これまで改革政権が誕生する度に国民生活は悪化してきた。細川護煕連立政権しかり、橋本龍太郎1億円ネコババ政権しかり。ではなぜ改革政権は国民生活を悪化させるのか。それは、改革が国民のために行われたわけではないからである。
橋本政権下、特別減税廃止・消費税増税・公共事業の大幅削減等の景気を悪化させる政策を行ったのは、大蔵省である。これは崖から這い上がろうとしている怪我人を蹴飛ばし、谷底に突き落とすような非情な政策である。実は橋本政権当時、日本はOECD加盟先進国の中で財政最優良国であった。しかし、借金を赤字と言いかえ財政危機を煽ったのは、大蔵省である。緊縮財政は財布の元を締めるのでお金が市場に出回らない。よって景気は悪化する。だから事態改善を目指して、後からもっと大きな財政支出を余儀なくされるという悪循環。アホでも分かる失政を行ったのだ。
この失敗を取り戻すチャンスを財務省は狙っていた。そこで小泉純一郎登場である。彼は、新規国債発行30兆円以下、地方交付税削減、公共事業の削減という、正真正銘の緊縮財政を布き、これを財政構造“改革”と呼んだ。
そもそも財政は誰のために、何のためにあるのか?財政は、国民が支払った税金のことである。つまり国民生活を安心かつ安全に送れるよう国民自身が拠出したお金のことを、財政という。自殺者が3万人を超え、失業者があふれるような今の国民生活は、実に不健全な状態である。こんなときに、国民生活の健全性を犠牲にしてまで財政の健全化を優先する理由がどこにあるというのか?
よく小泉改革は「将来ビジョン」が見えてこないと言われる。巷でもよく囁かれる言葉である。しかし、こんなことは本来ありえない。高齢者でも住みよい社会にしたい、若者が活き活きと溌剌に働ける社会にしたい等の将来像・目標(ビジョン)があって、それを実現するために何をどうすれば良いのかを考え、直すべき所は直し、切るべきとこは切り、推奨すべきとこは推奨する。これが本来の構造改革ではないのか?構造改革することが目標になっているから、こんなおかしな“言質”が出るのだ。国民のための改革ではなく、改革をしたいから改革をする。このような駄々っ子か、頭の悪すぎる高校生のような言い分がなぜ出るのか?
政業癒着が原因で無駄な公共事業が乱発され、赤字が雪だるま式に増えていったという意見があるが、実はこれは正しくない。90年代後半に財政が悪化するが、公共事業は95年をピークに徐々に減少している。公共事業が悪いと考えるのは、短絡すぎる。また、財務省は景気対策にお金を捻出したため、財政が悪化した言っている。しかし、90年代で130兆円が使われたが、そのうち国の負担はせいぜい50兆円である。しかし、国債は240兆円も増加した。なぜか?90年の国税収入は60兆円である。しかしここ数年は40兆円ほどにとどまっている。つまり、税収が7割弱も極端に落ち込んでいるのだ。その埋め合わせの国債発行である。ではなぜ税収が落ちるのか?もちろん、景気が悪いからである。我々一般庶民の給与が減っており、正社員で雇用される割合も6割ほどなのだ。われわれの生活が破綻に向かいつつあるから、それに応じて税収も減っているのだ。つまり、景気対策が全く出来ていないのだ!
公共事業に問題が多いのも事実である。しかし、問題があるからといって、なぜすぐ「凍結」なのか?日本は社会資本の整備が乏しく、例えば、地震に対するインフラ整備・対策はまだ万全とはいえない(地震大国であるにもかかわらず、むしろ脆弱だ)し、介護施設は先進国中でも一番数が少ない(高齢社会になるのは、いつから分かっていたのか?)。また、現在日本は地価が暴落しており、金利も異常な低さである(大蔵省と日銀の失政のせいだが)。この異常事態を逆手にとって、社会資本の整備を進めればいい。そうすれば、失業者に職を与えることができ、経済を安定の方向へ導くことができる。つまり、公共事業は必要なものとそうでないものを「選別」すればいいのであって、「凍結」する必要は全くない。
道路公団に限らず特殊法人が非効率なのは誰でも知っている。しかし、民営化が果たして改革なのか?天下りは民営化によって失くすことができるのか。いや、むしろ野放しになるのではないのか。先に述べたように、目的と手段を履き違えて、将来像を実現するために民営化ではなく、民営化がしたいから民営化なのではないのか。
民は採算を重視する。採算重視とは、ムダなことはしないということだ。国民活動の範囲が拡大し、スピード化している現代では、高速道路を都市と都市を結ぶ幹線道路に、どこの国でもしている。高速で結ぶネットワークがあればこそ、地域のネットワークも可能になる。地域がお互いに連携・補完できるから、個性的な地域作りも(ひとつが秀でている代わりに、足りない部分ができる。それを他の地域で補う)可能となるであろう。短時間で都会に出て行ければ、若者も地元に定着するであろう。万一の災害の時、幹線道路には何通りかの代替ルートを確保することは意味があるし、それが世界の常識だ。普段は車があまり通らなくても、経済効率が低くても、必要な道路はあるはずだ。国民生活の安心と安全のためインフラを評価するのに、まず「採算」を重視するのは愚の骨頂だ。採算が取れるものは、放っておいても、民がやる。採算がとれないが、国民にとって必要なことを行う。これが国の仕事ではないのか!?だから税金を払って任せているのではないのか!?
道路は人と物が流れることで地域が活性化され、遠くの産物も手に入る。だから道路は社会資本と呼ばれ、諸外国では税金で作る。日本のように面積が狭い国は道路ネットワークを密にして、土地利用効率を上げるべきである。そうすることで、首都の過密化を軽減し、過疎地の活性化を促進する。高速道路の民営化とは費用を利用者負担にすることを意味する。つまり、本来は他国のように国の財政が負担することを、国民に負担と不便を押し付けている。財務省は国民のたの国土設計という考えは微塵もない。あるのは、赤字を減らすこと。収入と支出をを符合させること、だけである。ちなみに、道路特定財源の一般化とは、国土交通省が道路を作るために使ってきた資金を、財務省の支配下に置こうとするものである。
小泉純一郎=改革者で、族議員=改革を阻止する抵抗勢力という単純な図柄が選挙の前後を問わず流布されているが、小泉純一郎自身が大蔵族、銀行族であったことをほとんどの人は知らない。わたくしも、紺谷典子さんの論文を読んで初めて知った。しかし、政治記者は知っているが、決して書かないようである。銀行にとって、郵便局がどれだけ憎い相手であったか、ちょっと考えれば分かるであろう。だから、郵便局は民営化が目的なのだ(これについては、次回)。