやってきた
僕は以前の半分程の人間でもない
影が降りて来て僕をすっぽりと包んでしまう
ああ、昨日は突然にやってきた

どうして彼女は行かなければならなかったのか
僕には分からない、彼女は言おうとしなかったもの
僕は何か悪い事を言ってしまった
今は昨日に戻りたい

イエスタデイ
恋はこんなに簡単なゲームだったのか
今僕には隠れる場所が必要だ
ああ、昨日の事なんだよな

 (1番)現在の状態→(2番)現状での内省→(サビ)事実の振り返り→(4番)結論へと、短い歌なのに美しいメロディーの中で見事に転変しています。これを立派な「起承転結」と言うのでしょうか、心地良く順序を踏んでいて、やはりこの曲は名作ですね。

 私は42才の時に先の妻を亡くし、その年に東京近郊の支店へ異動になりました。その支店で私は3人の支店長に仕えましたが、2番目の支店長にはやられました。私が3人の子供を抱えて抵抗出来ないのを良い事にパワーハラスメントを加えるのです。毎日夕刻になりますと私ともう1人の中年社員が支店長席へ呼ばれ、ネチネチ→細々(こまごま)→怒鳴りつけのエンドレステープが始まります。私達は「お先に失礼します」と帰る訳にもいかず、怒りの治まった支店長が夜の街へ出掛ける迄耐え続けたものです。

 その支店長が転勤する事になり、送別会の時でした。支店のメンバー達から「イエスタデイ」のリクエストが有り、私はつい、以下のように歌ってしまいました。

 明日(あした)でい ○○支店長ファーラウェイ ・・・

 支店のメンバー達には大受けでしたが、サラリーマンがこんな事をしてはいけません、一般的には恐怖の倍返しが待っているでしょう。しかしその支店長から倍返しは無く、程無くその人は会社を中途退社してしまいました。人格に問題が有ったのでしょう。

 さてさて冷や汗の出るような記憶でしたが、ポールマッカートニー様、こんな名曲を茶化してしまって申し訳ありませんでした。



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アンチ・エイジ

2013年11月22日 | 日記
アンチ・エイジ

 テレビを観ていますと中高年女性向けの化粧品のCMの多い事に驚きです。昔から有る中小のメーカーも健在のようですし、こんな会社が有ったっけと言う会社のCMも有って、CMを打つのにはお金も掛かるし、まあ、儲かっているのだろうと化粧品業界の裾野の広さが分かります。

 CMでは45年前にグラビア写真で私達を興奮させてくれたピンナップガール達が今では結構なおば(あ)さんになっていて、それでも昔の面影は残っていて、余裕の微笑を浮かべています。化粧品のCMなのだからもっと若いモデルを使えば良いのにとは思いますが、CMのターゲットが中高年の女性ですからここは仕方が有りません。そしてCMのテーマはアンチ・エイジング。そのアンチ・エイジングを日本語にすれば「老化防止」、そしてその実態は「老化のごまかし」となるのでしょう。

 NHKテレビの「ソングス」と言う番組でポール・マッカートニー(71)を特集していました。マッカートニーが久々に来日して公演をやるので、それを受けての放送のようです。番組ではポール・マッカートニーの経歴を簡単に紹介し、ポールがスティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとコラボしてヒット曲を出した事をポールのキャリアの厚さとして褒めていましたが、それは違うでしょう。ビートルズ解散後に自信を無くしたポールが迷いに迷っていた頃にやってしまったコラボ、これはポールにとっては思い出したく無い屈辱の記憶だと思うのですが。

 番組ではポール・マッカートニーの新曲「NEW」を披露していました。メロディーはマッカートニー節(ぶし)が健在でしたが歌詞はひどいものでした。ビートルズの曲の良さのひとつは歌詞の鋭いディテール描写に有ったのですが「NEW」は抽象的な言葉を並べるだけで今時のJPOPを彷彿とさせ、「エリノア・リグビー」で「アイ ルック アット オール ザ ロンリー ピープル」と歌い上げていたポールは何処へ行ってしまったのでしょうか。それでもポールが年老いてつまらない曲を何曲か作ったからと言ってポール・マッカートニーのキャリアに傷が付くとは思いません。あのアメリカ映画の偉大なジョン・フォード監督だって最後の作品「シャイアン」はつまらないものでした。

 公演でポール・マッカートニーは2時間半を掛けて39曲を歌い切ったそうです。71才なのに大したものです。

 71才のポールには10才の娘が居るそうで、ポールはその娘から刺激を受けているようです。私のようなリタイアしたサラリーマンに10才の子が居たらそれこそ一家心中ものですが、それの出来るポールはやはりセレブリティです。そしてセレブリティにもなればその心情が世間一般とかけ離れるのも仕方の無い事です。そして更に71才で2時間半のライブをやりきると言うのですから、ポールに「老化のごまかし」は有りません。恐らくポールの場合はアンチ・エイジング(老化のごまかし)では無くアンチ・エイジ(老いへの抵抗)なのでしょう。昔と違って「社会」とは戦わず「孤独」とも戦わず、独り自分の「老い」に抵抗しているポール・マッカートニー。その姿は私に刺激を与えてくれました。

 私の場合はアンチ・エイジングでも無くアンチ・エイジでも無く、自然に対して従順に、あるいは自然と共に、いやいや自分自身が自然そのものなのですから「自然に」行くのでしょう。その時が来ればその時は来るのですから。

 そして、結局のところ「レット イット ビー(あるに任せろ)」に落ち着きましたよ。



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鈴木大拙の解脱体験

2013年11月08日 | 日記
鈴木大拙の解脱体験

 私は若い頃から今日まで禅についての本は随分読みました。そして私にチューニングが合ったのは道元と鈴木大拙と盤珪と安谷白雲の4人なのですが、ここでは盤珪と安谷白雲については触れない事とします。

 鈴木大拙は欧米人に禅を理解してもらう為に英語で多くの本を書き、それを日本語に翻訳したものが日本でも多く出版されています。鈴木大拙は明治から昭和への人なので私の知らない漢字を多用しますし、また多くの禅の先人達の本を引用しますのでなかなか読みにくいけれども何とか読めない事は無いと言う、現代人にはちょっと面倒な所も有ります。道元や親鸞ですと現代への訳文も有りますのにね。

 「現代日本思想体系 鈴木大拙」では禅の基本概念、禅の生活、禅と日本文化、そして東と西と言う風に禅の全般について分かり易く解説していますし、「禅の思想」では禅思想、禅行為、禅問答を解説し、「禅問答と悟り」では先人達の禅問答を詳しく説明しています。また「日本的霊性」では浄土真宗の往生について独自の解釈を見せ、また一方では、この本が戦時中に書かれた事もあって、神道にも言及しています。

 これ等の本の中で鈴木大拙は仏教がインドに興り、それが中国に伝わって中国風の禅になり、そしてそれが日本に渡って日本独自の禅へと変遷した事を何度も説明します。鈴木大拙はインド人と中国人の国民性に触れ、インド人が静かで抽象概念の整理を好む事、そして中国人が会話と詩的表現を好む事を挙げており、鈴木大拙は中国人の詩的表現を好むようです。そしてこの詩的表現を好む事が鈴木大拙への理解を決定的に難しくしているのだと私は思います。解脱体験の構造が明確に書かれていないのです。

 解脱体験と言いますか解脱の境地と言いますか、それについて鈴木大拙は独特の表現をします。「無分別の分別」、「無作の作」、「絶対矛盾の自己同一」等と言われて「そうか、そうだったのか」とすんなり分かりますでしょうか。鈴木大拙は間違いなく解脱体験をしていますのに、こう言った表現では理解が遠のくばかりです。惜しい事です。

 道元は「正法眼蔵」の中で「生と死」「時間論」「空間論」を明確に説明していますが鈴木大拙にはそれが有りません。道元は日本人にはめずらしく解脱の構造をきちんと表現していますのに。

 鈴木大拙が自身の解脱体験について詳細に表現する事は無いのだろうかと思っていましたら、それが、有りました。角川書店発行、鈴木大拙著の「無心ということ」の、ほとんど最後のあたりに解脱体験の詳細が書かれていました。それはなんと、サーンキヤ哲学の、プラクリティ(物質原理)の展開の、結果の方から原因の方へと逆に遡る、あのラマナマハリシのやり方と殆ど同じなのです。そして解脱体験は「光である」とまで書いて有りました。

 鈴木大拙は明治の人ですので表現は仏教用語を使います。「意識(想念)のもうひとつ下に末那識(マナス)というものがある。意識(想念)はこの末那識(マナス)を内に顧みつつ、五識を外に纏(から)めて、そうしてここに自分、すなわち我という識を立てるのである。」「我識というのは、それは我執のまたの名にすぎぬ」。

 ここで末那識(マナス)とは「器官反応を言語化したもの、感情、意欲」の事であり、五識とは器官反応の事です。我執をインドではアハンカーラと呼びます。

 「末那識(マナス)は無自覚性のいわゆる阿頼耶識(アラヤシキ)なるものを捉えて自我と認識しているのである」。

 阿頼耶識(アラヤシキ)とはサーンキヤ・ヨーガで言うサムスカーラ(行、経験した事の記憶が潜在意識化したもの)の事です。そして鈴木大拙はプラクリティ(物質原理)からプルシャ(精神原理)への飛躍の事を「般若の知恵」と呼んでいます。そしてプルシャ(精神原理)は光で した。

 器官反応→マナス(意欲)→アハンカーラ(自我意識)→ブッディ(統覚)→プラクリティ(物質原理)と遡り、そしてプルシャ(精神原理)へと飛躍する。そしてプルシャ(精神原理)は実に光であったという訳で、これはまさにサーンキヤ哲学の構造です。鈴木大拙はブッディ(統覚)のところにサムスカーラ(記憶)を置いていますが、これはたいした問題では無いでしょう。

 「転回の前にあっては、分別『我』の世界が心の全部であるが、転回という体験があってからは、般若の知恵が光り、分別『我』に無分別性のあることが明らかにせられる。」、「この光明が意識を通じて五識の上に働いているのであるから、この光明をさえ捕え得るなら、今までの世界は全然その趣を変えることになる」、これはまさに解脱体験の有様を切り取った言葉です。

 そして更に鈴木大拙は、解脱体験は「空間的なものでなくて、時間的である」、「『アッ』という間もなく『過也!』ということになってしまう。神秘的直観または瞑想などと言って、流を停止してじっと、それを見つめているような考えを、ここに持ち出したら、見性体験は台なしになる。」と言います。解脱体験自体は光であって、解脱体験のあとに思い返して見れば解脱体験の構造とはこう言う事だったのだと証明する訳です。

 鈴木大拙がインドのサーンキヤ哲学を勉強していたのかどうか私には分かりませんが、サーンキヤ哲学の構造図の上に鈴木大拙の言葉をひとつひとつ置いて見ますと、鈴木大拙の解脱体験の様子がありありと見えてきます。




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夏菜

2013年11月01日 | 日記
夏菜

 前々回のNHK連続テレビ小説の「純と愛」を観ていましたら、ヒロインを演じている夏菜がヌードシーンを演じるのではないかとの錯覚を覚えた事が有ります。NHKの朝のドラマですからそんな事は絶対に無い筈なのに、そんな勢いを感じたのです。夏菜は素直な中に反抗的で大きい目が印象的な、ショートカットの良く似合う若手の女優です。

 ケーブルテレビで「ガンツ」と言う映画を観ました。松山ケンイチや「嵐」の二宮や夏菜が出演し、ゲームに出て来るような怪物達と次々に戦う映画なのですが、映画の冒頭に夏菜がいきなりフルヌードで登場します。一瞬これはCG映像なのかと疑いましたが、ヌードの余韻が最後まで残ってこの映画に深みを加えていました。全裸の夏菜はすぐにバトルスーツに着替えるのですが、突き出た胸と腰のくびれが印象的なセクシーファイターです。なんとか最初の敵を倒したあと夏菜は二宮に自分のアパートに泊まってもらうのですが、Tシャツに着替えても夏菜の胸は突き出ており、これは胸にいっぱい詰め物をしているのでしょう。私は夏菜の胸よりも短パンから普通に出ている両脚に色気を感じました。

 主人公達は次々と難敵を倒し、最後に巨大化した千手観音と戦います。このシーンがアメリカ映画の特撮の神様レイ・ハリーハウゼンヘのオマージュなのだとはすぐに解りました。そして千手観音はここで真剣白刃取りを見せ、私をびっくりさせてくれました。日本は一応仏教国なのですから千手観音が怪物で有る訳も無く、こんなシーンは一昔前ならとても考えられないもので、映画の作り手に仏教を知らない若い世代が着々と登場しているのだとむしろ嬉しく思いました。実際、今の日本は既に仏教国では有りませんからね。

 このあいだNHKのBSテレビを観ていましたら、人気ミュージシャンが自分の好きな曲をカバーして演奏すると言う番組をやっていました。番組の司会はリリー・フランキーと夏菜でしたが、リリー・フランキーはゲストの斉藤和義を紹介するのに「夏菜の性的な魅力に負けて番組への出演を承諾してくれたのだ」と言います。これは率直な物言いで気持ちの良いものでした。夏菜には性的な眩しさが有るようです。

 追記

 番組での夏菜の胸はごくごく普通で、決して巨大では有りませんでしたよ。

 いやいや、着席インタビューだったので少し前かがみだったかも。
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