インドちゃんの子どもと書くな!子供と書け!!

障がい者と書くな!障害者と書け!!

脱・東京裁判史観 その5 「南京大虐殺」の新証拠発見

2007-02-27 13:42:26 | Weblog

 南京の落城から、蒋介石は漢口に逃げ、その後、重慶に逃げた。その間、累計何百人もの外国人記者からインタビューを受けています。その数、三百回です。その中で、日本軍の虐殺について述べたことは一度もないい。
 ですから、「南京大虐殺」は東京裁判ではじめて、出てきたのです。なぜ出てきたかというと、ニュールンベルク裁判に合わせるためです。ニュールンベルク裁判には、ナチスのユダヤ人虐殺の罪を裁く「人道に対する罪」という項目がありました。東京裁判においては、それに類似するものがないので、「南京大虐殺」がでっち上げられたのです。
 南京が陥ちた頃に、無名の英文の本が出て、日本軍の残虐行為によって三万人くらいのシナ人が死んだと書いてあった。それは今では誰が書いたかは明らかで、ティンパーリという「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者です。
 これについても、やはり北村先生や東中野先生が第一級の資料に当たって研究した結果、ティンパーリは蒋介石から金をもらって書いたことが明らかになっています。

渡部昇一「私と昭和史」2周年記念大講演会(『Will』2007年4月号)

(太字、わし


脱・東京裁判史観 その4 A級戦犯は戦争犯罪人

2007-02-22 23:05:18 | Weblog

C級戦犯
→捕虜虐待、非戦闘員への暴行虐待等既成の国際法の条規に違反した「通例の意味」での戦争犯罪を犯したとされる者の中で、直接手を下したとされる者

B級戦犯
→監督・命令権者として行為の責任を負わされた者

A級戦犯
→「通例の意味」での戦争犯罪、「平和に対する罪」「人道に対する罪」

東京裁判の法的根拠が「事後法」であったため、裁判として成立していない。A級・B級・C級戦犯と裁判で判決が出たが、これは裁判でない。なのに有罪となった。これは冤枉罹禍の一例である。つまり、刑に服したのではなく、敵によって殺された。すなわち連合軍による追撃の一環として処刑されたことによる戦死である。

ところで、「戦争犯罪」とは何ぞや?おまえら答えてみろ!

 

大東亜戦争で発生した全ての戦争犯罪人は、交戦相手国だった連合国の軍事裁判によって裁かれた。これは平和条約発効以前の、つまり国際法的にはまだ彼我の戦争状態が継続している最中の出来事である。殊に刑死、獄死という悲運な人々の場合、交戦状態が続いている期間内に「敵」の手にかかって命を落としたのである。よって「戦死」という扱いをされてしかるべきである。よって、合祀を以って御祭神に奉斎すべき対象である。
  小堀桂一郎『靖国神社と日本人』(PHP新書)

 

昭和28年8月「戦傷病者戦歿者遺族等援護法」の一部改正が実現。当時、右派社会党議員であって堤ツルヨ氏が熱心に活動され、全会一致で可決された。これにより、戦争犯罪裁判被告として刑死・獄死した人々の遺族にも戦歿者遺族年金と弔慰金が支給されることになった。

昭和29年、30年「恩給法」が改正される。これにより、刑死・獄死した人の遺族に対して公務扶助料の年額に相当する扶助料を支給できるようになる。禁錮・懲役を受けた人にたいしてもその拘禁期間を公務在職期間に算入する。

恩給法第9条
「死刑又ハ無期若シクハ三年ヲ超ユル懲役若ハ禁錮ノ刑」
に処せられた者は恩給権を失う、と規定している。
          ↓
A級戦犯・BC級戦犯という(無実の)罪を着せられた者は「恩給法」に基づいて遺族に扶助料が支給されている
          ↓
国内法に基づいて、彼等は犯罪者ではない!ということの証左である。
          ↓
このことが意味することは何か?
          ↓
日本国は議会制民主主義であり且つ全国民を挙げての合意の下にそうなっている
       ↓
国会での議決は国民の総意によって支持
       ↓
戦争犯罪人は旧敵国からみた呼称
       ↓
日本国政府は立法府の議決に基づいてこの人たちを犯罪人と看做していない
       ↓
      よって
       ↓
「戦犯」という言葉を使うべきではない

昭和53年7月から平成4年6月まで第六代宮司として英霊の鎮魂祭祀に奉仕された松平永芳氏は「幕末殉難者」「維新殉難者」という表現に倣って「昭和殉難者」との表現を使うよう神社職員に通達している。

A級戦犯、BC級戦犯という言葉は、UFOと同じく実態のないものである。今後二度と使わないように。

以上。


脱・東京裁判史観 その3 南京大虐殺の証拠発見

2007-02-22 21:17:29 | 初めての人は、ここから読め


http://www.youtube.com/watch?v=ZzPgi4Wn9Zk

小林よしのり『戦争論2』(幻冬舎)を下敷きに。

日本軍が南京で30万人を虐殺した、というホラ話をホラと知らずに信じている人が大勢いるので、分かりやすい『戦争論2』を下敷きにして語ります。

東京裁判で提出された「南京大虐殺」(この“用語”は左翼の専門用語なので、「 」付きで語る)に関する“唯一”の証拠は目撃者の次のような証言である。
「日本軍は近郊の村に包囲・拘禁していた①5万7418名もの難民と兵士を12月16日夜、②ワイヤーロープで2人ずつ括り、4列に並べて③下関(シャーカン)・草鞐(そうか)峡まで追いたて、④機関銃で掃射しつくした後、さらに⑤銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に⑥石油をかけ、火をつけて焼き残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。私はこの一部始終を⑦目の前で目撃しました

①現在のサッカー場のような照明施設がついているような場所ならともかく、当時の夜、市街地で、よく5万7418名という数字が分かったものだ。数えたの?銀色のカチカチ押して人数を数えるカウンターでも持ってたのか?

②6万人近い人を二人ずつワイヤーで括るには相当数のワイヤーが必要になる。そして日本軍は何人がかりで5万7418名もの人間を2人ずつ括っていったのか。何時間かかったのか。その間、中国人はまったく無抵抗で整列していたのか。

③6万人近い人間がぞろぞろと移動するのにどれだけの時間がかかったのか。これらの人間を管理するにはそれ相当数の日本人が必要だが、何人いたのか。甲子園球場は満員になれば現在は5万人ほどになるが、試合終了後駅に向かうのは、そら大変。

④6万人もの掃射すると、機関銃の爆音が何時間も鳴り響くことになるが、この音を聞いた人はいるのか。当時、南京には外国人のジャーナリスト、日本人の新聞記者いっぱいいたのに、誰も虐殺など見ていないのはなぜだ。

⑤これも何人の日本兵が何時間かけて行ったのか。ここまでで2時間や3時間では無理だろう。これだけの人の流れを見た目撃証言がないのはどういうわけか。

⑥6万体もの死体が骨になるまでどのくらいの時間を要したのか。6万体もの人骨を揚子江へ流すのにどれくらいの日本兵が、どれくらいの時間をかけたのか。また、対英米戦に開戦に踏み切った理由の一つに石油の備蓄がなく、後半年も持たないとの切羽詰った事情に追いやられた(ABCD包囲網)という経緯があるが、6万体を焼き尽くす石油が日本にあったのか。

⑦この目撃者は、一体どこで日本兵に見つからずこれらの行為をすべて見たというのだ。

つまり、捏造。嘘。2ヶ月半調査して、東京裁判の法廷に最初に提出できた目撃証言はこれ一件のみ。その後出てきた証言は同じようなツッコミどころ満載の大同小異ばかり。その後証言をテキトーに捏造するしかなかったから、当たり前といえば当たり前。

南京は総面積35平方キロメートル。周囲を高さ12メートル、厚さ6~12メートルの城壁に囲まれた城塞都市だった。1937年11月、南京攻略を前に富裕層は南京を脱出していた。12月13日にあっさりと南京は落ちたのだが、その間蒋介石はすたこらさっさ~と逃げている。だから南京の城壁内に残っていたのはシナ兵と貧民だけだった。残された市民は南京の中心部にあった「難民区」に避難。地域を管理するために設けられた安全区委員会(委員長は、ジーメンス南京支社の総責任者であるジョン・H・D・ラーベ。日本人、シナ人以外の組織)も「われわれは安全区に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。

1937年12月21日、国際委員会のアメリカ人教授ベイツが日本大使館に宛てた手紙には「We come to petition in the name of humanity that the following steps be taken for the welfare of the 200,00 civilians in Nanking・・・」とある。つまり、多く見積もっても20万人しかいなかった市民を30万人虐殺した!というのが「南京大虐殺」なのだ。さらに、1ヵ月後の1938年1月14日付文書で委員長のジョン・ラーベは「当市の総人口は25万から30万だと思います。これだけの人口を普通並みの米の量で養うとすれば、一日に2000担(あるいは一日に1600袋)の米が必要となるでしょう」と述べている。ということは、20万人しかいなかった人口を30万人虐殺して、その1ヶ月後に25万~30万の人が南京にやって来た、ということになりますね。んなアホな。ね、捏造でしょ。ホラ話でしょ。

先ほどの委員長ジョン・ラーベはヒトラーへ上申書を書いている。それを戦後母国に帰って書き直し、当時は誰にも相手にされなかったのだが現在は『ジョン・ラーベの日記』として出版されている。わたくしも購入して読んだが、現在は手元にありませーん。引越しの際ほかしちゃった(標準語で「捨てる」の意味)んで。すんまそん。その『ジョン・ラーベの日記』には「日本人が虐殺した~~、毎日恐ろしいことやりまくった~~~」ってなことが書かれている。やっぱり虐殺したんやないか!とこれを読むと思ってしまいますが、ちゃんと検証すると、そうは言えなくなります。まず、ラーベは「ヒトラーへの上申書」で犠牲者を「5~6万」と書いている。この段階で「30万ってどっから来た数字じゃい!」とツッコミが入りますわ。さらに安全区委員会は日本大使館に毎日文書を送付しているのだが、これは実は食料支援要請よりも「日本軍の犯罪」に対する「被害届け」の方がはるかい多く、連日出ている。

やっぱりか。日本軍は虐殺したんや。

いや、まちなはれ。

読むと、次のように書いてあります☞総数。「殺人事件25件。被害者49名」なんじゃこら?民間人を大量に虐殺したという報告はどこにもない。しかもこれら「被害届け」はすべて伝聞情報。つまりラーベ本人はただの一件も目撃していない。ラーベは毎日「大虐殺」の最中、自由に南京城内を歩き回っていたにもかかわらず、直接殺人事件を見た記述は皆無である。さらに、ラーベは1938年1月14日付け上海ドイツ大使館宛てでは「被害者数千人」と述べているのに、1月28日南京イギリス大使館宛てには「数百人」と述べている。殺人を一度も目撃していないのに、報告する相手によって49人~6万人まで数字をコロコロ変えている。つまり、ラーベは意図的に情報操作をしていたのだ。なぜ?

ジョン・ラーベは中国蒋介石政権に武器を売り、莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンスの南京支社長であった。シナ事変勃発後、日本はドイツにシナに武器輸出をやめるように要求する。ヒトラーはソ連を牽制するため日本と組むことを選択し、武器輸出を抑えた。ラーベは怒った。30年もシナに住み、こつこつ積み挙げてきたものがパーになるのだから。日本を逆恨みしたラーベは日本を悪者にしようと企んだのだ。

納得できる理屈ですね。さすが、よしりんだ。完璧だ。

さらに、ソ連兵はベルリンを攻略した際、ベルリン女性の50パーセントが強姦されたという。ベトナム戦争で韓国軍は5000人とも3万人とも言われる混血児を残してきた。日本でも沖縄を中心に混血児が多く生まれた。しかし、「レイプ2~8万」といわれている南京で、日中混血児がいまだ一名も確認されていないのはなぜなのか。

なによりも、当時、国際連盟の決議で再三日本を厳しく非難している。しかも蒋介石も毛沢東も何度も何度も記者会見を行っている。なのに、なのに、なのに、「南京大虐殺」について一言も言及していない!!当たり前だ。そんまもの無かったのだから、言及できるわけがない。

一昨年スマトラ沖地震でなくなった方々が30万人くらいといわれています。あれだけの大惨事で30万人なのです。しかも遺体の処理にどれだけ手間取ったことか。重機などを使って穴を掘るなどしてあの苦労である。当時の南京でそんなことが可能なのか。さらに広島、長崎での原爆の被害が30万人くらいである。日本軍は原爆2個分の成果を手作業で収めたのか?そんなことできるのか?

こんな杜撰な証拠と呼べないものを証拠として旧日本軍を、しいては日本国民を貶める勢力が活躍しているのだ。こんなこと許されるわけがない。

以上、ほんの少しでも共感できる部分があったり、確かにそうだ、と思える部分があるなら、ぜひとも小林よしのり著『戦争論』(幻冬舎)をお読み下さい。まずは知ることから始めましょう。大東亜戦争敗戦以降、日本は貶められているのです。嘘、捏造、ホラ等で騙されているのです。そういう意味では『戦争論』がとっつき易いし、分かりやすいし、見事なまでに嘘、捏造を見抜いてくれています。我々の歴史を取り戻そう!!

 


脱・東京裁判史観 その2

2007-02-21 02:03:44 | Weblog

<<戦争を知らない人間は、半分は子供である。>> 大岡昇平『野火』

「戦争を知らない」とは、直接の体験の有無だけを指しているのではなく、むしろ「戦争」に対する、多元的な眼差しと想像力の欠如のことであろう。
 東京裁判と占領下においてつくりあげられた太平洋戦争に対する一元的な見方から自由にならないかぎり、戦後六十一年を経た今も、日本人は「半分は子供である」といわざるをえないだろう。
 日本が戦ったあの戦争は、アジアにおいていち早く近代国家となった日本が、西洋列強の帝国主義と対峙し、その白人支配からの脱却をめざしたものであったといわれる。
 先ほど引用したクリストファー・ソーンは、日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国の終焉をはやめたと指摘する。東京裁判史観を覆す西洋の歴史家のこの見解を、日本人はどう受けとめるのか。
 昭和十六年十二月八日の開戦の報に接したとき、日本人の多くは、この戦いが西洋列強の苛烈な経済封鎖に対する、自存自衛のための戦争であると感じた。しかしその感覚は、戦後になって全くなかったかのようにされた。
 戦争体験のない世代の一員として、私はかつての日本人が総力をあげて戦い、敗れた大戦争とは何であったかを考えてみたい。そのとき、これまでの戦後史観の圧倒的な否定論、すなわち「あの戦争は誤った侵略戦争だった」と決めつける議論に安易に与したしたくはないということである。いわゆる東京裁判史観から自由になって考え、日本人としての主体性と勇気を取り戻したいのである。

富岡幸一郎『新大東亜戦争肯定論』(飛鳥新社)


戦前・戦中の日本 その6

2007-02-19 00:07:47 | Weblog

八月十六日以来、わが国民は、思いがけず、見馴れぬ配給品にありついて戸惑いしている。飢えた我々に「自由」という糧が配給されたのだ。
これによって我々の飢餓が癒されるであろうというのは、正しく間違いのない理論である。然しこの理論の間違いなさと、実際に飢饉が解消するということは、これまた別のことである。何故なら要するに「自由」とは我々の到達すべき結果の状態をいうのであり、今はそれが手段としてあてがわれているのだからだ。・・・・・・然し自由も配給品の一つとして結構珍重されている。元来配給品というものは、手近に代替物が得られ難いこと、糧としての価値が全然無価値でないこと、決して純粋ではなくて栄養分の若干ある数種の雑穀の混ぜ物であることなどを不可欠の要素としているが、「自由」もまたこの性格を欠いでいない。人気があり、重宝がられる所以だ。どんぐりの栄養価を持った衛生無害な政治家や思想家が輩出するわけである。

河上徹太郎「配給された自由」(『東京新聞』一九四五年十月二十六日、二十七日)

 


脱・東京裁判史観 その1

2007-02-01 21:23:59 | Weblog

「とくにわが国とドイツの降伏の仕方がちがうことを考慮せねばならぬ。ドイツは最後まで抵抗してヒトラーは死亡し、ゲーリングも戦列を離れ、ついに軍隊は崩壊して、文字通り無条件降伏した。それゆえドイツの戦争犯罪人に対しては、連合国は、極端に言えば、裁判をしないで処刑することさえできたかもしれない。しかるに、わが国は、連合国が日本本土に上陸しないあいだに発せられたポツダム宣言を受諾した。この宣言の第五項には、連合国自身も、ここに書かれてある条件は守るといっている。すなわち条件付申し込みであり、条件付き受諾である。ゆえにニュルンベルク裁判で「平和に対する罪」「人道に対する罪」を起訴しているからといって、これをただちに東京裁判にもち込むことは不当である」

田中正明『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)

注:「この宣言の第五項」=戦争終結の条件

注:「ここに書かれてある条件」=軍国主義の除去、日本国軍隊の解体、戦争犯罪人の処罰、民主主義的傾向の復活強化、基本的人権の確立など