インドちゃんの子どもと書くな!子供と書け!!

障がい者と書くな!障害者と書け!!

超特急

2010-05-18 23:29:47 | Weblog

 <私は満州の奉天で終戦を終戦を迎えました。私の所属は通信部隊であったため終戦の知らせはいち早く知ることになりました。戦争に負けた悔しさと、長かったがこれで日本に帰れるという思いが交錯するものつかの間、日本軍司令部のある奉天にロシア軍が飛行部隊をともなって侵攻して来たのです。>

<其の時私は栄養失調寸前の三級を言い渡されました。三級と言えばお尻の皮と肉が分離したような状態です。二日後、農場へ派遣されることになり、農場で一番先に見たものは蛇ですぐさま棒でおさえ、皮をむき血のしたたる蛇の肉を食した事、今も忘れません。あまりの空腹で口に入るものは何でも食べるしかなかったのです。>

<もし、現在の若者や成人が、私が経験した捕虜生活や過酷な強制労働をさせられると、おそらく多くの人が倒れてしまうでしょう。同じ部屋の同僚も弔いもなく処理されてしまいました。冬季は零下四〇~五〇度位下るため、夏に穴を掘ってその穴に死体を投げ捨てられるだけです。>

大阪軍恩連盟五十年誌 『我等青春のあかし』 より

 

◇國神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」関西支部主催勉強会

 

■演題 「シベリアからの帰還」

 

■講師 木下芳太郎氏(大阪軍恩連盟会長、元陸軍軍曹)

※軍恩連盟は、國神社御創立130周年(昨年は140周年でした)の際、当時大卒の初任給が60銭であった時代、なんと10億円を寄付したという由緒正しき団体です。この寄付のお陰で、現在の御社殿の建て替えができました。ちなみに、大阪軍恩連盟は30ほどの支部がありましたが、現在は支部が2つだけになってしましました。平均年齢も90歳となり、会員の三分の二は女性だそうです(つまり、男性はどんどんお亡くなりになっている・・・)。

 

■日時 平成22年6月6日(日) 午後2時より(午後4時30分頃まで)

 

■場所 大阪護国神社別館高砂の間

     (市営地下鉄四つ橋線住之江公園駅1番出口下車すぐ)

 

■費用 無料

 

■参加資格 18歳以上40歳までで、青年部「あさなぎ」部員の方(またはそのOB。ただし、事前に参加の届のある方限定)。また、部員ではないが、左記年齢要件に合致する方で、当会の趣旨にご賛同いただける方。あるいは入部希望の方(入部しようか考え中の方)。

残念ながら、40歳以上の方は無条件でお断りしております。ご了承くださいませ。当日来られても入場はできません。

 

■講師略歴 大正9年9月19日生まれ(89歳)。昭和17年1月10日、和歌山第24部隊に入隊。その後、東安省の吉林へ配属。昭和20年2月1日付で軍曹。約3年間シベリアへ抑留される。

 

※午後2時からスタートし、木下先生にご講話をいただきます。その後休憩をはさみ、質疑応答へ。質疑応答開始時刻は午後4時の予定(しかし、大幅にズレル予感・・・)。 

 

 


シベリア

2010-05-16 16:32:56 | Weblog

<極寒、重労働 はかない命>

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20100511-OYT8T01218.htm

 

「昭和20年8月、終戦と同時にソ連に抑留される。23年8月、両親の待つ自宅へ帰る」。綾部市上杉町の荒井ゆく江さん(80)から届いた手紙には、シベリア抑留を体験した夫・悦見さん(86)の略歴が記されていた。手紙では詳しく語られていない極寒の地での3年間。筆舌に尽くしがたいであろう体験を聞きに悦見さんを訪ねた。

 同市出身の悦見さんは19歳の頃、労働力を確保するための徴用令書、通称・白紙(シロガミ)を受け、満州(現中国東北部)に渡った。兵器工場の食堂で働いたが、1945年2月、奉天(瀋陽)の部隊に配属。南方へ出兵する直前の8月、突如参戦したソ連軍に備えるため、現地にとどまっていて終戦を迎えた。

 「塹壕(ざんごう)を作ってソ連兵を待ちかまえていた。(敗戦は)ただ、情けないという気持ちだった」。

 武装解除され、数日がたった頃、ソ連兵から列車に乗るよう言われた。「日本に帰れるのか」。そう期待したが、行き先も告げられず南満州鉄道などで西に運ばれ、国境を越え、ソ連・チタへ。そこからシベリア鉄道で空腹のままさらに1週間。収容所のあるイルクーツクへ着いた頃には「まるで骨だけになっていた」。

 到着後、黄疸(おうだん)を発症し、現地で入院した。病院内で会った日本人青年は親しくなった気安さで、出身の東北地方の踊りを見せてくれたが、その最中に倒れ、「お母さん」と3度叫んで亡くなった。「栄養失調だと命などいつ吹き飛んでしまうか分からない」と肝を冷やした。

 入院から1か月後、退院すると収容所へ。ひどければマイナス50度以下を記録する凍土での重労働が待ち受けていた。石炭やレンガ運び、船でドラム缶などの荷降ろし、鉄くずを炉の中に入れる作業……。すべてにノルマが課せられ、1日中、働いた。食事は拳より小さい黒パンとコウリャン(モロコシ)が入ったスープ一杯。空腹に耐えきれず、道ばたの草を食べた。捕虜同士での雑談はもっぱら、ぜんざいやおはぎといった食べ物の話だった。

 朝になると冷たくなっている仲間を何度も見た。遺体を埋めるため、落ち葉を燃やし、凍った大地を溶かして穴を掘った。逃げようとした捕虜は銃殺され、川に投げ捨てられた。

 「いつになったら帰れるのか」。毎朝のように日本の方を向き、無事を祈った。

 約3年が経過した48年、収容所で呼び集められ、「ダモイ(帰国)」と告げられた。ナホトカから引き揚げ船・明優丸に乗り、7月29日に舞鶴港へ。携えた荷物は、飯ごうと水筒ぐらい。緑の島影が近づくと待ちきれず、引き揚げ者と一斉に甲板に駆け上った。およそ6年ぶりの帰国だった。

 8月1日に帰宅。「母親が『今日から陰膳(かげぜん)をしなくて済む』と言ってくれた。生きて帰ってきた、と実感した」と振り返る。

 50年にゆく江さんと結婚。その後、農業や建設会社勤務で生計を立て、子どもや孫、ひ孫に恵まれた。しかし、国から強制労働の補償はなく、今でも苦しんだ当時のことを夢に見る。それでも悦見さんは繰り返す。

 「みんなに支えられて生きてきた。感謝の気持ちを忘れたことはない」。

 物があふれ、平和が当たり前になっている今。このありがたさを、どれほどかみしめて日々を過ごしているだろう。取材中、何度もそう自問した。(森秀和)

シベリア抑留

 ソ連軍の満州侵攻で、日本軍兵士ら約57万5000人が捕虜としてシベリアやモンゴルに移送され、重労働に従事。約5万5000人が死亡したとされる。多くは1946年から56年にかけて帰国した。国による「棄兵政策」で精神的、肉体的被害を受けたなどとして地裁でも国家賠償訴訟が行われたが、昨年10月、原告側の訴えは棄却され、大阪高裁に控訴している。

戦争体験の証言募集

 住所、氏名、職業、年齢、電話番号を明記の上、〒604・8162 中京区烏丸通六角下る七観音町630、読売新聞京都総局 戦争取材班まで。手紙かメール(kyoto@yomiuri.com)、ファクス(075・241・4680)でお寄せ下さい。

(2010年5月12日  読売新聞)

 

<戦後抑留に25~150万円、与党・政府合意>

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100511-OYT1T01079.htm

 

政府・与党は11日、第2次大戦後に旧ソ連のシベリアやモンゴルに強制抑留された日本人に対し、特別給付金として、1人当たり25万~150万円を支給することで大筋合意した。

 野党の協力も得て、支給のための関連法案を今国会に議員立法で提案し、成立させる方針だ。合意案によると、現在も生存している日本国籍の元抑留者に対し、帰国時期に応じて特別給付金を支給する。支給対象者は約7万人と見られている。

 必要な財源は、これまで強制抑留者や引き揚げ者らの支援を行ってきた独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の資本金200億円を取り崩して賄う。さらに、強制抑留の実態調査や遺骨収集など、抑留に関する総合的な対策を政府が講じる方針も盛り込んだ。具体的な対策案は、厚生労働相が作成し、閣議に諮るとしている。

 民主党が当初検討していた法案では、政府に対し、日本人の元抑留者の遺族や日本人以外の元抑留者にも何らかの補償措置を講じるよう検討を求める規定が盛り込まれていた。しかし、政府内に慎重論が根強く、今回の合意案では、関連法案に、この規定を盛り込まないことを明記した。

(2010年5月11日22時22分  読売新聞)

 

5月16日付 編集手帳

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20100515-OYT1T00999.htm

 

戦後、酷寒のシベリアで多大な苦難を強いられた元抑留者にとっては、ようやく山の頂が指呼の間に見えてきた思いであろう。平均年齢は85歳を超す。「生きているうちに」の叫びにも切実さが募る◆特別給付金を元抑留者に支給する法案が今国会に議員立法で提案され、成立する見込みだという。抑留期間に応じて25万~150万円が支給される。抑留の実態調査や遺骨収集など総合対策を政府が講じる方針も盛られる◆元抑留者たちが求めてきたのは、過酷な強制労働の報酬に相当する国家補償である。だが、国相手に未払い賃金の支払いを求めた長い裁判闘争は敗訴で終結した。旅行券や銀杯交付という慰謝事業も元抑留者たちの怒りを買っただけだった◆6年前から、抑留問題解決のための法案を度々国会に提出してきたのは民主党である。幹事長時代の鳩山首相が、国会で法案の重要性を訴える趣旨説明をしたこともある。政権交代で期待は高まったが、今度は党と政府、議員間の調整で手間取った◆会期は残り1か月。郵政改革法案など波乱含みだ。「いのちを守りたい」と語る首相の対応やいかに。

2010年5月16日01時21分  読売新聞)

 

昭和16年(1941年)、日ソ中立条約を締結しておきながら、昭和20年(1945年)8月9日ソ連軍は一方的に対日参戦をしてきた(実は、ヤルタ会談でルーズベルトと参戦することを約束していたらしい)。 

 

平和条約を締結すれば、みんな仲良く暮らせる。そうすれば軍隊はいらない、と妄想に妄想を重ねる人たちには、パクッテもパクッテもパクリ足りないパクリ共産党がお隣に存在することを常に思い出してもらいたい。

 

約束なんて、破ったらしまいだ。破ったもん勝ちだ。

 

現に日本は昭和20年ポツダム宣言を受諾した。そのポツダム宣言には、武装解除した日本兵の祖国帰国が明記されている(第十条)が、(主に)満州にいた日本兵はシベリアへ連行され、極寒の中、また満足な食事や医療もない中、文字通り骨と皮になるまで(なっても)働かされた。厚生労働省が把握しているところでは、6万人ほどの方々が強制労働の犠牲になった。8月15日で確かに日本の敗戦は決まったが、しかし、これは戦争状態が継続していたということの証左ではなかろうか。

 

国際法では、捕虜として労働させられた者は、帰国後その捕虜が属する国が労働に相当する対価を支払うことになっている。労働証明書に基づき賃金を計算するのだが、ソ連は労働証明書を発行せず、それを理由に日本も支払いを拒否し続けた。

 

日本の敗戦が決まった昭和20年8月15日を過ぎた8月18日、ソ連軍がカムチャッカ半島のロバトカ沖から砲撃を開始し、千島列島を占拠した。実はこの時スターリンは、北海道の半分まで占領する気でいたのだ。ヤルタ会談の際、トルーマンにこの案を話したらしいが、一蹴され、実力行使をし既成事実を作ろうとしたらしい。しかし日本兵の抵抗・抗戦があまりにも厳しく、北海道までは奪えなかった(占守島参照)。

 

諸説あるが、その腹いせに日本人をシベリアへ送り、強制労働をさせたとか。

 

最新のデータによれば、107万人がシベリアをはじめとするソ連の各地に送られ労役を強いられた。そして34万人の日本人が死亡。

 

最後にもう一度、お母さんのおにぎりを食べたかったでしょう。最後にもう一度、娘の顔を見たかったでしょう。最後にもう一度、恋人の声を聞きたかったでしょう。最後にもう一度、祖国の土を踏みしめたかったでしょう。日本の風を空気を感じたかったでしょう。

 

甲子園球場は満員になると、約5万人を収容します。試合終了後、駅のホームへと続く道は人でいっぱい。身動きがとれません。息苦しいなんてもんじゃない。一言で34万人というが、その34万人お一人お一人には、ご両親がいらっしゃり、家族がいらっしゃったはず。

 

戦後60年以上経って、ようやく一人25万円から150万円ですか。

 

この抑留がなかったら、どさくさにまぎれて北海道も奪われていた可能性もあるでしょう。命を捧げる覚悟で使役に従事た方々への賠償としては、あまりにも少ないのではないでしょうか。

 

<JR不採用 政治決着 国労側訴訟取り下げへ 解決金1人2200万円>

http://job.yomiuri.co.jp/news/ne_10041205.htm

1987年の国鉄分割・民営化にあたり、反対した国鉄労働組合(国労)の組合員ら約1000人がJRに採用されず、旧国鉄清算事業団からも解雇されたJR不採用問題で、政府・与党と公明党は9日、1人平均約2200万円、総額約200億円の解決金を組合員らに支払うことで組合側と合意したと発表した。組合側は訴訟を取り下げる。23年に及んだ戦後有数の労使紛争は政治決着が図られることになった。

 解決金の内訳は、和解金として1人約1563万円と、団体加算金の分配として1人約637万円。対象は係争中の原告910世帯。財源には、旧国鉄清算事業団の業務を引き継いだ独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の特例勘定を充てる。

 組合側は「不当労働行為や雇用の存在を争わない」「今回の解決金は最終」などを受け入れ、6月をめどに5件の訴訟をすべて取り下げる。

 政府は、現地採用を望む組合員約200人の受け入れをJR北海道やJR九州などに要請する。ただ、2003年の最高裁判決が、国鉄に不当労働行為があってもJRは法的責任を負わないとの判断を示しているため、JR側は雇用受け入れに否定的だ。政府は、民間会社のJRに採用を強制できないとして、組合側に「希望通りの採用は保証できない」とも伝えた。

 国土交通省は、訴訟取り下げを確認し次第、同機構に解決金支払いなどを指示する。

2010年4月12日  読売新聞)
 
 
 
自分の権利ばかりを主張し、他人の税金を貪って寄生することしか頭にない輩には2000万円以上も払うのか。
 
エゴで我儘言いたい放題で自分の権利ばかりを主張する者と、祖国のために自分の命までも捧げた(捧げようと)した方々への、この差別は一体どこから生まれるのだ。
 
 
子供手当という天下の愚策財源を探す暇があったら、「シベリア抑留頑張ってくれたありがとう手当」を出さんかい!!(怒)
 

訂正

2010-05-10 09:19:52 | Weblog

中畑清、杉村太蔵氏を擁立 たちあがれ日本>

http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050901000517.html

たちあがれ日本は、参院選比例代表に元巨人内野手の中畑清氏(56)と“小泉チルドレン”の杉村太蔵元衆院議員(30)を擁立する方針を固めた。知名度や話題性のある両氏を目玉に、無党派層浸透を目指す。

 中畑氏に関し、与謝野馨共同代表は都内で記者団に「出馬要請した。中畑氏は長嶋茂雄元巨人監督らと相談しており、11日に返事をもらう」と述べた。中畑氏は福島県出身。駒沢大を経て1977年に入団。「絶好調」の決めぜりふで知られた。引退後、打撃コーチなどを務め、2004年のアテネ五輪で、長嶋監督代行として日本チームを指揮した。

 杉村氏は北海道出身。05年郵政選挙で最年少の26歳で初当選し、率直な言動が話題に。昨年衆院選は北海道1区で出馬を目指したが断念した。

   【共同通信】
 
訂正します。
 
先日の記事で、たちあがれ日本を応援すると言いましたが、発言を取り消します。平沼赳夫個人と、平沼先生にほれ込んで日本を救うべく立ち上がろうとする数名の国士の方々については衷心より応援いたします。が、有象無象のポンコツどもを政治の世界で見るのはもううんざりです。
 
いろいろと考えるところあっての擁立でしょうが、わたくしは支持者としてこの新党を応援することはありません。
 
以上、訂正でした。
 
 
 

閉会挨拶再掲

2010-05-06 22:18:02 | Weblog

皆様、本日(5月2日)は早朝より、清掃奉仕お疲れ様でした。

 

自分を大事にしない人は他人のことも大事にしません。自分の住んでいる町を平気で汚す人は、他人の心も平気で汚します。「割れ窓理論」ではありませんが、また「卵が先か鶏が先か」の議論でもありませんが、自分の町あるいは自分が大切にしているもの(大切だと思うもの)を綺麗に保つこと。そのことを実践していくことが、エラソーな理屈や理論よりも何百万倍か大切なことだと思います。デモ行進やシュプレヒコールもひとつの意思の表れでしょう。その効果を頭から否定する気はありませんが、しかし効果どこるか逆効果を生みやしないか、と危惧することも多々あります。ネットで検索すれば日本のことを思ってデモ・抗議・シュプレヒコールをしている皆様方にすぐ出くわします。しかし、「普天間飛行場を国外へ!」とデモや抗議をする姿が“見苦しい”のと同様、残念ながら思想的にはわれわれと同じなのですが、彼らの行為が実は利敵になりはしないか、と危惧してしまいます。日本を守る手段は数多あると思います。その一つが清掃奉仕でしょう。良き慣習となれば、日本は再び興り、立派な日本が再興されると思います。暑い中、お忙しい中、眠い中、神社の清掃奉仕に励むことの意義を痛感しております。この良き伝統をいつまでも伝えていきたいものです。

 

さて、どこぞの大陸で万博が始まったようです。オリンピックの時もそうでしたが、これだけ不愉快な万博も珍しい気がいたします。そして日本もパビリオンを出展しています。

 

しかし、彼の国に出展された日本館ですが、なんと、日本国を示す日の丸が掲揚されていないのです。万博は文字通り世界の国々が一堂に会するものですし、国名が各パビリオンに付けられています。しかるにその国の象徴である国旗を掲揚するのは至極当然自明の理屈であり、配慮もくそも何もないように思うのですが、残念なことに日本館には日本の国旗である日の丸が掲揚されていません。

 

その理由は、日の丸は軍国主義の象徴であり、現在のシナでは抗日番組がバンバン放映されており、日の丸を掲げると日本がシナ大陸を侵略した歴史が惹起され、シナの人民が傷つくからだとか・・・

 

こんな間違ったデタラメな反日教育史観にいちいち目くじらを立てるのもだんだん飽きてきた感は否めませんが、譲歩に譲歩に譲歩に譲歩に譲歩を重ねて、かつて日本が大陸侵略を試みた、としましょう。そのような讒言を受け入れたとしても、それとこれとは話が別ではないでしょうか。そこまで憎むなら、そもそも日本館を出させなければいいのだ。万博で自国の国旗を掲揚できないとはどういうことか。

 

 

ああ、わかった。わかりましたよ。シナの主張する反日教育史観を認めよう。他国侵略の歴史を想起する国旗は排除しよう。そうすることにしよう。ならば、ならば、だ。他国を侵略したから国旗を掲揚できないのであれば、現在進行形で他国を侵略している五星紅旗(シナの国旗)こそ、掲揚を見合わせるべきではないのか!!!!

 

即刻、五星紅旗を引きずりおろせ!!破り捨てよ!焼き捨てよ!!!

 

♪いざ たちあがれー 隷属をのぞまぬ ひとびとよー

 われらの 血と肉を もって~

 

・・・・・・・・・・・・失礼。

 

日の丸に誇りを抱き、ご自分の命と引き換えに日の丸を守られた方々がいらっしゃる。日の丸に誇りを抱き、日の丸を守るために敵艦に突っ込まれた方々がいらっしゃる。このことを理解している日本人は残念ながらここに集うわれわれだけのようだ。

 

われわれはこれらの事実を後世に伝えていく義務がある。

 

シナの偽物万博から即刻撤退すべきだ。経済発展著しいとの嘘に騙されてはいけない。上海市民の平均月収は日本円にして約4500円程度なのだから。

http://www.777money.com/torivia/torivia4_4.htm

 

そういう意味でも、岡本真夜さんにもっと頑張ってもらいたいと思います(オチ)。

 


昭和17年生まれ

2010-05-04 18:41:26 | Weblog

♪き~たえーたー このからだぁ~ あーふれる きはくぅ~ 

  そ~れここまで ぶーちーこーめー ら~いとすたんどへぇ~~~~~

かっとばせー 金本!!

 

★金本知憲 昭和43年4月3日生まれ。41歳。

プロ野球選手としては高齢も高齢。高齢の野球選手のことを、日本では「ベテラン」と呼ぶ。老体に鞭打ち己の体を鍛える姿に、人は感動する。

ベテランにはベテランの味があり、若手には若手の色、がある。ベテランだろうが、若手だろうが、中堅だろうが、実力のあるものが定位置を奪取する。

 

これは、政治の世界でも同じだろう。年寄りだからダメ、というのはこれっぽっちも欠片程度の批判にもならない。反論できないがために、相手の人格攻撃に出るアホがたくさんいるが、人格攻撃に出た瞬間自分のことを実力がないアホ、スカ、うんこ、というのを認めたことになる。

 

新党「たちあがれ日本」のメンバーは戦前生まれ。

平沼赳夫 昭和14年生まれ

与謝野馨 昭和13年生まれ

園田博之 昭和17年生まれ

藤井孝男 昭和18年生まれ

中川義雄 昭和13年生まれ

石原慎太郎 昭和7年生まれ

それこそ老体に鞭打って日本の行く末を憂いたちあがった彼らに敬意を表し、そして衷心より感謝の誠をささげさせていただきます。

 

えらそーに「年寄りだ!」「立ち枯れだ」と揶揄する皆様方の中に、彼らを論破できる人が果たしているのでしょうか?大マスコミがこぞって批判というか馬鹿にしましたが、実のある意見は皆無に等しい。

 

4月の産経新聞にこんな記事がありました。昭和17年生まれの政治家は元気だと。先ほどの「たちあがれ日本」幹事長の園田博之さんは昭和17年生まれ。世間をあっといわせた「自社さ」連立政権の立役者で参院選後の政局をにらんで水面下の活動を活発化させている。

昭和17年生まれといえば、小泉純一郎がいる。彼については憎悪があるのだがwww、ま、大物政治家であることには代わりないだろう。そして、顔だけでなく中身まで悪人の小沢一郎も昭和17年生まれである。共産党の市田忠義書記局長も昭和17年生まれ。いちゃいちゃ写真を撮られた中井洽ハマグリ国家公安委員長も昭和17年生まれ。

そしてなんと、シナの胡錦濤も北朝鮮の金正日も1942年(昭和で言うたら17年)生まれなのであーる。ちなみに南半島の李明博大統領は1941年(昭和で言うたら16年)ですが、12月生まれ(おしー)。

 

現在の極東アジアは昭和17年生まれが元気イパーイなのである。

 

まぁ、それに比べて戦後生まれの情けないこと、情けないこと。

 

昭和22年生まれの鳩山由紀夫首相は、小沢一郎と5歳しか違わないんですよ。しかし、あの迫力の差はいったいなんですか!?(いや、決して小沢一郎をほめているわけではありません)

 

 

一昔前、金本・下柳・矢野・檜山の元気さに比べて、若い林・桜井広大・メンチのふがいなさったらありゃしなかった。

 

「たちあがれ日本」を応援します!!

 

ベテランの味を出せ!!