<推薦・AO入試に学力検査導入案 中教審部会が提言へ>
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200801230256.html
2008年01月23日
入学者の学力不足が指摘されている、大学の推薦・AO(書類審査や面接による)入試について、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の作業部会は、大学が学力検査や大学入試センター試験を用いたり、入学者選抜で高校の調査書を活用したりすべきだという案をまとめた。「大学全入時代」を前に入学者の学力水準を保つ狙いだ。
23日に開かれた、中教審の学士課程教育の在り方に関する小委員会に報告した。すでに小委は学士課程での学力担保のため、卒業要件の厳格化などを求める案を作成しており、大学の入り口、出口ともに見直しを求めることになりそうだ。
昨年4月から検討を続けてきた作業部会は議論のまとめ案で、入学者の学力を保つことや高校教育の質を保証することを入試に委ねるのは「一部大学を除き、従来ほど期待できなくなっている」と指摘。こうした面を大学入試に依存したままでは、高校、大学の教育双方が大きな影響を受ける、としている。
推薦・AO入試の改善策として大学側が(1)学力検査をする(2)センター試験の成績を出願資格や合否判定に使う(3)資格の取得や検定試験の成績を出願資格、合否判定に使う――と提言。高校と大学が協力しての「高大接続テスト(仮称)」も有効だとして研究、協議を求めている。
また、一般入試も含めた改善策としては、大学側が入学者に対して「何をどの程度学んできて欲しいか」を明示することや、高校調査書の「評定平均値」などを出願資格やその目安として、大学側の募集要項に記すことを提案。同時に、調査書の信頼性や精度を高めるために、高校側が教育に資格や検定試験を採り入れるなどして、生徒の評価を多面的・客観的に行うべきだとしている。
(引用終了)
1月23日付読売新聞夕刊(webで記事が見つかりません)では、「AO・推薦 共通テスト」(=高大接続テスト)として、高校の進路指導にも使えるよう(わしは、高校3年生になる前の学力を担保する意味合いもあると思うが)、高2か高3の早い段階で試験を実施することを提唱している。読売の記事が見つからないので引用しますが、<2007年度は国公立52校、私立大402校がAO入試を実施し、推薦入試は、全717大学の97%を占める695大学に上った。
両入試による入学者も07年度入試では、全合格者の43%にあたる約26万人に達したが、このうち、何らかの学力テストを受けていたのは約3万人だけだった>
<こうした現状について、大学分科会の作業部会では「大学合格が、基礎学力がついていることの証明にはなっていない」と分析>
では、なぜこのような異常事態を惹起せしめたのかというと、同じ記事に解答があった。<学力を過度に重視した入試制度への反省から始まった>
<中教審は従来、過度の受験競争を緩和する観点から、テストに偏らない入試などで選抜方法の多様化を支持してきた>
(太字、わし)
大学生の学力低下が異常であると認めるのであれば、日本のとるべき道は、ただ一つ。それは、テスト!テスト!テスト!とテスト漬けにすることだ!!
まず、高校の数を今の4分の1にせよ。これからどんどん少子化は進む。高校の数がそもそも多すぎる。それに比例して高校進学希望者も多すぎる。高校へ進学すべき人間と手に職をつける人間とを15才の段階で選抜せよ。「15の春を泣かせよ!!」。
次に、高校入試後、入学式までにすっからか~んになる奴は入学を認めるな。春休みの課題をどっさり出し、1日中テストを実施して課題の成果を確かめよ。高校入学後も通常の定期考査、実力テストにプラスして、鳩山由紀夫にかつて排除された「業者テスト」を高校生にも実施せよ。月に一度実施し、トータルで基準に達していない生徒には補習や課題の雨嵐。どんどんテスト漬けにしろ。そうしないと学力が担保できない。もちろん、大学の数も多すぎる。大学という名の“サルの惑星”がイパーイだ!(実感こもってますね~)
「18の春を泣かすな」と言ったのは、美濃部亮吉か、日教組か?その結果どうなった?キチガイが跳梁跋扈する日本ができあがったではないか(怒)
18歳も15歳も泣かせよ!上級の学校へ上がるということは、その分お頭も上級に上がらなくてはいけない。その基準に達することができないボンクラにはボンクラの身の丈にあった人生を送らせよ。身の丈にあった罰を与えよ。
少なくとも上記引用から言えることは、勝手に過度の受験競争を“反省”(しかし、日本人は反省が好きやな~でも、肝心なことではシラバックレルんよな)したことが、今の入試事情の起因である。ということは、昔言われたように「受験戦争」「受験地獄」といわれていた頃のように(これは18歳人口が多かった時代=団塊ジュニアの世代を指すのに使われた言葉で、ただ単に学齢人口が多かった、受験生が多かったということを象徴的に言い表しているに過ぎない。当時から高校退学者の数は鰻登りであった。そういう意味では「受験戦争」の時代に既に学力低下は進行していた。わしがここで言う「受験戦争」「受験地獄」というのは、完全なテスト攻め。テストにテストにテストで息つく暇もないくらいテストを課して(ダイレクトメソッドのように)、さまざまな技能や知識を身につけさせる。基準に達しないならば容赦なく外界へ放り出す。そうしないとテスト攻めにする意味がないから。だから「地獄」であり「戦争」なのだ。「戦争」という言葉がいいな。「戦争」を想起させるものへのアレルギーも辟易するくらい酷いからね。もちろん、学校の“レベル”に応じてテスト問題のレベルは可変であるよ)、どんどん選抜の仕組みを作り、その選抜で学力が担保されているという状況が教育現場(何も高等学校だけが学力を養成する唯一の機関ではない。いや、そうあってはならぬのだ)で醸成された暁には、AO入試や推薦入試、論文だけ、面接だけ、という最終選抜方式が意味を持つだろう。
大リーガーは練習しないのに、日本のプロ野球の一軍は練習ばっかししてる、という言説と同じ理屈。大リーガーは完成品。大リーガーになるまでの努力を無視して(あるいは大リーガーになった後も陰日なたでの目に見えない努力を無視して)日本の一軍と比較する馬鹿と同じ理屈かなー、と思います。