ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

ヨガ哲学の3つの分野

2023年11月01日 | 日記
ヨガ哲学の3つの分野

 ヨガの哲学は色々と考察しますけれども、それはだいたい次の3つの分野に入るのだと思います。ひとつは認識論、次は時間論、そしてもうひとつは心と体についての考察。それを以下に述べてみます。

 認識論

 認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象が有りますね。人は見たいように物を観ますので認識の対象と認識の表象は別物。世の東西を問わず、人々はこの主観と対象と表象の関係について悩んで来ました。西洋世界では認識の対象に神を介在させて絶対のものとし、認識の表象を如何に対象に近づけるかを考えましたが、ヨガの哲学ではそう言うアプローチはしません。

 インドのサーンキヤ哲学は二元論でして、世界の大元にプルシャ(霊性)とプラクリティ(現象世界)を立てて、そのいずれも実在すると主張します。ですからサーンキヤ哲学では認識の主観も認識の対象も認識の表象も実在します。

 次に、ヴェーダーンタ思想と仏教は、どうもこのサーンキヤ哲学を叩き台にしているようです。

 ヴェーダーンタ思想のンタは最後のとか後ろのと言う意味が有るそうでして、ヴェーダ時代の最後の思想と言う事になります。ヴェーダーンタ思想ではサーンキヤ哲学のプラクリティ(現象世界)をマーヤー(幻)で有るとして否定し、プルシャ(霊性)のみが実在すると主張し、現象世界の実体はブラフマン(梵)であるとし、ブラフマン(梵)が個人に内在する時、それをアートマンと呼びます。アートマンはサーンキヤ哲学のプルシャですね。ヴェーダーンタ思想では意識(霊性)が心を作り心が現象世界を作るのだと考えて、意識(霊性)だけが実在し、心も現象世界も実在しないと言います。これを認識論で言いますと、認識の主観だけが実在し、認識の対象も表象も実在しない事になります。ヴェーダーンタ思想は意識(霊性)の一元論です。

 仏教では現象世界は因縁、つまり因(直接の原因)と縁(間接的な原因)とで編み上げられた仮の姿だと言います。因と縁とで編み上げられた手毬の中身は空っぽ、これを空の思想と言いますが、手毬の中は空っぽなので真の我、真我などと言うもの(芯)は存在しません。これをサーンキヤ哲学で言いますと、プラクリティ(現象世界)もプルシャ(霊性)も実在しない事になります。これを認識論で言いますと、認識の主観も対象も表象も実在しない事になりますね。しかし、同じ仏教でも瑜伽行派の唯識説では少し違いまして、認識の表象だけが実在し、認識の表象と阿頼耶識(記憶の倉庫)との永遠の循環が実在すると主張しているようですね。しかし、おおまかにみますと、仏教はゼロ元論です。

 以上、インドのサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教の認識論について述べましたが、西洋ではこれに神を介在させますが、インド思想では神を介在させる事も無く、認識の主観と対象と表象の関係は相対的ですね。

 時間論

 私達は日常生活の中で、時間は過去から現在へ、そして現在から未来へと続く経過だと考え、定規の上に過去や現在や未来を置いて考えますでしょう。時計を見てもそうですね。過ぎた時刻と今の時刻とこれからの時刻が時計には有りますでしょう。しかし、ヨガではそうは考えません。

 有るのは「今」だけ。過去の「今」が転変して現在の「今」となり、そして未来が実現する時、それは転変している永遠の「今」です。

 時間とは経過では無く変化です。先の認識論を考えて見ましょう。認識は一瞬の事ですが、そこには時間(変化)が有ります。主観が対象を認識し、過去の記憶と照らし合わせ、また自我意識とも紐づけて認識の表象を作り上げますでしょう。ですから、時間が止まれば(変化が止まれば)、認識作用は停止し、世界は一瞬にして消滅します。バガヴァッドギーターの始めの方で、クリシュナはアルジュナに言います、「私はお前達のために活動を続ける。そうしないと世界は消滅するからで有る」。そしてナタラージャ(踊るシヴァ神)は転変する世界を踊り進みます。

 心と体について

 西洋の科学的な見方からだと思いますが、人間の主体は心で有り、心が現象世界を出来るだけ客観的に観察する努力をすると考えますでしょう。

 フロイトは精神分析で人の意識を三角形で表し、その三角形の底辺にイド(本能)を置き、その上に超自我(家庭や社会での教育による意識)を置き、更にその上に自我(理性)を置いて、理性を最上のものとして理性が本能を抑圧するのが健全な姿だと考えましたね。しかしこれは間違いです。本能(体)が言葉(心)を駆使してその正当性を主張し、複雑な人間社会を生き抜こうとする、これが人間社会の実態です。

 ここで体=本能、心=言葉、と定義しておきましょう。

 デカルトは「我、思う故に我有り」と言いましたが、これも間違いですね。人間は(複雑な)社会的な動物ですから、互いにコミュニケーションを取りながら生活をします。個人が本能剥きだしですと社会的に摩擦が起きますので言葉を使って社会生活を調整します。本能が言葉を使って己を正当化する、これが実態です。「我、有るが故に思う(言葉を使う)」が本当でして、心が体を使うのでは無く、体が心を使っています。ですから、心は謙虚な姿勢で体の声を聴くようにしましょう。インドでは本能の事をシャクティ(女性の性的なパワーを神格化したもの)と呼んで大切にしています。

 そうしますと心(言葉)は体の一部と言う事になりますので、人は死ぬとそのパーソナリティはどうなるでしょうか。人(体)が死にますと体の一部である心は働きを停止し、消滅します。そうしますとパーソナリティは心ですから、パーソナリティは体と共に消滅し、霊性だけが残ります。スピリチュアルの先生が「お爺さんがあの世であなたの事を心配していますよ」等と言いますが、あれは嘘です。お爺さんの霊性は死と共に自由になるのですから、霊性をお爺さんと言う制約の中にいつまでも閉じ込めていてはいけません。

 さて、インドでは輪廻転生を思想の前提として扱っていますが、我々日本人もそうでしょう。そうしますと輪廻転生の際には何が継承されるのでしょうか。心と体は死に際して消滅する事を先ず押さえておきます。

 ヨガの思想では、輪廻転生に際して継承されるのはカルマとサムスカーラだと言います。カルマは行いによって生じた偏り(負荷)、そしてサムスカーラは経験した事の記憶が潜在意識化する事で生じた偏り(負荷)の事ですが、カルマは消滅する心の働きでは有りませんから消滅せずに継承されるのが分かりますが、それではサムスカーラはどうでしょうか。経験した事の記憶、これは心の働きです。しかしそれが潜在意識化する時に言葉は消え、心では無くなります。これを本能に組み込まれる新しい経験とでも言えば良いでしょうか。火傷をした経験も無いのに子供が火を怖がる、これがそうでしょう。

 人が死にますと、そこには心も体もパーソナリティも無く、ただ霊性だけが燦然と光り輝きます(私はサーンキヤの立場ですから)。

 さてさて、随分長くなりましたが、これまで認識論、時間論、そして心と体についてと、ヨガ哲学の3つの分野について述べてみました。如何でしたでしょうか。












コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カワイイ | トップ | 霧島、高千穂、青島 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ンタについて (真下尊吉)
2023-11-01 13:11:16
ご無沙汰しています。
記事を拝見。
その中の「ヴェーダーンタ思想のンタは最後のとか後ろのと言う意味」につきまして、

「ヴェーダ+アンタ」=「ヴェーダの」「終わり」、つまり「精髄」の意ですので、「ンタ」は、「アンタ」です。

da+anta→a+aでダーと長母音になります。
有難うございます。 (Ananda Bhavan)
2023-11-01 16:37:03
真下様
久しぶりのコメントを有難うございます。真下様のブログは毎日拝見しておりますが、お元気そうですね。
今年は私のヨガのグル(先生)ジバナンダ・ゴーシュ先生が他界され、時の変化をひしひしと感じています。
今の季節はコロナに加えてインフルエンザも流行っているようですので気を付けてお過ごし下さい。

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事