インドちゃんの子どもと書くな!子供と書け!!

障がい者と書くな!障害者と書け!!

靖国への思いに涙す

2008-02-28 22:28:37 | Weblog

< 左翼はこの一例を普遍化して「集団自決は、日本軍のいなかった島では起こっていない」というフレーズを作り出したのだ。(略)

 チビチリガマの集団自決が起きたのは米軍上陸の翌日であり、その時点で戦線を離れて住民と一緒にガマに避難している日本軍などいるわけがない。

 そもそも、「日本軍がいたことが悪い」などと言うが、ついに米軍が本土(沖縄)上陸という時に、日本軍を沖縄に展開しているのは当然のことではないか!それともさっさと沖縄を放棄して、米軍に戦わずして占領させた方がよかったとでも言うのか?

 そんなことをしたら、当時の沖縄県民が黙ってはいまい。『わしズム』秋号(前号)で紹介したが、「ひめゆり学徒」として戦死した金城貞子さんは、従軍看護婦として教育を受ける者の人選に首尾よく入れたと喜んで、何回もよかった、よかったと繰り返していたというし、姉の信子さんは、師範学校女子部本科を卒業する時、「わたしたちの卒業証書は靖国神社の入場券である」とよく言っていたという。>

 

「天籟」『わしズム』2008年冬号(Vol.25)

 

先達の守ろうとしたものを、守り通さねばならない。さもないと、われわれは裏切り者として歴史から糾弾されるであろう。「後に続くを信」じて命を祖国に捧げられた英霊の御心に応えるには、①“真の”歴史を知り、それを後世へと伝える。②先達が残してくださった大和島根に根付く文化・歴史・伝統を受け継ぐ。③そのためには、日々の生業をしっかり行い、立派な社会人として生きていく。④親孝行をする。

後半二つが難しいよな(~_~;)


百ヶ日忌<改>

2008-02-21 23:39:48 | Weblog

本日(2月21日)は、故・秀雄の百ヶ日忌です。

 

あれから100日経過したのですね。早いのか、遅いのか・・・

 

大晦日、「明日が四十九日ですねん」と言ってから、またお正月に「今日が四十九日ですねん。せやから『おめでとー』言えませんねん」と言ってから、ずいぶん経ったように思うのですが、まだ100日なのですね。

 

流石にもう、一時のように毎日早朝に涙して起きるということはありませんが、ただ、ふとしたきっかけで思い出します。いったん思い出すと、激しく嗚咽してしまうこともあります。

 

しかし、百ヶ日忌は「卒哭忌」ともいい、悲嘆の涙から卒業する日でもあります。本日、みな集まって盛大に供養しました(でも、やっぱりわしは、ドンちゃん騒ぎ、宴会、酒宴は嫌いだ。父親は逆にこういうのが大好き(っちゅーか、本人が一番騒ぐ)だったんで、今日のところは、まぁ良しとしよう)。

 

というわけで、わし以外の人間がどんちゃん騒ぎの酒宴を催したので、さぞ父上も満足されたことでしょう。成仏したとの報告を壮年部wwwの○○さんから受けましたのでwwwwwwwwwwwwwwww

 

話は変わりましてえぇ~

 

曽野綾子著『「集団自決」の真実』(WAC)を読んでいて驚いた。トーマス・マンからの引用があったからだ。学生時代、いろいろと悩んでいたとき、仏文科の先生がボルテールの作品を薦めてきたので、いくつか(原文で)読んでみた。しかし、ますます悩みというか疑念が深まってしまった。当時わたくしは人間のもつ原罪に対するようなもの、今から思えばちんけなヒューマニズムであったようにも思うが、そのようなものに真剣に思い悩んでいた。とき恰も湾岸戦争が勃発し、難民の不条理と、バブルの花咲く経済大国日本との乖離を眼前に突きつけられた。生まれたときから生じる不平等、無限遠点にいる神の態度。このようなものに対して臍(ほぞ)を噛んでいた。ボルテールは、「不幸があるから、幸福が分かる。嵐が来るから平穏が分かる。だから、不幸な人間、貧乏な人間がこの世にいるのだ」という感じのことを述べてたと思う。

 

この陳腐な台詞以来、わたくしはボルテール及びフランス文学から遠ざかってしまった(マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、買ったんだけど、ほかしてしまいました。あぁ)。しかし、修士課程の頃だったか、トーマス・マンの以下の文面に出会った。これは(たぶん)中ノ島図書館の外で拾った本であった(ちょっと記憶曖昧)。そのときわたくしは慧眼したかのように目から鱗が落ちたのだ。

 

 

トーマス・マン『非政治的人間の考察』

<いかにも絵にかいたような血まみれで凄愴そのもののような悲惨が、この世で最もどん底の、ほんとうに最も怖ろしい悲劇ではない。義眼を投げ合うような気持ちさえ失せてしまうほどの苦しみや悩みが、たましいの凌辱が存在する。だれひとり介抱してくれない、いかなる公共的博愛事業もかまってくれない負傷が、名誉も鉄十字勲章ももらえず英雄扱いもしてもらえない内面の不具化が存在する。このような内面的負傷者は、秋の日ざしの中を手を引かれて散歩しながら、世間の人々に教訓的な感動をあたえたりするようなことは決してないが、われわれが永遠のデモクラシー的国際平和の祝福を享受するときが到来しても、この世界はこれらの内面的不具者で充満していることであろう。世界は、戦争になる前には『人間の品位にふさわしくない』悲惨で充満していた。シチリアの硫黄坑における囚人労務者たちの生活や、ぞっとするような貧困の中で堕落し、虐待のために不具になるロンドンの東部貧民街の子供たちの生活ーこれが一九一四年以前の世界であった。破廉恥きわまる不正行為がおこなわれながら、加害者は罰せられることもなく、大きな顔をして歩き廻り、被害者にはなんの補償も与えられない。骨盤骨折や火傷をともなったような肉体的苦痛、病気、放蕩、情事、悔恨、老齢、そして苦しい死ーこれが戦前の生活であった。苦悩を目的論的に解し、困窮のみが文化をうみ出す、苦悩がなければ同情もありえない、不正のみが正義感をめざめさせる、苦痛がなければ道義心は地に墜ち、人間の生活は無為徒食に終始することになるが、そのような生活を幸福と呼ぶことはできない、苦痛こそが快楽を引きたたせるのだ、とほざくのもよかろう。それとも、厭世主義者となって、人生を罪にけがれ、罪過そのものであるこの生をー人間どうしたがいに狼であり、自分がよじ登ろうと思えば他人を蹴おとすしかないこの人生を、改善の見込みがないとして告発するのもよいし、生の批判者となて、殲滅的な言葉で生を糾弾し、懲罰にかけるのもよかろう。芸術を炬火(たいまつ)に仕立てて、存在のすべての怖ろしい深みを、恥辱と痛恨にみちた奈落の深淵をのこるくまなく慈光で照らすのも結構だろう。精神を炎と化し、それで、世界のあらゆる隅々まで放火し、世界を燃え上がらせ、救済しようとする同情の念をもって世界をそのすべての汚辱や責苦もろとも滅ぼし去るのもご自由だ。だが、戦争反対という政治的・博愛主義的な悲願(ラメント)を得々としてうたうことだけは、やめてもらいたい!まるで戦争が地球の顔を汚したかのようなー戦前には子羊のそばで虎が平和に草を食んでいたかのような態度をとることだけは、やめてもらいたい。こんどの戦争で博愛主義者になった文学者は、この戦争を畜生道におちた恥辱である汚辱であると感じない者はすべて反精神的人間であり、犯罪者であり、人類の敵であるなどと吹聴してまわっているが、わたしはこの宣言ほどたわけたでたらめを知らない。

 愛!人間性!わたしはそれを知っている、自分の民族に嫌悪をしめすために、もそもそと口にされるこの理論的愛と教条的人間性を。わたしは、知っている、当節の文学のはやり文句を。そのはやり文句が吐かれる芸術作品をも。こういう作品に出て来る人間性は、知的要請、文学的教義、意識的なもの、意図されたもの、受け売りものにすぎない。つまるところ、そこには人間性などかけらもありはしないのだ。これらの作品は、一般読者や批評家たちが修辞的政治的な人間性要請を人間性そのものと取りちがえてくれるおかげで、かろうじて生きながらえているにすぎない>

 

この一節に出会って以降、人々の欺瞞が分かるようになった気がする。どれだけ美辞麗句を並べたてても「エセ」と分かってしまうのだ。ありがたいやら、ありがたくないやら。

 

門松や

  冥土の旅の一里塚

 めでたくもあり めでたくもなし

 


「哲学の道」を歩みつつ、大豊神社・法然院・慈照寺銀閣・八神社を参拝するみたいな~

2008-02-19 17:28:40 | お社写真集

大豊神社。ご祭神、少彦名神(ほんと、私とご縁が深い神様です。畏れ多いことですが)、菅原道真公、応神天皇。

 

駄洒落??

狛ねずみ。大国主命が野火に襲われた際、ねずみが大国主命を救った。

 

冷泉天皇陵もありまつ。

法然院

お墓を写していいものかどうか・・・

東求堂

銀沙灘

千代の槙。樹齢500年。

お茶の井

銀閣

八神社。

このお社も、なんともいえない風情があり、感激しました(詳しくは、後日うpする「桜井市護国神社」で)。

ゾクゾクっ!としますた。

風の神様をお祭りしているようです。伊勢神宮にも風の神、水の神、火の神などをお祀りしています。八百万の神々を戴く日本ならではの風情。やはり、日本人だね~。ここは、日本だねぇ~。

 

誰もいない境内に(すぐ横の東山慈照寺銀閣は黒山の人だかりなのですが、それとは実に対照的な佇まいに“もののあはれ”を感じる今日この頃、皆様いかがお過ごしですか?)、ポツンとおみくじが置かれていました。お金を払わずにおみくじを引いて逃げることもできますが、そんなヤカラは日本にいないのですね(たぶん)。

 

今まで、おみくじを引いた後、魂をえぐられるような、あるいは魂を揺すぶられるような気持ちになったことが何度かありますが、ブログにうpすると安っぽくなってしまう気がして、自分だけの秘め事にしておりました。しかし、今回だけ、八神社で引いたおみくじの内容を公開します。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、やっぱり止めとく(数文字分キーを叩きましたが、やっぱりアカン)。すんません。ご覧になりたい方は、わしの会うたときにでも言うて下さい。薀蓄たっぷりに語ってあげますから。

 


「戦友」と云われて

2008-02-18 18:11:03 | Weblog

以下は、西村眞悟衆議院議員のメルマガからの引用である。

 

「中国から来た、毒入り餃子を食べ続ければ死ぬ。しかし、死ぬのは、食べた人だけである。では、中国から来る「南京大虐殺」をはじめとする「歴史の偽造」を放置し続ければどうなるか。

 日本民族が死ぬのだ。それも、生きながら腐って。古来中国のおぞましい「宮刑」を受けたように。

 即ち、青年から日本人の誇りと自信が奪われ、日本という共同体に帰属する意識をもてない砂粒のような存在に陥れられる。

 「戦争は手段を替えた政治である」といわれる。六十三年前までの「手段」は何か。それは、銃と兵隊であった。では、今の「手段」は何か。それは、「歴史の偽造」という謀略・プロパガンダである。即ち、今も昔も、手段は違っても、同じ戦争が継続しているのだ。

 従って、断じてこの中国共産党が仕掛けている「歴史の偽造」を打ち破らなければならない。これを実行できるのは日本民族しかない。

 何故なら、革命によって自国民を数千万人殺した中国共産党は、中国民衆の怨嗟の目を逸らす為に、日本に暴虐の汚名を着せておかなければ自らの権力を維持できないからである。

 また、アメリカは、日本の非戦闘員を殺すために、二発の原子爆弾を落として三十万人を殺し、都市を爆撃して東京だけでも一夜で十万人を殺した。このような人類史上最悪と言える無法を行ったアメリカにとって、自らの精神の安定を維持し良心の呵責から目を逸らすためには、本能的に日本が極悪の悪魔の国であったということにしておかねばならない。

 よって、中国はもちろん、アメリカもこの「歴史の偽造」を暴露することはできないのだ。ただ、日本、日本民族だけが、この「歴史の偽造」を克服することができる。

 これは既に、戦争である。戦争は続いていたのだ。この中で、この度、水島監督により、「南京の真実」が制作された。これを第一部として全部で三部作となる。この映画の力は、真実に基づいているが故に陸軍部隊百個師団の力に匹敵するであろう。これは、今の我々とかつて生きた先祖と、これから生まれる我々の子孫の為の戦いである。

 従って、この映画を観るために雪の中を集まった我々は、既にこの戦いの「戦友」である。」>

 

以上。

 

 

西村眞悟は、斯くも素晴らしき政治家であり、愛国者である。日本民族の誇りを一身に背負い孤軍奮闘されている。全力で応援すべき政治家であり、父親であり、人間である。

 

 

 

しかし、西村眞悟を知っている人と知らない人では、比較を待たないほど、知らない人の方が多い。西村先生が弁護士法違反で捕まった頃、教室で西村眞悟の話をするが、60人ほどいた「神戸大・ハイレベル国公立大選抜クラス」の大半は知らなかった。西村眞悟という名前すら知らなかったのである。ましてや桂米朝(人間国宝)など知る由もない(でも、桂ざこばは知っていた。これが今の日本人のメンタリティーである。昨今「お笑いブーム」といわれているが、これは決して「お笑いブーム」などではない。テレビで垂れ流されている「お笑い」番組は果たして「お笑い」なのか。「言葉の無駄遣い」がとても気になる。ある程度の知識があり、その知識を“くすぐる”ことで起きる“むずがゆさ”が「お笑い」の原形であったと思う。しかし、そのような知識の琴線に触れるような真の「お笑い」はもう「お笑い」ではないのだろう。あの程度の番組でないと、視聴者がついていけなくなり、視聴率がとれなくなったのであろう)。

 

 

ましてや、西村眞悟のメルマガを読む人間など、日本の人口から見たら何パーセントになるのか。仲間内で褒めあってるだけではいけない段階に来た。左翼のしたたかさを見習おう!とニタニタ笑っている場合ではない。

 

西村先生は、われわれのことを「戦友」と仰った。正直、身が引き締まる思いがする。また、実際戦場へと立ち向かわれ、日本の礎石となられた英霊の御霊に対し、より一層の感謝の念が沸き起こる。今現在の国際事情は、まさに“情報”戦争であり(情報戦争は“ドンパチ”やってる頃からも継続して行われている)、日本は近隣各国から攻められ続けているのだ。武器以外の手段で「敵国」を滅ぼすことなどいとも簡単だ、との証左にならぬよう戦っていかねばならぬ。だから、われわれは武器ではない兵器、つまり“情報”を手にして戦わねばならぬのだ。

 

と思ってみたものの、われわれを「戦友」と呼ぶのは、やはりおこがましいにも程があるのではなかろうか。

 

かつて、「戦友」と呼ばれ呼び合った方々は、武器を手にして戦われた。果たして何のために戦われたのか。ご自分の命と引き換えに何を守り通そうとなさったのか。

 

それは、愛する故郷のためであり、クニ、日本のためであり、天皇陛下のためであったのだろう。もちろんご自分のご家族や友も含まれるに違いない。漠然としたもののために命を賭して戦うことはできないと思うし、当時の「神風」エネルギーには、理屈を超えたものがったことは想像に難くない。

 

では、われわれは一体何を守ろうとしているが故に「戦友」と呼ばれるのか。

 

答えは簡単。ご英霊が守ろうとされたものと同じものを守ればよいのだ。しかし、実際にドンパチと攻め立てられているわけではない。“情報”という武器で攻め立てられている。では、防禦線をどこに張ればいいのか。

 

どのように攻められようとも、がっちり固まった頑丈な<日本の伝統・文化を守る心>を持ち合わせることが必要ではなかろうか。決して攻めきることができない城壁を建てる。日本の伝統文化が永遠ならば、日本そのものが永遠である。自分の足元に転がっている、いや省みられることさえ少なくなった日本の伝統文化を心に抱き、毎日実践するだけでよい。

 

日の丸を愛せ。君が代を覚えろ。天長節を始めとする皇室の伝統を知り、国民として自然に祝賀できるような恒常性を持とう。ただ、破壊の進度も深度も激しいので、しばらくは不自然なくらい大仰な態度で臨むべきだ(人権擁護法案、竹島、南京などにはすんごい情熱を見せるんだけど、「地味な」伝統には結構無関心な人多いのは残念)。

 

今のわれわれを「戦友」と呼ぶのは、「天皇陛下萬歳と叫んだ声が忘ら」れない「戦友」の方々に申し訳ない。

 

と初めて西村眞悟先生に逆らってみた。


彦にゃんオフ

2008-02-17 23:49:59 | お社写真集

雪。電車内から撮影。

滋賀縣護国神社。拝殿。

川が凍ってる。

アイスバーン状態。かな~り急な階段なので、滑る滑る。

ネタ言うたり、撮影したり、という余裕がまったくないくらいの雪。吹雪。さぶい。帰りたい。

彦根城天守閣。

天守閣内から。

彦にゃん登場!

お前。


南京の不真実 その2

2008-02-14 19:43:47 | Weblog

次!東京、南京それぞれの判決文にある構成要件(←刑法の専門用語)は4つあり、一つ目は<その1>に書いた。二つ目は「南京における残虐行為は広く世界に知られ、各国で批判の声があがった」。

 

そら、そうでしょ。30万人も大虐殺したのですよ。世界中で大騒ぎになったことでしょう。現代でもミャンマーやら、タイやらの事件・クーデターなど世界中で話題になってますね。そんな感じで伝えられたのでしょうか?

 

(引き続き、北村稔著『「南京事件」の探求』を利用してます)

国民政府のCouncil of Internationalが編集し、上海の商務印書館から発行されていた1939年版The Chinese Year Book(以下、『英文中国年鑑』)から当時の世界事情が分かる。『英文中国年鑑』は国民党と国民政府が情報宣伝活動のために作成した公式文書である。

 

この『年鑑』には、マニラ駐在の中華民国総領事である楊光泩による<WORLD SYMPATHY FOR CHINA>というタイトルの「章」が設けられており、欧米で展開された支那への支援活動が報告されている。

 

1.ヨーロッパ

A.各国政府。少数の例外を除けば、各国の政府は精力的に中国に見かたしている。

B.新聞。日本の蛮行を非難。日本の行為は人間性に反するという新聞もある。

C.国際的な民間諸機関。日本製品のボイコットも提唱。

D.各国の機関。

英国→ロンドンなどで抗議活動。マンチェスターでは30回~40回(ティンパーリの仕業か?)。

仏国→日本製品のボイコット呼びかけ。

ベルギー→支那を支援するための会報が新聞協会より刊行された。

ドイツ、イタリア→支那と商取引や文化交流を行うグループには支那への同情が潜在するが、政府の政策と言論統制により支那問題に対する確固とした同情は見出せない。

アメリカ→民間の諸機関による支那との連帯、日本製品のボイコット、支那への支援と寄付が進行している。

 

(しかし、戦前・戦中から日本製品は優秀だったのですね。日本製品は世界各地から欲しがられる優等生だったんですよ。戦後にできたものの多くは、既に戦中には存在していたのです。今を生きる君たち、この日本の有能さを想像できますか?)

 

以上の記事から、ロンドン・パリ・ニューヨークでは支那を支援し、日本にたいする抗議活動が行われていたことがわかる。

 

しかし、南京での「大虐殺」に対して抗議行動が行われたという報告は見当たらない国民党自身が南京での「大虐殺」を喧伝しなかったから当然ではあるが、これは「大虐殺」という情報がほかのニュースソースにおいても存在しなかったことを物語る。要するに、日本軍の南京占領当時、嘘を捏造して日本を貶めようと企んでいた国民党自身にも、さらに第三者として状況を監視する立場にあった欧米側にも、「南京で大虐殺があった」との認識はなかったのだ。

 

 

 

 

当たり前だ!!「南京で大虐殺」

など無かったのだから、嘘つきの

国民党やアメリカ人も認識なんか

そもそもできるわけがない。


奉祝。今上陛下ご即位二十周年をお祝いいたします。

2008-02-12 17:41:15 | Weblog

2月11日は「建国記念の日」である。

 

昭和41年4月6日、祝日法を改正し、「建国記念の日」が制定された。第2条には「建国をしのび、国を愛する心を養う」とある。http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html

 

教育基本法の改正を待つまでも無く、すでに「国を愛する心を養う」と規定されている(いや、教育基本法は「国を愛する態度」と曖昧な文言であった・・・)。

 

辛酉元旦(現在の暦に換算すると、2月11日になる)、神武天皇が橿原の宮でご即位され、皇室の伝統が始まった。つまり、2月11はわが祖国日本のお誕生日♪ということになる。祝!皇紀2668年

 

さぞ、大々的に建国を祝う雰囲気で盛り上がったことだろう!!

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

いや、さっぱりです。

 

 

2月9日の『南京の真実』試写会は若者がわんさかと集まり、とても盛り上がった。雪にも負けぬ大和魂が炸裂した。ついでに言えば、試写会が終了した後も、試写会が終了した数日後の今日現在も、ネット上などで盛り上がっている。

 

しかし、大事な大事な建国記念の日はどうであろうか。

 

わたくしは当日午前中はお仕事があったため、午後から日本会議大阪が主催した奉祝のイベントに参加した。そしてその後、またお仕事があるので、イベント終了後すぐさま退席させていただいた。イベントそのものはすばらしいものであったが、しかし参加者はほぼ全員がご年配の方であった。わたくしはもう30代後半であるが、わたくしの年齢が「若手」と思われるほどご年配の方のみで会場が埋め尽くされている。参加者300名(事務局発表)の中で、10代、20代、30代、40代は、「お手伝い(主催者側)」を除けばほぼ皆無、であったのではなかろうか。この日全国でさまざまな行事が開催されたであろうが、わたくしの下に集まった情報はどれも似たり寄ったりであった(イベントの内容はどれも大変すばらしいものであったのは確かです)。

 

奉祝する、お祝いする、というのは何も参加者のみが体現するのではない。各人が各人のやり様で祝えばよい。また、「祝う」という形式でなくても、2月11日は24時間あるので、その時間内に各人が「この日の意味」を(無言のままでも)「確認」すればよいと思う。少なくともその意志を示せば十分である。

 

ただ、直近の2月9日の“情熱”と比較すれば、明らかに“盛り下がっている”あるいは“見捨てられている”感は否めない。

 

 

いや、比較の問題ではない。『南京の真実』試写会と「建国記念の日」のどちらの方が大事か、比べても致し方ないであろう。

 

しかし、個人的な見解では「建国記念の日」の方が遥かに大切だ、と思うのである。

 

試写会は一過性のものであるが、「建国記念の日」は毎年やってくる。いくら「南京の真実」をわかってもらおう、「南京の真実」を知ってもらおう、「南京大虐殺」は捏造である、われわれは騙されている、情報戦争に負け続けている、と訴えたところで、そのような「真実」を受け入れる“土壌”がわれわれ日本人の間に醸成されていなければ、「真実」が芽生えることは夢物語なのではなかろうか。

 

「建国記念の日」を自然な形で日本国民がお祝いするという“土壌”ができて初めて「日本を愛する態度」も「心」も生まれるのではないだろうか。世界平和(五族協和とちゃうよ)云々するものほど、近所と仲が悪いwwという話をよく聞きますね。天下国家を語るのも大事だけど、足元にある日本の伝統、文化を拾って行くことの方が遥かに上位だと思うのです(これを極自然な状態で多くの日本国民に行ってほしいなぁ。靖国神社崇敬奉賛会の名刺を見せたら、「すごいな~」という反応ではなく、「俺も入ってるよ」という反応をして欲しいねー)。

 

「南京の真実!!」を声高に叫ぶものほど、奉祝に勤しんでいただきたいと思った2月11日であった。

(デートに明け暮れて、祖国の礎を省みなかった君!反省したまえ!!)


南京の不真実 その1

2008-02-06 21:33:03 | Weblog

以下、北村稔著『「南京事件」の探究ーその実像をもとめて』による(そのまま引用した箇所多数)

「南京事件」は、第二次世界大戦終了後の南京での国民政府国防部審判戦犯軍事法廷の判決と、東京での極東国際軍事裁判での判決により、その「実在」が「確定」された。そしてそのどちらの判決書にも「六、七週間にわたって展開された計画的大虐殺」という内容の記述がある。

 

ということは、昭和12年12月13日に南京が陥落したが、それから6~7週間というと、2月下旬か3月上旬まで「大虐殺」が組織的計画に基づいて行われたことになる。

 

 

ジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会委員長)が日本大使館の福田篤泰氏に提出した文書。

 

 

「・・・一月七日、当方は米三〇〇袋と小麦五○○○袋を注文しました。・・・石田少佐は、米も小麦も石炭も自治委員会をつうじて配給することになったから、売れないというのです。

 一月八日の自治委員会側の話では、安全区外への無料配給用として米一二五○袋と、販売用として一万袋を割り当てられたということで・・・一万袋の中から一二五○袋を後で無料配給に使う許可をもらいました」

 

「大虐殺」進行中に日本側が安全区外の人間に米を無料配給するとは、これ、虐殺ではなくて「大保護」進行中なのではありませんか?

 

ティンパーリー(オーストリア出身。マンチェスターガーディアンの記者。国民党政府から欧米に派遣された宣伝工作員で、国民党中央宣伝部顧問に就任した人物)が著したWhat War Means(日本語訳『日中戦争ー南京大残虐事件資料集』)(国民党国際宣伝処の指示の基<つまり、対価を得て>書かれた本)には、匿名の欧米人の日記風の報告があるが、「大虐殺」の真っ只中であるはずの昭和12年12月24日~25日に、彼らはクリスマスパーティーを行っている

12月27日には、上海から日本船が到着し航路の再開が祝賀された。この日本船で上海から到着した日本婦人たちが市内見物に連れていかれ、上機嫌で子供たちにキャンディーを配ったことが報じられている。匿名の人物は「彼女らは何ら真相をきかされたわけでもなく、世界にも真相が知らされていないのではないかと考えます」というコメントを忘れないほど、用意周到である。しかしその記述内容から判断すると、この人物も婦人たちに同行したと思われる。そして日本軍が、都合の悪い場所を避けるため婦人たちの市内見物に注文を付けたという記述はない

昭和13年2月1日付の『南京安全区襠案』第五七号に収録される、十二件の報告がある。報告は一月下旬から実施された難民の原住所への復帰に関するものであり、安全区外の南京市内の状況を記録する。そして、帰宅した難民への強姦事件があったとの報告がなされはしたが、「大虐殺」の進行を彷彿させる報告はない

 

つまり、意図的に「南京大虐殺」という虚構が捏造されたということだ。

 

「南京事件」の探究―その実像をもとめて (文春新書)


こんばんわ。こーだしゃーみんでーす。

2008-02-06 00:58:27 | Weblog

<倖田來未が自宅謹慎…収録済みのTV番組はそのまま放送>

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080203/tnr0802030836000-n1.htm

 ラジオ番組で「35歳になるとお母さんの羊水が腐る」と発言してネット上で騒動となり、1日夜にHPで謝罪した歌手、倖田來未(25)が2日、自宅謹慎した。この日はFMラジオ番組の公開生放送に出演する予定だったが、同じ所属事務所の歌手、鈴木亜美(25)が代役出演した。倖田は、新アルバムのPR活動を自粛する見込みだ。

 謝罪コメント発表から一夜明けた2日、倖田が自宅謹慎した。所属レコード会社のエイベックスによると、「本人は自分の発した言葉の重さに改めて気付かされ、大変後悔し、反省しています」という。

 本来この日は、東京・渋谷スペイン坂スタジオで公開生放送されたTOKYO FM「Hits from the Heart」に登場予定だったが、鈴木亜美が代役出演した。同局では観覧ファンのためにスタジオ前に張り紙で出演者変更を告知。整理券を配布する際にも説明したため、特に混乱はなかった。

 倖田は13日の名古屋まで全国5都市で新アルバム「Kingdom」のプロモーション活動を行う予定だったが、すべてキャンセルした。ただ、収録が済んでいた2日放送の日本テレビ系「恋のから騒ぎ」や7日のテレビ朝日系「徹子の部屋」などはそのまま放送。

 エイベックスでは「自粛期間は未定」としているが、4月12日から全国ツアーがスタートすることを考えると、3月中にはリハーサルに入らなければならず、少なくとも2月いっぱいまでは自粛する見通しだ。

 倖田の問題発言は、29日深夜に放送されたニッポン放送倖田來未のオールナイトニッポン」で飛び出した。冒頭に女性マネジャーが結婚したことを報告し、「やっぱ、35(歳)まわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよ。(マネジャーには)35歳ぐらいまでには子供を作ってほしいな」と冗談交じりに話した。

 それを聴いたリスナーが、高齢出産が珍しくない時代に、医学的根拠もなく35歳以上の女性に対して配慮に欠く発言だとして、「2ちゃんねる」などのネットに抗議や批判の書き込みを大量に行った。倖田は1日、エイベックスとニッポン放送のHPで、「皆様に不快な思いをさせてしまったことを心より深くお詫び申し上げます」と謝罪した。

ニッポン放送に抗議80件

 ニッポン放送では倖田がレギュラーではなく、ワンデーパーソナリティーだったため放送で謝罪できないことから、HPに謝罪文を掲載。同局には電話やメールの抗議が約80件あった。また、倖田がイメージキャラクターを務める化粧品ブランド、コーセー「VISEE」のサイトが一時停止状態となった。

 

(2008.2.3 08:36)

 

で、何が問題なのですか?別にわしは倖田來未のファンでもなければ、倖田來未のことを取り立てて綺麗とも思ってないし、歌も聴くに耐えるほど上手いとも思わん(あの乳はしゃぶりつきたいな~と、今写真見て思ったこともありません)。

 

<冒頭に女性マネジャーが結婚したことを報告し、「やっぱ、35(歳)まわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよ。(マネジャーには)35歳ぐらいまでには子供を作ってほしいな」と冗談交じりに話した>

 

これが真相やんかいさ。「もうええ年やねんから、はよ結婚せな羊水腐るで」って深夜のラジオ番組で言うたらアカンのか?そんなに問題か?

 

<医学的根拠もなく35歳以上の女性に対して配慮に欠く発言だ>

 

医学的根拠の無い話はできないのか?医学的根拠に基づいた知識を持たないとラジオで話もできないのか?下らん深夜放送で何をほざいとるんじゃ。

 

それから、いちいち各方面に配慮して発言なんかしてられん。しょーもない深夜のラジオ番組を35歳以上の女性がもし聴いていたとしたら、その35歳以上のくせして倖田來未の深夜ラジオを聴いてるということの方が問題じゃ。

 

あほんだら。

 

キャンペーンが中止になったり、化粧品のサイトが閉鎖されたり、その後自宅謹慎になったり。

 

今の日本人は、モンスターペアレンツという化け物を出すまでもなく、電車内・エレベータ内・映画館内など、不特定多数の集まる場所へ行けば一目瞭然。品性下劣な劣化人間が闊歩している。いや、劣化人間ほど得をするというような下劣ぶり。

 

日本人はかくも愚劣になったのか、と哀愁、郷愁を感じる倖田來未羊水腐る事件であった。

 

倖田來未よ。石原新太郎を少しは見習え!


夜スペ <その1>

2008-02-05 13:59:03 | Weblog

のん太郎君がおいしいネタを提供してくれました♪(謝謝)

 

杉並区立和田中学校の私塾との連携(夜スペシャル)に対する見解>

 

http://www4.ocn.ne.jp/~ttutokyo/sokuhou/080117yorusupe.htm

 

2008.1.17

東京教組

 

杉並区立和田中学校の私塾との連携(夜スペシャル)に対する見解

 

公立学校が教育活動として私塾と連携して有料で授業を行うことは、義務教育の諸原則(機会均等、無償)を逸脱するものであり、学校長の監督下で学校施設を開放し私塾が営業活動を行うことは公共財産の私物化と公教育の破壊につながるものである。

東京都教育委員会は、「公立学校教育の機会均等、公立学校施設利用の公共性及び教職員の兼業・兼職などの観点」から疑義があり実施の再考を求めているが、11日の東京新聞の報道によれば藤原校長は「既に成績下位層向けの補習などを十分に行っている」「費用は実費の範囲内で、実績次第でサピックス以外の業者との連携もある」と反論し、和田中学校「地域本部」は「都教委の指摘はクリアできる」と26日から実施する方針を明らかにしている。

しかし、「夜スペシャル」は、成績上位者を対象に和田中学校教員と塾講師が共同で教材開発し学力向上、受験対策として有料で行うものであり、義務教育の機会均等と無償の原則に反し、公教育が教育格差を助長するものである。

また、毎日新聞の取材(新教育の森)に「将来への投資として有効」(サピックス中学部)、「長期的に見ればサピックスの名も広まるし、通っていない中学生とじかにコミュニケーションが取れるなどのメリットがあると思う」(和田校長)と答えているように、大手塾のシェアの拡大に公立学校が手を貸すとともに、公立学校施設を無償で開放し特定の私塾が営業活動を行い、公共施設を私物化するものである。

私塾は、それぞれの理念、方法に基づき私企業として保護者や子どものニーズに応えた教育活動を行うものである。一方、公立学校は、すべての子どもに学力を保障し生きる希望を培うために教育の機会均等と無償の原則に基づき行われるものでなければならない。教育の地方分権をすすめるとともに、地域の特色を生かした各学校の独自なとりくみは保障しなければならないが、この原則を逸脱することは教育の格差拡大と公教育の破壊を招くものであり、和田中学校だけの問題として見過ごすことはできない。

以上のことから、東京教組は杉並区教育委員会と杉並区立和田中学校に対し、私塾との連携(夜スペシャル)の中止を求める。

 

引用は、以上でーす。

 

むふふ。

 

突っ込みどころ満載。むふふ~♪

 

公立学校が教育活動として私塾と連携して有料で授業を行うことは、義務教育の諸原則(機会均等、無償)を逸脱するものであり、学校長の監督下で学校施設を開放し私塾が営業活動を行うことは公共財産の私物化と公教育の破壊につながるものである>

 

<義務教育の諸原則>とは、文部科学省のサイト(http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/daijin/04081001.htm)から引用すると、<義務教育は、人格形成の基礎であり国民として必要な素養を身につけるものであって、憲法第26条の定める国民の教育を受ける権利を保障するため、国は責任を果たすことが必要である。義務教育は、全国どこでも、必要な教育内容・水準が保障され、無償で行われなければならない。このような義務教育の根幹(機会均等・水準確保・無償制)は、国の責任でしっかりと担保する必要がある>(太字、わし)。

 

なぜ、「水準確保」を載せないのか?意図的にはずしたな。つまり、「水準確保」には私教育機関の力には及ばず、また私教育機関の力を借りなければ「水準確保」は夢物語だとこの文章を書いた本人も、日教組の連中も、また世間一般の良民常民も薄々気づいているからではないのか。

 

「機会均等」は「夜スペ」でこそ保たれる。つまり、できの悪いガキどもには補習や再試験や原級留置などの処分を施して厚くもてなすが、できの良い生徒にとっての学校授業はただ徒に時間を経過させるためだけの箱になっている。このような生徒のことを「吹きこぼし」(落ちこぼれ、の反対概念)という。「夜スペ」は、「機会均等」を担保する策としては的を射ている。

 

「無償」については、課外授業であるのだから(つまり、通知表に「観点別評価」が記載されるわけではないので)なんら一切の問題を生起させない。遠足や修学旅行は無償ではない。これと同じ。クラブ活動費(部費や道具購入費や遠征の旅費等)は当然実費である。これと同じ理屈だ。

 

< 東京都教育委員会は、「公立学校教育の機会均等、公立学校施設利用の公共性及び教職員の兼業・兼職などの観点」から疑義があり実施の再考を求めているが、11日の東京新聞の報道によれば藤原校長は「既に成績下位層向けの補習などを十分に行っている」「費用は実費の範囲内で、実績次第でサピックス以外の業者との連携もある」と反論し、和田中学校「地域本部」は「都教委の指摘はクリアできる」と26日から実施する方針を明らかにしている>

 

前段は既に述べたとおり。後段については藤原校長の仰るとおり。

 

しかし、「夜スペシャル」は、成績上位者を対象に和田中学校教員と塾講師が共同で教材開発し学力向上、受験対策として有料で行うものであり、義務教育の機会均等と無償の原則に反し、公教育が教育格差を助長するものである>

 

コメントするのも馬鹿馬鹿しいが、<公教育が教育格差を助長するものである>との言説は果たして日教組を始めとするいわゆる左巻き人間に猖獗(しょうけつ)する宿痾と言わざるを得ない。一時「お手手つないでみんなで並んでゴールインする運動会」が流行ったが(男女混合名簿しかり、男女同室での着替えしかり、トイレの表示版の男性と女性を色分けするのは男女差別であるとの妄言しかり)、「格差」という流行語を錦の御旗として自分たちの運動の道具に生徒たちを利用しているだけである。成績上位者にさらに上級な知識・技能を身につけさす指導をして、一体何が問題か。野球のうまい生徒を特別に指導してよりレベルアップを図るのは身体能力格差を助長するものであり、容認できないのか。プロ野球選手は、野球を行う身体能力のレベルが低いものを差別していることになるのか?これらは「格差問題」なのか。

なんら問題はないのである。それを恰も問題があるかのように見せないと、自分たちのレゾン・デートルが失われてしまうから、問題を己で作り出しているだけなのである。火の無いところ(=アジア各地)に放火して騒ぎ立てる放火魔(=朝日新聞)と同じ図だ!!<公教育が教育格差を助長し>ても良いのである。何の問題もない。生徒の足を引っ張って教育格差が助長されるというような“悪い関与”でなければ、No Problem!である

 

塾の講師もボランティアばかりしてられない。生活費が必要。だから塾に学校が謝礼を払わなければならない。従って直接恩恵を受ける受講生から受講料金を徴収することのどこが問題だ。No Problem!である。

 

また、毎日新聞の取材(新教育の森)に「将来への投資として有効」(サピックス中学部)、「長期的に見ればサピックスの名も広まるし、通っていない中学生とじかにコミュニケーションが取れるなどのメリットがあると思う」(和田校長)と答えているように、大手塾のシェアの拡大に公立学校が手を貸すとともに、公立学校施設を無償で開放し特定の私塾が営業活動を行い、公共施設を私物化するものである>

 

ほな、蛍光灯にnationalと書いてたらアカンか?修学旅行の案内のどっかに、近畿日本ツーリストと書いてたら、これは旅行代理店のシェア拡大に手を貸したことになるのか。塾だけ目の仇にするのは止めよ。これはまるで靖国神社だけを攻撃し、靖国神社にだけ「厳格な」政教分離規定を適用しようとする恣意的な、つまりご都合主義という共産党お得意の「技」を披瀝しただけにしか見えんぞ。 

 

公共施設を私物化するものである>って・・・お前らが言うなよ。公教育を私物化して、己の政治運動の道具に学校や生徒を利用しているのは、日教組のばか者ども自身ではないか!!!

 

生徒の自殺や自殺宣言文書の投書が話題になって全国が震撼しているときに、「自衛隊のイラク派遣はんた~い」と国会議事堂前で油を売って生徒を見捨てた日教組連中のことを、わしは決して忘れないぞ!税金泥棒め!当時の生徒に詫びよ!

 

私塾は、それぞれの理念、方法に基づき私企業として保護者や子どものニーズに応えた教育活動を行うものである。一方、公立学校は、すべての子どもに学力を保障し生きる希望を培うために教育の機会均等と無償の原則に基づき行われるものでなければならない。教育の地方分権をすすめるとともに、地域の特色を生かした各学校の独自なとりくみは保障しなければならないが、この原則を逸脱することは教育の格差拡大と公教育の破壊を招くものであり、和田中学校だけの問題として見過ごすことはできない>

 

<公立学校は、すべての子どもに学力を保障し生きる希望を培うために教育の機会均等と無償の原則に基づき行われるものでなければならない>

 

よくもまぁ、いけしゃーしゃーと・・・(ーー;)

<すべての子どもに学力を保障>してくれ。たのむから、保障してくれ。もぅ、キチガイの相手はごめん蒙りたい。<すべて>の子供の学力を保障してくれるなら、「日教組もなかなかええとこあるやんか」と言って宣伝してやる。

 

無理やろ。

 

おどれの無能を棚上げして、対策に塾を使われるのが悔しいのか。だったら、おどれ自身の学力を、指導力を、統率力を向上させんかい!!

 

<この原則を逸脱することは教育の格差拡大と公教育の破壊を招くものであり、和田中学校だけの問題として見過ごすことはできない>

 

・・・・・・みなさん、公教育の破壊を招いた原因は何ですか?

 

答えは、日教組ですね。

 

もぅ・・・つける薬がない。ないっす。ないよー。ないよー。

 

では、「夜スペ」の問題点をいくつか述べておきましょう。

①世間の一般的な認識は、指導力や技術力は別として、公務員である学校の教師の方が塾の指導者よりも社会的な立場が上、ではないないだろうか。「人格まで含めた教育をする」学校と、「学力に特化した指導」(=心の指導をしない。できない)をする塾とでは、学校の方に「分がある」との認識があるのではないか。そのような認識の下で学校へ塾の指導者が出かけると、「ペコペコする塾」「ふんぞり返る、あるいは偉そうに、または見下す学校の教員」という図が頭に浮かぶのだが、いかがでしょうか(ちなみに、私は「塾の先生」ではなく、「予備校の先生」です。塾と予備校はまったく違います。よく例えで言うのですが、もしわしが何らかの専門学校の先生だとしましょう。専門学校の先生を「塾の先生」とは言わないと思います。予備校は学校で勉強する学科を直接指導するので塾とよく似ていると思われるかもしれませんが、実態は専門学校に近く、実際法人格は学校法人であり、専修学校と規定されています。もし余裕があれば、村上龍の『13歳のハローワーク』で「塾」と「予備校」を読み比べてください。あれ、なかなかよく書いてますわ。立ち読みでええよ)。学校の教員に協力する姿勢がないと、足の引っ張り合いになります(わし、週一回キチガイ丸出しの高校へ教えて行ってますが、これ、学校教師の脳みそがスカスカだと、せっかくの授業が100パーセント無駄になります。「夜スペ」が斯様な憂き目に逢わないたとも限らない)。今のままでは、「夜スペ」を成功させるよりは失敗させる方が遥かに簡単で、万が一失敗すると二度と「夜スペ」の実施ができなくなるのではないか。

 <その2へ、つづく~~>


夜スペ <その2>

2008-02-05 00:52:14 | Weblog

このブログ、ひとつの記事で保存できる文字数が10000字までなんです。

久しぶりに10000字超えましたね。ははは。

 

以下、<その1>の続きですわ。

 

②東京都の杉並区だけ実施するの、いくら有料とはいえ「不公平」であるのは確かだ。今後全国の公立中学校へ「夜スペ」を広げる用意をしないのは問題。しかし、現状全国に広がることはまず、ないと思って差し支えないであろう。まず杉並区で、その後全国へ徐々に広げていくというビジョンを持ってもらいたい。

 

③「夜スペ」が評価されたとき、生徒が学校の先生を尊敬しなくなる可能性がある。子供の前ではお父ちゃんの悪口を絶対言ってはならない(家族破壊→地域破壊→国の破壊=今の日本、となってしまうので、絶対駄目!!)。同様に、いろいろと文句を言いたくなる気持ちはわかるが、「先生」というだけで偉い!という風潮がないと教育は成り立たない。お巡りさんに対する尊敬の念が欠落しつつある昨今の治安もしかり、である。学校の先生も塾の先生に対する陰口は慎まねばならない。果たして可能なのか、疑問である。

 

④今回は東京で有名な「サピックス」という塾と提携した。今後杉並区以外の地域(全国でなくても)へ拡大したとき、さまざまな塾が参入してくるだろう。塾業界を熟知しているわしとしては、こんな危険なことはない。「塾の方が教えるのがうまい」というのは、はっきり断言しますが、迷信です。一切関係ない。学校の教員でおかしなもの、狂ったもの、税金や保証された地位を悪用するという劣化人間がいます。しかし、塾にもおかしな劣化人間はいます。塾にも日教組顔負けの左にひん曲がった赤い人はいます(割合は・・・塾の方が高いと思うのだが)。塾だからということで安心することはまったくできない。

 

でも、わざわざ「夜スペ」に派遣される先生だから、やっぱり人気者で教えるのが上手なのでは、と思うかもしれません。そうであって欲しいの願望はありますが、その保障はありません。むしろ、客商売なので生徒と迎合するバカの数が学校教師より多いかもしれません。これでは却ってマイナスです。そして、塾が抱える最大の問題は、「教え方」よりも「教える内容」です。それなりに流行っている塾は週に1度集まって、「模擬授業」を行いお互いに研修をし、研鑽をしています。しかし、導入の仕方から本論、演習、まとめというサイクルで塾は指導しますが、そのサイクルが旧態依然としていることが実に多いのです。忙しいサラリーマンなので、最新の指導法の論文を読むなどといいうことはまず考えられない。その旧態依然のカビくさいやり方を学校現場に鳴り物入りで持ち込むことは大きなマイナス材料だと思います。

 

(たとえば、現在完了という相(aspect)を時制(tense)の変異(variation)と教えてしまうため、現在完了という相矛盾するネーミングが持つ特性を掴みきれず、挙句の果てに「現在完了形は日本語には無い形式です」と法螺を吹き、分類した和訳を機械的に当てはめるだけ満足してしまう。だから現在完了相がわからないし、理解できないものとなり、難しいとの烙印を押されてしまう。しかし、「日本語には無い」形式と教えるにもかかわらず、どうやって日本語に「訳させる」(日本語にないのに、どうやって日本語に直すのだ?)のか。

受動態(passive voice)はただ単に主客を逆転させたものという程度の理解しかなく、「能動ー受動」の統語的振る舞いにミスがあるか否か、ということにのみ意識が向けられている(「この車はトムに乗られる」←果たして、これは日本語か?)。

willとbe going toを同意文として書き換えをさせるため、法助動詞(modal auxililary verb)が持つ認識様態的意味は一顧だにされず、知的意味にのみ焦点が当てられる。これではまさに片手落ちである。などなど。

はっきり言って、「間違ったこと」が平気で教えられている。塾側(学校もそうだが、少なくもと塾よりは勉強する機会が多いのは確か)がこのような「間違い」を、「間違い」と認識する用意が果たしてできているのか。これからできるのか。甚だ疑問である)

 

というわけで、そろそろ飽きてきたので結論と参りましょう。

 

渡部昇一先生(上智大学名誉教授)が大昔から提唱なさっているように、すべての塾を公の教育機関と認めよ!これに尽きると思います。業界に詳しいので、すべての塾を正式な教育機関と認めることは、実に、実に危険なことです。しかし、このことは公立の学校にも当てはまります。よって、方法としては良い学校、塾は残し、悪い学校、塾は統廃合する。しかし、どのようにして良し悪しを決めるのか。どのようにして峻別するのか。事実上このような分類は不可能です。だから、認めるしかない。現在ある(あるいはこれからできる)すべての塾・予備校・学校を正式な教育機関として認めること、これが現在の教育が直面する閉塞状況を打破する唯一の扉であると思います。

 

松浦光修先生(皇學館大學教授)は、「義務教育を廃止し、教育の“自由化”を」お仰った。「文部省もそろそろ、明治以来の既得権を手放して、民間に教育お権限を委譲することを考えはじめたほうがよかろう」(『いいかげんにしろ日教組』(PHP研究所))と仰る。

 

今の教育荒廃、学力低下の原因は学校が信賞必罰を体現できなくなったことにある、と考える。今の世間一般の人間相手に信賞必罰の精神で子どもを指導できますか。すべての塾を正式の教育機関と認めることにより、信賞必罰の荒波に揉まれた塾や学校が生き残る。そうやって徐々に回復させていくしかないではないか。

 

このことを真剣に議論すべきときが、ついに訪れたぞ!