<極寒、重労働 はかない命>
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20100511-OYT8T01218.htm
「昭和20年8月、終戦と同時にソ連に抑留される。23年8月、両親の待つ自宅へ帰る」。綾部市上杉町の荒井ゆく江さん(80)から届いた手紙には、シベリア抑留を体験した夫・悦見さん(86)の略歴が記されていた。手紙では詳しく語られていない極寒の地での3年間。筆舌に尽くしがたいであろう体験を聞きに悦見さんを訪ねた。
同市出身の悦見さんは19歳の頃、労働力を確保するための徴用令書、通称・白紙(シロガミ)を受け、満州(現中国東北部)に渡った。兵器工場の食堂で働いたが、1945年2月、奉天(瀋陽)の部隊に配属。南方へ出兵する直前の8月、突如参戦したソ連軍に備えるため、現地にとどまっていて終戦を迎えた。
「塹壕(ざんごう)を作ってソ連兵を待ちかまえていた。(敗戦は)ただ、情けないという気持ちだった」。
武装解除され、数日がたった頃、ソ連兵から列車に乗るよう言われた。「日本に帰れるのか」。そう期待したが、行き先も告げられず南満州鉄道などで西に運ばれ、国境を越え、ソ連・チタへ。そこからシベリア鉄道で空腹のままさらに1週間。収容所のあるイルクーツクへ着いた頃には「まるで骨だけになっていた」。
到着後、黄疸(おうだん)を発症し、現地で入院した。病院内で会った日本人青年は親しくなった気安さで、出身の東北地方の踊りを見せてくれたが、その最中に倒れ、「お母さん」と3度叫んで亡くなった。「栄養失調だと命などいつ吹き飛んでしまうか分からない」と肝を冷やした。
入院から1か月後、退院すると収容所へ。ひどければマイナス50度以下を記録する凍土での重労働が待ち受けていた。石炭やレンガ運び、船でドラム缶などの荷降ろし、鉄くずを炉の中に入れる作業……。すべてにノルマが課せられ、1日中、働いた。食事は拳より小さい黒パンとコウリャン(モロコシ)が入ったスープ一杯。空腹に耐えきれず、道ばたの草を食べた。捕虜同士での雑談はもっぱら、ぜんざいやおはぎといった食べ物の話だった。
朝になると冷たくなっている仲間を何度も見た。遺体を埋めるため、落ち葉を燃やし、凍った大地を溶かして穴を掘った。逃げようとした捕虜は銃殺され、川に投げ捨てられた。
「いつになったら帰れるのか」。毎朝のように日本の方を向き、無事を祈った。
約3年が経過した48年、収容所で呼び集められ、「ダモイ(帰国)」と告げられた。ナホトカから引き揚げ船・明優丸に乗り、7月29日に舞鶴港へ。携えた荷物は、飯ごうと水筒ぐらい。緑の島影が近づくと待ちきれず、引き揚げ者と一斉に甲板に駆け上った。およそ6年ぶりの帰国だった。
8月1日に帰宅。「母親が『今日から陰膳(かげぜん)をしなくて済む』と言ってくれた。生きて帰ってきた、と実感した」と振り返る。
50年にゆく江さんと結婚。その後、農業や建設会社勤務で生計を立て、子どもや孫、ひ孫に恵まれた。しかし、国から強制労働の補償はなく、今でも苦しんだ当時のことを夢に見る。それでも悦見さんは繰り返す。
「みんなに支えられて生きてきた。感謝の気持ちを忘れたことはない」。
物があふれ、平和が当たり前になっている今。このありがたさを、どれほどかみしめて日々を過ごしているだろう。取材中、何度もそう自問した。(森秀和)
シベリア抑留
ソ連軍の満州侵攻で、日本軍兵士ら約57万5000人が捕虜としてシベリアやモンゴルに移送され、重労働に従事。約5万5000人が死亡したとされる。多くは1946年から56年にかけて帰国した。国による「棄兵政策」で精神的、肉体的被害を受けたなどとして地裁でも国家賠償訴訟が行われたが、昨年10月、原告側の訴えは棄却され、大阪高裁に控訴している。
戦争体験の証言募集
住所、氏名、職業、年齢、電話番号を明記の上、〒604・8162 中京区烏丸通六角下る七観音町630、読売新聞京都総局 戦争取材班まで。手紙かメール(kyoto@yomiuri.com)、ファクス(075・241・4680)でお寄せ下さい。
(2010年5月12日 読売新聞)
<戦後抑留に25~150万円、与党・政府合意>
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100511-OYT1T01079.htm
政府・与党は11日、第2次大戦後に旧ソ連のシベリアやモンゴルに強制抑留された日本人に対し、特別給付金として、1人当たり25万~150万円を支給することで大筋合意した。
野党の協力も得て、支給のための関連法案を今国会に議員立法で提案し、成立させる方針だ。合意案によると、現在も生存している日本国籍の元抑留者に対し、帰国時期に応じて特別給付金を支給する。支給対象者は約7万人と見られている。
必要な財源は、これまで強制抑留者や引き揚げ者らの支援を行ってきた独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の資本金200億円を取り崩して賄う。さらに、強制抑留の実態調査や遺骨収集など、抑留に関する総合的な対策を政府が講じる方針も盛り込んだ。具体的な対策案は、厚生労働相が作成し、閣議に諮るとしている。
民主党が当初検討していた法案では、政府に対し、日本人の元抑留者の遺族や日本人以外の元抑留者にも何らかの補償措置を講じるよう検討を求める規定が盛り込まれていた。しかし、政府内に慎重論が根強く、今回の合意案では、関連法案に、この規定を盛り込まないことを明記した。
(2010年5月11日22時22分 読売新聞)
5月16日付 編集手帳
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20100515-OYT1T00999.htm
戦後、酷寒のシベリアで多大な苦難を強いられた元抑留者にとっては、ようやく山の頂が指呼の間に見えてきた思いであろう。平均年齢は85歳を超す。「生きているうちに」の叫びにも切実さが募る◆特別給付金を元抑留者に支給する法案が今国会に議員立法で提案され、成立する見込みだという。抑留期間に応じて25万~150万円が支給される。抑留の実態調査や遺骨収集など総合対策を政府が講じる方針も盛られる◆元抑留者たちが求めてきたのは、過酷な強制労働の報酬に相当する国家補償である。だが、国相手に未払い賃金の支払いを求めた長い裁判闘争は敗訴で終結した。旅行券や銀杯交付という慰謝事業も元抑留者たちの怒りを買っただけだった◆6年前から、抑留問題解決のための法案を度々国会に提出してきたのは民主党である。幹事長時代の鳩山首相が、国会で法案の重要性を訴える趣旨説明をしたこともある。政権交代で期待は高まったが、今度は党と政府、議員間の調整で手間取った◆会期は残り1か月。郵政改革法案など波乱含みだ。「いのちを守りたい」と語る首相の対応やいかに。
(2010年5月16日01時21分 読売新聞)
昭和16年(1941年)、日ソ中立条約を締結しておきながら、昭和20年(1945年)8月9日ソ連軍は一方的に対日参戦をしてきた(実は、ヤルタ会談でルーズベルトと参戦することを約束していたらしい)。
平和条約を締結すれば、みんな仲良く暮らせる。そうすれば軍隊はいらない、と妄想に妄想を重ねる人たちには、パクッテもパクッテもパクリ足りないパクリ共産党がお隣に存在することを常に思い出してもらいたい。
約束なんて、破ったらしまいだ。破ったもん勝ちだ。
現に日本は昭和20年ポツダム宣言を受諾した。そのポツダム宣言には、武装解除した日本兵の祖国帰国が明記されている(第十条)が、(主に)満州にいた日本兵はシベリアへ連行され、極寒の中、また満足な食事や医療もない中、文字通り骨と皮になるまで(なっても)働かされた。厚生労働省が把握しているところでは、6万人ほどの方々が強制労働の犠牲になった。8月15日で確かに日本の敗戦は決まったが、しかし、これは戦争状態が継続していたということの証左ではなかろうか。
国際法では、捕虜として労働させられた者は、帰国後その捕虜が属する国が労働に相当する対価を支払うことになっている。労働証明書に基づき賃金を計算するのだが、ソ連は労働証明書を発行せず、それを理由に日本も支払いを拒否し続けた。
日本の敗戦が決まった昭和20年8月15日を過ぎた8月18日、ソ連軍がカムチャッカ半島のロバトカ沖から砲撃を開始し、千島列島を占拠した。実はこの時スターリンは、北海道の半分まで占領する気でいたのだ。ヤルタ会談の際、トルーマンにこの案を話したらしいが、一蹴され、実力行使をし既成事実を作ろうとしたらしい。しかし日本兵の抵抗・抗戦があまりにも厳しく、北海道までは奪えなかった(占守島参照)。
諸説あるが、その腹いせに日本人をシベリアへ送り、強制労働をさせたとか。
最新のデータによれば、107万人がシベリアをはじめとするソ連の各地に送られ労役を強いられた。そして34万人の日本人が死亡。
最後にもう一度、お母さんのおにぎりを食べたかったでしょう。最後にもう一度、娘の顔を見たかったでしょう。最後にもう一度、恋人の声を聞きたかったでしょう。最後にもう一度、祖国の土を踏みしめたかったでしょう。日本の風を空気を感じたかったでしょう。
甲子園球場は満員になると、約5万人を収容します。試合終了後、駅のホームへと続く道は人でいっぱい。身動きがとれません。息苦しいなんてもんじゃない。一言で34万人というが、その34万人お一人お一人には、ご両親がいらっしゃり、家族がいらっしゃったはず。
戦後60年以上経って、ようやく一人25万円から150万円ですか。
この抑留がなかったら、どさくさにまぎれて北海道も奪われていた可能性もあるでしょう。命を捧げる覚悟で使役に従事た方々への賠償としては、あまりにも少ないのではないでしょうか。
<JR不採用 政治決着 国労側訴訟取り下げへ 解決金1人2200万円>
http://job.yomiuri.co.jp/news/ne_10041205.htm
1987年の国鉄分割・民営化にあたり、反対した国鉄労働組合(国労)の組合員ら約1000人がJRに採用されず、旧国鉄清算事業団からも解雇されたJR不採用問題で、政府・与党と公明党は9日、1人平均約2200万円、総額約200億円の解決金を組合員らに支払うことで組合側と合意したと発表した。組合側は訴訟を取り下げる。23年に及んだ戦後有数の労使紛争は政治決着が図られることになった。
解決金の内訳は、和解金として1人約1563万円と、団体加算金の分配として1人約637万円。対象は係争中の原告910世帯。財源には、旧国鉄清算事業団の業務を引き継いだ独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の特例勘定を充てる。
組合側は「不当労働行為や雇用の存在を争わない」「今回の解決金は最終」などを受け入れ、6月をめどに5件の訴訟をすべて取り下げる。
政府は、現地採用を望む組合員約200人の受け入れをJR北海道やJR九州などに要請する。ただ、2003年の最高裁判決が、国鉄に不当労働行為があってもJRは法的責任を負わないとの判断を示しているため、JR側は雇用受け入れに否定的だ。政府は、民間会社のJRに採用を強制できないとして、組合側に「希望通りの採用は保証できない」とも伝えた。
国土交通省は、訴訟取り下げを確認し次第、同機構に解決金支払いなどを指示する。
(2010年4月12日 読売新聞)
自分の権利ばかりを主張し、他人の税金を貪って寄生することしか頭にない輩には2000万円以上も払うのか。
エゴで我儘言いたい放題で自分の権利ばかりを主張する者と、祖国のために自分の命までも捧げた(捧げようと)した方々への、この差別は一体どこから生まれるのだ。
子供手当という天下の愚策財源を探す暇があったら、「シベリア抑留頑張ってくれたありがとう手当」を出さんかい!!(怒)