平成19年11月14日23時頃、父・秀雄が永眠いたしました。享年63歳。
生前の皆様から戴きましたご厚誼に厚く御礼申し上げます。
昨年食道癌を患い、3ヶ月ほどで退院しましたが。今年の夏頃から放射線治療の後遺症らしきものが出て、10月20に再度入院いたしました。
放射線治療が原因で気管に穴が開き、そこからばい菌が入ったため激しい、激しい頭痛に悩まされました。8日間も絶食を余儀なくされ、そのため体が弱り、水を飲んでも吐き出す状態です。肝臓など数箇所への転移も見られ、医師からは「治療の施しようがない。日々衰弱するのを待つだけ」と言われました。
実際、日に、日に衰弱して行きました。物が食べれない、水が飲めない、麻酔で抑えなければ耐えられない程の頭痛・・・
生きている限り、この苦しみが続く。
父の決断は11月14日、23時頃でした。一挙に血を吐き、ナースコールをしたみたいです。血を吐いた後も相当苦しんだのでしょう。
最初に病院に到着したのは弟です。弟が到着すると、必死で医師が心臓マッサージをしておりました。30分以上マッサージを続けていただいていたようです。弟が手を握ると、暖かい。まだ生きている。しかし、弟は「もういいです」と医師へ告げました。すると、だんだんと、暖かかった手が冷たく成りだしたそうです。
わたくしは、13日の夜、仕事終了後病院へ向かいました。ある、大事なことを父に伝えるために。
しかし、父は寝ておりました。見舞いの際、いつもスポーツ新聞を差し入れするのですが、新聞をテーブルの上に置き、また来るつもりでその日は帰りました。しかし翌日の14日に逝去したのです。
弟はほぼ毎日お見舞いに行きました。ほとんど会話らしい会話はなかったようですが、月曜日に父の手を握り、「がんばれよ!」と言ったそうです。すると父は涙を流して「ありがとう」と一言いいました。あの父が涙を流した・・・。それだけで驚愕です。逝去した日の午前中、弟の妻がお見舞いに行きました。仕事の前に行ったそうです。彼女も手を握り「がんばれよ!」と言ったそうです。すると父はやはり涙を流し「ありがとう」と言いました。
もう長くはない、と父は分かっていたのでしょう。
前日に私はお見舞いに行きました。顔を見ることはできなかったが、テーブルに置かれたスポーツ新聞を見て、来たことは分かったでしょう。それを見て、果たして涙を流したのでしょうか・・・
母もほぼ毎日お見舞いに行きました。おばあちゃん(父の母)はまだ存命で、しょっちゅうお見舞いに行ってました。水曜日も母、そしておばあちゃんがお見舞いに行きました。
あれだけ好きだったタバコも“ふかす”のが精一杯で、母が「ビール飲むか?」と尋ねても、「要らない。飲む気がしない」と答えたそうです。そして、その夜大量の血を吐き、父は逝ってしまいました。しかし苦しかったようです。苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しみながら死んでしまいました。「血を吐いた後一瞬で死ぬ」と医師からは言われていましたが、実際は血を吐いた後も相当時間苦しんだようです。
私は、お酒が飲めません。タバコも吸いません。いくつかの理由があるのですが、最大の理由は父の酒癖の悪さ、ヘビースモーカー振りです。お酒を飲んだ後の父は始末に負えませんでした。他人に迷惑をかける飲み方をします。そんな父を見るのが嫌で嫌で・・・
盆・正月と親戚が集まりますが、わたくしは極力参加しません。なぜか?父がお酒を飲んでいる姿を見るのが嫌だったからです。
父を殴ったことがあります。父を罵ったこともあります。「おまえ、人間として最低や」と。
しかし、違います。人間として最低なのは、この俺なのです。詳しくは書けませんが、俺ほど最低な人間はいません。
謝りたかった。会話を交わしたかった。そして、大事な大事な、父が喜ぶ話をしたかった。伝えたかった。
しかしそのチャンスは永遠に奪われてしまいました。
そんな父ですが、父はわたくしの背中を押してくれました。自分の命を削って・・・それは、新しい家庭を築くことです。切れそうで、切れそうで、もう切れてしまったと思った関係もギリギリ繋がっていました。おそらく父のお陰なのだと思います。
16日が通夜で、17日が告別式でした。16日はわたくしの誕生日でもあります。自分の誕生日に父を見送ることになるとは・・・
おやじ。ありがとう。ほんまにありがとう。今まで育ててくれてありがとう。
面と向かって言えなくてごめん。照れくさかってん。
でも、おやじ。おやじは最高のおやじやったぞ!!!!!!
ありがとう。